教養のことをネットで調べたり自分で考えたりしてみた結果、
教養の定義は大体4つぐらいに集約できることが分かりました。

1つ目の定義は、僕が前に言った「教養それ自身を役立てる何か」。

哲学や芸術、宗教、思想などを分かりやすく語れるだけでなく、
それを誰かの役立つカタチで構築し直して表現できる能力を
僕は教養と呼んでいます。

まあ平たく言えば翻訳です。

単に分かりやすく翻訳するだけなら、できる人はそこそこいると
思うのですが、使えるカタチで、となると結構難しいワケです。

その辺のポジションを僕は目指したいな、と。

というか、多分僕はその辺をふらついてるんじゃないかな、と。

そんな風に今はぼんやり考えています。

 

2つ目の定義は「共通の土台」です。

これについては『脱凡人の教科書』で詳しく語っていますが、
共通言語と言い換えてもいいかもしれません。

例えば禅のことを西洋人に説明しようと思った場合、
比喩として聖書の内容を引用できれば、かなり良い感じで
相手に伝わると思います。

この場合の「聖書の内容」が自分と相手との共通言語であり
教養です。

禅を禅的に、つまり日本的文脈、日本的バックボーンで
語ったのでは、西洋人が理解するのは難しいけれども、
聖書を通して禅を表現できればそれほど伝わりやすいものは
ないワケです。

最近僕が書いたハイエクとケインズの話なんかも、桃鉄という
共通言語を通すことで、なんとか伝えようとした例です。

どれだけの人にとって桃鉄が共通言語と言えるのかは
不明ですけど(笑)、少なくとも桃鉄をやったことのある
世代にとっては、結構分かりやすかったと思います。

要はAをBやCやDという別の内容でどれだけ表現できるか、
その能力がこの定義で言うところの教養だということです。

まあ1つ目の翻訳とほとんど変わりませんね。

 

3つ目の定義は「知識や経験が人格にまで昇華されたもの」。

これも前に言いましたね。

何の意図もなくサラッと自分の言葉としてシェイクスピアや
ゲーテ、トルストイ、カント、ヴェートーベン、デュシャン、
カンディンスキー、道元、弘法大師の言葉が出てくるような、
そういう人格化された知、血肉となった知が教養です。

誤解の無いように言っておくと、これは別にこの人たちの
本を読んでいなければならないワケではありません。

そうではなくて、彼らと同じようなことが言えるほどに、
そういう言葉がポロっと出てくるほどに高められた人格には、
教養が備わっているということです。

恐らく難しい本なんて読んでいないであろうスポーツ選手から
サラッと凄い言葉が出てくるのは、彼らに教養があるからです。

そういうなんとも言葉にし難いものが、この3つ目の定義の
教養になります。

 

4つ目の定義は「漠然とした賢さ」。

良いか悪いかは置いておくとして、特に定義づけられずに
使われる場合の教養はこんな感じの意味です。

一般教養とか、教養学部とか、あの人には教養があるとか、
そういう使われ方をされるときは、この定義で使われていると
思っていいんじゃないかな、と。

本当は漠然としている時点で定義とは言えないんですけどね。

細かいことは気にしないでおきましょう。

 

まとめておくと

1.教養それ自身を役に立てる何か
2.共通の土台・共通言語
3.知識や経験が人格にまで昇華されたもの
4.漠然とした賢さ

の4つがおおよその教養の定義です。

4つ目はともかくとして、2と3あたりを主流と考えておけば
変な方向には行かないと思います。

1つ目は2つ目のプラスαって感じですかね。

共通の土台を相対的側面、知識や経験が人格にまで
昇華されたものを絶対的側面と考えれば、この2つの側面を
それぞれ磨いていくことが教養と言えます。

いつだったか、上級の方で個性の話をしたと思いますが、
今回の話も個性を磨くことと原理は同じです。

そう考えると個性を輝かせるのは教養であるとも言えますね
(ここの論理的飛躍は自分で埋めてみてください、
良い思考訓練になると思います)。

ますます教養が無視できないものになってきました。

ちょっとずつでいいので、着実に身につけていきましょう。

ありがとうございました。

 

※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。

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