ども、ペスです。

兵庫県立美術館でも現代美術の展覧会をやるということで、
初日に見に行ってきました。

初日に行った割には記事を書くのが随分と遅れてしまいましたが、
まあ細かいことは気にしないで下さいませ。

この展覧会は前タイトルに「キュレーターからのメッセージ」という言葉が
付いています。

これは文字通り「キュレーター(学芸員)が作品を選びましたよ」という
意味なのだと思うのですが、われわれがここで考えるべきは

「なぜそんなことを、わざわざタイトルに入れたのか」

ということです。

普通われわれは美術館の作品を誰が選んでいるのかなんてことは
気にもしないワケですが、こんなことをタイトルに書いているということは、
キュレーターによほどの自信がある、もしくはキュレーターが作品を選ぶことは
珍しいことである、と捉えられます。

日常的にキュレーターが作品を選んでいるのなら、いちいちこんなことは
アピールしないだろうし、仮にキュレーターが選んでいたとしても、
そこに自信がなければそこを強調したりはしないはずです。

そう考えると、ある答えが浮かびます。

「現代絵画のいま」は、普通ではない異色の展覧会だということです。

それが客観的に異色かどうかは分かりません。

ただ、恐らく美術館にとっては珍しいことなのです。

このことを知っておくだけでも、作品を見る目は随分と変わってきます。

例えば「なんでこの絵を選んだのか」という見方が1つあります。

1人が選んだのか、それとも複数の人が選んだのかは分かりませんが、
「現代絵画のいま」というタイトルがついているぐらいですから、
選んだ人はその作品が現代を代表していると思って選んでいるワケです。

だとしたら、何がどう現代を代表しているのか、という見方も出てきます。

この展覧会の作品は抽象画がほとんどでしたが、抽象画にもいろいろ種類が
あるワケで、抽象画だったら何でも現代絵画であるとは言えません。

その違いを感じとるのも、こういったマニアックな展覧会の楽しみ方だと
思います。

 

正直に言ってしまうと、僕はこの展覧会をあまり楽しめませんでした。

正確には、楽しめたと思っていたけれども感覚は受け入れていなかった、
という感じです。

これを言葉で説明するのは非常に難しいのですが、
僕は美術館で芸術に触れる度に理性と感性は別物なのだと感じます。

それは意識と無意識という風に言い換えてもいいかもしれません。

意識の上では楽しいと思っているのに、無意識的なところでは
拒否している自分がいるのです。

こういう場合、僕に起こることは明確で、今回のように

「記事を書きたくても書けない」

ということが起こります。

信じて頂けるかどうかは分かりませんが、僕の書く記事はそのほとんどが
無意識や感覚に依存しています。

最初から「これを書こう」と決まっているワケではなく、書いているうちに
どんどん内容が生まれてくるのです。

今も実際そういった書き方をしており、これを書いている時点では
どのような結論に落ち着くのか見えていません。

そういう性質からか、無意識や感覚を刺激されるようなものでなければ、
書きたいことが浮かんでこないのです。

それは僕にとって楽しくないのと同義であり、どれだけ僕が行ってよかったと
思っていたとしても、体は正直な反応を示します。

つまり結果としてこの展覧会は僕にとって良いものではなかった
ということなのです。

 

その日、僕はアーティストトークにも参加しました。

が、特にこれと言って得るものはなかったように思います。

しいて言うならば、抽象的な作品を出している丸山直文氏・大崎のぶゆき氏・
野村和弘氏の3人がみんな「あいまい」だとか「不確実」だとか
「全体を捉えられない」という言葉を使っていた辺りが今の時代を表している、
という感じでしょうか。

要するに彼らの作品は「よく分からないもの」を表現しているということです。

「これは机だ」とか「これは帽子だ」とか分かってしまうようなものは、
実は現実には存在しなくて、どれも本当は一時的・部分的なものに過ぎない。

そういう気持ちを込めて作られていることが彼らの話から、よく分かりました。

これだけ分かっておきながら「得るものはなかった」と言うのは失礼だと
思うかもしれませんが、それでもやはり僕の中では得るものはなかったのです。

そのことをもっと正確に言うこともできますが、ここでは敢えて言わずに
留めておこうと思います。

僕にとって何かを得るとは、そういうことではないのです。

 

余談ですが、ネット上で「キュレーターの名前で展覧会を売る時代がきた」
なんてことを言っている人を見かけましたが、どうなんでしょうかね。

美術館以外ではキュレーター主催の展覧会も増えてきていますから、
その可能性もなくはないと思いますが、だからどうなんだという気もします。

それはキュレーターの権威が増すだけであって、結局今度はキュレーターの
名前がなければ展覧会や作品が売れないような時代になってしまうだけでは
ないのか、と。

ミーハーな価値観が「作家」から「キュレーター」に移っただけでは
ないのか、と。

そういう気がしてなりません。

われわれはいつになったら「作品」を見られるようになるのでしょうね。