ここ最近、ずっと気になっていることがあります。

決断と判断の違いです。

この両者は明らかに別の意味なんだけれども、何がどう違うのかを
厳密に説明しようとすると、これがなかなか難しい。

例えば「善悪を判断する」とは言いますが、「善悪を決断する」
というのはあまり聞いたことがありません。

「進路を判断する」と「進路を決断する」はどちらも使われている
ような気がします。

「購入を判断する」という言い方には少し違和感がありますが、
「購入を決断する」はよく聞きます。

こう見ていくと、われわれはこの2つをなんとなく使い分けている
ということが分かるワケですが、その「なんとなく」が今の僕には
気持ち悪いんですね。

なんとなく言葉を使い分けているということは、自分の使っている
言葉をなんとなくしか理解していないということですから。

それでもなんとなく使えてしまうのは凄いことだと思いますが、
それはまた別の話。

 

僕の考えでは今のところ、決断と判断の違いは

決断:判断に伴う決定
判断:判断基準に照らし合わせた振り分け

というところに落ち着いています。

これは広辞苑に載っている意味ではなく、僕が自分で考えて導いた
意味です。

あくまで僕が考えただけですから、これが絶対に正しいワケでは
ありません。

ただ今の僕にはこれ以上の意味が思いつかない、ということです。

この定義に従うならば、決断と判断の違いは「決定するか否か」の
違いということになります。

決断は決定するけど、判断は決定していない(振り分けているだけ)。

すると今度は「決定ってなんだ?」という疑問が湧いてきます。

決定とは、要するに決めるということですが、「決める」の意味を
説明しろと言われると、これまた難しいワケです。

これも僕なりに考えた意味はあります。

ただ全部を言ってしまっては面白くないので、ここから先は自分で
考えて、どつぼにハマってください(笑)

 

ここまでの話で分かってほしいのは、われわれは日常的に使っている
「決める」の意味すら、ろくに説明できないということです。

それは言い換えれば、自分が「決める」という言葉を使って何を
言っているのかを曖昧にしか理解していない、ということを
意味します。

これは思考についても同じで、言葉の意味を理解していないの
ですから、その言葉を使って考える思考も、実際には何を思考して
いるのか本人にもほとんど分かっていないのです。

こう考えると、われわれの思考には非常に濃い霧がかかっている
ということが分かってきます。

例えばあなたは体験と経験の違いを説明できるでしょうか?

「貴重な体験をした」

「貴重な経験をした」

この両者の意味はまったく違うのですが、ほとんどの人は
この違いを説明できないと思います。

というよりも、使い分ける意味をあまり感じていない。

実際、このことを説明できなくても日常生活にはなんら影響は
ありません。

「あれは貴重な体験だったよ」と話しても、「あれは貴重な経験
だったよ」と話しても、大抵の人は同じ意味に捉えるし、
日常会話にそこまで厳密な物言いは求められていないからです。

しかし、この習慣がわれわれの思考に霧をかけているのです。

 

当たり前の話ですが、体験と経験の違いが分からない人は、
体験と経験を使い分けることができません。

貴重な「体験」だったのか、それとも貴重な「経験」だったのか、
本人にはどっちか分からない。

つまり何が貴重だったのかもよく分からない。

これが「思考に霧がかかる」ということです。

普通、多くの人はこんなことはまったく気にしません。

むしろ、なんとなく分かれば十分でしょ、という感じだと思います。

確かに凡人として生きたいたいならそれでいいのですが、われわれは
そんなレベルで立ち止まっていてはいけないワケです。

 

この霧を払いのけるには、自分の使っている言葉や相手の使っている
言葉の意味を1つ1つ丁寧に理解する必要があります。

自分は「判断」という言葉で何を表現しているのか。

彼は「体験」という言葉で何を表現しているのか。

こういうことをいちいち考えるということです。

これをやらなければ思考のレベルは絶対に上がりません。

思考とはつねに言葉を使った思考なのですから、その言葉をちゃんと
使いこなせなければ、まともな思考なんてできないのです。

この訓練を重ねると、哲学書や学術書で使われている道徳的判断や
存在論的解釈といった言葉遣いの意味が実感として分かってきます。

それらは読者に誤解されないために、解釈の余地を狭めるために、
そしてできるだけ厳密に本人の意図したメッセージを伝えるために、
そういう言葉遣いになってしまうのです。

あれは彼らなりの誠実さですから、文章が難解だからと言って
彼らを責めないであげてくださいね(笑)

逆に、ビジネス書や新聞は読みやすいと感じるかもしれませんが、
それは言い換えれば、それだけ誤解を招きうる書き方になっている
ということです。

ついでに言っておくと、どのように誤解させるかは、書き手側で
操作することができます。

例えば喫煙と肺がん患者のデータなんてのは典型的ですよね。

「タバコを吸う人の80%は肺がんを患っています」と言われると、
なんだか禁煙しなければならない雰囲気になってしまうワケですが、
このデータは

「タバコを吸うと80%の確率で肺がんになります」

とは言っていません。

前者はタバコと肺がんの因果関係には何も触れていないのに対し、
後者はタバコが(直接)肺がんに影響していると言っています。

前者と後者ではまったく意味が違うワケです。

にもかかわらず、前者を聞いただけで多くの人は後者的な解釈を
「自動的に」してしまう。

こういう印象操作によって、彼らは知らず知らずのうちにニセの
真実を刷り込まれているのです。

 

思考にかかる霧は、われわれの進むべき道を曖昧にします。

それは目を瞑って歩くようなもので、自分の中では右に重心を
置いて右に進んでいるつもりだったのに、右を意識し過ぎて
体が反転し、実際に進んでいたのは左だった、ということに
なっているのです。

試しに目を瞑ったまま、その場で真っすぐ100回足踏みを
してみてください。

自分で動いているつもりはなくても、結果的に思いもしなかった
方向を向いていますから。

そういうことが思考でも往々にして起こりうるということです。

目を開いていても、霧で先が見えなければ、気付いたときには
崖に落ちているかもしれません。

崖に落ちる前に霧を払っておけば何事もなく済んだものを、
それを面倒臭がってサボるから事故に遭うのです。

 

われわれがまずやるべきは、この霧を払いのけることです。

これさえやってしまえば、後は目の前の道を進むだけですから
恐怖や危険はありません。

どれだけ周りの人間が先に進んでいっても、気にせずに自分の
やるべきことをやりましょう。

進むべき道さえ明確に見えてくれば、後からいくらでも走って
追い抜くことができるのですから。

あなたはあなたのペースを守ればいいのです。

焦る必要はありません。

重要なのは順位や結果ではなく、

いつまで走り続けていられるか

だということを忘れないでください。

ありがとうございました。

 

※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。

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