ども、ペスです。

行ってきました、ベーコン展。

フランシス・ベーコンと言えば、僕は今まで哲学者の方しか知らなかったんですが、何やらこの彼はその同姓同名の哲学者の血を引いているとか何とか。

誕生日が僕と一緒だったり、ちょうど僕がハイデガー(実存主義)を勉強しているタイミングで彼の展覧会が行われていたり、なんだか彼とは運命を感じます(笑)

気持ち悪いとか言わないでね。

 

彼の作品は「上手い」や「キレイ」という次元を超越しています。

それは「実存的」としか言い表しようがなく、他に彼の作品を形容する適切な言葉が
見当たりません。

偉大な芸術は、人間の置かれている状況がいかに脆いかを思い出させてくれる

という彼の言葉どおり、そこに表現されているのはイマココという状況の脆さや移ろいやすさです。

誰もが当たり前のこととして認識しているイマココの状況は、実は非常に脆いもので、次の瞬間にはもう消えて無くなっている。

「その奇跡をもっと感じろよ」と言ったのはハイデガーですが、ベーコンの作品からもそれと同じような印象を受けます。

 

彼はある動画の中で

下書きをしたあとは、チャンスが来るのを待っている

そのチャンスが来ると、意識することなしに作品が完成する

というようなことを言っていたのですが、彼はその「直観」によって現実(イマココ)を
切り取ることに成功した稀有な画家と言えるでしょう。

直観とは、理性の先にある閃きのようなものです。

感覚としては、以前話した帰納的飛躍という言葉に近いと思います。

考えて考えて考え抜いた末に出てくる、突拍子もない何か。

今風に言えばイノベーションということになるでしょうか。

その閃きを閃きのままに描写すると、あんな感じになるんだと思います。

 

このことから分かるのは、偉大な芸術家は偉大な哲学者である、つまり理性的に考えを突き詰めた上で作品を作っている、ということです。

多くの画家が「言葉にできないから絵で表現するんだ」と言うとき、ほとんどの場合
それは単なる語彙力不足です。

彼らは自分のボキャブラリーの乏しさを言い訳にして、絵を描くことに逃げている。

理性を突きつめるどころか、理性を中途半端なまま放り出して、響きだけが美しい
感性という柱にしがみついて生きているのです。

しかしベーコンは違います。

彼はギリギリのところまで言葉での記述を追求し、その先にある言葉以上ものを絵として表現しようとしました。

「言葉で表現できないもの」のような漠然としたものではなく、「言葉を超えたもの」を
表現したのです。

それは彼の

どうやったら理性的でないやり方で機能を作ることができるのだろう

見た目だけでイメージを作り直すのではなくて、私たち自身が把握しているあらゆる
感覚の領域を作り変えたいんだ

という言葉からも明らかだと思います。

すなわち、芸術家と哲学者、芸術と哲学を分け隔てることは、芸術への裏切りであり、
哲学への反逆なのです。

 

哲学を理解できなければ芸術も理解できない。

ここまでの話で、なんとなくこういう理屈が見えてきたと思います。

もちろんこの「哲学を理解する」とは、ハイデガーやカントやヘーゲルの哲学を
知ることではありません。

そんなものは気になった人だけが知ればいいだけのことで、彼らの著書を読もうが
読むまいがどっちでも構いません。

そうではなく、ここで言う「哲学」とは、「哲学する」ということであり、
もっと分かりやすく言えば、自分が生きるとはどういうことかを探求し続ける
態度のことです。

そういう態度で生きていれば、芸術は自然とその意味を語りかけてくれます。

その意味はあなたにとっての意味でしかありませんが、それで十分なのです。

客観的な芸術とは、本質的にはもはや芸術ではないのですから。

 

哲学は本質的に反時代的である。

なぜなら、哲学は、いつも自分自身の時代のうちに直接の影響をけっして見出しえない、また、けっして見出してはならない、という運命をもつ、かの稀な事柄に属するからである。

直接の影響が起きているように見えるとき、哲学が流行になるときには、本当の哲学は
存在しないか、あるいは、哲学は誤解されて、なにか哲学とは異質の意図にしたがって、日常の要求のために悪用されているのである。

ハイデガーのこの言葉は、そっくりそのまま芸術に当てはめることできます。

つまり、芸術は本質的に反時代的である、ということです。

時代の価値観を超えている、流行に流されないという意味で、それは時代とは縁のないものなのです。

だから必然的に大衆からは支持されない。

ベーコン展は客層がかなり限られており、なおかつ、客数自体が少なかったという点で、まだまだ芸術としての役割を果たしていると言えます。

一方、ダ・ヴィンチやラファエロはもう芸術としては死んでいると言っていいでしょう。

あれらはもはや芸術のシンボルでしかなく、真の意味での芸術ではなくなって
しまったのです。

この話は次回のラファエロ展についての記事で詳しく書こうと思います。

 

最後に一言。

この規模でのフランシス・ベーコン展は、今後2度と見られないかもしれません。

それぐらい手間暇のかかった貴重な展覧会です。

ラファエロ展よりこっちの方が断然見に行く価値があると思います。

上級者向きではありますが、この手の展覧会にはどういうお客さんが来るのかを
見ておくのも1つの勉強です。

もし少しでも気になっているなら、見ておいて下さいな。