ども、ペスです。

最近僕は現代美術に対して以前とは違う感情を抱くようになってきました。

以前(と言っても、つい1ヶ月程前までですが)は現代美術の展示には学芸員などの
美術に理解のある人の補助が必要だと言っていたし、実際そう思っていたのですが、
それは少し違うような気がしてきたのです。

その考えは最初、キュビズム以後を現代美術と呼ぶのが妥当と言えるのではない
だろうか、という発想から始まりました。

キュビズムを現代美術の起源とする場合、それ以前とそれ以後の美術作品には明確な
違いが見られます。

キュビズム以前の美術は理解度の差はあれど誰が見ても“容易に”楽しめるもの
だったのに対して、キュビズム以降の美術は人々の理解からどんどん遠ざかっている、
ということです。

古典主義やマニエリスム、浪漫主義、印象派などの巨匠が生み出した人物画や風景画は
万人を魅了し、今もその効力を失っていません。

彼らの作品は今でも人気があり、展覧会を開けば比較的多くの人が美術館に集います。

一方で、キュビズム以降のフォーヴィズムやシュールレアリズム、ミニマリズムといった
美術作品は人々の注目を集めるどころか、名前さえ知られていないのが現状です。

それらを見に来るのは極一部のマニアックな人だけであり、今の時代の「ぶっ飛んだ」
美術作品においては、彼らすらも敬遠する傾向にある。

こうした現実を見ると、現代美術は(人々の)解釈から逃げているように見えてきます。


解釈から身をかわすために、芸術はパロディになることもあろう。

あるいは、抽象的になることもあろう。

あるいはまた装飾的になることもあろう。

さらにまた、解釈に完全な空振りをくらわせるために、芸術は非芸術になることも
ありうる。


スーザン・ソンタグは『反解釈』の中でそう言っていますが、われわれが現代美術と
呼ぶものは、まさしく彼女の言葉そのままではないでしょうか。

ただ石を床に並べてみたり、ただハンカチを重ねてみたり、ただ身の回りのものを
箱の中に入れてみたり、ただキャンバスを黒く塗ってみたり・・・。

これらの美術作品には解釈の余地がありません。

もちろん、これらを“無理やり意味付けて”語ることは可能だし、そういうことを
している人はネット上にもたくさんいますが、それは正しい芸術との接し方ではない、
むしろそれは芸術を安易なものにおとしめていると彼女は言います。


現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに
放っておきたがらない俗物根性にすぎないことが分かる。

本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力を持っている。

だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、人は
芸術作品を飼いならす。

解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。


そもそも知的態度で芸術と接すること自体が間違いである。

彼女はそう言うワケです。

では、われわれは現代美術(芸術)とどう接すればいいのか、という話になるワケですが、
それについては彼女のこんな発言が参考になるかもしれません。


いま重要なのは、われわれの感覚を取り戻すことだ。

われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければ
ならない。

われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけ出すことではない。

ましてすでにそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。

われわれがなすべきことは、「もの」を見ることができるように、内容を切りつめること
である。

芸術についてのあらゆる解説と議論は、芸術作品を――そしてひろげて言えば、われわれ
自身の経験を――われわれにとってもっと実在感のあるものとすることを目指すべき
である。


これは簡単に言えば、芸術体験を大切にしなさい、ということです。

石が置いてあろうが、ハンカチが重ねてあろうが、ガラクタが並べてあろうが、
それを見て感じたものを知識ではなく経験として積み重ねなさい。

そして芸術に関わる者は、その経験を補助、つまり余計な解釈が起らないよう、
鑑賞者に働きかけなさない。

僕には彼女がこう言っているように思えます。

すなわち芸術、特に現代美術に対する補助とは「分かろうとしないこと」を鑑賞者に
教えてあげることであり、感性を理性の支配下に置かないことを警告してあげること
なのです。


知識同様、経験も積み重ねなければ、その本来の効力を発揮しません。

一度美術作品を見ただけでは、その醍醐味は味わえないのです。

釣りだって、サッカーだって、読書だって、ゲームだって、続けているからこそ
見えてくる魅力があると思います。

続けなければ身に付かない技術もあるだろうし、続けているからこそ分かる感覚、
分かる嬉しさ、分かる悔しさなどがあるはずです。

1回目は何も分からなかったけど、3回目ぐらいからコツがつかめて、10回目に
なる頃には人に教えられるぐらいになっている。

経験とはそういうものです。

だとしたら、彼女は単純なことしか言っていません。

いっぱい経験すれば体が勝手に覚える、そして経験は別のものへ昇華する。

それだけです。

芸術とはいっぱい体験するためのものであって、いっぱい学ぶためのものではない。

そして現代美術とは、今までにない新しい体験をするためのものである。

僕には彼女のそんな囁きが聞こえます。