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Archives for 読書

京都市立美術館「第44回日展」にて ~伝わる作品とは何か~
ども、ペスです。 京都市立美術館で12月15日から始まった日展を見てきました。 日展を見たのは今回が初めてでしたが、ぶっちゃけ、もう行かないと思います(苦笑) 同じ団体展でも先日見た「行動展」とは違い、感じることは何もありませんでした。 俗に言う「キレイな作品」や「上手い作品」はたくさんあったし、技術的にはどれも 優れていると思います。 普通に見れば、何の問題もない作品ばかりに見えるでしょう。 しかし、それは問題もない代わりに突出したものもない、ということを意味しています。 保守的で、無難で、殻に閉じこもったものばかり。 それが僕の目から見た日展の作品群なのです。 工芸部門の作品からは多少新しいものも感じましたが、絵や彫刻はガチガチに枠に はまっており、ほとんどそこから抜け出せていません。 だから日展の会場には年配の方ばかりが集まるのでしょうね。 演歌や落語と同じ理屈です。 歳をとるほど見慣れたものや聞慣れたものにしか近寄らなくなる、つまり保守的に なっていくのです。   美術にはいろんな作品があっていいと思います。 定番のものもあれば、斬新なものもある。 それは大事なことです。 ただ、古いか新しいかにかかわらず、作品を作る以上その態度は 積極的であるべきです。 もう少し分かりやすく言えば、 「この作品を作らずにはいられない!」 「なにがなんでも作りたい!」 という気持ちがなければならない、ということです。 その気持ちがあって、初めて「キレイな作品」でも「上手い作品」でもない 「伝わる作品」 が生まれます。 脳みそが何年も冬眠し続けている人には分からないでしょうが、伝わる作品と 伝わらない作品というのは、見る人が見れば分かるのです。 参考までに、見分けるコツを紹介しておきましょう。 作品を見る際に、すべての思考を停止して、極力見ることにだけ集中すること。 絵を見ているという感覚にだけ意識を向けること。 これをやってみて下さい。 どのレベルで出来るかにもよりますが、少なくとも下手な解釈をするよりかはよほど 素直に作品を見ることができるはずです。 よく「感覚を研ぎ澄ます」なんて言葉が使われたりしますが、それに近いものだと思って もらえればいいと思います。 例えばどこでもいいので目を閉じて歩いてみて下さい。 今まで感じなかった微細な感覚を足の裏に感じませんか? 理屈としてはそれと同じです。 感覚とは、特定の感覚を鍛えることによって伸ばすのではなく、他の不必要な部分を 閉じることによって浮き出てくるものなのです。   以上のことから、「伝わる作品」とは、われわれの余計な感覚を刺激しないような 作品である、ということが分かります。 作品の方からわれわれを見ることに集中させるように仕向けてくる。 つまり、われわれが見ることに集中せざるを得ない作品こそが「伝わる作品」なのです。 その意味では、今回の日展で展示されているような伝わらない作品には、雑念が多く 含まれていると言えます。 作品はキレイでも、表現されているものが雑なのです。 気持ちがぼやけていると言えば、なんとなくでも伝わるでしょうか。 なぜか見ていても気がそれてしまう。 これは文章も同じで、読んでいて気持ちが他に気移りしてしまうようなものは、 「伝わる文章」ではありません。 先を読みたくて仕方がない。 この作品から目が話せない。 そういう鑑賞者や読者を魅了する物語性が「伝わるもの」には含まれています。 だからこそ、そこに込められた気持ちは伝わらざるを得ないのです。   「伝わるもの」は見る側と見られる側の良好な関係があってはじめて生まれてきます。 見る側の受け取りたいという気持ち。 見られる側の伝えたいという気持ち。 この両方が揃わなければ「伝わるもの」は生まれないのです。 両者の関係は可能な限り対等でなければなりません。 良好な関係というのは、どちらかに偏ったり依存したりしないものだからです。 お互いに同じぐらい尊敬し合っている。 お互いに同じぐらい愛し合っている。 お互いに同じぐらい思い合っている。 それが僕の思う良好な関係です。 この関係があって、はじめてお互いに気持ちが通じ合います。 作品と鑑賞者の関係もこれと同じ。 伝えたい気持ちと受け取りたい気持ちが均衡する場所にだけ、「伝わる作品」は 現れるのです。   ところで、気持ちって何なんでしょうね(笑)   ...more»
『Reading to Survive』についての補足
ども、ペスです。 先日お知らせしたReading to Surviveについてですが、あのレターだけでは 内容がよく分からないということもあると思うので、補足を加えておきます。   まず、この企画は「問う力」を鍛えるものだということを最初に分かって おいて下さい。 やっていただく作業は読書なのですが、その読書を通して言葉の裏に隠された “見えない”世界、つまり言語化・視覚化されていない可能性の世界を 見られるようになることを目的としています。 可能性の世界とは、考えなければ見えてこない世界です。 それはあくまで可能性でしかなく、「~かもしれない」という頭の中だけの 世界とも言えます。 日頃から現実を重視しろと言っている僕が、こういうことを言うのは少し 違和感があるかもしれませんが、そもそも現実とはその可能性の中の1つに 過ぎません。 数ある可能性の中から、実際に起ったことが現実と呼ばれているだけで、 現実もその元をたどれば可能性に行き着くワケです。 つまり、可能性を見ることと現実を見ることは何も矛盾しないということです。 しかしながら、これだけで可能性の世界を見ることへの疑問が解消されたとは 言えません。 現実も可能性の中の1つだとしても、その現実以外の可能性を見なければ ならない理由は何も述べていないからです。 では(現実以外の)可能性の世界を見ることには、どのような意味があるの でしょうか。 それについては具体的な例を出して説明しましょう。   レターの最後に引用した 「自己のうちに1つの普遍的な類型を繰り返す」 の全文は 「大衆は万人に共通な性質であり、社会においてこれといった特定の所有者を 持たぬものであり、他の人々と違うというよりも、自己のうちに1つの普遍的な 類型を繰り返すというかぎりにおいて人間なのである」 なのですが、この文章には2つの疑問が隠されています。 その1つがレターでも問題にした「自己のうちに1つの普遍的な類型を繰り返す」 という言葉が何を指すか、です。 この言葉の意味は上に書いた全文までの本書の文章を、ちゃんと理解していれば 導くことができるのですが、答え自体は誰にでも理解できる簡単なものです。 中学生に分かるように、と書いたことからも分かるように、オルテガは中学生でも 簡単に理解できるような意味のことしか言っていません。 しかし、ここまで説明すると、次はこういった疑問が浮かんできます。 オルテガはなんでそんなに簡単なことを、わざわざ分かり難い言葉を使って 書いたのだろうか、という疑問です。 哲学書によくある「厳密さを重視するため」という理由は、この場合は恐らく 当てはまりません。 なぜなら「1つの普遍的な類型」と彼自身が言っていることから、このことは 抽象的ではなく、かなり具体的なことのはずだからです。 また訳者が難しく翻訳し過ぎた可能性もなくはないですが、1つ目の疑問に 対する答えが分かれば、その可能性が極めて低いことが分かるはずです。 つまり、オルテガは意図的に分かり難い言葉を使って、特定の人にだけ 意味が分かるようにしたのではないか、と考えられるワケです。 それはオルテガが自ら貴族主義者であると同著書内で語っていることや、 講演や紙面で比較的多くの人がこの文章を目に(耳に)したことからも 裏付けられます。 あくまでも推測の範囲内ではありますが、彼は恐らく“大衆的人間”に バレないように、露骨な表現に過敏に反応する大衆の反論を避けるために、 この言葉を選んだのです。 これが正解かどうかはオルテガ本人に確認しなければ分かりません。 そしてオルテガがいなくなってしまった今日では、もはやそれを確認することも できません。 ですが、彼の意味深な言葉遣いからは、こういったことが推察できるワケです。   ここで分かってほしかったのは、僕がもしこの疑問を言語化しなかったら、 あなたはこの2つの疑問を持つことができただろうか、ということです。 「自己のうちに1つの普遍的な類型を繰り返す」は何を意味しているのか。 なぜオルテガはこんな難しい言葉を用いて、それを表現したのか。 これは疑問を持てたかどうかを聞いているのであって、それに正解したか どうかを聞いているワケではありません。 大事なのは「問う力」、疑問を持つ力、疑問に思う力なのです。   「問う力」とは、自分が分からないことに対して素直に分からないと 思える力であり、相手に(この場合は著者に)対して可能なかぎり真剣に 向き合う力です。 相手と真剣に向き合うからこそ、小さなことも見逃さずに疑問に思うことが できるのです。 それは耳馴染みのある言葉で言えば相手の気持ちを理解することであり、 相手の発信した情報から、相手が発信していない情報を読み取ることを 意味します。 少し想像してもらえれば分かると思いますが、これができるようになると 言葉通り「見えないもの」が見えるようになります。 僕が「自己のうちに1つの・・・」から導き出した先ほどの可能性 (オルテガの気持ちや意図)は、この著書には一言も書かれていません。 それらは僕がオルテガの言葉から(勝手に)推察したものであり、悪く言えば、 単なる想像の産物です。 しかし、相手の気持ちを考えるというのは、こういうことなのではない でしょうか? それが正解かどうかはともかく、そうやって相手の可能性をあれこれ考えること、 相手の発した情報を何1つ逃すことなくつぶさに見ること、そのことが人の気持ちを 理解する上で何より大事なんじゃないでしょうか。 あの子が手を振ったのは、僕に気があるということなんだろうか。 あいつが俺を殴ったのは、掃除をサボったことだけが理由なんだろうか。 あの人は赤い顔をしてるけど、酔ってるんじゃなくて熱があるんじゃない だろうか。 これが人の気持ちを考えるということであり、「見えないもの」を見るという ことであり、疑問を持つということであり、「問う力」があるということです。   このReading to Surviveは、このような力を読書を通して鍛えることを目的と しています。 名前にSurviveという言葉を使ったのは、この講座で鍛えた能力は Surviveする能力に直接つながると確信しているからです。 当たり前ですが、相手の気持ちを(深く)考えられるようになれば、 大抵のことはうまくいきます。 学校では「相手の気持ちを考えましょう」と言いつつも、具体的にどうやれば 相手の気持ちを考えられるようになるかは誰も教えてくれませんが、結局それは 「問う力」を鍛えることに集約されるのです。 今回の講座は前におこなったThinking to Surviveとのつながりも意識しては いますが、それを受けていなくても効果は保証しますので、あまり気にしないで 下さい。 内容のレベルは、僕のメルマガやブログが読めているなら心配ありません。 その他はPDFに書いた通りです。 あ、それと言い忘れていましたが、『大衆の反逆』は「ちくま学芸文庫」の ものを買って下さいね。 他にももう1冊どこか別の出版社から出ていたような気がするので念のため。 「言うのが遅いよ!」という場合は、ごめんなさい(苦笑) ではではー。   追伸1:ちょっぴりお得な情報。 Reading to Suviveの第1回目の音声は、メルマガ読者全員に無料で 配布しようと考えています。 もし申し込みを迷っているなら、それを聞いてから申し込むかどうかを 決めて頂いてもいいと思います。 ただし、その場合は一般価格での購入になってしまうので、その点は あらかじめご了承ください。   追伸2:レター。 ここにも一応URLを貼っておきます。 Reading to Surviveのレター ...more»
新講座『Reading to Survive ~オルテガ著「大衆の反逆」を読む~』のお知らせ
ども、ペスです。 この度、久々に新しい講座を開くことにしました。 あんまり巷では見かけないタイプの非常にマニアックな講座なので、人によって需要がはっきり分かれると思います。 と言いつつも、僕のブログを読んで面白いと感じるのであれば、とりあえず参加しておけばいいんじゃないかな、と。 当たり前ですが、後悔はさせません。   詳しいことはPDFにまとめましたので、そちらをご確認下さい。 Reading to Surviveについての詳細はここをクリック   今回はそれだけです。 ではではー。   ...more»
積読(つんどく)の意義
  随分とご無沙汰しております(苦笑) セミナーも無事に終わり、最近はアートに夢中に なりつつある今日この頃。 縁あって、今あるアーティストさんと一緒にビジネスを やっているのですが、この業界はなかなか興味深いです。 なんと言っても売れるモノと売れないモノとの違いが 恐ろしく分かり難い(笑) まあそこが面白くもあるんですけどね。 「なぜ人はアートを買うのか」 もし暇だったら考えてみて下さい。 では今日も張り切っていきましょう! 僕はよく本をまとめて衝動買いしてしまうことがあるのですが、 こういう人って僕に限らず結構いると思います。 今読んでる本があるにも関わらず、本屋で魅力的な本を 発見するとついつい買ってしまう。 で、買ったはいいものの、今読んでる本を読み終わった ときには、また別の欲しい本を見つけてしまい、それも ついつい買ってしまう。 そしてどんどん読まない(読めない)本が溜まっていく。 これを俗に積読(つんどく)というワケですが、 僕も例に漏れず積読主義者の一人です(苦笑) 今や恐らく10年あっても読みきれないであろう本が ずらずらと僕の本棚にはコレクションされています。 半ばオブジェ的に・・・。 さて、この積読。 世間一般には「できれば解消したいもの」と考えられており、 過激派の中には「読まない本なんて買っても無駄」という 意見を持った方々もいるとかいないとか。 確かに本は(一部を除いて)読まれるために生まれてきている ワケですから、出来る限り読むに越したことありません。 買った本は読んでナンボ。 それは間違いないでしょう。 ただ、だからと言って積読が無駄なことだとは 僕には思えないんですね。 「どうせ読まないなら、買っても買わなくても一緒」なんて 意見もあるかと思いますが、そもそも「どうせ読まない」 という前提が正しいのかどうかを考えてみて下さい。 未来のことなんて誰にも分かりません。 なのに「どうせ読まないだろう」みたいに自分の行動を 決め付けてしまうのは、いかがなものでしょう? そう決め付けるよりも、むしろ「いつか読むかもしれない」 という前提で考えた方が将来の可能性は広がるし、個人的には 楽しそうな気がします。 教習所で習いませんでした? 「だろう運転」はいつか事故る、って。 多分「読まないだろう」も、どこかで事故るんじゃないかな。 自戒・・・。 読むか読まないかなんて分からない。 読めるか読めないかなんて分からない。 でも、買った本は「いつか読むかもしれない」ですよね? 逆にその時出会った本を買わなかったら「もう出会えない かもしれない」ですよね? だったら、読むか読まないかはともかく、買っておけば いいんじゃないの?積読しとけばいいんじゃないの?と 僕は思うワケです。 これはある意味、合コンの論理と同じ。 相手が自分のことをどう思ってるかは分からないけど、 取り敢えず携帯番号とアドレスぐらいは聞いておけば いいのです(笑) もしかしたら脈があるかもしれないんだから。 仮に脈がなかったとしても、それはそれ。 番号とアドレスすら聞いてなければ、脈があるなしに 関わらず、可能性は閉ざされてしまいます。 それはあまりにも、もったいないでしょ?と。 そーゆー話です(笑) 人との出会いと同じで、本との出会いも一期一会。 何億冊、何兆冊もある本の中から奇跡的に出会った本が あるのなら、その機会は受け入れるべきではないでしょうか? ましてやそれが世間の風評に流されて欲しくなったものでは ないのならば、尚更です。 自分の意思で、自分の直感で、自分の感性で感じて 欲しいと思った本は、役に立つ立たないに関わらず 買っておくべきだと僕は思います。 なぜなら、それこそアナタが本当に欲している本だから。 直感とか感性とか言っちゃうとスピリチュアルな世界の話に 聞こえてしまうのが難点なのですが、実は僕が言いたいのは そんなふわふわした話ではありません。 まずは少し前(?)に書いたアフォーダンスの話を思い出して 下さい。 ここで僕はコップの話をしています。 コップの取っ手は「ここを持て」ということを僕達に訴えて (アフォードして)いる、と。 忘れてたら今すぐにちゃんと読み返して欲しいんですが、 要するにコップはそこに在るだけで僕らに何かしらを アピールしているワケです。 しかーし。 よくよく考えると、コップは僕らに対してずっと 「取っ手を持て」とアフォードしているワケではないことに 気付くと思います。 コップが僕らに「取っ手を持て」とアフォードしてくるのは 僕らがコップを使おうとしているその時だけです。 喉が渇いて水を入れるのか、洗ったコップを乾かすのか、 その状況は色々あると思いますが、僕らとコップに何らかの 関係を築く必要が生じたときにコップは僕らに語りかけてきます。 だから当然、僕らがコップに対して何の用もないときは、 コップは基本的には黙っている。 要するに、「取っ手を持て」というアフォードは 僕らの【いま・ここ】を反映しているのです。 僕らが今ここで何をしたいのか。 今ここで何をすべきなのか。 それがコップのアフォードとなって返ってきているワケです。 このアフォーダンスと「いま・ここ」の論理を本との出会いに 置き換えると、本が「買ってくれ」とアフォードしてくるのは、 僕らの「いま・ここ」がその本に反映されているから、 ということになります。 つまり、僕らは心のどこかでその本を欲しているのです。 その本に用があるから僕らはそれを欲するのです。 普段こんなことはあまり考えないと思いますが、 実はこれは凄く大事なことなんだということに 気付いて下さい。 なぜ何万冊もある本棚の中から、その本だけが目に付き、 欲しくなってしまうのか。 本が分かり難かったら衝動買いの類を全部含めて考えても 構いません。 なぜそのバッグだけが、なぜその靴だけが、なぜその財布だけが 欲しくなってしまうのか。 大概は、デザインが好みだから、という理由で 欲しくなるのだと思いますが、じゃあなんでそのデザインが 好みなのか、というのも考えてみて下さい。 自分の心に思い描く「具体的な」デザインがあって、 そのデザインにピッタリ当てはまるものがあったから 欲しくなったのかと言われると恐らくほとんどの人は そうじゃないと思うんですね。 どっちかと言うと街中でたまたま見つけたバッグ、靴、財布が 自分の「抽象的な」イメージにピッタリ合って猛烈に 欲しくなってしまった、という感覚だと思います。 つまり出会った瞬間「いま・ここ」において自分は本当に 欲しているものに気付くのです。 そうそう、オレはこんな靴が欲しかったんだよ!って。 欲しいモノが現実として具体化されるのは「いま・ここ」の 瞬間においてだけなのです。 そしてブーバーやハイデガーの考えを加味するならば、 「いま・ここ」を全力で生きている時にしか神には出会えない ということになります。 これは言い換えると、 本当に欲しい本(モノ)に出会うには、本当の自分として 生きていなければならないし、本当の自分として生きるには、 自分の「いま・ここ」を完全燃焼しなければならない ということです。 そうすれば、それは自ずと衝動となって現れる。 その衝動こそが神との出会いなのです。 上記の話では積読そのものよりも積読になる過程の話を メインに書きましたが、この論理(?)は積読してからも 当てはまります。 自分の部屋に読んでない本がたくさん積まれている。 この本の中から自分の「いま・ここ」に応じて アフォードしてくる本が今読むべき本なのです。 なんとなく手に取った本のたまたま開いたページに 自分の欲しい答えが書いてあった、なんてことは比較的 よく聞く話ですが、その原理はこういうところにあります。 全力で生きていれば、いつでも神は降りてくるのです(笑) ではでは。 ありがとうございました! ...more»
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