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Archives for 自分探し

哲学書を読む意味 ~ライフスタイルとしての教養~
  昨日お話ししたように、僕は今キルケゴールの『死にいたる病』に ハマっています。 少し前はアレントやブーバー、ハイデガー、ガダマーなんかに ハマっていた時期がありますが、これらの本の内容というのは はっきり言って何の役にも立ちません。 哲学書とは、当たり前のことをただ事細かに、ときに熱く(笑) 詳説してくれる、それだけのものだからです。 一方で、ビジネス書や自己啓発書、その他「実用書」と呼ばれる 種類の本たちは、何かの役に立つようなことが書かれています。 その内容はマーケティングやコピーライティング、営業、簿記、 ダイエット、整理整頓、料理の作り方などなど多岐にわたる ワケですが、どれも何か特定のことに役立つ(すぐに使える) という点で共通しています。 僕はここ1,2ヶ月ほどの間、この「役に立つ」という言葉に かなり苦しめられました。 なぜか分からないけど(いや、本当は分かってるんだけど)、 「自分も役に立つ何かをしなきゃいけない」という思いが ふつふつと湧いてきて、いくつかの「役に立つ」系の セミナーに参加してみたり、これまでほぼ無視してきた ビジネス書なんかも買ってみたりしました。 しかしその結果どうなったかというと、僕は僕ではなくなって しまいました(苦笑)。 そう、自分を見失ってしまったのです。 そこから散々な苦悩を経て、ようやく元に戻ることができた今、 改めて分かったことがあります。 「役に立つ」とは、損得勘定の視点で物事を見ることである、 ということです。   哲学書は何の役にも立たない。 この言葉は言い換えると、哲学書を読んで得することは何もない、 という意味になります。 自動配信されたバックナンバーでも話していると思いますが、 こういう損得勘定というのは、しょーもない人間の典型的な 考え方です。 「訴えられたら損 → だから法を犯すようなことはするな」 これと同じで哲学書も「読んでも得はない → だから読まない」 という判断になっています。 たしかに哲学書を読んで得することはないかもしれません。 その時間をビジネス書の読書に使えば、何かしら役に立つ知識が 得られることでしょう。 しかし僕にとって哲学書を読むことは、損か得かではなくて、 「哲学書を読んで1日を過ごすような素敵な自分であること」、 つまり哲学書を読むという無駄を許容できるぐらいの余裕があり、 損得勘定に縛られないという理想の自分を実現することなのです。   ほとんどの人が1ページすら読めない難しい本を、 時間を気にせず、損得も気にせず、楽しく読めること。 それが僕が理想とする自分であり、ライフスタイルです。 その内容が役に立つか立たないかは、どうでもいいんですよ。 苦悩を経た結果、やっとそのことに気付くことができました。 僕のメルマガやセミナーは、役に立つ何かを提供しているワケ ではありません。 そうではなくて、(直接的には)何の役にも立たないかも しれないけど、知的興奮を味わえたり、キッカケが得られたり、 心が晴れたりする、もっと言うと、そういったものに時間や お金を使えるぐらい余裕のある「ライフスタイル」を 提供しています。 教養も、教養それ自体が役に立つか立たないかはどうでもよくて、 「教養を身につけようとする自分であること」が大事なのであり、 それが素敵な自分であるということなのです。 哲学や芸術や宗教のことに詳しくなっても、多分直接的に何かの 役に立つことはありません。 でも、それらに魅力を感じる自分であることは、 何ものにも代えられない価値だと思います。 だって98%ぐらいの人は、損得勘定に縛られてそれに魅力を 感じることができないんだから。 教養は役に立つことが価値なんじゃなくて、 それに価値を感じられる自分であること、そして自分と 同じような人たちに共感できることが価値なのです。   哲学で飯は食えない。 それはそうかもしれません。 でも「哲学を愛する自分であること」を本気で発信できれば、 それで飯は食えます。 他でもない僕がそうだからです。 大事なのは哲学というコンテンツではなく、哲学を好きである自分、 哲学書を楽しく読める自分というコンテクストなのです。 これは哲学でなくても同じです。 どんなことであれ、それをコンテンツとして捉えているかぎりは、 直接的に役立つ何かでないと飯は食えません。 しかしそれを好きである自分、それを愛している自分がいるなら、 そのコンテクストに人は集まってきます。 コミュニティは勝手にできます。 僕の苦悩は、このコンテンツとコンテクストの間を行き来する、 まさに時代を跨ぐためのものだったのです。   僕がこれまで発信し、体現してきたことの1つは 「なんでも損得で考えるのはやめようぜ」ということです。 つまり「コンテンツで選ばずにコンテクストで選ぼうぜ」と。 僕はそんなことを語ってきたのだなぁ、と気付きました。 にもかかわらず、ここ数カ月の僕はそれとは真反対の、 コンテンツの側に重きを置こうとしてしまっていました。 愚かだったと思います。 でも、その苦い経験があったからこそ、こうして今までより 一層自分にとって大事なものが明確にくっきりと見えるように なりました。 もうこんな経験はこりごりですが、多分またどこかで 経験することになるんでしょうね(苦笑)   大事なことなのでもう一度言っておきます。 学んだ内容云々ではなく、何かを学んでいる姿勢そのものが われわれにとっての価値です。 政治でも哲学でも宗教でもなんでも、それが役に立つかどうか ではなく、それを学んでいる自分であること、そこに楽しさを 見出せる自分であることが価値なのです。 僕のメルマガを読んでいる時点で、あなたはその一歩を 踏み出しています。 自分にウソをつかず、嫌なもんは嫌だと、したくないことは 絶対にしたくないと、正直に言いましょう。 その強烈な価値観に、個性に、人は惹きつけられるのです。 大丈夫、僕がついてますから。 一緒に理想のライフスタイルを、理想の自分を実現しましょうね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
素晴らしさの可能性
ども、ペスです。 僕は美術を「実存的に」鑑賞するためには、ある4つの問いを持っておくことが 不可欠だと考えています。 このことを意識しているのは極少数の人だけだと思いますが、この4つのうち 2つについては無意識的ではあれ、誰もが念頭に置いて作品を見ているはずです。 その2つというのは 1.何を見るのか 2.どう見るのか という問いです。 われわれが特定の展覧会を「選ぶ」のは、1の「何を見るのか」という問いが自分の 中にあるからです。 これは無意識的な問いですから、誰も自覚していないと思いますし、もちろん僕も 問うていること自体は自覚していません。 ただ、この問いがなければ「選ぶ」という行為が生まれ得ない以上、われわれの中に こういう前提的な問いがあることは間違いありません。 厳密に言えば、われわれが特定の展覧会を見たいと思うのは「何を見るのか」という 問いと「それを見るか(見たいか)否か」という問いの末に導かれる結論です。 美術の展覧会に興味のない人は「何を見るのか」という問いを持ち合わせておらず、 それ故に彼らには展覧会に足を運ぶということが有り得ないのです。   2の「どう見るのか」は展覧会を見ているときにわれわれが持っている問いです。 みんな自分なりの見方で作品を見ていると思いますが、その「自分なりの見方で見る」 という答えは「どう見るか」という問いから導かれたものです。 これも当然自覚はないと思います。 自覚していたら誰だって美術の正しい見方を心得ているでしょうからね。 多くの人が作品を見て「上手い」や「キレイ」という感想しか持てないのは、 この問いに対する答えがそれだけ単調で乏しいということなのです。   冒頭で言ったように、ここまでは誰もが持っている問いです。 あと2つの問いについてはこれから説明しますが、ここで分かっておいてほしいのは、 それを持っているという事実が重要なのではなく、持っていることを自覚しておくことが 重要だということです。 この問いを自覚することによって、われわれは自分の判断の危うさ、自分の大衆性 (凡人性)を知ることができます。 例えば「何を見るのか」という問いは、多くの人にとって「どれを見るのか」という 問いになっています。 展覧会や美術館の数が限られている以上、それはある意味では仕方のないことでも あるのですが、問題はそこではなく、彼らは勝手に自分でその選択肢をしぼっている ということです。 10個の展覧会があったとしら、その10個のうちから選ぶのではなく、大衆はそれを 「恣意的に」3つぐらいにしぼった上で選びます。 その3つというのは大体、有名だとか、車内広告で見たとか、そういう理由で しぼられていて、彼らはその中からしか答えを出そうとしないのです。 これは夢を諦める人間の思考とまったく同じです。 彼らはやってもいないことを勝手に出来ないと決めつけ、自分から人生の選択肢を しぼっています。 その夢が叶うかどうかはやってみなければ分からないのに、その展覧会が面白いか どうかは行ってみなければ分からないのに、勝手に「出来ない」「面白くない」と 決めつけるのです。 これによって彼らの可能性が著しく狭まっていることは、言うまでもありません。 しかし彼らはそれを自覚していないし、気付こうともしません。 権威主義的な(ミーハーな)展覧会に集まる人間とは、こういう人間なのです。   さて、寄り道はこれぐらいにして、話を前に進めましょう。 われわれが持つべき3つ目の問いは 3.なぜ見るのか です。 なぜ自分はその展覧会を見るのか。 なぜ自分はこの作品を見るのか。 これには明確な答えは必要なく、問うことそのものに意味があります。 というのは、ガダマーが言うように 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することにある からです。 可能性を開いたまま保持するということは、その展覧会と、またはその作品と、 常に関係を持ち続けるということです。 それは必ずしも意識的に関係を持ち続けなければならないという意味ではありません。 心に残る作品や展覧会とは、すべて、事ある度にわれわれに「なぜ見るのか」という 問いを生起させるものだからです。 つまり「なぜ見るのか」という問いは、自分から意識的に持つようなものではなく、 あちら側から投げかけてくるものなのです。 それを上手く受け取れるかどうかは、あなたの人間としての器にかかっています。 小さなグローブでは、真正面にきた素晴らしいストレートのボールでも取り損ねて しまうのです。   最後の4つ目の問いは 4.見るとはどういうことか です。 これが「見るとは何か」という問いでないことに注意してください。 「見るとはどういうことか」という問いは、われわれにとって見るということが 何を意味するのか、ということを問うているのです。 難しい話になりますが、見るとは、われわれの存在の仕方の1つです。 われわれが何かを見ているとき、それはわれわれが見るという仕方で存在していると 言い表すことができます。 つまりこの問いは、哲学的に言えば それを了解しつつ見るという認識を可能にしているア・プリオリな諸条件とは何か ということであり、簡単に言えば 自分のことをもっと探求してね ということです(笑) 自分を探求することについて詳しく話し出すと立派な論文ぐらいの量になってしまうので 今は割愛させてもらいますが、1つだけヒントを出すと 常日頃から自分を自覚しておくこと を意識するといいと思います。 認知科学的な言い方をすれば、メタ認知(メタ思考)能力を鍛える、という感じになる でしょうか。 このことが「見るとはどういうことか」にどう繋がるのかは、やれば分かります。 気になったら、やってみてくださいな。   長くなったので最後にまとめておきましょう。 われわれが美術を「実存的に」鑑賞するために持つべき問いとは   1.何を見るのか 2.どう見るのか 3.なぜ見るのか 4.見るとはどういうことなのか   の4つです。 これらがすべて揃ったとき、われわれの前に「素晴らしさ」が現れます。 これは逆に言った方が実感しやすいかもしれません。 われわれが素晴らしさを感じているときには、無意識的にこういう問いを自分の中で 投げかけているのです。 それらの問いの総合的な答えが素晴らしさであり、実存です。 今はこれを理解できなくても構いません。 ただ、頭の片隅には置いておいてください。 ちゃんと努力を続けていれば、そのうち意味は「実感」できますから。   追伸1:所感など。 僕が『脱凡人のすすめ』という奇怪なタイトルのメルマガを出しているのは既に ご存知かと思いますが、そこでテーマにしてる「凡人から脱する」ことが美術を 「正しく」鑑賞することや美術を理解することに繋がっているということに 気付いている人は極わずかしかいません。 当たり前の話ですが、凡人に美術は理解できません。 だってそういう人間のことを、われわれは「凡人」って呼ぶんだから。 哲学も分かろうとしない、芸術も分かろうとしない、難しいことは何も分かろうと しない。 それが凡人です。 これは凡人をバカにしているのではなく、凡人の定義を述べているに過ぎません。 そうやって怠惰に生きることを何とも思わない人間のことを、われわれは凡人と 呼んでいるということです。 ちなみに、無知であることと凡人であることとは関係ありません。 誰だって初めてのことに関しては無知なのですから、そんなのは仕方のないことです。 そうではなく、自分が無知であることを知りながら、それを克服しようとしない人間が 凡人だと言っているのです。 「美術が分からない」と自覚していながら、その分からない状態をそのまま 放置しておく人間ってどうなのよ、と。 あんたそれでも人間として恥ずかしくないのかよ、と そんなんでよく自分の子供に、勉強しろ、なんて言えるな、と。 僕が言いたいのは、そういうことです。   ここまで言えば僕が普段から抱いている気持ちは分かって頂けたと思います。 僕もバカの類ですから、バカをバカにするような自虐行為はしません。 ただ、自分がバカだってことを知ってるなら、そのバカという短所は克服しようぜ、と 言っているのです。 「脱凡人」とは、人間としてまともに生きよう、ということです。 凡人のように怠惰に生きるのではなく、そこから脱して、人間らしく向上心を持って 生きよう。 そういう思いを込めています。 それはメルマガに限った話ではありません。 このブログも、もう1つのブログも、いつも気持ちは同じです。 僕がプロフィールに「教養主義」と書いているのは、こういうところに由来しています。 僕の教養主義は、自分がバカだと自覚しているからこその教養主義だということを、 分かってもらえると嬉しいです。 ありがとうございました。   追伸2:哲学。 この記事にはハイデガーとコリングウッドの哲学を織り込みました。 美術に負けず劣らず、哲学も楽しいですよ。     ...more»
やりたいことを“見つけやすくする”3つの方法
  「やりたいことが分からない」 僕が学生だった頃から、こういう人がどんどん増えてきています。 自分には何が向いているのか分からない。 自分の好きなことが何なのか分からない。 そういう人がたくさんいるワケですが、もしかしたらあなたも その中の一人かもしれません。 正直なところ、それは単なる「甘え」だと思います。 今までに、自分が何をすべきかを考えず、やるべきことをやって こなかったから、そういう軟弱な思考になるのです。 ただ、それを言っていては話が進まないので、今はとりあえず その辺の話は棚にあげておきましょう。 この「やりたいことが分からない」状態が異常であるというのは 誰もが感じていると思います。 実際、やりたいことがない状態というのは、毎日不安で、憂鬱で、 落ち着きません。 何をやっても雲をつかむような感じで、確かに間違いなく生きている はずなのに、生きている感じがしない。 この最後に言った「生きている感じがしない」というのが、おそらく 最も典型的な症状だと思います。 要するに、やりたいことのない人は、生きている実感を得るために、 その異常を治療するために、やりたいことを見つけたいワケです。   しかし、残念ながら 「やりたいことを見つける方法」 なんていう都合のいい治療法はありません。 そもそも、そういうものが実在すると考えるような甘い考えが、 あなたをダメにしているのです。 昔の僕を含め、ネット上を見回すとそういう方法があるかのように 言っている人がたくさんいますが、彼らは数年前の僕程度の脳みそしか 持っていないということですから、それをそのまま鵜呑みにするのは 非常に危険です。 それが完全に間違いだとは言いません。 言いませんが、厳密には違います。 というのは、彼らの言っている方法はやりたいことを見つけることとは 直接関係のないことだからです。 ブレインダンプにしても、昔の自分を思い出すにしても、それらは 「自分を知っていく方法」 ではありますが、決して「やりたいことを見つける方法」では ありません。 ブレインダンプをやって、自分を知っていった結果として(たまに) やりたいことが見つかることもある、という程度のものです。 ですから、実際にあるのは「やりたいことを見つける方法」ではなく、 「やりたいことを“見つけやすくする”方法」 なのです。 どっちも同じに思えるかもしれませんが、いつも言うように、 そういう「普通のこと」を考えてしまうから、凡人は凡人のまま なのです。 こと細かに、凡人がまったく気にしないようなところまで説明して いるのには、ちゃんと理由があります。 あなたはもう既に凡人から数歩先に進んでいるのですから、 それぐらいは読み取れるようになって下さい。 厳しく感じるかもしれませんが、それはトレーニングなのですから 当然です。 ましてやあなたは凡人から脱することを自ら望んだ稀有な人間です。 その時点であなたはこのトレーニングに耐えられるだけの素質を 十分に持っています。 だからこそ、僕はそれに相応しい接し方をしているのです。 トレーニングの結果は僕の人生をかけて保証します。 半年後にはこのメルマガが『娯楽メルマガ』ではなかったことを 証明してみせますので、それまでは耐えて耐えて耐えまくって 下さい。   さて、話を戻しましょう。 「やりたいことを見つけやすくする方法」とは、あくまで確率を 上げるだけですから、必ずやりたいことを見つけられるワケでは ありません。 ただ、やらないよりやった方がいい、というのは間違いありません。 その方法は3つあるのですが、3つすべてをやれば見つけられる 確率を限りなく100%に近づけることができます。 もちろん人によっては1つだけでも見つけられることはあると 思います。 それはそれで自分はラッキーなのだと思っておいて下さい。 逆に3つともやっても見つからない場合は、 1.やり方が悪い 2.この方法では手に負えないぐらい精神的にヤバイ 3.この方法をそもそも信じていない のどれかだと思います。 思いますが。 この記事を普通に読めている時点で2はないと考えていいでしょう。 また3は論外だということは言うまでもありません。 ということで、見つからなかったとしたら原因は恐らく1です。 今から紹介することを真剣にやって結果が出ないなんてことは、 まあ有り得ません。 なるべく細かく説明していくつもりですが、もし3つをちゃんと やっているにもかかわらず、やりたいことが見つかるどころか、 その兆候すらない場合は、メールで詳細を教えてください。 こんなことを公言した以上は、結果が出るまで僕が責任をもって あなたをサポートさせて頂きます。 (※もちろん無料です) それでは1つずつ紹介していきましょう。   1.ブレインダンプをする(マインドマップでまとめる) これはもっともメジャーな方法ではないでしょうか。 今自分がしたいこと、例えば海外旅行やダンス、英会話、ゲーム、 農業をしたい、メッシに会いたい、田舎暮らしをしたい、自分の会社を 作りたい、オバマ大統領と友達になりたいなど、そういったものを 大小含めて最低でも200個ぐらいノートに書き出す。 これだけです。 ただし、細かいルールはいくつかあります。 まずその200個は1日で出すこと。 2日以上かかってしまうと、その分だけ効果が薄れる、つまり やりたいことが見つかる確率が落ちると思って下さい。 自分の頭に一気に負荷をかけ、普段まったく考えない限界のところまで 考え抜くことに意味があるのです。 楽をしたいなら他をあたってもらって構いません。 そういう意識の低い人間を相手にしているほど、僕は暇ではない ですから。 次に200個を出し終わったら、2日間ぐらいは適当に過ごして、 その後で1週間ぐらい続けて毎日1日1時間以上はその200個を 眺めること(1日3時間以上できたら◎)。 2日間の間を空けるのは、書いたことを客観的に見られるように なるためです。 眺めているときに「なぜ?」を考えると、バラバラだった200個が 徐々に繋がってきます。 なぜ海外旅行をしたいのか。 なぜダンスをしたいのか。 なぜメッシに会いたいのか。 そういう問いを自分で考えながら、眺めるようにして下さい。 そうすることによって、その200個の奥に隠れていた“本当の” やりたいことが見えてきます。 なぜ海外旅行をしたいのか・・・世界遺産をたくさん見たいから。 なぜ世界遺産をたくさん見たいのか・・・世界遺産のブログを 書きたいから。 なぜ世界遺産のブログを書きたいのか・・・たくさんの人に 世界遺産のことを知ってもらいたいから。 なぜたくさんの人に世界遺産のことを知ってもらいたいのか・・・。 この「なぜ?」を6回ぐらい繰り返せば心の底にぶち当たります。 それを輝く金塊が見つかるまで何度もやってください。 これは確率の問題ですから、多く繰り返せば繰り返すほど見つかる 確率は上がります。 石油だって温泉だって、一回掘っただけで見つかったら誰も 苦労しません。 やりたいことを見つける作業というのも、それと同じで根気のいる ことなのです。 当たり前のことですが、やりたいことに価値があるのは、それが そう簡単に手に入らなものだからです。 やりたいことがコンビニで100円で売っていたら、そんなものに 価値があるでしょうか? やりたいことはどれだけお金を積んでも、どれだけ地位が高くても 苦労しなければ手に入らないからこそ、大きな価値があるのです。 そういう基本的なことを忘れないで下さい。 ちなみにカッコでマインドマップと書いたのは、まとめた方が 見やすい場合は、適当にカテゴリーを作って自分なりにまとめて 下さい、ということです。 面倒ならやらなくても構いません。 その辺はご自由にどうぞ。   2.普段の自分ならしないような体験をする やりたいことが分からないと言っている人ほど、いつも同じこと ばかりを繰り返しています。 2ちゃんねるのまとめブログを見て、フェイスブックを見て、 ツイッターを見て、ニコニコ動画を見て・・・それの繰り返し。 やりたいことが分からない状態の自分の生活を何も変えないまま、 やりたいことが見つかるワケがないのは、少し考えれば分かる はずです。 そういう当たり前のことも考えられないほど頭を使わない生活を しているから、やりたいことが分からないなんて状態になって しまうのです。 分からないのなら、とにかく片っ端からいろんなことにチャレンジ すればいいじゃないですか。 ここで言っているのはそういうことです。 普段ロックしか聴かない場合は、たまにはジャズとかクラシックを 聴いてみるのもいいだろうし、外食ばかりしている場合はたまには 家で自炊してみましょう。 普段なら絶対に降りない駅で降りてぶらぶらしてみるとか、 思い切って高級料亭のランチを食べてみるとか、そういうのも 面白いと思います。 何もいきなりエベレストに登れと言っているワケではありません。 できる範囲でやればいいのです。 こうして普段の自分から距離をとることによって、自分を客観的に 見られるようになります。 普段の自分は何をやっているのか。 普段の自分はどんな気持ちなのか。 普段やっていることが、いかに自分にとって心地良いことなのか。 それが分かってくると、今まで何も意識せずにやっていたことが 案外自分のやりたいことだった、みたいなことが起こります。 それは自分で淹れたこだわりのコーヒーを飲むことかもしれないし、 厳選した茶菓子をお客に差し出すことかもしれないし、毎日の快眠を 目指すことかもしれないし、はたまたスーパーに買い物に行くこと かもしれません。 そういう何でもないことの中に、やりたいことが隠れていることは 往々にしてあるのです。 これも当然やればやるほど確率は上がりますから、なるべくたくさん やるようにして下さい。 これすらサボるようなら、あなたはその程度の人間だということです。 いさぎよく諦めましょう。 それと、これにはもう1つ効果があって、いろんな経験を積むことで その人の人間性そのものが広がっていく、ということです。 単純な話として、1の経験しかない人間より、10の経験をしている 人間の方が魅力的なのは誰もが認めることだと思います。 その意味で、この方法は自分の魅力も同時に伸ばしてくれるのです。 仮にやりたいことが見つからなくても、人間的に成長できるのなら それはそれで意味があるのではないでしょうか。   3.したくないことは極力しない 読んでそのままです。 逆説的なやり方ですが、したくないことを極力しないことによって、 やりたいことを浮き彫りしようということです。 やりたいことは分からなくても、したくないことは誰でも分かると 思います。 理不尽なことや納得できないこと、その場の空気に合わせること なんかは誰だって嫌なはずです。 自分はカクテルを飲みたいのに、周りがみんな生中だから仕方なく 自分も生中を頼む。 凄く眠くて今すぐ寝たいのに、仕事をするために徹夜する。 そういうしたくないことは極力しないで下さい。 ここを徹底できれば、あとはやりたいことしか残らないワケですから、 やりたいことは自動的に見つかります。 どこまでしたくないことをしないでいられるか。 それがこの方法の最重要ポイントです。 普通の会社に雇われていたら、なかなか難しいことかもしれません。 色々しがらみがあって、それに従わなければ気まずくなる場合も あるでしょう。 ですから、これもまずは出来る範囲でやって下さい。 働いている時以外は徹底する。 最初はそれぐらいで十分だと思います。 それを少しずつ仕事のときも実践していく。 そうするうちに、やりたいことが自然と浮かびあがってきます。 この方法が3つの中では理屈として一番しっくりくるのでは ないでしょうか。 しつこいようですが、これも確率という点では他と同じですから、 可能な限り繰り返しやって下さい。 あなたが本気なら、これぐらいは出来るはずです。   以上の3つの方法は、僕の思考と経験から導き出したものです。 僕は3つともすべてやりました。 いや、正確に言えば今もすべてやっています。 企画内容を整理するためにブレインダンプをすることもあるし、 経験を増やすために敢えて不味そうなメニューを選ぶこともあるし、 やりたいことを貫くために文章を書く以外の作業は(最低限生活に 必要なことを除いて)ほとんどしていません。 やりたいことは日々変化しています。 読みたい本は毎日変わるし、食べたいものも、行きたい場所も、 知りたい情報も変わります。 このメルマガだって何度書き変えたか知れません。 それぐらい毎日毎時間変わっていくものを捉えるには、常にそれを 捉え続ける以外に方法はありません。 ですから、本当のことを言えば、ここで紹介した3つの方法は 一度やっただけで満足しないで欲しいのです。 ましてや脱凡人を目指すのであれば、なおさらです。 これぐらいのことは朝飯前、という程度にできてもらわなければ 困ります。 僕らはこんな低いところで立ち止まっている場合ではないのですから。   分かっているとは思いますが、念のために言っておきます。 凡人から脱するとは、凡人が達成できていないことを達成する、 すなわち夢を叶えるという意味も含んでいます。 それは単に変人になることではなく、凡人では到達できない領域に 到達するということなのです。 新年一発目から暑苦しいかもしれませんが、そのぐらいの覚悟で 1年をすごさなければ、これからの時代を生き抜くのはキツイという 意味だと思って下さい。 今は実感がないでしょうが、そのうち身にしみて分かるように なります。 あのときに準備しておいてよかったと思う日が必ずきます。 周りの人間は今のうちにバカ騒ぎさせておいてあげましょう。 助けたければ声をかけても構いませんが、彼らはあなたの親切な 言葉に耳を傾けもしないはずです。 エマソンが言っているように、凡人は 「見たいことしか見ず、聞きたいことしか聞かない」 のですから。 彼らは結局、原発事故からは何も学ばなかったのでしょう。   何事も問題が起こってから準備していたのでは遅すぎる。 どうかその心構えを忘れずに、今年もよろしくお願いします。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
「やりたいこと」と「自己との対話」
ども、ペスです。 先日、NHKのニュースで某K大学の就職支援が紹介されていました。 その大学では副学長自らが学生の前に立って就職することの大事さを熱弁し、 就職意欲の湧かない学生への対応として震災ボランティアを推奨しています。 学生がボランティアに行く場合には、大学が宿泊費や交通費を負担し、積極的に 社会に出ることの大切さを教えようとしている、とのこと。 しかしその内容たるや、実にお粗末なものでした。 ボランティア後の反省会で学生が副学長に質問をします。 「やりたいことって、どうやって見つければいいんですか?」 すると副学長は「うーん・・・」と苦笑いしながら閉口。 そのあとに出た言葉は 「とりあえず社会に出ることが大事だと思う」 「社会に出なければ何も始まらない」 というものでした。 あなたはこの会話を聞いてどう思うでしょうか。 百歩譲って学生がしょーもない質問をしてしまうのは若さゆえに仕方がないとしても、 いい歳こいた大人がその質問に対して閉口してしまうのは悲しいことです。 ましてや副学長クラスの人間がその程度だということは、他はもっと酷いのだろうと 思われても仕方がありません。 「とりあえず社会に出ることが大事だと思う」 これを聞いただけでも、この人がいかに時代遅れで気持ちだけの人間であるかがよく 分かります(悪い人だとは思いませんけど)。 理屈がないから、せっかくの情熱も空回りしているのです。 一見もっともらしいことを口にしながらも、その中身は何も詰まっておらず、なぜ社会に 出ることが大事なのか、社会に出たら何が変わるのか、その辺がまったく述べられて いません。 だから学生は腑に落ちないし、納得できないのです。 ここで学生が副学長にした質問について考えてみましょう。 やりたいことはどうやって見つけるのか。 これは僕が学生の頃からずっと若い世代につきまとっている悩みですが、さしあたって 言っておきたいのは、そうやって悩んでいるうちはまだ大丈夫だということです。 自分にはやりたいことが無いと自覚していて、それをなんとか探そうとしているうちは 見つかる可能性があります。 ただし、やりたいことを(確実に)見つける方法というのはありません。 以前僕はブレインダンプやマインドマップを使った方法を提案したことがありますが、 あれはあくまでも「やりたいことを見つけやすくする方法」であって、あれによって 確実にやりたいことが見つかるワケではないのです。 ただ、今言ったような「見つけやすくする方法」はあります。 ブレインダンプ以外であれば「今までやったことのないことをやってみる」というのが 一番オーソドックスで誰にでも実践できる方法です。 これをやる場合のポイントは、できるだけ今の自分から遠いもの、つまり今の自分なら 絶対にやらないようなことをやってみることです。 インドアな人ならアウトドアなことを、アウトドアな人ならインドアなことを、女性なら 男性的なことを、男性なら女性的なことを、勉強好きならスポーツを、スポーツ好きなら 勉強をやる。 必ずしもこれに従う必要はないですが、こういう極端な刺激を与えることによって 今までの自分では気づかなかった自分に気付くということが起るワケです。 海外に行ってみて初めて日本のよさが分かる、というのと同じ感じでしょうか。 今の自分から離れたことをすることで、近過ぎて気付かなかったものが見えくる。 その意味では、とりあえず社会に出る、という方法も間違いとは言えません。 その刺激によって学生時代に好きだったことが思い起こされる、というのは比較的 多くの人が体験していることだと思います。 けれども、この理屈があるのと無いのとでは「とりあえず社会に出る」の意味はまったく 異なるのです。 「やりたいことが無い」とは「やりたいことに気付いていない」だけです(理由は後述)。 それは今言ったように灯台下暗し的に気付いていないこともあれば、目そのものが曇って 見えなくなっていることもあります。 前者であれば一旦その場から離れてみればいいし、後者なら目を元に戻すリハビリを すればいい話です。 どっちか分からなければ、どっちもやればいい。 ちなみに前者が今回紹介した方法で、後者がブレインダンプです。 まずはやりやすい方から試してみて下さい。 以上のことからなんとなく見えてきたのは、今の大学が行うべき就職支援とは、 学生を社会に追い出すことでは無く、社会に出る動機を学生に気付かせることなのでは ないだろうか、ということです。 そもそも大学とは「もっと勉強したい」という意欲や情熱のある人が行くところだった はずです。 それがいつしか「とりあえず大学に行ってやりたいことを探す」みたいなことになり、 今では「就職するためには大学ぐらい出ておかないと」という就職の手段に成り下がって しまった。 更に悪いのは、大学が就職の手段として利用されることを自ら望むようになってしまった ことです。 その結果、大学は無駄に費用のかかる職業訓練校になりました。 それでもちゃんと訓練できているなら問題も少なかったのでしょうが、現実は見ての通り です。 今の日本の大学がやろうとしているのは優れた人間を社会に輩出すること、ではなく、 できるだけ多くの学生を就職させることです。 グローバルな人間を育てるというのも、グローバルに就職できる人間を増やそうとして いるに過ぎません。 そうした目先の利益ばかりを追いかけることによって、大学は自ら将来的な利益を 捨てているのです。 自分たちが育てた学生が将来的に活躍すれば、それが一番の宣伝になるのですから、 目指すべきは学生の就職云々ではなく、そういった社会の枠組みを乗り越えていける 人間を育てることのはずです。 だとしたら、それこそが最高の就職支援ならぬ人生支援になるのではないでしょうか。 就職するために大学に来る人が多いのならば、むしろそれを改心させ、ちゃんと勉学に 励むように仕向けるのが大学の仕事だと思います。 その結果として生徒が「自分の知識を活かせる仕事に就きたい」「もっと研究を進めたい」と 思うようになるのが自然な流れです。 ですが、現状は「大学で何をやっておけば就職に有利か」ということばかりが学生の頭を 巡っています。 いや、それならまだマシな方で、彼らの大半は就職する意欲さえありません。 「やりたいことがない」 これが彼らにとって最も大きな壁なのです。 ところで、僕は大学に行ったことがないので分からないのですが、周りの人間に話を 聞く限りでは、大学の講義ほど退屈なものはないそうです。 教授がただ淡々と自分で話を進め、学生はそれをメモするだけ。 そんな退屈なら出なけりゃいいじゃん、という話なのですが、やっぱりそういうワケには いかないようで、みんな単位を取るために出席している、と。 じゃあ何のために単位を取るのかというと、それはちゃんと大学を卒業するためで、 無事に就職できるようにするためでもあります。 にもかかわらず、いざ就職活動となると「やりたいことがない」と言って彼らが就職を 拒む現実をわれわれはどう見るべきでしょうか。 大学を卒業して就職するために単位を取っていたはずなのに、それを使う場面になると 「やりたいことがない」という理由で当初の目的を放棄する。 こういう不可解な現象が起っているということに、教育者はまず気付いてやらなければ なりません。 その上で原因を探っていく必要があるワケですが、学生も大学と同じで近視眼的である というのがこの場合の注目ポイントです。 大学が就職率のことばかり気にしているように、学生も卒業や就職のことばかり 気にしていて自分の将来に目が向いていません。 だから退屈な講義を我慢してでも単位は取ろうとするのに、就職活動の時期になるまで やりたいことは探さないのです。 もしかしたら探している学生もいるのかもしれませんが、その探すという作業自体が 何を意味するのかを知らなければ、探してようが探してなかろうが同じことです。 「講義は退屈だけど単位を取るためには仕方がない」という理屈は「仕事は退屈だけど お金を稼ぐためには仕方がない」という理屈と同じです。 何かのために何かを諦める。 自分とは遠いもののために、自分を諦める。 これがデフォルトになっているから、やりたいことが見えないのです。 言い換えるなら、みんなやりたくないことに“慣れて”しまっているのです。 単位を取ることも確かに大事かもしれませんが、それ以上に、退屈な講義で若き日の 貴重な時間を浪費していることの方が大きな損害です。 どうせ諦めるなら退屈な方を諦める方が正しい(楽しい)と思いませんか? 単位が仮に取れなくても、進級できなくても、大企業に就職できなくても、お金持ちに なれなくても、退屈な日々を我慢して暮らすより、質素かもしれませんが将来ずっと 好きなことだけやって暮らしていける人生の方が素晴らしいと思いませんか? そういう話なのです。 単位を取るのも、就職するのも、単なる手段でしかありません。 そんな手段のために目的である自分そのものを犠牲にするというのは、本質的に矛盾 しています。 自分のやりたいことも分からないのに、それが分からなければ就職する気もないのに、 「とりあえず単位は取っておいた方がいい」「とりあえず大学は出ておいた方がいい」 という発想で行動するのは、まさしく僕が冒頭で批判した副学長と同じ態度です。 それならいっそ、とりあえず社会に出て、とりあえずお金稼いで、とりあえず退職する までがんばって、とりあえず生きて、とりあえず死んでいけばいいのです。 人生全部とりあえず。 それでいいなら勝手にすればいいと思います。 でもそれが嫌だから「やりたいことって、どうやって見つけるんですか?」という質問で 解決を図ろうとしているワケですよね? じゃあそんな質問する前に、自分の行動を見直してみなさいよ、ということです。 どれだけ自分が矛盾した日々をおくっているかに気付けば、こんな問題は簡単に 解決します。 自分が日々何をしているかに(深く)気付くこと。 それが自己との対話であり、僕の言う「現実を見る」ということなのです。 大学も生徒も、お互い気付かずにこの矛盾を犯し続けています。 当人たちはきっと当人なりに一生懸命やっているのでしょうが、その一生懸命な努力は 実は矛盾を強化する方向に向いているのです。 これに気付かなければ、やりたいことも見つからないし、やりたいことが無い生徒に 対してアドバイスをしてやることも出来ません。 すなわち、現状はいわゆる「つみゲー」なのです。 この問題については、いくらこちらが熱心に教えても意味がなく、当人たちが自分で 気付かなければなりません。 僕にできるのは、こうやって世界の片隅で画面の向こうに語りかけることだけです。 これをあなたが受け取るか受け取らないかについては、僕は関与することができないし、 関与する権利もありません。 気付きとは、自らが生起しなければならないのです。 ...more»
自分を知る ~ハイデガー著『存在と時間』を手引きに~
ども、ペスです。 突然ですが、あなたは自分のことをどれだけ知っているでしょうか? 自分の趣味や特技、価値観、身長体重、性格、癖、顔、それぐらいのことは誰だって 知っていると思いますが、それが自分を知っていると言えるかどうかは別の話です。 多くの人は「自分を知っている」ということが何を意味するのかを知らずに自分を 知ろうとします。 何を知っていれば自分を知っていると言えるのか。 自分を知っていると言うためには、何を知っておかなければならないのか。 こんなことを知っている人は皆無なワケですが、これを知っておかなければ 何をもって自分を知ることになるのか判断できません。 それ以前に、そもそも自分を知ることは可能なのかという問題があります。 あまり話を長くしたくないので、自分とは何か、みたいな話はすっ飛ばして話を しますが、結論から言えば、われわれの従来的な思考回路では自分を知ることは 出来ません。 なぜそう言い切れるかというと、「知る」ということ自体を可能にしているのが 自分だからです。 自分を知るとは、知ることを可能にしている自分を知る、ということです。 自分が存在しなければ知ることは不可能ですし、その「知る」が何を意味するかは 自分を調べなければ分かりません。 自分は何がどうなることを「知る」だと思っているのか。 それを知っておく必要があるワケですが、自分を知るには、それを知ることすらも、 さらに知っておかなければならないのです。 これは、われわれが自分の目を見られないことを考えてもらえれば、なんとなく 分かると思います。 われわれが何かを見られるのは自分の目があるからですが、その自分の目を直接 見ることは誰にもできません。 それは何かを見ることができるという前提を自分の目が担っているからです。 つまり見ることを可能にしているものを見ることができないのと同様に、知ることを 可能にしているものを知ることもできないのです。 この思考回路のまま「自分とは何か」なんて問いかけてしまうと、よくある泥沼には まってしまうことになります。 「自分を知る」には「自分を知る」が何を意味するかを知らなければならず、 『「自分を知る」を知る』には『「自分を知る」を知る』が何が意味するかを 知らなければならなくなり、以下ずっとこれが続くワケです。 これでは永遠に自分にたどりつけないのも仕方ありません。 さてさて。 それではわれわれは自分を知るということに対して絶望するしかないのでしょうか。 ここでさっきの文章をよく読み直してほしいのですが、僕は最初に大きな条件を 提示した上でこのことを話しました。 そう「われわれの従来の思考回路では」という前提です。 これは、上の理屈が正しく見えてしまう、その思考回路のままでは自分を知ることは 出来ないよ、ということを意味します。 つまりその思考回路さえ乗り越えることができれば、希望の光が見えてきそうな 気がする、ということです。 しかしどうやって・・・? ものすごい乱暴な解釈ではありますが、その方法を細かく解明しようとしたのが ハイデガーの『存在と時間』なのです。 ハイデガーはこの著書の第一章第一節において、「存在」という概念に対する 従来的な定義の仕方そのものに疑問を突きつけています。 例えば人間を概念的に定義する場合、普通それは「理性的な動物」とされます。 これは人間という概念を一段上の抽象概念で言い換えているワケですが、「存在」は この定義の仕方では定義することができないし、「存在」は定義不可能であるという 結論にはもっと納得がいかないので、その定義の仕方自体を見直すべきではないかと ハイデガーは言うワケです。 そして、この第一節の最後で彼はこう言います。 存在への問いには答えが欠けているだけでなく、問いそのものさえ不透明で 無方向なものだ、ということである これは要するに「存在とは何か」といった問いは、まったく無方向で何を求めて 問うているかが分からない、ということです。 「そんな形而上学的な問いかけに何の意味があるのか」とまでは言っていませんが、 そういう雰囲気が行間からは伝わってきます。 だから答えを探すより先に、まずは問題設定を見直していきましょう、と。 ということで第二節では存在への問いの形式的構造、簡単に言えば、われわれが 何かを問うとはどういうことかを考えていくワケです。 この第二節の中で 存在とは、いつも、ある存在者の存在である という重要な言葉が出てくるのですが、これは存在は存在者から切り離すことは できないのだから「存在とは何か?」という問い方は変だ、ということです。 普通われわれは「自分を知る」というと「自分とは何か?」とか「私とは何か?」と 無意識に問いかけてしまうワケですが、それは「自分」という単なる抽象概念、 すなわち現実の自分とは切り離された抽象的な「自分」とは何かを問いかけているに 過ぎません。 本来「自分」と「それを問うこと」は切り離せないのですから、現実的な在り方で 自分を知りたいのであれば、この両方に対する答えを導く問いが必要なワケです。 では、どのような問い方が正しいのか。 それについては人によるので一概には言えないのですが、仮に僕が自分のことを 問うとしたら 「僕は僕自身であるか」 と問います。 僕は客観的で誰もが納得できるような答えは求めていませんから、自分とは何か、と 問う必要はないワケです。 僕が知りたいのは、僕はちゃんと僕自身と一体化しているか、僕は僕自身として 機能しているか、ということだけです。 ハイデガーの言葉を使うなら、イマココの自分が本来的であるか非本来的であるかを 了解しておきたい、という感じでしょうか。 僕を僕自身から切り離さずに問うと、こういう風になります。 この意味を理解するには、今のわれわれが持っている(存在的な)思考回路を ハイデガー的な(存在論的な)思考回路に切り替える必要があるワケですが、 これは非常に難しいことです。 われわれは従来的な思考に慣れてしまっていますから、いきなり問い方が間違っていると 言われても、ピンとこないのです。 われわれが学校で教わるのは、問いに対する答えが正解か不正解かということだけ。 そこでは、問いは絶対に間違わないことが暗黙の前提になっています。 だから日本の受験制度のようなものがまかり通るワケですが、答えても意味のない 問いならば、それは問いそのものが間違っているのです。 自分とは何か? この問いに苦しめられている人は今もたくさんいると思います。 これに対する答えを探すために、自分探しの旅に出てしまったり、自己診断テストの ようなものに大金を費やしてしまったりする人は今もあとを断ちません。 本人がそれで納得しているなら構わないのですが、少なくとも僕はそのことを あまりいいことだとは思いません。 自分はイマココに存在するのですから、探したり見つけたりするものでもなければ、 遠くにあるようなものでもないと思うのです。 ましてや1時間やそこらのテストで分かるほど薄っぺらいものではないはずです。 今一度、冷静に考えて下さい。 自分は何のために「自分とは何か」と問うのか、と。 その問いに答えてどうするつもりなのか、と。 そこから得られる答えはきっと、あなたの思考回路を静的なものから動的なものへ、 存在的なものから存在論てきなものへ、イデア的なものから現実的なものへ 変えてくれると思います。 ではでは。 ...more»
瞑想のジレンマ
ども、ペスです。 実はここ10日間ほど京都の山奥で瞑想の修行をしていました。 といっても、別に僕は何かの宗教を信仰しているワケではなく、たまたま師匠の 紹介やら何やらで縁があっただけの話です。 瞑想の内容は思っていた以上に充実したもので、濃厚な10日間となりました。 そこで得たアイデアは数知れないのですが、残念ながらそこのルール上、 ペンとノートを使ってメモを取ることが許されていなかったため、ほとんどは 僕の記憶の彼方へ飛んでいってしまいました(苦笑)。 まさにこの世は無常なり。 あにっちゃー。 そんな瞑想を受けている最中に、あるジレンマが僕の頭に浮かびあがりました。 それは 本当に瞑想しなければならない人ほど、その場にはいない というもの。 この話自体は瞑想に限ったことではないのですが、本当にそれを受けるべき人は それに興味の無い人たちなのです。 まあ「なのです」と言ってしまうと押しつけがましいですが、少なくとも僕は そう思っています。 例えばこういった瞑想に参加する方というのは、ある種の悩みを抱えていて、 それをある程度自覚した上で参加を決めます。 恋愛や仕事のいざこざを解決したい。 自分のコンプレックスを無くしたい。 自分の殻を破りたい、自分を見つけたい。 もっと自分の生活を向上させたい。 みんなそういったことに対する答えを求めてやってくるワケです。 実際、現場で話を聞いてもそうでした。 福島や栃木から来ている人もいて、彼らは原発の問題に対して自分との決着を つけるためにここに来たと言っていました。 つまり、瞑想参加者のほとんどは問題意識そのものがかなり明確なのです。 もちろん漠然とした悩みを抱えながら参加していた人もいないワケではありません。 そういう人も中にはいます。 ただ、それが圧倒的少数であるという点をここでは取り上げたいのです。 僕は問題意識が明確である人は、瞑想に頼らずともその答えを自力で見つけることが できると思っています。 それは問題が解けない生徒に先生がアドバイスするのに似ています。 「何が分からないかが分からない」 と言っている生徒には手のほどこしようがなくても 「ここが分からない」 と言っている生徒は考え方や何かのキッカケを与えてやるだけで、先生が答えを 教えるまでもなく自分で答えを導けるからです。 この例の場合はキッカケは先生が与えることになっていますが、そのキッカケは 必ずしも先生である必要はありません。 例えばテレビドラマでたまたま主人公が言っていたセリフがキッカケになるかも しれないし、友達との会話がキッカケになるかもしれない。 何がキッカケになるかは分かりません。 分かりませんが、それが絶対に瞑想じゃないといけない理由というのはありません。 瞑想によって問題が解決することはもちろんあるでしょうし、それが瞑想のお陰だと 思い込むこともあるでしょう。 けれども、その問題は10日間もの瞑想に参加するほどの行動力と決断力があれば、 いずれ近いうちに解決していたのではないか、と考えるのが妥当だと思うのです。 たまたま解決するキッカケが瞑想だった。 たまたまとった行動が瞑想だった。 多分それだけです。 ですから、本当に問題なのは「瞑想に参加しよう」という気すら起こらないような 問題意識そのものが低い人たちなのです。 何が問題なのか分からない。 何が分からないのかが分からない。 問題なんて自分は何も抱えていない。 そういう人たちにこそ、問題を明確にする(自分と対話する)機会を与える、 という意味で瞑想が必要なのではないでしょうか。 この手のジレンマはあらゆるところで起っています。 哲学書を読まなければならない人に限って哲学に興味がなく、食に気を付けなければ ならない人に限って食に興味がなく、勉強しなければならない人に限って勉強には 興味がない。 これは頭が良い悪いの話をしているワケではありません。 問題意識があるというだけで、その人は人間的に突出しているということです。 哲学を、瞑想を学ばなければならない。 そう思うこと、それ自体がある程度明確な問題意識に他なりません。 何も問題を感じなければ、そんなものを学ぼうとすら思わないワケですから、 学ぶことを決めた時にそれはもうあらかた解決しているのです。 問題は認識された時点でそのほとんどが解決している。 誰かがこんなことを言っていたような気がしますが、自分が悩んでいることの答えは 自分の中にしかないワケですから、問題さえ見つけられればその答えは引っ張り出して こられます。 問題なのは答えではなく、問いなのです。 いかに鋭く、緻密に、問題を分析していけるか。 そこが重要です。 例えば自分が貧乏で苦しい生活をしていたとしましょう。 毎月赤字で、このままいけば破産してしまう。 そんな状態で「生活を楽にするにはどうすればいいか?」という漠然とした問いを 投げかけても「もっとお金を稼げるようにする」というぐらいのテキトーな答えしか 出てきません。 この答え自体は問いに対しては正しい答えです。 もっとお金を稼げば生活が楽になることには違いありません。 けれども、それが「自分が求めていた答え」かと聞かれれば、やはり違うワケです。 もっと具体的に生活を楽にする方法を私は知りたいんだ。 普通ならそう思うでしょう。 だったら「苦しい生活」の何がどれぐらい苦しいのか、苦しい具体的な原因は何なのか、 というのを明確にしなくてはなりません。 家賃が高くて苦しいのかもしれないし、食費が高くて苦しいのかもしれないし、 給料が低くて苦しいのかもしれない。 ここまで明確化すれば、家賃を減らすにはどうすればいいか、食費を抑えるには どうすればいいか、今の仕事のままバイトをするにはどうすればいいか、そういった 個別具体的で明確な問いが立ち、それを調べる方法も、それに対する答えも自ずと 見つかります。 問題を明確にするとは、こういうことです。 瞑想に参加する人は、こういった問いを(大体の場合は無意識的に)繰り返した上で、 瞑想に参加するという答えを導き出して参加してきます。 つまり、問題を解決するためには瞑想が必要である(ような気がする)、という答えに 導かれてやってくるのです。 それはまさしく問題意識ゆえに導かれた答えと言えるでしょう。 ですから何度も言うように、本当に瞑想が必要なのはここまで到達していないような 漠然とした不安を抱えた人たちだと思うのです。 こんな問題だらけの世の中に何の問題も感じないというのは、ある種の病気です。 どれだけ自分の生活が順風満帆であっても、自分や家族が突然交通事故で死んでしまう 可能性は消せないし、会社が潰れる可能性も、地震が起こる可能性も消せません。 自分はこのままでいいんだろうか。 そんなことを考えたことのある人はたくさんいると思いますが、そういった漠然とした 問題というのは明確化して行動に移さない限り、何歳になっても解決しません。 放っておいて解決したような気になっているかもしれませんが、われわれにはそういう 放置している漠然とした問題が山のようにあるのです。 それを考えることなく、のほほんと生きていること自体、大きな問題です。 瞑想の中でも「われわれは常に感覚を感じているはずなのに、それに気付いていない」 ということを教わりましたが、それはまさに病的なことなのです。 本来の(自然の)人間の感覚ではない。 だからこそ、それら感覚や問題に気付いていくために、瞑想というものがあるのでは ないでしょうか。 瞑想のジレンマそのものを解決する方法は僕には分かりません。 囚人のジレンマよろしく、考えたところで結局は非合理な結果が生まれてしまうのは 目に見えています。 仮に僕が瞑想の宣伝をしまくったとしても、その表現次第では参加者が増えるどころか 行くはずだった人まで行く気がなくなる、みたいな現象が起こってしまうことでしょう。 世の中というのは、そういうものなのです。 良いものだからといって広めりゃいいってものではありません。 それは広めるというよりも勝手に「広まる」というのが理想です。 思わず話してしまう。 つい行動に出てしまう。 そういう体験者の感覚だけが、このジレンマを解決へと導いてくれるのかもしれません。 ...more»
世界とは、可能性と私の関係である
  前回はいつになく日記的、というか僕の個人的な意見が モロに表面に出た記事となりました。 「孤独、孤独って言うけど、孤独ってそんなに悪いものなの?」的な。 僕の意見を押し付けるワケじゃないですが、もし心に余裕があれば、 一度孤独について考えてみて下さい。 「毎日なんとなく群れている自分にガッカリする」という経験も 大事だと思うし。 さて。 今回はまた抽象度の高い話に逆戻りです。 いや、もしかしたら今までで一番抽象度が高い話になる可能性も チラホラ・・・。 まずタイトルからして恐ろしく抽象的ですからね。 可能性と私の関係って(苦笑) でも僕の中でシックリくる言葉がこれしかないんですよね。 もちろん内容は出来る限り日常語で書くつもりなので いつも通りの感じで読んでもらえればいいんですが、 舐めてかかると分かった気になっただけで終わっちゃう かもしれません。 その辺だけお気をつけて。 んじゃ本編に入っていきましょう。   世界は私の表象である これはドイツの哲学者ショーペンハウエルが残した 有名な言葉です。 僕は彼の著書をまともに読んだことがないので この発言の真意は全く分からないのですが、 僕はこの言葉を 自分が見たり聞いたり感じたり考えたりしているもの、 それが(私にとっての)世界である という風に解釈しています。 それは逆に言えば、自分の認識外のものは世界ではないし、 世界にはなり得ない、ということ。 例えば僕の目の前に一匹の猫(仮名ゴエモン)がいたとすると、 ゴエモンは僕の世界です。 でもブラジル人がブラジルにいながらにして このゴエモンを認識することは無理ですよね? いや、もちろん厳密には無理ではないですけど、取り敢えず ここは認識できないということにしといてください。 この場合、このブラジル人にはゴエモンは 認識されていないワケですから、彼の世界には ゴエモンが存在しない、ということになります。 つまり、ゴエモンは僕の世界ではあるけれども、 ブラジル人の世界ではない、ということです。 これが正しいかどうかはともかく、つい最近までの僕は この考え方に非常に共感していました。 自分の認識外のものを含めて「世界」と呼んだとしても、 それは結局語り得ないし、在るかどうかも分からないものを 在ると仮定して「世界」と断定するのはどうなんだろう? と思ってったんで。 でもこれって僕に限らず、多分ほとんどの人が 無意識のうちに「世界」とはそういうもんだと 思い込んでいるような気がするんですよね。 一般に「世界中」という言葉が「地球全土」を指す辺りからして 僕にはそう思えます。   で、本題はここからです。 先ほど僕は「つい最近までの僕は・・・」と書きました。 ということは当然、今の僕は世界をそんな風には捉えていない、 ということです。 だからと言ってショーペンハウエルの言葉を 捨てたワケではありません。 むしろあの言葉を踏まえつつ、別の新しい概念を取り入れた という感じでしょうか。 その新しい概念というのが【アフォーダンス】です。 アフォーダンスとは、世界は客観的に存在し、且つ、 その世界そのものに含まれる無限の価値(可能性)を 僕らが個別に拾い上げて判断している、という考え方。 例えばコップには取っ手が付いていますが、あの取っ手は 「ここを持て」ということを無言で訴えてますよね? 誰も取っ手が「持つところ」だと説明していないにも関わらず、 僕らは取っ手を見ると勝手に「ここが持つところなんだ」 という価値判断を行って、そこを無意識に持つ。 これがアフォーダンスの考え方です。 要は、コップの取っ手自体には別の使い方がいくらでも 考えられるにも関わらず、そこから僕らは「取っ手」 という価値を拾い上げているのです。 ちなみに取っ手の「ここを持て」という無言の訴えを 「取っ手がアフォードしている」と言います。 興味があればいろいろ調べてみて下さいませ。   んで。 やっとここでタイトルの 世界とは、可能性と私の関係である という言葉の説明に入っていきます。 まずは【可能性】。 【可能性】というのは「ある対象が持ちうる価値すべて」を 指します。 僕らの世界にはボールペンというものがありますが、 あれは「先端の尖った10センチほどの短い棒」を 僕らがそう呼んでいるだけであって、ボールペンという 言葉や物自体を知らない人にその棒を渡せば 穴を掘る道具になったり、獲物を狩る道具になったり、 いろいろな【可能性】があるワケです。 これは物に限らず、人間も同じです。 僕らは日常的に「あの人は性格が悪い」とか「あの人は嫌い」と 一人の人間に対して一方的な見方をしてしまいますが、それも その人の1つの可能性でしかありません。 ここで言う【可能性】とは、そーゆー意味です。 そしたら次は【関係】。 関係というのは「ある対象との関わり」です。 上記の例に沿って言えば、ボールペンというのは 僕と「先端の尖った10センチほどの短い棒」の関係に 名前を付けたものだということです。 それは仲のいい人間との関係を「友達」と呼ぶのと同じ。 これは逆に考えた方が面白いので一応解説しておきますが、 ある対象に対して付けられた名前は、その人とその対象との 関係を表しているのです。 例えばノートPC。 僕が「平べったい2つに折りたためる板状の物体」を ノートPCとして使う時、僕と板状の物体との関係は 「ノートPC」という名称で表すことが出来ます。 例えばヘッドフォン。 僕が「2つのバッドが繋がった丸みを帯びた物体」を マイクとして使う時、僕と丸みを帯びた物体との関係は 見た目がいくらヘッドフォンであっても「マイク」 ということになります。 (実際、本当にヘッドフォンはマイクとして使えます) 関係というのはそーゆーことです。   では話をまとめます。 可能性とは、ある対象が持ちうる価値すべて、である。 関係とは、ある対象との関わり、である。 つまり【世界とは、可能性と私の関係である】とは 無限にある可能性の中から私が選んだ関係が 私の世界を形作っている もっと言うならば 本当の意味での世界とは、あらゆる対象の 無限の可能性のことだが、私にはそれらすべてを 認識できないが故に私は私の世界を形作っていくしかない そして、だからこそ 私の世界(可能性)を広げるためには、 あらゆる対象との関係を固定せず、 常に新たな関係(厳密にはアフォードされるもの)を 見つけ続けることが重要である ということなのです。 伝わったかなー・・・(苦笑) もちろんこれは僕個人の考えなので、この考えに反対ならば それはそれで問題ありません。 自分なりの世界がある場合は、そっちを信じて 行動し続けてもらえればいいと思いますし、 そうやって自分の世界が持てているということは 人の考えに沿って生きるよりも、むしろ素晴らしい。 世の中には自分の価値観を押し付けようとする人が たくさんいますが、それは本人だけでなく相手の世界をも 狭めてしまっているのです。 そんな人間にはならないよう、お互い気をつけましょう。 ではでは。   ...more»
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