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Archives for 科学

STAP細胞と錬金術師 ~小保方晴子の真価~
  今、STAP細胞が世間を賑わしています。 生後一週間の若いマウスから採取した血液細胞にストレスをかける (弱酸性の液に30分ほど浸して刺激を与える)と、細胞が若返る (万能細胞になる)という、今までの常識では考えられないことが 実験で証明されたワケですが、それをやってのけたのが30歳の 若い女性だということが、賑わいに拍車をかけているようです。 30歳と言えば、僕とタメですからね。 悔しいやら情けないやら誇らしいやら、複雑な気持ちです(笑) まあ僕の個人的な感情はともかくとして、この話題からわれわれが 学べぶべきことはたくさんあります。 なぜ最近やたらと「女性」が話題にのぼるのか。 なぜ理系女子(リケジョ)は企業に人気なのか。 女性研究者が大きな結果を出したのは偶然なのか。 仮にこの結果が必然だったとしたら、それはどのような原理に よるものなのか。 パッと思いつくだけでも、これぐらいのことが学べるワケですが、 今回は敢えて「女性」の部分には触れずに、彼女が思いついた ユニークな実験方法について考察を深めていきたいと思います。   彼女がやった実験は、若いマウスから取り出した細胞に何らかの ストレスをかける、というものです。 彼女はこの実験方法を植物やイモリなどの特性から思いついたと 言っています。 「植物や爬虫類で起こるなら、哺乳類や人間でも同じことが 起こるんじゃないか」 そういう素朴な疑問から始まったそうです。 それが最終的に今回のような偉大な結果に至りました。 つまり彼女は、植物や爬虫類に起こることは、哺乳類でも (現段階ではネズミのみですが)起こる、ということを証明した ワケです。   世間ではまったく話題になっていないのですが、このことは われわれに重要な考え方を提供してくれています。 物凄く単純化して言えば、 「アイツにできるなら俺にもできるはずだ」 という考え方です。 この理屈が同種間のみならず、異種間でも成り立つということを 彼女は証明してくれました。 ただ勘違いしてはいけないのは、これは一般に認識されているような 「科学的」な考え方ではないということです。 科学というのは本来、目の前にあるものをただただ細かく精密に 分析するのが仕事で、彼女のように他の分野から類例を 引っ張ってきて、それを自分の分野で応用しようという発想は 皆無です。 間違っても、爬虫類と哺乳類を同等に扱うようなことはしません。 それは科学者の主要な考え方であるダーウィンの進化論を見れば 明らかなように、哺乳類よりも爬虫類の方が「劣っている」と見る 習慣が染み着いているからです。 そんな劣ったものを、優れたものに当てはめようとは思わない ですよね? われわれが「未開民族」から学ぼうとしないのは、どこかで彼らを 劣っていると思っているからに他なりません。 彼女の凄さというのは、この科学者的(近代的)なパラダイムを 抜け出して、アルケミスト、つまり錬金術師的なパラダイムを 採用したところにあるのです。   錬金術師とは、主に中世末期にマクロコスモス(宇宙)と ミクロコスモス(人間)の「相似」を研究していた人たちのことを 指します。 一般には彼らは鉛から金を作り出そうとしていた変人だと思われて いますが、それは彼らの建て前であって、本音の部分は違います。 彼らはキリスト教会の弾圧から逃れるために、鉛から金を 作り出そうとしているキチガイのふりをして、裏でこっそりと マクロコスモスとミクロコスモスの相似関係を研究していたのです。 相似という言葉は、数学の授業で習ったと思います。 僕も厳密な定義は覚えていませんが、簡単に言えば言葉通りで、 相対するものが似ているということです。 同種間であれば基本的にはほぼすべてが相似していますし、 異種間でも動物であれば目が2つあるとか、口が1つあるとか、 血が流れているなどの部分は相似しています。 つまり錬金術師的なパラダイムとは、何かを細かく分析するよりも、 何と何が似ているのかを調べるということであり、もっと言えば、 異種間にはいくつもの面で相似関係があって、そこから学べることが 山ほどあるということを前提とした営み全般を指すのです。   このパラダイムに立つならば、僕は以下の仮説にもかなりの 信憑性があるのではないかと思います。 もし哺乳類(人間を含む)から切り離された細胞がストレスによって 万能化するならば、人間そのものも、自身の属する社会から 切り離して何らかのストレスを与えれば万能化するのではないか、 という仮説です。 これは人間の細胞と人間社会の相似に焦点を当てています。 細胞にもある種の社会があって、それぞれの細胞はそれぞれの 場所でそれぞれの役割を果たしています。 もし肺が心臓と同じことをしようとすれば、その社会(人間)は すぐに死んでしまうでしょう。 同様にして、われわれにはわれわれの役割があって、例えば僕が 毎日コンビニのバイトをし始めたら、僕のコミュニティ(社会)は 一瞬で消えてしまうはずです。 このように細胞の役割と人間の役割が相似していることを考えれば、 細胞に起こることは人間そのものにも起こる(アイツに できるなら俺にもできるはずだ)と考えるのは自然なことだと 思います。 問題は、じゃあ現実はどうなのか、ということです。   結論から言うと、今僕が言ったことは現実に起こっています。 例えばあなたが日本を離れ、誰ひとりとして知り合いのいない 未知なる異国へ旅立ったとしましょう。 これが「社会から自分を切り離す(マウスから細胞を採取する)」 の部分です。 異国へ到着したあなたは、良かれ悪しかれ、精神的に大きな ストレスを感じるはずです。 それはワクワクする気持ちかもしれないし、頼れるものが 自分しかいない不安な気持ちかもしれません。 いずれのストレスであれ、このストレスはわれわれをある種の 万能な生き物へと変化させます。 いや、むしろ万能にならざるを得なくさせる、と言った方が 正しいでしょうか。 頼れるものが何もないワケですから、どんなことでも自分一人で 乗り越えられる万能人間になるしか生きていく道はありません。 万能になれなかった者には死あるのみです。 そのままその異国に居座れば、徐々に万能である必要は なくなっていき、その異国での役割が与えられます。 また万能のまま日本に戻ってくれば、それはそれでその人には 活躍の場が与えられ、やがて万能さはなくなるでしょう。 海外で活躍している日本人なんかは、みんなこんな感じだと 思うのですが、どうでしょうか。   マウスの実験でも、万能細胞になれなかった細胞はほぼすべてが 死にいたります。 誰でも彼でもストレスを与えれば万能になれるワケではない、 ということです。 それは人間も同じで、海外に行った日本人が全員凄いヤツに なれるワケではありません。 当たり前のことですね。 こういうことが見えてくれば、今度は人間社会で起こることを 細胞に応用することも視野に入ってくるでしょうし、細胞間で 起こることが自然界でも起こっている、なんて発見も徐々に 増えてくるでしょう。 錬金術師的な発想というのは、それぐらい大きな可能性を秘めた 次の時代のメインとなりうるパラダイムなのです。   小保方さんの本当の凄さは、科学と錬金術の融合にあると言って 間違いありません。 彼女はまさに現代によみがえった「魔女」です(笑) メディアでは表面的なことばかりが報道されていますが、 こういう側面にも気付けるようになってくださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
自分の殻をやぶる方法
  程度の差はあれ、どんな人も「自分を変えたい」と思って生きて います。 もっと美しくなりたい、もっと賢くなりたいなど、こういうことを 望むのは、ごくごく普通のことです。 しかし現実を見れば明らかなように、この希望を叶えられる人は、 そう多くありません。 これには当然いろんな原因があるのですが、この記事で考えたいのは 自分の殻についてです。 「自分を変えたい」とは、今の自分という殻をやぶって、理想の自分に なりたい、ということです。 今の自分はあまり賢くないと感じているからこそ、人はもっと賢く なりたい(殻をやぶりたい)と望むワケですが、殻をやぶるからには その殻が何かを知らないことには話になりません。 しかし、多くの人がここを見落としています。 【関連記事】自分を変えたい!自分の殻を破るために必要なことを全部教えよう   どこにガンがあるのかを知らずして、それを治療することはできません。 「この辺にガンがありそうなので、とりあえずお腹開いてみますね」 とか言っちゃう医者を、誰が信用できるでしょうか? まともな医者なら、お腹を開く前にレントゲンやらCTやらを撮って 悪いところを確認するはずです。 けれども、多くの人はヤブ医者なのか何なのか知りませんが、 いきなりお腹をメスで開いちゃうのです。 本当は脳に腫瘍ができているのに、テキトーに胃や腸を切り刻んでいる。 これでは治るものも治らないに決まっています。 ガンを治療したい(自分を変えたい)と思うのは人の勝手ですが、 だったらまずはどこにガンがあるのか(自分のどこを変えるべきか)を よくよく調べてからにしましょう。 一度お腹を開いたあとでは、再度治療に取り掛かるのに余計な時間が かかってしまいますから。   どこが悪いのかを知るには、レントゲンを撮らなければなりません。 われわれにとってのレントゲンとは、他者です。 彼らは自分の知らない自分をよく知っています。 また彼ら自身が鏡の役目をはたしているため、彼らを見ることによって 自分の悪い部分を確認することもできます。 ただ、ほとんどの他者は技術不足で、ピンボケしたレントゲンしか 撮ることができないので、個人的には自分で確認する方がオススメです。 その方がよくも悪くも自分で責任を負えますから。 目を凝らして、あなたの周りの人間をよく観察してください。 彼らの性格や態度、言葉遣い、行動範囲、価値観、趣味などが、 大体あなたのそれと対応しているはずです。 仕事先などで欠点の気になる人がいるなら、その人をよく観察しましょう。 それがあなたの欠点である可能性は極めて高いです。 逆に、優しくしてくれる人が多かったり、才能に溢れる人が多いなら あなたもそういう人間である可能性が高いと思ってください。 ただし、だからといってそこに留まることを勧めているワケでは ありません。 それはあなたの現状ですから、あくまでその進路が間違っていない ということを示しているだけです。 その調子のまま、進むのはやめないでください。 あなたが成長するほど、周りの人間も変わってきます。 周りが頑なに変わらない場合は、あなたが自分で自分に相応しい場所に 移動することもあるかもしれません。 いずれにせよ、あなたの目に映るすべてが、あなた自身だということを 心得ておきましょう。   どこが悪いかさえ分かってしまえば、治療するのはそう難しいことでは ありません。 あなた自身のそれと向き合えばいいのです。 その際のポイントとして 「自分はどうあるべきか」 を悪い部分に照らし合わせるとスムーズにいきます。 これは「どうあるべきか」であって「どうなりたいか」ではない、 というところに注意してください。 われわれは「なりたい自分になる」のではなく「あるべき自分である」 ということを意識しなければならないのです。 われわれにとっての「あるべき自分」とは、当然、脱凡人であり、 ホンモノであり、リーダーです。 こういうとき、ホンモノだったらどう考え、どう行動するだろうか。 今の自分は凡人的だったんじゃないだろうか。 これを自分に問いかけることが、ガンを治療するということであり、 自分の殻をやぶるということなのです。   「自分を変える」というのは、凡人が思っている100億倍ぐらい 地道なことです。 今この瞬間に何を考え、何を見、何を聞き、何を感じているか。 それらすべてを意識的に変えることによってしか、自分は変わって いきません。 走り込めば痩せる、勉強すれば賢くなる、肌の手入れをすれば 美しくなる。 そりゃそうでしょう。 しかし、それは「人間として」の理想とは、ほど遠いと言わざるを えません。 どれだけ賢くても下品な人間はたくさんいます。 見た目は美しくても性格の悪い人間はいるし、細くてスマートでも 頼りない人間はいます。 さらに言えば、どんな上品な人間も下品な瞬間があったり、 ジャイアンが映画では急に良いやつになったりするワケです。 これらすべての面、すべての瞬間において自分を変えられなければ、 自分の人生は思い描いたようには進んでいきません。   自分を変えるとは、自分という「人間」を変えるということです。 それは決して見た目や思考力や体重を変えることではありません。 それを望むのは勝手ですが、それだけを自分を変えることだと 思いこまないでください。 今この瞬間に何を考えているか。 今何を考えることが、理想の自分として相応しいのか。 そういう細かいことを、可能なかぎりどの瞬間にも意識して 生活しましょう。 この恐ろしく地道な方法こそが、自分の殻をやぶるために、 凡人から脱するために、われわれが取り組むべきことなのです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
近代(単語帳)
近代とは、啓蒙思想と主権国家体制により神の絶対性が失われた時代のことです。 年代で言えば17世紀頃から19世紀頃を指すことが多いですが、人によって意見が 異なるため厳密に何年から何年ということは断言できません。 近代の特徴としては、デカルトの大陸合理論に代表される合理主義や(物心)二元論、 そして合理主義から派生的に生まれた科学主義、要素還元主義、自由主義、人権思想、 民主主義、決定論、単純進歩史観などが挙げられます。 例えるなら近代建築あたりが分かり易いでしょうか。 直線的で左右対称で無機的、合理的で無駄がなく、機械的で再現性が高い。 こういうのが近代と名のつくものの特徴です。 例外的に「モダン焼き」みたいなものもありますが(笑)、あれは多分言葉の響きだけで 付けた名前だと思うので、あんまり深い意味はないんじゃないかな、と。 だったらいっそのこと「デカルト焼き」にして欲しい、と思うのは恐らく僕だけ でしょう(笑)   それでは、ここからはザックリと近代化の流れを見てみることにしましょう。   中世の世界では神が絶対的な根拠であり、どんなことが起ってもすべて「神の意志」で 片づけられていました。 リンゴが落ちるのは、神の意志が働いているから。 植物が育つのは、神がそうなるようにしたから。 人間が存在するのは、神が人間を創ったから。 こういう今から考えれば根も葉もない根拠の上に世界が成立していたワケですが、 それでも世界はなんとか無事に回っていました。 ところがある時、ガリレオ、ニュートン、コペルニクス、ケプラーという世界の運命を 揺るがす4人が現れます。 彼らはあまりに敬虔なクリスチャンだったため、彼らの信念は 「神が世界を創ったのなら、それは美しいに違いない」 という一般的なクリスチャンの信念から飛躍して 「世界が美しいなら、それは数式で表せるに違いない」 という信念にまでいたったのです。 その信念から彼らは世界を数式化し始めます。 それによって地動説やニュートン力学が生まれてくるワケですが、それをわれわれは 科学革命(Scientific Revolution)と呼ぶワケです。 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示したように、 熱烈な信仰というのは、それとは一見何の関係もないものの発展に寄与することが 案外多いようですね。   このあと彼らは、努力が報われるどころか、教会から危険人物のレッテルを貼られて しまうことになります。 この時代、さっき挙げた4人以外にも偉大な功績を残した敬虔なクリスチャンはたくさん いたと思われますが、そういった人たちは教会に消されてしまったのです。 ではなぜ教会は彼らに危険人物のレッテルを貼ったのでしょうか。 それは彼らの発見した数式が、のちのちに教会の(神の)地位を危うくすることが 分かっていたからです。 この頃はまだまだ神は絶対であり、だからこそガリレオやニュートンらはその神を 追い求めて多くの数式を発見したワケですが、その理性的な行為こそが100年・ 200年の時を経て、神を殺す要因となるのです。 もちろん当時の彼らがそんなことを知っているはずもありません。 けれども、教会は分かっていた。 だからこそ教会はその芽をいち早く摘もうとしたのです。   ところで、科学革命がじわじわと起っていた頃、人々の心にも変化が起っていました。 ホッブズ、ロック、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールといった 啓蒙思想家と呼ばれる人たちが現れ、周りの人々に対して啓蒙を促し始めたのです。 啓蒙とは、自らの理性の力で世界を切り拓く、ということ。 「存在するかしないかも分からないような神に頼ってないで、自分の理性を信じて何事も 自分の力で解決していこうじゃないか」 と言ったかどうかは知りませんが、彼らはそんなことを人々に説いてまわりました。 今のわれわれの感覚からは信じられないかもしれませんが、当時の人々は自分に自分の 人生を変える力があるとは誰も思っていませんでした。 貴族はずっと死ぬまで貴族、農民はずっと死ぬまで農民、それが普通だったのです。 「このとき、社会に不平等と貧困はあったが、精神の頽廃はなかった」 とトクヴィル(トゥクヴィル?)が言っているように、これが普通だったからこそ、 彼らは自ら理性の力で自分の人生を動かす必要はなかったし、動かそうという発想すら なかったのです。 しかし、啓蒙思想家の説教を聞いたことで、彼らは気付いてしまいます。 「生まれた家は確かに違うけど、みんな同じ人間じゃないか」 ということに。 ・・・みんな同じ人間。 この今では当然すぎる発想が生まれたのはこの頃です。 みんな同じ人間だから分かり合えるはず。 みんな同じ人間だから平等じゃなきゃだめ。 みんな同じ人間だから理性的能力も同じ。 こうした発想から自由主義や個人主義が生まれ、それが人権思想になり、市民革命 (フランス革命など)が起るにいたったワケです。   上記2つの革命の行き先を考えると、科学革命は科学的知識を急速に発展させ、 市民革命は個人主義や自由主義から資本主義の精神を育んだ、と言えます。 科学的知識の発展は様々な機械を生み、生活を合理化し、資本主義の精神は人間を より貪欲にした。 そしてこの2つが合わさって人類は産業革命という爆発的進歩を達成したのです。   これで科学革命・市民革命・産業革命の3つが出そろったワケですが、話はここで 終わりません。 上の3つの革命だけでは神の絶対性は揺らいでいないのです。 市民革命は神に対してそこそこ大きなダメージを与えている気はしますが、それでも 神を殺すまでには至っていない。 神にとどめを刺すには主権国家体制が必要なのです。 主権国家体制とは、国家に主権を認める(国のことは国が決めていい)ということです。 1648年に決まった30年戦争の講和条約であるウエストファリア条約というのが この主権国家体制というのを定めています。 これによって、それまでは宗教的に内政干渉されまくっていた国も、その国ごとに 宗教的自由を保障され、カトリックだろうがプロテスタントだろうが、はたまた イスラム教だろうが仏教だろうが無宗教だろうがいろんな宗教が入り混じってようが、 国が決めたことに従うだけでよくなったのです。 こうなると神は国ごとに存在したり、存在しなかったり、たくさんいたり、1人しか いなかったりして、絶対的とは呼びがたい存在となります。 ここにきてようやく神の絶対性が失われるワケです。 このことをニーチェは 「神は死んだ」 と表現したワケですが、彼が言ったのは「神は既に死んでいる」ということであって、 彼が神の死に直面したということではありません。 その点は少し注意しておいて下さい。   以上、簡単ではありますが近代化の流れをまとめてみました。 学者が読んだら目玉が飛び出るほど乱暴なまとめですが、学者が読むことはないと 思いますので、そのままにしておきます(笑) 詳しいことが気になったらウィキペディアや関連書籍などを参照しながら、自分なりに 知識を深めていって下さいね。 ではではー。 ...more»
雇用と科学と時代と
  終身雇用は終わった。 今更わざわざ言葉にするまでもなく、これは誰もが認識している ことだと思います。 たとえ大企業に就職したとしても、いつリストラの対象になるか 分からないし、それ以前にそもそもその企業自体が潰れて しまうかもしれない。 少し前には銀行が潰れるなんてことは有り得ない話だった ワケですが、今はそんなことが普通に(日常的に)起こる時代です。 そんな時代において、未だに安定なんてものを求めて大企業や 国に「就職する」というのは、やはり時代遅れな考え方だと 言わざるをえません。 さすがに終身雇用という言葉はもはや死語になりつつありますが、 それでも就活をして大学を卒業して「どこかに就職する」、 つまり「誰かに雇ってもらう」という一連の流れ(既存のレール)は まだまだ僕らの常識として考えられています。 別にそれが悪いと言いたいワケではないし、間違っていると 言いたいワケでもないのですが、それに違和感すら感じない というのは、少し危ないのではないかと個人的には思います。 何がどう危ないのか。 それについては、ここから先を読んで考えてみて下さい。   まず昔のことを思い出してみましょう。 僕が生まれるもっと前の話ですが、日本には高度経済成長期と 呼ばれる時代がありました。 この頃は冷蔵庫・テレビ・洗濯機が三種の神器などと呼ばれ、 これら家電機器などの最先端機器は一般家庭の憧れであり 「とにかく作れば売れる」 という、ある種の打ち出の小槌でした。 ご存じのように、打ち出の小槌というのは振れば振るほどお金が ザクザク出てきます。 そんなものを作らずに放っておく人間は普通いないワケで、 当時はそれを大量に作るために、これまた大量の人間が雇われた ワケです。 この頃、大企業はみんな終身雇用を当然のように謳っていました。 また雇われる側も同様に、あの企業に入れば打ち出の小槌が あるから将来は安心だと思って雇われていたワケですが、この時、 企業側と雇われ側はどちらも打ち出の小槌に頼っていた、 それ前提だった、ということに注目しておきましょう。 つまり「売れない」なんてことは有り得ないと思っていたからこそ、 いや、事実そんな時代があったからこそ終身雇用というものが 出来上がったのです。 雇えば雇うほど作れる、作れば作るほど売れる、売れれば 売れるほどまた雇える。 こういう好循環が現実に実現していたからこそ、終身雇用は 終身雇用たりえたワケです。 また就職というスタイルもこの頃にガッチリ固められてしまった 価値観の1つです。 自分で稼ぐのではなく、どこかに雇ってもらって給料をもらう。 これは僕らにとっても未だに当たり前のこととされていますが、 自分の成果に関係なく一定の給料をもらえてしまうシステム というのはよくよく考えるとおかしいと思いませんか? だって結果を出してないのに報酬だけ求めるなんて、完全に 社会主義の考え方じゃないですか。 僕はこれも高度経済成長期の名残だと思うんです。 さっきも言ったように、あの頃というのは作れば売れた時代です。 それは言い換えれば、働けば(作れば)金が入ってきた(売れた) 時代だったということです。 そういう時代においては確かに毎月働いた分だけ一定の給料を もらうというのは理に適っていたし、雇っている企業にとっても 十分メリットがあったワケです。 固定給にしておけば余ったお金は全部会社のものに なりますからね。 しかし今の時代はそのメリットが逆にデメリットと化しています。 成果に関係なく一定、というのは企業にとって成果が出ている 前提で進めなければならない話であって、今みたいな成果が 出ない時期に一定の給料を払うというのは、自分の体力(資金)を 食い減らして自滅を促進しているとしか言えません。 変な例ですが、もし企業がアンパンマンだったら、ということを 少し想像してみて下さい(笑) アンパンマンは自分の顔をあげても、またジャムおじさんが 新しい顔を作ってくれますが、ジャムおじさんがいなければ アンパンマンだって恐らくバイキンマンに負けてしまいます。 それでも心の優しいアンパンマンならお腹が減った子供たちに 自分の顔を差し出すでしょう。 ですが、その結果アンパンマンが負けることになれば、お腹を 満たした子供たちも一緒に被害に遭うことになります。 だったら、少しの間子供たちに我慢してもらってでも、 バイキンマンを先に倒して、そのあとで顔を食べさせてあげたら いいんじゃないの?というかそれが結果として一番良いんじゃ ないの?ということです。 アンパンマンはバイキンマンに勝てるという前提があってこそ、 子供たちに自分の顔を与えることができるのです。 その前提が崩れてしまったらアンパンマンには夢も希望も なくなります。 ただ自分の顔を与えるだけなら、それはボランティアです。 百歩譲って優しいお兄さんにはなれてもヒーローにはなれない。 ヒーローは自分のことは自分でなんとかできるからこそ、 余った力を他人のために活かすことができるのです。 会社だって同じです。 資金という名の体力を余らせることができるから、 その余った分を社員に分けることが許容されるのであって、 自分がピンチなのにもかかわらず、自分の腕や足を切り取って 誰かに与えるというのは結果として誰も救えないことになりは しないだろうか、と。 それは時代に合っていないだけでなく、自滅の道を自ら選んで しまっているのではないだろうか、と。 そう思うワケです。   前提はいつだって変化します。 であるならば、その上に乗せた土台も常にその変化に対応 できるよう調整を続けなければならないのは当然でしょう。 アンパンマンだってジャムおじさんという前提が無くなってしまえば 今まで通り無限に顔を分けてあげるワケにはいかないのです。 同様に、今の雇用制度とそれを当然だと思っている我々の 価値観全体が時代に乗り遅れてる(前提に対応できていない)から 「非正規雇用反対」とかいう反時代的で原点回帰的なムーブメントが 未だに起こったりするのです。 じゃあなんで僕らは時代に乗り遅れてしまうのか、という話に なるワケですが、それは新しい企画のレターでもお話したように、 「柔軟さ」と「敏感さ」が足りないからです。 「柔軟さ」というのは一般に言うところの「頭の柔らかさ」の ことだと思って下さい。 だから右脳を鍛えましょう、とかそんなアホな話ではなく、 「柔軟さ」というのには色々種類があるんですね。 例えば「抽象度を見抜く力」とか「ミクロ・マクロの視点」とか 「主観・客観の視点」とか「論理の切り替え」とかとか。 こういう能力は基本的には訓練しないと身につきません。 「敏感さ」についても同じです。 「敏感さ」は簡単に言えば「気付く力」のことですが、これも 論理的敏感さと感覚的敏感さという2つがあって、それぞれ 鍛え方はまったく異なりますが、鍛えないと身に付かない という点では共通しています。 「柔軟さ」が欠けると、自分の価値観や行動を時代に 合わせることができません。 また「敏感さ」が欠けると、そもそも時代が変わったことに 気付くことができません。 つまり、どちらの能力が欠けても新しい価値観(時代)を 正確に捉えることができないワケです。   レターの中ではお金の話を例にしましたが、雇用制度というのも 1つの科学です。 その意味で雇用制度も客観性・論理性・再現性を備えている 必要があります。 そうするためには雇用制度という想像の世界の中で僕やあなたを 「被雇用者」という抽象化された(個性を捨象した)存在にして 例外のない理想的な対象にしなければなりません。 僕個人の雇用制度なんてないし、あなた個人の雇用制度もない。 あるのは最大公約数的に導き出された万人が妥協できるであろう 中途半端かつ妥協的な「被雇用者」のための雇用制度なのです。 「被雇用者」なんてのは現実には存在しません。 それは科学が勝手に都合のいいように作り出した抽象的な存在、 言い換えれば想像の産物で、その想像の産物に対して適応されるのが 雇用制度であり法律であり教育なのです。 科学というのは良くも悪くも、この抽象化された人間に適応される 最善案であって、現実に存在する個人にとってはそれは常に 妥協案だと思っていて下さい。 市販の風邪薬が万人に「少しだけ」効くのは、万人に効く成分だけが 入っているからです。 本来はその人にはその人に合ったその人専用の風邪薬があって 然るべきなのですが、そんなものを1つずつ作るのは現実的ではないし、 それでは価格も手間も増え過ぎて万人に対応できなくなってしまう。 だから仕方なく科学は70%とか60%とか、それぐらいの効果で 妥協しているのです。 この妥協を真実だと思い込んではいけません。 それは市販の風邪薬を飲んで「効かねーじゃねーか!」と叫んで いるようなものです。 それはそもそもあなた向けに作られたものではないのですから、 効かないことだってあるのです。 教育だって法律だって、その人用に作られたものではありません。 だから同じことをやっても勉強のできる子・できない子の差が 出るし、有罪になる人・無罪になる人が出てくるワケです。   これらの制度を作っているのは、他でもない我々人間です。 しかもその大半は時代に乗り遅れた「柔軟さ」も「敏感さ」も 持ち合わせていない凝り固まった人間が作っています。 ただでさえ妥協案なのに、そんな人間が作っていたのでは、 そりゃ歪が大きくなって当然でしょう。 そう考えると、今の制度が肌に合わない、例えば登校拒否など というのは、ある意味正常な反応なのかもしれません。 ですが、我々はその時代遅れの社会制度の中でも時代と 足並みを揃えて生きていかないといけない。 このバランスが難しいワケです。   ここまで丁寧に読んでくれていれば、今頃は僕が 説明した以外の「歪」も少なからず見えてきていると 思います。 またその「歪」がどういう仕組みで出来上がったのかも なんとなく分かってきたのではないでしょうか。 それが世界が変わる、つまり “新しい目”を手に入れる ということです。 もしこういったことをもっと学んでみたいという場合は、 「Thinking to Survive」の受講を考えてみて下さい。   ありがとうございました。     ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
原子力発電と正義
  今回は珍しくメルマガの転載ではなく、ブログオリジナルの 記事を書くことにしました。 メルマガではこの件について既に何度か記事を出しているので 必要な人だけ読んでくれればいいかな、と思いまして。 あまり推敲できていないので、読みやすい文章ではないかも しれませんが、何かの参考にして頂ければ幸いです。 では早速まいりましょう。   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 原子力発電と正義 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 原子力発電を無くせ、日本に原発はいらない。 巷ではそういう意見が大半を占めているようですが、 実際にその人達がどこまでのことを調べてそんなことを 言っているのかというのが個人的には非常に気になります。 百歩ゆずって、事故が起こるまで何も知らなかった というのは大目に見るとしましょう。 しかし、「原発を無くせ」と言えるだけの根拠と論理を 今現在も持ち合わせていないなら、それは単なる理想論者と 言わざるを得ません。 原発は危ないからダメ、ではまったく話にならないワケです。 もしこの論理で話が済むのなら、車は危ないから廃止、 という論理にも従わないといけないし、農薬は危ないから廃止、 という論理にも従わなければならなくなります。 少し前にホリエモンが 「原発ではまだ人は死んでないんだから、車の方がよっぽど 危ないじゃないか」 ということを言っていました。 この意見に対してネット上では大きな非難の声が上がって いましたが、上の論理に従うならば、彼の言っていることは 正しいワケです。 車は何十万という人を殺しているのに対し、日本の原発に 関係する事故で死んだ人は多く見積もっても数百人程度。 だったら車の方が原発の100倍以上危ないでしょ、と。 つまり彼は「死者数の多さ」=「危険度」という論理で話を しているのです。 ただ、いくら彼の言うことが論理的に正しくても、 この意見に素直に賛成できる人は僕を含めそんなに 多くはないと思います。 なんとなく原発と車を比べるのは違う気がする。 そう思っている人は多いはずです。 その感覚は正しいと思うのですが、にもかかわらず 反論できなかったり他の論理を持ち出せなかったりする辺りが 問題だと僕は思うのです。 原発反対。 それは大いに結構だと思います。 だと思いますが、原発を無くしたら僕らの生活がどういう ことになるか、少しでも考えたでしょうか。 というか“今”原発を無くすと、どういうことになるか。 それぐらいは考えたでしょうか。 北アフリカや中東の情勢を少し気にかけただけでも、 今原発を無くすことが日本にとってどれだけ危険かが 分かると思うのですが、僕の見る限り、そんなことすら 考えずに暴言を吐いている人が多いように思います。 国際情勢に気を向けなくても、現在の日本の状況を踏まえて 考えれば、今すぐ原発を無くすことがどれだけハイリスクな ことか分かるはずです。 原子力発電の費用対効果は火力発電の約2倍。 ウラン価格も中国やインドの需要増加で上がってきてはいますが それでもまだ原子力発電の方が経済効率は高い。 それを一気に無くして火力発電に依存することになったとしたら 単純計算で電気代は約1.5倍になります。 これに加えて原子炉解体までの費用がすべて電気代に上乗せ されますから、それを考えると電気代が2~3倍ぐらいになっても おかしくはありません。 個人はそれで大丈夫だとしても、製鉄所などの電気代が 2~3倍になれば、当然他のものにも影響がでます。 それ以前に火力発電所自体が足りないかもしれない。 (参照:資源エネルギー庁「エネルギー白書」) また別の視点に立てば、原発を顧客としていたウラン濃縮の 工場などで働いている人たちはどうなるのか、ということも 新たな問題として考えられます。 電力会社がスポンサーになっている諸々の企業はどうなるのか。 その諸々の企業の下請けや孫請けの人たちはどうなるのか。 原発からの寄付金で成り立っている村や町はどうなるのか。 そこまで考えれば、今の時点で原発を停止させるということが どれだけ非現実的なことかが分かると思います。 「日本のために原発を止めろ」なんてのは耳当たりのいい 大義名分であって、そこから生まれる被害を考えていない 人間にしか言えない言葉です。 そんなもんは正義でも何でもありません。 もちろん原発を無くせば、人間の体には優しくなると 思いますが、個人的にはそれによって失われる命の方が 遥かに多いような気がします。 資本主義社会を生きる我々にとって、経済性を無視することは 有り得ないと同時に、そんなことは出来ないということを 今一度考えておく必要があると思います。 僕も個人的には原発には反対です。 ただ、それを意固地に叫んだところで現実はそう簡単に 変えられるものではありません。 それは僕の能力が足りなかったり、影響力が足りなかったり するからではなく、さっきから説明しているような事情が 現実には複雑に絡み合っているからです。 社会としての善を選べば、個人としての悪が選ばれる。 逆に個人としての善を選べば、社会としての悪が選ばれる。 現実とはそういうものなのです。 「悪いものは無くせばいい」 油断すると、僕らはこういう非常に危険なことを何の考えもなく 言ってしまったり、やってしまったりすることがあります。 しかし、どれだけ悪いものを消そうとも、そこから善が生まれる ことはないし、平和が生まれたりもしないのです。 今回の話とは関係ないですが、ヒーロー番組に出てくる なんちゃらレンジャーたちは、いつも悪者の怪獣を 「倒し」ます。 そうすると、悪者はまたやり返すために別の怪獣を 送り込んでくる。 その繰り返しで最終的に正義のヒーローは勝つワケですが、 人間的に考えれば、悪者には悪者なりの理屈があり、 怪獣にだって家族がいるかもしれないのです。 なのにどうして「和解しよう」「妥協案を探そう」という 発想がヒーローから生まれないのかが、今になって不思議に 思います。 正義とか悪とか言って戦ってないで、仲良くすりゃ 済む話じゃないか、と。 それが本当の善であり平和であり正義じゃないのか、と。 そう思うのです。 アホらしい話に見えるかもしれませんが、世の中こんなこと ばっかりなんですよ、実際。 人類最大の非合理と言える戦争なんてものがまさにそうで、 相手を全滅させて生まれるのは、新たな戦争の種なのです。 つまり原発も「無くす」という発想より、「上手く付き合う」 という発想に転換した方がより現実的かつ建設的なんじゃないか と僕は思うワケです。 50基は多過ぎだと思いますが、ゼロは多分無くし過ぎです。 だから間を取って25基という単純な話ではありませんが、 我々が上手く付き合える程度であれば、残しておいても いいと僕は思います。 何をもって上手くなのか、というのはまた話がややこしくなるので 今は割愛しますが、そういうバランス感覚が大事だということです。 極右でも極左でもなく、その間で悩み続ける。 そこから僕らの未来は開かれていく。 そんな気がします。 ペス 追伸: 個人的に、高速増殖炉は人類が手を出すには早過ぎると 思います。 ...more»
名前論(後編)
ども、ペスです。 いよいよ(?)名前論も最後の回となりました。 ダラダラと無駄に長い前置きを書いてやろうかと 思ったのですが、まったく面白い文章が思い浮かばないので、 さっさと本編に入っちゃいます。 えー、予告通り、今回は前回書いた素朴な疑問の前者を 考えていきます。 その疑問というのは 世の中には「ジョン」という名前の人間が複数いるにも関わらず、 僕らはどうやってそれらを使い分けているのでしょうか? 僕のハンドルネームは【ペス】ですが、リップスライムにも ペスという人がいるし、ネット上には僕以外にもハンドルネーム としてペスを名乗っている人はたくさんいます。 にも拘らず、このブログを読んでいるあなたは意識するまでもなく 【ペス】が僕を指すことを知っている。 これは一体なぜなんでしょう? というもの。 もはや当たり前過ぎて考える気にすらならないかもしれませんが、 こんな高度なことを当たり前に出来る凄さというのを今一度 確認してみて欲しいんです。 だってよく考えてみて下さい。 コンピュータにこれと同じことをさせようと思ったら、 どれだけプログラムが複雑になることか。 顔写真とか声とか指紋とか特定の情報があればコンピュータも 一瞬で個人を判別できますが、ある文章に書かれている「ペス」が どこの「ペス」なのかを判別するのは、僕らが思っている以上に 複雑な処理を必要とします。 例えば、「ジェフ」と呼ばれたら動く、ある賢いロボットが 複数台いたとします。 少し前に流行った(?)アイボとかがそーゆーやつですが、 この手のロボットは「ジェフ」という名前には反応できても その「ジェフ」が自分に言われているのか自分以外に 言われているのかが判断できません。 もしかしたら顔の向きで判断できる更に賢いロボットも いるのかもしれませんが、それでも後ろ向きで「ジェフ」と 呼ばれれば、自分のことかどうかは分からない。 つまり、そのロボット達は前後の会話の流れ等から 「ジェフ」という名前に対する文脈を読むことが 出来ないのです。 これが人間であれば、さっき発した「ジェフ」と 今発した「ジェフ」が違うということを当たり前のように 区別することが出来ます。 (もちろん人間も時には間違います) 要するに、そんな複雑な処理を僕らはどうやって当たり前に 行っているのか、ということをここでは考えていきたいワケです。 ではまず、一休さんの話を例に考えてみましょう。 「このはし、わたるべからず」 一休さんはこの張り紙を見て橋の真ん中を堂々と渡った、 という話は有名だと思いますが、ここに今回の疑問を 考える大切なヒントが隠されています。 ご存知のように、日本語で【はし】と言えば、 【橋】と【箸】と【端】の3つが代表的です。 しかしながら、この3つは発音では区別されません。 つまり、漢字で表されていなければ、文脈からしか 意味を捉えることが出来ない、ということです。 「【はし】でご飯を食べる」 と書かれていれば、文脈上この【はし】は【箸】 だということが分かりそうに思いますが、 果たしてそれは本当に【箸】なんでしょうか? 例えば教室の端でご飯を食べるのが好きな人がいて その人が【端】でご飯を食べている、なんてことも ありえない話ではないですよね? はたまた【橋】(の上)でご飯を食べている人も いないとは言い切れない。 むしろ「【箸】でご飯を食べる」なんていう 自明なことをわざわざ言葉に出す人が現実にいるのか、 という逆説的なことも考えられます。 ということは「【はし】でご飯を食べる」という文章だけでは その【はし】が何を示すのか文脈が十分に読み取れない、 ということです。 じゃあ、そもそも文脈とは何なのか。 それは、発言者(発信者)の【イマ・ココ】である、 と僕は考えています。 【イマ・ココ】とは、この言葉の通り「その時その場所」 という意味です。 これは別に難しいことを言っているワケではありません。 僕が言っているのはめちゃくちゃ当たり前のことで 「【はし】でご飯を食べる」という文脈は 「【はし】でご飯を食べる」と言った本人が 置かれた状況、その時その場所によってしか判断出来ない、 ってことを言っているだけです。 本人は「いつ」「どこで」「何を考えて」それを言ったのか。 それによって【はし】は【端】にも【箸】にも【箸】にも 成り得るし、【ペス】は僕にも僕以外にも成り得ます。 ってことはですよ? 【はし】1つ判断するのにも、その発言者の【イマ・ココ】、 つまり心理や歴史(背景)、環境、時間、そういった目に見えない 数多くの情報を処理しないといけないワケです。 そこには時系列的な前後の関係性も関わってくるし、 その場にいる人との関係性、その人の自己内における関係性、 という複雑な情報も関わってきます。 これを俗に【察する】というワケですが、これがどれだけ 凄いことなのかは、最初に出した例を参考に考えてみて 下さいませ。 さて。 今頃は、なんだか分かったような分からないような 変な気持ちでいることと思います。 急に【イマ・ココ】なんていう変な言葉を持ち出されも ワケが分からないだろうし、そもそもこの記事自体が 何を言いたいのか分からない、という非常事態も 起こっていることでしょう(笑) まあそれも無理はありません。 存在論と関係性、正確にはハイデガーとソシュールと ベイトソンとギブソンの議論を絡めて話しているんだから そうなるのも当然のことです。 ご心配なさらずに(笑) ただ、1つだけちゃんと分かっておいて欲しいのは 僕らが当たり前に使っている名前1つ取っても、 背景はこれだけ複雑に入り組んでいるんだということです。 単純で自明に見えるものほど、実際は酷く疑わしく、 複雑で難解に見えるものほど、実際は一義的で なんでもないことだったりするのです。 「【当たり前】とは何か」 もし時間があれば、そんなことを考えてみるのも 面白いかもしれません。 長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。 また次も読んでね。 ではでは。 追伸 書いてから気付きましたが、今回はほとんど 「名前」について触れてませんでしたね(苦笑) ま、たまにはそーゆーこともあります。 気にしない気にしない、一休み一休み。(おい・笑) ...more»
名前論(中編)
  お待たせの続きでございます。 この時期はどこも同じように色々とバタバタするもんで 僕も例に漏れずバタバタしていました(苦笑) ひょっとしたら4月が終わるまではまた更新が遅れることも あるかもしれませんが、その時はなるべくお知らせを入れる ようにします、ごめんなさい。 前回はパンを例にしつつ、主に物の名前について 考察を深めていきましたが、今回は人の名前を例に、 より詳細な内容に迫っていきます。 詳細になるってことは、複雑になるってことなので できれば前回以上に注意深く読むようにして下さいませ。 じゃあ早速本編に入っていきましょう。 物と同じように、人にも名前があります。 たけし、ひろし、あけみ、あやの、みか、えり、だいすけ、 マイケル、ジョン、トム、エミリー・・・まあ一々例を 出すまでも無く、これらは自明のこと。 「おい、たけし、遊ぼうぜ」、「エミリー、何してるの?」、 普段は僕らは名前をこんな風に使います。 そして物凄い当たり前の話ですが、「おい、ジョン!」と呼べば、 「ジョン」という名前の人間がこちらに反応する。 さて。 ここで素朴な疑問です。 世の中には「ジョン」という名前の人間が複数いるにも関わらず、 僕らはどうやってそれらを使い分けているのでしょうか? 僕のハンドルネームは【ペス】ですが、リップスライムにも ペスという人がいるし、ネット上には僕以外にもハンドルネーム としてペスを名乗っている人はたくさんいます。 にも拘らず、このブログを読んでいるあなたは意識するまでもなく 【ペス】が僕を指すことを知っている。 これは一体なぜなんでしょう? そしてもう1つ。 あなたを含め、僕と他者との関係はそれぞれバラバラのはずなのに みんな僕のことを一様に【ペス】と呼びます。 これは前回の名前の定義からは外れますよね? 僕は「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」と 自分との関係(価値)の1つが「パン」だと言いました。 つまり本来なら、関係が違えば名前は変わるはずなのです。 だったら、どうしてみんな僕のことを同じように 【ペス】と呼ぶのか。 また、どうしてそれでも各々の関係が成り立つのか。 この2つが名前論でのメイン議題です。 前者の方が議論が複雑になると思うので、今回は取り敢えず 後者を先に考えていき、余裕があれば前者も考えることに したいと思います。 後者の疑問はザックリ言えば、膨大な数の関係をたった1つの 名前で表せるのはなぜなのか?ということです。 これは実は「パン」についても同じで、詳細に見れば僕とあなたの 「小麦粉をこねて発酵させ、オーブンで焼き上げたもの」との 関係はそれぞれ違うはずなのに、同じ「パン」という名前で 表せるのはなぜなのか?という話にもなります。 その辺は前回少しだけ話しましたよね。 そんなワケで、この話をシンプルに考えるために、 ここでは色の問題に置き換えて考えてみましょう。 よく哲学の入門書には、こんな問いが書かれています。 「あなたの見ている赤と僕が見ている赤は、同じ赤なのだろうか?」 これは要するに、僕に見えているものとあなたに見えているものが 同じであることは人間がそれぞれバラバラの存在である以上 どうやっても証明出来ない、ということを言いたいワケですが、 じゃあどうして僕もあなたも「赤」という言葉を聞いて同じ色を 指差すことができるのか。 それは人それぞれ関係(見え方)は違っても、対象とするもの (見ているもの)は同じだから、です。 赤いポストを見て、僕やあなたが「赤い」と判断するとき、 僕の中では「僕的な赤」という価値が拾い上げられ、 あなたの中では「あなた的な赤」が拾い上げられます。 でも赤いポストという(客観的な)対象自体は同じだから 赤いポストと言われれば、同じものを指差せるのです。 ここで混同してはいけないのは、同じ見え方をしていることと 同じ対象が見えていることとは別問題だということ。 これは散々アフォーダンスの解説で言っていることですが、 見え方は「個別的」だけど、見えている対象それ自体は 「客観的」で1つの(共通の)ものなのです。 そしてここでもう1つ重要なのは「赤」という名前の 捉え方です。 先ほども書いたように、僕が「赤」と言うとき、 それは「僕的な赤」を意味し、あなたが「赤」と言うとき、 それは「あなた的な赤」を意味します。 つまり、僕が「パン」や「ジョン」と言う時も、本質的には 「僕的なパン」「僕的なジョン」と言っているのと同じだ というです。 なぜなら、僕の見ている「赤」は、その対象と僕との 関係でしか有り得ないし、あなたの見ている「赤」も その対象とあなたとの関係でしか有り得ないから。 何度も言うように名前というのは、その対象と「私の関係」 ですから、その「赤」も「私の赤」でしかないのです。 でも日常の会話で一々「僕的なジョン、遊ぼうぜ」とか 「僕的なパンが食べたい」なんて言ったら、ちょっと 変な意味に誤解されそうでしょ(笑) というか、僕らはそういった複雑なことを無意識に 処理しているから、わざわざ公言する必要がない。 だから「・・・的な」という言葉を付けなくても 同じ名前で意味が通じるのです。 学術的に言えば、同一の名前に対してメタコミュニケーションが 成り立っている、という感じでしょうか。 まあ難しい話はともかく。 今回分かっておいて欲しいのは、見た目上(形式上)、 同じ名前であっても高次の認識としては人それぞれ 別々(個別)のものを指している、ということです。 ちなみに、この話は数ヶ月前に書いたコミュニケーションの 3つの論理とも大きく関係しています。 もしお忘れなら参考までに読み返しておいて下さいな。 えー、案の定、前者の疑問を考える余裕がなかったので、 今回を「中編」として続きは「後編」に持ち越します。 ではでは。 ...more»
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