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Archives for 社会

最強の組織の作り方
今回は最強の組織(主に会社)を作る方法をお話しします。 まずは定義の確認から。 最強の組織とは、意志決定が素早く的確で、結果を出せる 組織のことです。 そういう組織を作るには 1.少数精鋭であること 2.優れたリーダーがいること の2つの条件を満たす必要があります(が、逆に言えば たったこれだけで最強の組織が作れてしまいます)。 まず少数精鋭であることの利点は、社内における情報格差が ほぼゼロになることと、個々の意見が部署の考え方などに 影響されずに言えることです。 人数が増えるとどうしても、Aさんは知ってるけど Bさんは知らない、といった情報格差が広がっていきますが、 3人から5人程度の会社であれば、各人の情報格差が 会社の命取りになるので、自然と情報共有は密になるし、 早急に共有されます。 3人しかいない会社で、Aさんしか知らないことが 山ほどあったりしたら、シャレにならないですからね。 また人数の多い会社では総務や営業などの部署があるのが 普通ですが、部署ができてしまうと個人の意見ではなく、 「総務部としての意見」や「営業としての意見」に意見が 偏ってしまいかちです。 自分は個人的にAをした方がいいとは思ってるんだけど、 総務部全体の利益を考えるとBと言っておいた方がいい、 みたいなことが起こるようになるワケです。 そうなると、社員の多くが自分にウソをつくことになり、 それが積もり積もって・・・。 さらに派閥なんかができちゃうと、派閥の意見にも 従いながら働かないといけなくなるので、多くの人は 会社のための意見を言うのではなく、保身のための意見を 言うようになっていきます。 そうやって組織は内部崩壊していくワケです。   実は今言ったことは200年以上前にルソーが指摘しています。 彼の言葉を『社会契約論』から引用してみましょう。 「人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに 意志を少しも伝え合わないなら(徒党を組むことがなければ)、 わずかの相違がたくさん集まって、つねに一般意志が結果し、 その決議は良いものであるだろう」 ほら、 (1).人民が十分に情報をもっていること (2).徒党を組まないこと っていう条件がちゃんと出てきてるでしょ? 彼の場合は国という巨大組織(集団)の運営を考えていましたが、 大きかろうが小さかろうが必要なことは同じなのです。 ただ上で言ったように、大きな組織でこの2つの条件を 満たすというのは非現実的だと思います。 だって考えてみてください。 社員が千人いる会社で部署を作らないとか、情報共有を 完璧にするとか無理でしょ、どう考えても。 そんだけいれば派閥だってきっと自然に出来ちゃうでしょうし、 情報の格差も開いてしまうと思います。 彼の言っている条件を満たそうとすると、どうしても少人数に せざるを得ないのです。   ただ少人数にしたからと言って、そこで行われた意志決定が 必ずしも結果に結びつくとは限りません。 社員全員が「企画Aをやろう!」と一丸となったとしても、 企画Aが当たらなければその会社はヤバイことになります。 つまり、当たり前ですが、その決定が会社の実績に、 社員の幸福に繋がっているのかどうかをちゃんと判断できる 優れたリーダーが必要なのです。 優れたリーダーになるために何をどうすればいいのかは これまで散々語ってきているので割愛しますが、参考までに ルソーが何と言っているかを見ておきましょう。 ルソーはこんなことを言っています。 「諸々の国民に適する、社会についての最上の規則を 見つけるためには、優れた知性が必要である。その知性は、 人間のすべての情熱をよく知っていて、しかもそのいずれにも 動かされず、われわれの性質を知り抜いていながら、 それと何らつながりを持たず、みずからの幸福がわれわれから 独立したものでありながら、それにもかかわらず、われわれの 幸福のために喜んで心をくだき、最後の時代の進歩のかなたに 栄光を用意しながらも、ひとつの世紀において働き、 後の世紀において楽しむことができる、そういう知性で なければなるまい。人々に法を与えるには、神々が必要である」 まあ要するにリーダー(彼の場合は立法者ですが)は 神のように完璧じゃないといけない、ってことです(笑)   そんなワケで、もし最強の組織を作りたいなら 1.少数精鋭であること  (1).人民が十分に情報をもっていること  (2).徒党を組まないこと 2.優れたリーダーがいること の2つの条件を頑張って満たしましょう、ってことでした。 ちなみに大きめの会社に属している場合は、(1)と(2)の 視点で職場を眺めてみると面白いと思います。 会社が上手くいってないとすれば2以前に多分(1)(2)が 問題だと思いますので。 あ、2のリーダーがいないから(1)(2)に気付かないのか。 まあどっちでもいいや(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
気分と責任の関係
僕は気分を優先していると言いつつも、実際にはセミナーの 予定を立て、その予定をこなしています。 もしセミナーを予定していた日に気分が乗らなかったとしても、 僕は予定(お客さん)を優先してセミナーをやるでしょう。 これは人として、大人として最低限果たすべき責任です。 この発言は一見すると矛盾しているように見えるかも しれませんが、その表皮をめくってみれば、 今まで見えていなかった真実が明らかになります。 セミナーの予定を自分の気分で決めておきながらその予定を 当日の気分でキャンセルするというのは、自分で自分を裏切る ということです。 その日その日、その瞬間瞬間に移りゆくものが気分だと言えば たしかにその通りですが、気分はかなりの部分を自分で コントロールすることができます。 睡眠をしっかりとる、ジャンクなものばかり食べない、 部屋を掃除する、周りとの人間関係を良好にする、 自分がリラックスできることを適度に生活に取り入れる などによって気分を良い状態にもっていくことは 可能なワケです。(『Be Standard』を受講している場合は 「エネルギー」のことを思い出してください) たとすれば、過去の気分で立てた予定を当日の気分で キャンセルするのは、僕の単なる怠慢だと言えます。   僕は気分屋ではありますが、気分屋であるからこそ、 その気分にどうやって予定を合わせるかをいつも 考えています。 僕のような人間は、自分が望んだワケでもない、 自分の気分に合わない予定を周りに決められるのが すごくストレスです。 だから出版業やSEのような、自分ではない誰かが 締め切りを決める仕事は僕にはまったく向いてないし、 僕がその手の仕事を引き受けることは自殺行為であり 無責任でしかありません。 これは僕には「コントロールできない」僕の性質です。 僕の気分にはどう頑張っても調整できない周期があり、 こればっかりは本当にどうにもなりません。 いくら体調を整えても、栄養ドリンクを飲んでも、 ロッキーのテーマを流しても、スタバに行っても、 何をやっても変わらない。 「社会」はこれをわがままだとか自己管理ができていないと 受け止めるのでしょうが、真実はそうではなく、本人だって こんな周期的な気分は望んでいないし、無くせるものなら 無くしたいのです。   前回のヒントで出したように、気分というのは1つでは ありません。 (僕の)気分には、自分でなんとかなる気分と 自分ではどうにもならない気分があります。 地球の上で自動車をコントロールすることはできるけど、 地球の自転や重力をコントロールすることはできない。 そんな感じです。 前者を感情的気分、後者を人格的気分と呼ぶことに しましょう。 仕事への責任は、前者に対しては努力、後者に対しては 自覚という面で問われます。 感情的気分については「自己管理をがんばれ」としか 言えません。 この自己管理には「気分が乗らないときは働かない」、 「気分が乗らない仕事はやらない」ということも含まれます。 この「気分が乗らない」の「気分」は人格的気分です。 すなわち、人格的気分は自分ではどうしようもないワケ ですから、それに逆らって働くことはストレスになり、 感情的気分を害する(自己管理できていない)ことになる ワケです。 そう考えると、結局は人格的気分を自覚できているか否か、 人格的気分に沿った生き方をしているか否かが仕事に対する 責任感を表すことになります。 人格的気分を自覚せず、自覚していてもそれに逆らって 感情的気分を害しながら働くことは自己管理できていない ということであり、自分で自分を裏切っている ということであり、自分に対しても仕事に対しても、 そして世界に対しても無責任であるということなのです。   僕は人格的気分を自覚し、その性質に沿って仕事を選んで 働くことは、われわれの責任だと思います。 ただ誰もが僕と同じ性質(人格的気分に周期がある)とは 限りません。 僕の場合はたまたま人格的気分に周期があって、 それに合わせないと感情的気分が害されてしまうだけで、 世の中には3日ぐらい徹夜しても平気でいられる人や、 人から言われた締め切りをしっかり守れる人(他人に 締め切りを決めてもらった方が助かる人)もいます。 これは人格的気分を形成するタイプの違いです。 参考までに紹介しておくと、僕のように気分に 浮き沈みがあって周期がある人は感性タイプ、睡眠時間を 削っても意志の力でバリバリ仕事ができる人は意志タイプ、 感性でも意志でもないけど理屈で納得できればコツコツと 仕事ができる人を理性タイプと言います。 僕の友人に3日連続で徹夜しても気合いと栄養ドリンクで 仕事を続けられる典型的な意志タイプの人間がいますが、 僕には絶対に彼の真似はできないし、真似すべきでも ありません。 出来もしない仕事をやろうとする(引き受ける)のは 無責任ですよね? つまり感性タイプの僕が自分の性質を無視して意志タイプの 彼のように働こうとすることは無責任な行為なのです。 でも彼は彼で、僕みたいにマイペースに仕事をしては いけないし、すべきでもないし、そもそもできないと 思います。 こういった自分の人格的気分の性質を知ろうとしないこと、 知っているのに「社会」に合わせて無理をすること。 それこそが究極的な意味で無責任だと言えるでしょう。   昔っから言い続けていることですが、要は「自分を知り」、 自分の性質に合った仕事を選び、その合った生き方で 生きることがわれわれの最大の責任であり最大の価値でも あるのです。 これまでも「自分の価値を発揮せずに人生を終えることは 罪である」みたいなことを何度か言ってきましたが、 それは結局のところ無責任極まりないことだからです。 自分を知ろうとしない、知っていてもそれに合わせて 生きようとしない生き方は、多数派の生き方であり、 「社会」の常識です。 その意味で僕は、今のような残念な常識、その人の強みや 弱みを無視して働かせるという常識を作っておきながら 何の責任も負おうとしない「社会」こそが無責任の根源だと 思います。 本人の性質に合っていない仕事をやらせる「社会」も、 その「社会」の言うことを鵜呑みにしている凡人も、 どっちも無責任です。   われわれは自分のタイプに合った、自分の価値が 最大化される仕事や働き方を見つけなければなりません。 いや、むしろ生涯にわたって今の仕事に安住することなく、 より自分の価値が最大化される仕事を探し続けなければ ならない、と言った方が正しいですね。 どれだけ今の仕事を天職だと感じていたとしても、 それ以上の仕事が見つかる可能性は絶対になくならない ワケですから。 僕も現時点では今の仕事が一番向いていると思っていますが、 さらなる可能性を求めて、今年からは別の仕事にも挑戦して いこうと考えています。 自分で自分を決めつけてしまわないこと。 自分の可能性を模索し続けること。 これも脱凡人を志すわれわれの責任と言えるのでは ないでしょうか。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
正常と異常のコペルニクス的転回
ご存知のように、僕のメルマガやセミナーというのは、 僕の「気まぐれ」で行われています。 メルマガは書きたいことを書きたいときに書いているだけだし、 セミナーもやりたいことをやりたい時にしかやりません。 これは仕事に限ったことではなく、僕は誰かと居酒屋に 行ったときでも、お腹が空いていたら最初からお茶漬けとかを 頼んでしまうような人間です。 「はじめの一杯は生中で」みたいなのがどうしてもイヤで、 自分を押し殺して周りに合わせるのが苦手をはるかに超えて 苦痛で仕方がないのです。 こういう僕のような人間は一般に社会不適合者と呼ばれ、 場合によっては統合失調症などという病名で呼ばれることも あります。 空気を読むことができなかったり、周り(のルール)に 合わせることができなかったりすることは、程度の差こそあれ、 現代においては病気で、異常で、狂っているということです。 例えば、会社の上司に対して「今日は気分が乗らないので 欠勤します」なんてことを真顔で言おうものなら、 社会人失格だと言われると思います。 そこまでは言われなくとも、真っ当な社会人としては 見てもらえないだろうし、そんなことが続けばいずれは クビになるでしょう。 つまり一般には、気分が乗らなくても働くのが社会の常識 (守るべきルール)であり、正常な人ということになっている ワケです。   ところで、社会不適合者や統合失調症というのは、 「社会」が正しいということを前提にした言葉です。 「正しい社会」に適合できないから異常(病気)だ、と。 そう言っているワケですが、もし仮にこの前提となっている 「社会」が誤ったもの、正しくないものだったとしたら、 そんなものに適合している人間こそ異常だということにならない でしょうか? というか、何を根拠に多くの人は「社会」を正しいと思い込んで いるのでしょう? さっきの例で考えると、なぜ気分が乗らないのに働かないと いけないのか、というのが考えるべき問いになります。 この問いに納得のいく答えが出せる人はまずいないでしょう。 なんでって言われても・・・会社がそう決めてるんだから 仕方ないでしょ。 普通はそんな感じになると思います。 じゃあ、なぜ会社はそう決めているのか。 それは多分、 1.それが常識だから(そうしないと仕事が回らないから) 2.今までそうしてきたから 3.周りの会社もみんなそうやっているから の3つのうちどれかです。 仮にこれが正しかったとして、じゃあ自分の人間性(気分)を 否定してでもやらなきゃいけない仕事なんてこの世にあるの でしょうか? まあ「ある」って答えるんでしょうね、彼らは。 つまりわれわれの「社会」は人間性の否定を是としていて、 人間らしく生きることよりも仕事を優先する社会である、 ということなのです。   こういう人間性を否定する「社会」に適合することが正常で、 適合できないのが異常だとしたら、僕はずっと異常でいいし、 そんな「狂った正常」にはなりたくありません。 自分の気分や感性、閃き、衝動、そして実存を否定してまで、 僕は正常であろうとは思わない。 疲れてるのに休んじゃダメとか、気分が乗らないのに働けとか、 楽しくもないのに飲み会に強制参加とか、そんなんで生産性が 上がるワケないですよね。 価値を生み出すために人は働いているはずなのに、 「社会」が押しつけてくるのは価値を下げることばかり なのです。 そりゃ死にたくもなりますよ。 結果を出せなくさせている構造の中で「結果を出せ!」って 言われ続けてるんだから。 僕から言わせれば、そんな「社会」に適合して普通に生きて いられる人の方が頭がオカシイんじゃないかと思います。 こんなことを言ったら怒られそうだけど、真実なんだから 仕方がない。   今異常だと言われているもの、病気だと言われるものを改めて 考えてみてください。 その異常や病気は、そうでないものが正常や健康である前提で 定義されています。 認知症は本当に病気なのか、異常気象は本当に異常なのか、 より抽象化して 「その問題は本当に問題なのか」 を問う価値はおおいにあると思います。 われわれが問題だと思っていることは、それを問題として 認識していること自体が問題である可能性があるのです。 提起された問題そのものすらも疑ってかかること。 これが「異常な人」に求められる知的態度です。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
愛こそすべて
武井壮が最近までやっていた「シューカツの王」という ラジオ番組があります。 この番組のゲストで、ラグビー日本代表の田中史郎選手が 呼ばれて来たことがあったのですが、そこで以下のような やりとりがありました。 武「これまでの日本代表に一番欠けていたのは何ですか?」 田「コミュニケーションですね」 武「なるほどぉ、そこに対して田中選手はどういうことを やっていったんですか?」 田「みんなが言わないことを言う、ってことですね」 田中選手いわく、これまでのラグビー日本代表は、 練習でケガをしそうになるとお互いが100%の力を 出さないようにする(手を抜く)、という暗黙の了解の ようなものがあったそうです。 そして選手たちはミーティングでもそのことに一切触れず、 なぁなぁになっていた。 そのみんなが触れてほしくないところをグサグサ指摘する 嫌われ役を、田中選手はみずから買って出たワケです。 チームメイトからは「史郎の言うことは言われたときには 腹が立つけど、後から考えれば全部正しかった」と言われた、 と語っていました。   田中選手の話はラグビーに限ったことではなく、 われわれ日本人の欠点を象徴していると思います。 一言で言うと、それが仮に言うべきことであっても、 言い難いことは言わずに済ませてしまう、ということです。 その場の空気や相手を傷つけないことを優先するがゆえに、 言うべきことまで黙ってしまう。 これってよくありますよね。 会社でのミーティング中に「このミーティングは無意味だ」 みたいな発言をすれば、普通その場の空気は凍りつきます。 自己満足ミーティングを主催している役員から白い目で 見られることもあるでしょう。 しかし本当にその会社のことを思うのなら、言わなければ なりません。 ここで重要なのは「本当にその会社のことを思うのなら」 という部分です。 これは言い換えれば、自分が所属している会社のことを さほど気に留めていないのであれば、別に無理してまで 言う必要はない、ということです。 そして実際に、ほとんどの人はそうしていると思います。 要するに、われわれが言い難いことを言わずに済まして しまうのは、会社や相手やコミュニティのことを実は 「どうでもいい」と思っているからであり、そんなものよりも 自分の方が何倍も大事だからなのです。   もしあなたが本気で僕や僕のコミュニティのことを 思ってくれているとしたら、僕が傷ついたり怒ったり するようなことでも、勇気を出して言ってくれるはずです。 実際、以前のアンケートではそういうコメントをいくつか もらいました。 もらったときは傷ついたり腹が立ったりするんだけども、 冷静になりさえすれば、それらは正直な気持ちであり、 僕のために言ってくれたんだと分かります。 だってそうですよね。 自分が嫌われるかもしれないことを、言わなければそれで 済んだことを、敢えてメールで送ってくれてるんだから。 以前紹介したニットクリエイターの栂瀬さんがメールを くれるときも、結構グサッと刺さるようなことが 書いてあったりします(滅多にメールは来ないけど)。 でもそれが愛なんですよ。 愛があるから、相手のことを第一に思っているから、 自分が嫌われるようなことでも平気で言えるのです。 親が子を叱るのだって、そうですよね? 「子供に嫌われたくない」と思って子供を叱れない親って、 どう思いますか? 嫌われようが恨まれようが、子供のためなら言うべきことは 言わなきゃダメだし、それが子を愛するってことでしょ。 言うべきことを言えない人というのは、裏を返せば 「誰も愛せない人」でもあるのです。   日本代表チームを愛せない日本代表が勝てるワケないですよね? 家族を愛せない子や親が幸せになれるワケないですよね? 会社を愛せない役員が、会社を愛せない社員ばかり集めて、 いい会社になるワケないですよね? 日本を愛せない日本人が、いい国を作れるワケがないですよね? そういうことです。 言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンですよ、 マジで。 日本人が調和を重んじるというのは、もはや単なる言い訳です。 それは調和を重んじてるんじゃなくて、(調和へ至るための) 一時的な不調和というリスクを避けているだけですから。 エリアーデが言ってましたよ。 「世界はこれまで続いてきたというただそれだけの理由で 干からびて、新鮮さ、純粋さ、本来の創造力を失う。 誰も世界を<修復>することはできない。 再創造するためには滅ぼさなければならないのである」 って。   言うべきことを、言い難いことを言うとは、それまであった 何かを破壊し、滅ぼすということです。 そこから「世界」の再創造が始まります。 愛するということは本来、(シュンペーターじゃないけど) 創造的破壊とも言うべき創造的な営みなのです。 愛こそすべて。 この言葉は案外、真理なのかもしれません。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
構造主義的な生き方
僕がフォローしている人たちの影響もあると思いますが、 フェイスブックを見ているとかなりの割合で ・ブログのアクセスを増やす方法 ・必勝コピーライティングテクニック ・フェイスブックで集客する方法 ・メルマガで売上アップするノウハウ ・コンサルタントになって成功する方法 などの広告や投稿が流れてきます。 これらの情報がよいか悪いかは今は触れませんが、 それらはどれもが部分最適に特化したものです。 部分最適とは、ブログのアクセスを増やす方法で言うと、 ある人の人生から「ブログ」という部分を切り取って、 そのまた「アクセス」という部分を切り取った上で それを最適化(最大化)する、という発想のことです。 その人がどんな人生を歩みたいのか、つまり全体のことを 考慮することなく、ブログのアクセスという部分だけを 伸ばしていく。 これを部分最適と言うワケですが、その結果、多くの人が 残念なことになっていくということに、教える側の人は 気付いていません。 相手(クライアント)はブログのアクセスを増やしたいと 思っていて、それを達成すれば幸福になれると思っている ワケですから、その方法を教えてブログのアクセスが 増えれば、当然喜ばれます。 「ありがとうございました、お陰でブログのアクセス数が 2.5倍にアップしました!」 そうやって笑顔で言ってもらえることがほとんどでしょう。 しかし、われわれ人間は、自分が望むべきでないものを 望んで手に入れようとすることが、往々にしてあるのです。   「人民は放っておいても、常に幸福を欲する。 しかし放っておいても、常に幸福が分かるとは限らない」 ルソーは『社会契約論』の中でこんなことを言っています。 この本で言われている「人民」は厳密には個人のことでは ないのですが、今は細かいことは置いておきましょう。 要はルソーは、ある人が欲するものを手に入れたとしても、 それがその人にとって幸福であるとはかぎらない、と 言っているワケです。 これは宝くじに当たった人なんかが、典型的じゃない でしょうか。 彼らは大金を手に入れれば幸福になれると思っているからこそ、 それを手に入れるために宝くじを買うワケですが、 いざ手に入れてみたら、あぶく銭に飲み込まれてむしろ不幸に なってしまった、みたいな話が世界には溢れているワケです。 宝くじの例はやや極端ですが、われわれも日々 こういう自虐的なことを無意識に行っています。 「ブログのアクセスを増やしたい」というのは、 その1つの例です。 ブログのアクセスを増やすために必死になってキーワードを 検索して、タイトルは派手な言葉を使って煽り気味にして、 記事もテンプレート通りに書いて、内容もノウハウに特化する。 確かにそれをやればブログのアクセスは上がるかもしれません。 でも、そんなしょーもないことに神経を削る人生って、 楽しいんですかね? それがその人の望む人生なら何も言うことはないのですが、 どうせブログを書くならアクセスとかキーワードとか、 そんなのを気にせずに自分がとにかく書きたい・書くべきだと 思うことを思う存分書く方が、僕は楽しいと思うんですよね。 その楽しんでいることが自然と結果に繋がっていくことを、 われわれは「成功」と呼ぶんじゃないんでしょうか。   お分かりだと思いますが、こんなことを偉そうに言っている 僕も、一時期、この「部分最適の罠」にハマっていました。 やっと治りかけてきた傷口を自分でえぐるのはちょっと 勘弁してほしいので、あえて具体的なことは言いませんが、 全体を見失って部分最適に走ると、あんな感じになります。 一言で言うと、欲望を満たすために楽しさや自分らしさ、 生きがいなどを犠牲にしてしまう、ということです。 しかし、何かが犠牲になっている時点で、それはもう 理想の人生ではありません。 だって人生というのは、自分のすべてなんだから。 お金のためであれ、家族のためであれ、平和のためであれ、 何かが犠牲になっているなら、それは何かが間違っています。 アルマゲドンよろしく、1人の人間の犠牲の上に成り立つ 人類の存続は、実際には何も素晴らしいことではないのです。   何かを犠牲にして、何かを成し遂げる。 それはまさに合理主義の発想であり、民主主義の、 もっと言えば全体主義の発想です。 自分の人生を犠牲にして家族のために働く親たちは、 自分もその家族の一員だということを忘れています。 家族を幸せにしたいならば、自分を含めた家族「全員」を 幸せにしなければなりません。 子供という部分だけを最適化しようとして自分を排除するから、 家族という全体が歪むのです。 大事なのは全体の調和であり、構造主義的な視点です。 われわれは近代的な価値観に乗っかって生きているので、 家族や会社や国などの社会を「個人が集まってできたもの」と 考えがちですが、その発想がそもそも間違っています。 フランシス・フクヤマが言っているように、人類史上、 人間が「個人」で存在していた時代など一度もないのです。 一度もないのに、民主主義というのはその「個人」を 前提として成り立っているし、われわれは個人が集まって 関係を作ることで社会になると思い込まされている。 それが部分最適などという、いびつな発想が生まれてくる 根本原因なのです。   ブログのアクセスを増やすという部分は、人生という全体に 調和してこそ意義あるものになります。 逆に言えば、その全体が見えていないのに、いくらブログや フェイスブックの使い方を学んでも明後日の方向に向いている 可能性があるし、コンサルタントとして成功しても人生は 失敗する、なんてことが普通にあり得るということです。 だからわれわれには黙ることが、「仏の親切」が 要求されるのです。 相手が理想とする全体なんてものは、簡単に分かるものでは ありません。 それが分からないまま相手にあーだこーだアドバイスしても、 それは部分最適の罠にハメることになりかねないワケです。 これが理解できれば、相手のことを深く真剣に考えるほど、 具体的なことが何も言えなくなっていくことが分かるでしょう。 でもそれこそが、本当の優しさだと、僕は思います。   何も言えないけど、何も言わないワケにはいかない。 この矛盾にもがき苦しみながら、今日もがんばって 生きましょう(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
植え付けられた理想
  われわれ人間には大なり小なり理想があります。 外国人と友達になりたい、有名人の仲間入りをしたい、 自分の会社を大きくしたいなどなど、それぞれに 叶えたい理想があるワケですが、われわれはその理想を 無批判に「正しい」と思い込む傾向があります。 外国人と友達になりたいと思っている人が、 「本当に自分は外国人と友達になりたいんだろうか?」と 自分に問いかけることは普通ありません。 しかし、われわれの理想というのは、往々にして メディアや文化、生活環境の影響を強く受けています。 例えば芸能人の豪邸特番を何度も見ることで、 本当は理想ではなかった「豪邸に住むこと」が 理想として植え付けられたり、新婚の友達と会うことで 「結婚すること」が理想として植え付けられたりする というのは、よくある話です。 僕の中にも気づかないところでそういった理想が 渦巻いていて、僕の向かうべき方向を狂わせています。 本当は理想でもなんでもないことを羨ましいと思い、 自分もそうなりたいと望み、どんどん自分のレールから 外れていってしまう。 われわれの理想のほとんどは、実はそういう作られた 「誰か」の理想でしかないのです。   理想を明確にしましょう。 これは僕も言ったことがあるし、世間的にもよく言われる ことですが、今言ったことからも分かるように、 理想は明確化する以前にすべきことがあります。 それは「本当にそれは自分の理想なのか?」と問うことです。 自分の理想でないものをどれだけ明確化しても、 それは偽物の理想なのですから、何の意味もありません。 これをやらずして行われる世間一般の目標設定は 非常に危うい、下手をすればちょっと前までの僕のように 自分で自分の首を絞める(別のレールを走る)ことになる ワケです。 そんなことになってしまうぐらいなら、「遠くの理想」は 追いかけない方がましです。 じゃあ理想は不要なのかというと、そうではありません。 遠くの理想は偽物である確率が高いですが、近くの理想、 つまり今ここにおける理想は嘘をつけません。 なぜなら、今ここの理想はそのコンテクストに合わせて 自分で生起しなければならないからです。 生起するとは、クリエイトするということです。 今ここにおける理想は何かをそのときその場所で考え、 判断し、それを実行するのです。 このメルマガを読んでいる今ここのあなたが 理想とする「今の」思考、「今の」服装、「今の」空間、 「今の」感情、「今の」関係などを生起し、その理想に 自分をフィットさせていくのです。 そうすれば、それの繰り返しが積もり積もって、 あなたのホンモノの理想へとつながっていきます。 下手に遠くを見るから誤るのであって、もっと近くを、 目の前を見てさえいれば、われわれは一歩一歩確実に 自分のレールを進むことができるのです。   自分の理想(将来像)が本当の理想だと言い切れるなら、 それを目指すことは正しいことだと思います。 しかしその自信がないなら、とにかく目の前だけを見て、 今ここの小さな理想を叶え続けましょう。 それがわれわれのようなひ弱な凡人が歩き続けられる、 安全な道なのです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養は何の役に立つのか ~裁判員裁判で裁判官に声をかけられた話~
  実は僕、裁判員制度で裁判員をやったことがあります。 あれは確か5年ぐらい前のことです。 まだ裁判員制度が始まって1年も経っていないときに 裁判所から封筒が届き、僕は大阪地裁に足を運びました。 裁判員になるかどうかは封筒が届いた時点では まだ決まっておらず、封筒が届いた人の中から さらに裁判所でくじ引き的なことを行い、 100人ぐらいいる中の10人ほどが裁判員になるのですが、 僕はその何十倍という倍率(?笑)を見事にくぐり抜け、 裁判員をやることになりました。 我ながら恐ろしいくじ運だと思います(笑) なんとなく当たる気はしていたので、それほど驚きは しなかったですが、いざ当たってみると緊張するものです。 そこから3日間、僕は朝9時から夕方5時頃まで裁判員として 大阪地裁に通い、裁判官3人の手引きに従いながら、 他の裁判員と一緒に議論を重ねました。 自分のことを棚に上げて言ってしまいますが、他の裁判員は 本当にどこにでもいるような普通の人たちで、彼らの意見は いい意味では一般的な感覚に根ざしたものだった反面、 悪い意味では非常に偏った、明らかにメディアの影響を直で 受けてしまっている意見だったのが印象的です。 そんな中で、僕1人が素朴な意見や疑問を裁判官にぶつけ、 裁判官の人から「そんなこと考えもしなかった」的なことを 何度も言われました。 そして最終日。 なんとか裁判の判決が出て、帰る準備をしていると、 裁判官の1人が僕にこんなことを聞いてきました。 「Aさん(僕のこと)は普段何をされている方なんですか?」 「普通こういうことはあまり聞いてはいけないことに なっているんですが、あまりにも意見が素晴らしかったので、 つい聞きたくなってしまって・・・もしよろしければ 教えていただけませんか?」 これが教養が役に立った僕の具体的な経験です。   当たり前ですが、僕は法的知識は皆無と言ってもいいぐらい 何も持ち合わせていません。 はっきり言ってド素人です。 にもかかわらず、そんなド素人の僕にプロである裁判官が 興味を持ち、最終的に話しかけざるを得なくなるところまで 惹きつけたというのは、なかなか面白い事例だと思いませんか? 僕が思うに、教養を身につけることの最大の利点は、 自分と同等に教養のある人と対等に話ができること、 言い換えると、自分の(一般常識やメディアに侵されていない) 意見が言えることだと思います。 自分の意見ぐらい誰だって言えるよ、と思うかもしれませんが、 当時の僕から見ても、他の裁判員の意見は酷くつまらない、 一般常識を絵に描いたようなものでした。 普通に生きてたら、それぐらい誰でも思いつくよね、と。 そういう意見ばかりだったということです。 もっと言うと、彼らは思想的には同じ顔をした無個性の 人間だとも言えます。 今ほど個性の重要性が叫ばれている時代もないと思いますが、 彼らが自分の意見だと思っているものは、誰かさんがこっそり 彼らに浸透させた価値観から発せられている借り物の 意見なのです。   教養について、池上彰氏の面白い対談記事があったので ちょっと引用してみます。 池上:日本を代表して出席している政治家は、大概の場合、 端の方にぽつんと座っていて、各国の代表とまったく会話を していないんですね。パーティのときもそうです。 上田:英語ができないから、じゃないんですか? 池上:その側面もあるかもしれませんが、本質的には語学の 問題じゃないですね。そもそも「会話」に加われないんです。 なぜかというと、各国を代表してやってきた政治家たちと 語るべき「コンテンツ」を持っていないから。言い換えれば 「教養」がないんですね。企業トップでも同じようなことが 起きるんです。自分の持ってきた仕事のプレゼン用 コンテンツ以外に、会話の中身がない、というわけです。 上田:それは今に始まったわけじゃないですね。 (日経ビジネスオンラインより引用) どうでしょう? これは裁判員裁判でも同じです。 裁判員の多くは、語るべき「コンテンツ」を持っていない。 だから意見が面白くないし、議論にもならないし、印象にも 残らないのです。   一定以上の人間と付き合おうと思ったら、かならずどこかで 教養が必要になります。 日本では政治や国際関係、宗教、思想などの議論を持ちだすと 嫌がられることが多いですし、実際僕も最近、某忘年会で その手の話題を持ち出して場の空気を濁しました。 彼らならその話題に乗ってくれるかもしれないとどこかで 期待していただけに、結構悲しかったです。 でも、ある読者の人がメールを送ってくれましたが、 外国人と話をするなら、自分の意見が言えないとまったく 相手にされません。 その方は僕のメルマガを読んで自分の意見が言えるようになり、 外国人と話す自信も生まれたと言っていました。 これは外国人云々もそうですが、そういう外国人を相手にして 生きている教養ある日本人と話す場合も同じだと思います。 収入が引き寄せる人間の種類を決めるのも確かだと思いますが、 教養も引き寄せる人間の種類を決めているのではないでしょうか。   教養は何の役にも立ちませんが、すべての役に立ちます。 哲学は「そのままでは」何の役にも立ちません。 しかし哲学を教養として学べば、哲学を役に立てるものにする 何かが学べます。 教養とは、教養それ自身を役立つものにする何かなのです。 それは具体的な文脈に当てはめたときに、はじめて役に立ちます。 自分の理想に対して、いかに自分の教養を当てはめていけるか。 それが今年の僕の課題です。 まだまだ暗中模索ですが、やるっきゃないでしょ。 今年もよろしくです。 ありがとうございました。   追伸1:日経ビジネスの引用元。 『MITは「理系バカ」が役に立たないと知っている』   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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