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国立国際美術館「リアルジャパネスク」・「コレクション展」にて ~現代美術との付き合い方~
ども、ペスです。 前回は途中から話がそれてしまったので、 あらためて「リアルジャパネスク」について書きたいと思います。 こちらの展示では1970年代・80年代生まれ、 つまり僕と同世代の方々の作品がところ狭しと並べられていました。 作品は立体の造形物や本、絵画、空間、動画など多種多様で、 いかにも現代アートな世界観がそこに表現されています。 しかしながら、この「いかにも現代アート」という言葉は一般に あまり良い意味で使われることがありません。 われわれが現代アートという言葉を使うのは、主に(皮肉的に) 理解できない最近の作品に対してなのです。 芸術の定義上、その作品がわれわれ一般人の理解の域を 超えていること自体は何ら悪いことではないと思います。 むしろ、なんでもかんでも容易に理解できるようなものは、 それこそ芸術として文化的価値がないということになるでしょう。 けれども、それが次世代的な表現だから理解できないのか、 単に意味のない表現だから理解できないのかでは、 まったく意味が違うワケです。 そして、ここの判断が作品を見る上で最も難しいと言っても 過言ではありません。 だからこそ画廊のオーナーや学芸員というのは、 これを見分ける目を鍛える必要があるワケですが、 その見分ける能力の無い人に何の解説もなくそのまま現代アートを 見せるというのは、かなり無茶なことではないかと思います。 つまり、現代アート・現代美術を展示するならば、 現代アート・現代美術とはなんたるかを一時的にでも 定義しておいてやるのが展示する側の優しさではないのか、 ということです。 真に新しい美術作品とは一体どういう作品のことなのか。 ここで選んだ作品は何がどう新しいのか。 最近の日本現代美術の動向とは一体何を指すのか。 リーフレットで使われているこれらの言葉の意味ぐらいは、 どこかに書いておいて然るべきではないでしょうか。   正直に言いますが、リアルジャパネスクで展示されている作品の いくつかについては、僕にはゴミにしか見えませんでした。 ゴミという表現が極端すぎるなら、廃材もしくは紙切れ、 とでも言いましょうか。 これは別に悪意があるワケではなく、素直にそう思ったのです。 展示されている場所がたまたま美術館の中だからかろうじて作品だと 認識できますが、その辺の道端に置いてあったら、普通に無視して 通りすごすと思います。 下手をすれば邪魔だとすら思うかもしれません。 何の解説もなく現代美術を一般人に見せるというのは、 それぐらい危ういことだということです。 デュシャンの『泉』だって、そう解説されなければ誰が見たって 単なる便器なワケですから、その解説があって初めて、 作品が立ち現われてくると言えます。 であるならば、解釈を見る者に委ねる、なんてのは甘えでしか ありません。 特に現代美術においては尚更です。 そもそも現時点で現代美術を評価することなんて出来ないのですから、 可能ならその点もどこかに示しておいてやるのが親切だと思います。 「理解できなくて当然なんですよ」、「分からないことを楽しむもの なんですよ」的なことを見る前に教えてあげれば、見る側も安心して 楽しむことができます。 日本人は自分の無知をさらすのが恐くて言えないことが多いですが、 みんな作品の意味なんて分からないんですから、言っちゃえばいいんですよ。 「意味わかんねー」って。 そしたら気楽に作品が見られるようになりますから。 真剣な顔して作品を見ている人も、心の中では「わかんねーなー」って 思っています。 そんなことを言うのが恥ずかしいから声に出さないだけなのです。 そういう意味では子供の方がよっぽど気軽に現代美術を楽しめるような 気がします。   実は僕も、この記事が出来上がる前はアレコレ小難しいことを 考えていました。 反資本主義的な思想がどうのこうの、ブーバーの<我-それ>の関係が どうのこうの、そういったことを書くつもりだったんですが、 途中でバカらしくなってやめました。 多分、現代美術はそういう風に見るものではありません。 どっちかといえば「ああかもしれない、こうかもしれない」と 思いを巡らせ、「結局なにも分からない」という着地点に落ち着くのが 正しい楽しみ方なんじゃないかな、と。 なぜか分からないけどずーっと気になってる。 そういう片思いの始まりのような関係を続けることが、 現代美術の楽しみ方なのかもしれません。   追伸: またしても個々の作品に関する話が抜けてしまったので、ここで補足です。 と言ってもあんまり話すことはないんですが、個人的には泉太郎氏の 動画作品と五月女哲平氏のキュビズム的な絵が印象に残っています。 いや、インパクトで言えば入口を入ってすぐの貴志真生也氏の作品が 一番なのですが、好みで言えば前者2人かな、と。 感想は特にありません。 というか、あっても言いません。 気になるなら自分の目で確かめて下さいませ。   ...more»
実存の危機における美術館の可能性
ども、ペスです。 昨今の政府や地方自治体の事業仕分けに伴い、これまで公に守られてきた 日本の芸術文化は急速に衰退の道を歩んでいます。 交響楽団の活動停止や美術館の閉鎖、若手芸術家の育成不足、 そしてお金にならない活動に対する民衆の無理解。 他にもたくさんあると思いますが、こういったことが日に日に 悪い方向に進み続けていることには違いありません。 民間からは以前紹介したソーシャルファンディングと呼ばれる ビジネスモデルが少しずつメジャーになり始めたとはいえ、 それでもほとんどの人が芸術分野に対しては共感を 示していないのが現状です。 音楽や絵画、彫刻、演劇、映画・・・芸術にも色々ありますが、 今はこの中の本当に極一部にしか光が当たらず、 他はすべて無いものかのように一般には扱われているワケです。 その一例として、日本の美術館が行う展覧会のほとんどは 「印象派の画家」展であることが挙げられます。 これは美術館側から言えば「印象派の展覧会が一番集客しやすい」 という事情があるワケですが、これを繰り返すことによって 日本人の芸術観とも呼ぶべき感覚が狭められてしまっており、 その結果として現代美術や印象派以外の美術が多くの人から 軽視されるようになったことは悲しむべきことだと思います。 そして唯一、現代美術が堂々と輝ける場所としてあるべき 各現代美術館も、経営を重視するあまりマンガやアニメを頻繁に 取り上げるようになってしまっているのです。 マンガやアニメは芸術か否かという点はともかくとして、美術館は本来、 われわれの見識を広めるものでなければならない、と僕は思っています。 もう少し言えば、民衆を啓蒙する役割が美術館にはあるのではないか、 ということです。 たとえ経営が危ういとしても、その理念まで捨ててしまっては そもそも美術館が存続する意味がありません。 ときには印象派を紹介することも必要でしょうし、 ときにはマンガやアニメを紹介することも必要でしょう。 しかし、今やそれらはメジャー中のメジャーであり、 美術館がわざわざやらなくとも他の商業施設や百貨店などが 勝手にやってくれるのですから、取り敢えずそっちは他に 任せておけばいいのです。 美術館が今考えるべきは、無難で保守的な利益確定型の展覧会を やることではなく、儲からなさそうなマイナーで地味な展覧会で いかに集客するか、美術館が本来あるべき在り方で存続するためには どうすればいいか、ということなのです。 そこでやっと本題に入っていきます。 ブログやメルマガにも書いたように、現代人は実存の危機という状態に 陥っています。 だからこそパワースポットなんてものがブームになったり、 アーユルヴェーダやヨガや座禅や写経や瞑想やマラソンが 流行ったりするワケですが、これらの現象を抽象化すると、 人々は論理的なものではなく感覚的なものを重視し始めた、と 考えることができます。 もちろん今言ったそれぞれには固有の論理があり、すべてが感覚的なものだとは 言えないのですが、一般に言う論理、つまり科学とはまったく違うものばかりです。 だとしたら、この中に芸術が含まれていても何ら不思議ではないと思いませんか? 実際、これだけ音楽が売れなくなった現代でも、ライブコンサートの動員数は 右肩上がりだと言います。 家で動画を見てればお金のかからないニコニコ動画も、幕張で行われた 有料イベントであるニコニコ超会議は10万人を集めました。 こういうところに美術館は注目すべきだと思うのです。 個人的には美術館は建物自体が素晴らしいことが多いので、 聖なる空間として機能させることは十分に可能だと思いますし、 実際に人によっては既に聖なる空間と感じている人もいると思います。 美術館に行くとなぜか分からないけど落ち着く。 そういう人も少なくないはずです。 だったら、そういう人をもっと増やせないかどうかを考えてみては どうでしょうか。 また瞑想などとコラボして、曼荼羅の展覧会をやっているその中で瞑想を 実際に体験してもらう、というのもアリかもしれません。 贅沢を言えば、美術の体験の仕方を分かりやすく指導した上で、 美術を鑑賞してもらうのが一番理に適っていると言えます。 美術は音楽や動画と違って時間軸がほとんど無いため、聖なる時間、 聖なる体験になり難いという点があります。 ですから、そこをどう補っていけるかが起死回生のカギになるでしょう。 音声ガイドもその1つの試みではあると思いますが、あれを借りる人は ほとんどいないという現実があるワケですから、その現実をしっかり受け止めて 別の案を模索しなければなりません。 単なるモノとの出会いを、いかにして体験に変えるか。 これが今の美術館に求められている技術ではないでしょうか。   ...more»
イノベーションと自明性
  ここのところ色々なメディアでイノベーションという言葉を目にすることが増えてきました。 創造的破壊、コペルニクス的転回、パラダイムシフト、リフレーミングなどなど、呼ばれ方は業界によって異なりますが、どれも意味はほとんど同じ。 これらが意味しているのは われわれにとっての「当たり前」を当たり前でないようにする ということです。 一般にはこれを、常識を覆す、とか言ったりしますが、要はそれさえできればイノベーションは起こるワケです。 しかしそれが口で言うほど簡単ではないことは、イノベーションについて少しでも考えたことのある人なら誰でも実感していると思います。 必死になって頑張ってみても、どこかの会社のようにテレビと空気清浄機を合体させてみたり、より高精度の液晶を開発してみたり、そういう勘違いが大半なワケです。   僕が考えるに、イノベーションが起こらない主な原因は、自分たちの「当たり前」が何かを自覚できていない、という点にあります。 日本の大手家電メーカーがしょーもないのは、柔軟な発想ができないからというよりも、自分たちが何に凝り固まっているのかを自覚していないからなのです。 テレビに空気清浄機をくっつける。 確かにこれも従来のテレビとは違った新しいものだと思います。 けれども、これをイノベーションと呼ぶのにはどこか違和感がある。 その理由は、くっつける物は多少珍しくても“くっつけ方”が凡庸だからです。 もう少し突っ込んでいえば、テレビをテレビ、空気清浄機を空気清浄機としてしか見ていないからです。 以前アフォーダンスの話をしたことがあると思いますが、テレビとはあくまでも映像を映し出す装置、いや、電気を使って映像を映し出す機能を持った大きな四角い物体でしかありません。 本来なら、それを使って映像を見るかどうかは、われわれがその使い方を選ぶかどうかによって決まります。 自分がその物体を邪魔だと思えば、それはどれだけ高性能であってもゴミになる。 モノの定義とはその程度のものなのです。 ですから、テレビや空気清浄機というのはそのモノが持った1つの側面でしかなく、テレビが単なる大型不燃ゴミではなくテレビであるのは、まさしく売り手がその側面のみをアピールし、われわれに対してそういうものであると強引に定義づけているからなのです。 この「当たり前」をほとんどの企業は自覚していません。 電気を使って映像を映し出す機能を持った大きな四角い物体をテレビとして売り出すこと、それを当たり前だと無自覚に思い込んでいるからこそ、何の悪気もなく彼らは「これはテレビです」と言って販売することができるのです。 僕が手前で、イノベーションを起こせない主な原因は「当たり前」を自覚できていないからだ、と言ったのはこのことです。 今の話は分かりやすいように企業を例にしましたが、これは別に商品開発に限った話ではありません。 知識にも、人間にも、同じようなことが言えます。 しょーもない知識も、しょーもない人間も、すべての根本にはこのことが関係しているのです。   「当たり前」はその言葉の通り、われわれにとって当たり前のことですから、それ自体は面白くも何ともありません。 見たり聞いたりしても何の感動もしないもの、ごく身近のありふれたもの、それをわれわれは「当たり前」と呼ぶワケです。 息をすること、体を動かすこと、水道の蛇口から水が出てくること、スーパーに行けばいつでも食料品が手に入ること、毎日何事もなく生きていること・・・。 これらはすべてわれわれにとって「当たり前」ですが、こうやって言葉で説明されなければ、通常は意識すらしないと思います。 それが「当たり前」が当たり前である所以です。 そのため誰もが「当たり前」に対して無自覚的で無意識的であり、その「当たり前」が揺らがない限り、それについて深く考えるようなことはほぼありません。 つまり「当たり前」を自覚していないこと自体はわれわれにとって普通のことであり、何か問題があるワケではないのです(道徳的には多々問題があるのですが、その話はまたどこかで)。 けれどもビジネス的に、知的に、人間的に、イノベーションを起こしたいと考えている場合は別です。 冒頭で話したように、イノベーションとは常識を覆すことなのですから、その常識、つまり「当たり前」を自覚していないことには話になりません。 犯人を知らなければ犯人を捕まえることも、ましてや改心させることもできない。 それゆえ、イノベーションを起こすことを主題とした場合、最初に考えなければならないのは、そもそもわれわれは何を「当たり前」として生きているのか、「当たり前」はどんな役割を担っているのか、ということです。 もちろんこれが分かっただけでイノベーションが起こせるということではありませんが、このことがイノベーションの第一歩として非常に重要であることは、ここまでの話からして異論はないでしょう。 ただ改めて考えて欲しいのは、ビジネスだろうが、知識だろうが、それらはすべて人間に関することである、という点です。 われわれ人間の活動がなければ、知識やビジネスは成立しません。 というより、「当たり前」という土台の上で行っている思考や行動が反映されて、それは知識やビジネスになるのです。 だったら。 ビジネス的イノベーションとか知的イノベーションとか、そういったことをちまちま考えるのではなく、われわれ人間自身の「当たり前」を問い直せば、あらゆる意味でのイノベーションを起こしやすくできるのではないでしょうか。 そしてそれが良くも悪くも人生を変えること、人生を「逆転すること」に繋がるのではないかと思うのです。   ここで「それでは僕と一緒に人生を変えましょう」などと巷の成功哲学愛好会のような気持ちの悪いことを言うつもりはありません。 ましてや僕にはあなたの人生を変えられるほどの力はないし、その資格もない。 僕のような人間がそんなことを口にするのは「おこがましい」というものでしょう。 神様でもあるまいし。 またそれ以前に、人生を変えること、人生を「逆転すること」、それ自体が良いこととは限りません。 イノベーションを起こすというと世間的には良い意味に捉えられることがほとんどですが、要は常識的でない思考を手に入れていくワケですから、必然的に常識的な人からは受け入れられなくなっていくことは十分に有り得ます。 場合によっては、今まで普通に付き合うことができた友人と話が通じなくなることもあるかもしれません。 「それでも変わりたい」 そう言い切れる者にのみ、自ら変わる資格が与えられるのではないでしょうか。   僕の言っていることは昔から何も変わっていませんが、僕は上記のような人と一緒に勉強したいし、仲間になりたいし、いろんなことに挑戦したいと思っています。 だからこそ、こんなマニアックな記事をずっと書き続けてきているワケですが、個人的な事情で来月以降からはよりパワフルに、よりアグレッシブに活動を本格化させていく予定にしています。 ブログの更新頻度も上がると思いますし、メルマガを出す頻度も上がるでしょう。 またイノベーションに関するセミナーや読書講座なども予定として考えています。 そしてあわよくば、仲間を巻き込んで海外進出なども出来ればな、と考えているところです(僕個人は1年ほど前から海外で物を売ったりしています)。 だからどうした、と言われればどうもしないんですが、ブログも新しくなったことだし、いい機会なので改めて仲間(便宜上はメルマガ読者)を募集しようかな、と。 要はそれだけです。 よかったら僕と一緒に(人生)勉強してみませんか? イノベーティブな生き方。 きっと楽しいと思いますよ。   ペスのメルマガに登録する   ちなみに今なら登録のおまけで『「当たり前」の構造』という18ページ程度のPDFレポートがついてきます。 この名前からも想像がつくように、内容はこの記事の続きです。 われわれの「当たり前」を具体的に紹介し、思考はいかにして可能か、会話はいかにして可能かなど、そんな感じのことを解説しました。 いつも通り難しい話はしてませんので、気楽に読んで下さい。 敢えて専門的に言うならば、メタ思考やメタ認知といったメタレベルの話、ないしオートポイエーシスの原理などにも関連したテーマです。 まあレポートの中にはこんな言葉は一言も出てこないんですけどね(笑) こういう言葉を出した方が理解しやすい場合もあるかと思ったので一応。 ではでは、今回も長くなりましたがこの辺で。 ありがとうございました。   ...more»
Kickstarter(キックスターター)と投資と寄付
  先日、Kickstarterというサイトを見つけました。 このサイトは一言で言えば、個人や企業から投資を募り、 そのお金で業績を作ってそこから生まれた利益の一部を 還元する、という場を提供するものなのですが、 日本ではこういった活動が比較的ネガティブに捉えられる 傾向があります。 例えばKickstarterではバンド活動やダンスイベント、 個人作品の展示会のための投資を募っている人が たくさんいます。 ライブツアーをやりたいんだけど、お金がないので できません、だから私達に投資してくれませんか?と。 そういうことを彼らは言っているワケですが、これは 日本人の感覚からするとなかなか受け入れ難い要求では ないでしょうか。 日本人であるわれわれは普通の感覚としてどうしても、 自分がやりたいことを通すために他人をあてにするのは 間違っていると考えがちです。 日本の家庭では小さい頃から 「他人に迷惑をかけるな」 という教育を受けます。 そのため自分のやりたいことがあっても、周りの目を 気にしてできない、といったことが度々起こるワケです。 もちろんだからといって「他人に迷惑をかけるな」という 教育が間違いだということではありません。 それはそれで確かに正しいのですが、どこか日本人は その保守的な教育のせいで 「他人の世話になってでも、世界に貢献する」 という感覚が欠けているように思うのです。 そもそも、われわれは原理的に言って誰にも迷惑をかけずに 生きていくことは不可能です。 われわれ一人一人が社会の成員である以上、自分が何かを 為すことによって、社会には少なからず何かしらの影響が 出ます。 それが仮に良かれと思ってやったことだとしても、 自分の知らない世界では悪影響として現れているかも しれないのです。 また本来ならあなたが生み出せたはずの価値が 生み出されなかったことによる世界の損失は、あなたが アルバイトで得る利益よりよっぽど高いはずです。 日本人的に見れば、アルバイトをしながら生計を立てて 細々と自分のやりたいことをやる、というのが最も好ましく 常識的に見えるでしょう。 その気持ちはよく分かりますし、実際僕もそのように考えて しまいがちな部分はあります。 しかし、そのアルバイトをする時間でその人が生み出せた かもしれない価値が失われていると考えたらどうでしょうか? 一日8時間アルバイトをしてその人が8000円を稼ぐのと、 その8000円を融資する代わりに100万円の価値が 生まれるかもしれない音楽をその人に生み出してもらうのと、 どっちが世界にとって好ましいことでしょうか? あなたがどう思うかは分かりませんが、少なくとも僕は 後者だと思うのです。 「他人に迷惑をかけない」という考え方は日本人の美徳 だと思います。 それは絶対に失っていいものではありません。 ただ、他人に迷惑をかけないことによって得られる効果は マイナスを生まないことだけ だというのは分かっておく必要があります。 この美徳をどれだけ意識しても、そこからプラスが 生まれることはないのです。 他人に迷惑をかけないことに限らず「~してはいけない」 という規範は何もプラスを生みません。 そこには精一杯謙虚に生きる慎ましい人間はいても、 パワフルにアグレッシブに何かを生み出そうとする 人間はいない。 先ほど僕は「何をやろうと社会に影響を与えてしまう」と 言いましたが、だったらいっそのこと開きに直ってしまう べきではないかと思うのです。 つまり、どう慎ましく生きたところで他人に迷惑がかかる 可能性が消せないのなら、その迷惑を上回るほどのプラスを 常日頃から生み出すように活動しておくべきではないか、 ということです。 これは僕個人の道徳に基づくものですから、必ずしもこれが 正しいということではありません。 ただ、こういった意識は持っておくに越したことはないのでは ないかとは思います。 このご時世、寄付や投資だというと甘えだと捉えられるのも 仕方ないことなのかもしれません。 お金にならないようなことをやってるくせに、お金が欲しい なんて都合が良過ぎる。 そういう意見も当然あるでしょう。 しかし、お金にならないような活動だからこそ、 お金を稼げる人が助けてあげなければならないというのも また事実です。 芸術なんてのはまさにそうで、あんなものは余程のことが ないかぎりはお金にはなりません。 そもそも売るために作られたものじゃないんですから。 音楽もダンスも絵画も映画も、すべては単なる世界への メッセージであって、それがお金になるかどうかは二の次 なのです。 そのことをわれわれはまず理解すべきだと思います。 世間的には 「だったらそんな金にならないことは早くやめろ」 ということになるワケですが、本当にそれは正しいこと なのでしょうか? お金にならないことは価値のないことなのでしょうか? それはさすがに違うと思いませんか? その活動の価値というのは必ずしも金銭的価値で計れる ようなものではありません。 それが文化的活動ともなれば、お金に関係なく守っていく 必要があります。 なぜなら、それはわれわれのアイデンティティーに関わる 問題だからです。 日本人を日本人たらしめている文脈を文化的活動は 担っているのです。 もしそれが失われたとしたら、われわれは日本人という レッテルを貼られただけの単なる「人」になってしまいます。 それはもはや日本人とは言えませんし、日本を語る資格すら われわれは失うことになるでしょう。 だからこそ守らないければならないのです。 今1つ、そういった文化が危機に立たされています。 僕の数少ない友人の一人である川田祐子さんがそれです。 彼女は東京国立近代美術館に作品が所蔵されるほどの 実力を持ちながらも、資金難のためにここ最近は自身の 活動に力を注ぐことができていません。 それでも彼女はギリギリのところで活動を続けており、 2年後に開催予定の、将来日本を代表することが期待される 女性作家5人を集めた損保ジャパンの展示会に向けて新作を 作り続けています。 そういった女性作家に選ばれるような彼女ですら、日本では なかなか理解が得られないのが現状なのです。 もちろん理想としては自分の作品が売れることによって 生活が成り立つというスタイルが好ましいのは言うまでも ありません。 それは音楽家でもダンサーでもそうでしょう。 けれども、それはあくまで理想であって現実はそうは 上手くいきません。 彼女ほどの実力があってもこの状況なのですから、 他のアーティストがどのような状況なのかは想像に 難くないと思います。 それこそまさに先ほど話したようにアルバイトをしながら 活動を続けるのがやっと、という感じです。 しかも悪いことに日本ではそれが「正しいこと」のように 見えてしまう。 ここに日本の文化的停滞の大きな原因があるのではないと 思います。 僕が調べたかぎり、文化庁はじめ、各種文化支援財団は 基本的に個人の活動そのものは助けてくれません。 それらが支援してくれるのは、あくまでも展示会や ワークショップ、演奏会などのイベントだけであって、 普段の活動費に関してはどこも支援してくれないのです。 しかし、普段の活動ができなければ、そもそも展示会に 出す作品は作れないし、演奏の練習もできないのですから 話がおかしくなってきます。 それらの支援財団も結局は「アルバイトありき」で考えるから こういう支援の仕方になってしまうのでしょう。 最初にKickstarterの話をしましたが、あのサイトは こういった日本人の発想からはまず生まれないものです。 ましてあのようなサイトをBBCやCNNなどのビッグスポンサーが 支援するなどよほど日本ではありえません。 けれども、あれが世界のスタンダードなのです。 何であれ、良いと思ったものは応援する。 ただそれだけのことがカタチになったに過ぎません。 見てもらえれば分かりますが、かなりの確率で、かなりの人が Kickstarterでの活動資金獲得に成功しています。 最近ではpebbleというスマートフォン用インターフェースの 開発資金を募集して日本円で約8億円ほどの投資が集まって いました。 日本でこれだけの資金を集めようと思ったらどれだけ 時間と労力がかかるでしょうね。 下手したら、それだけで1,2年無駄にしてしまうかも しれません。 ですが、そんなことをしている間にアイデアはパクられ、 陳腐化し、使えないものになってしまうのです。 われわれは自分の知らないところで日本の可能性を これでもかと言うほど潰しているのではないか。 もし少しでもこの記事に共感していただけたなら、 そういったことを日ごろから考えていただきたいと 思います。 ではでは。 追伸:川田祐子さんについて。 彼女の現状について詳しくはこちらのブログをご参照下さい。 川田さんの作品集動画はこちらから見れます。   ...more»
常識の崩壊
  前回の【目標(やりたいこと)を見つける方法】はどうでした? ってかやってないでしょ?(笑) まあ別にいいんですけど(笑) あれを読んで実際にやる人は1000人に1人もいないと思いますが、 もしちゃんとやって目標らしきものが見つかったという場合は 僕までご一報下さい。 素晴らしく行動力のあるあなたには、特別に次のステップを お教えしますので。 あ、そうそう。 いきなり話は変わりますが、最近なにかと話題の Twitterなるものに登録してみました。 まだまだ全然使いこなせてなくて あんまり意味も分かってないんですが、 もし興味があれば僕を探してみて下さい。 何かしら面白いことがあるかもしれません。 (ブログの更新なんかはお知らせしてます)   さて、そんなどーでもいい話はこの辺にして、 さっさと本題に入るとしましょう。 えー、今回は【常識】にスポットを当ててみることにしました。 常識と言えば、前回の記事で【共同体の常識】というキーワードが 出てきましたね。 われわれは普段、無意識に「誰か」が決めたレールに沿って 生きている。 そのレールは日本の常識だったり、会社の常識だったり、 家族の常識だったり・・・ それらをまとめて僕は【共同体の常識】という風に 表現したワケですが、じゃあ 「現代における共同体の常識ってどうなってんの?」 ということを今回は掘り下げていこうかと思ってます。 抽象的で理解の難しい話になってしまいますが、 出来る限り平易な表現を心がけるのでご勘弁を(笑) んじゃまずは常識の定義の確認からです。 【常識】の定義って何ですか?と質問されたら あなたなら何と答えますか? 知っていなければならないこと。 生活するために最低限必要な知識みたいなもの。 誰もが当たり前にすること。 ザックリ表現すればこんな感じですかね、多分。 んじゃあ、ちょっとここで頭の体操ならぬ、 頭のトレーニングをしてみましょう(どう違うんだ・笑) 上に挙げた3つの常識の定義。 これらは完全に僕の思いつきで書いただけなんですが、 この3つには実は共通点があります。 さて、その共通点とは何でしょうか。 ヒントは・・・ありません(笑) これは帰納的思考力を鍛えるためのトレーニングです。 帰納というのは、与えられた情報から何らかの法則や 共通項などを見つけ出す作業(?)だと思って下さい。 この作業を常日頃トレーニングしていると、 普通の人には見えない世の中の普遍的な法則や 共通点が見えるようになってきます。 電車に乗っている人は何を求めているのか。 サラリーマンは何にお金をかけているのか。 そーゆーことが見えてくるようになるので、 何かしらビジネスをやろうと思っている人は 特にやっておいた方がいいかもしれません。 ちなみに、逆に法則や共通項を具体的に当てはめていく作業を 演繹と言います。 哲学書とか難しい学術書なんかにはよく出てくる言葉なんで 意味を覚えておくと多少読みやすくなるかもしれません。 まあそれはいいか。 そろそろ答え出ました? じゃあ答え合わせをします。 答えは、 【誰もが持ってて(知ってて)当然という前提があること】 です。 「知ってなければならないこと」というのは 裏を返せば「知らないのはヤバイ」という意味ですよね。 「生活するために最低限必要な・・・」というのも 裏を返せば「それが無かったら生活できない」という 意味になります。 「誰もが当たり前にすること」は裏を返すまでもなく 「みんなが無意識にやってること」という意味ですね。 つまり常識は、誰もが持ってて当然と思われているもの、 ということになるワケです。 まあここまでは別に大した話じゃありません。 自明なことをトレーニングを交えつつ確認しただけですから。 問題はここから。 じゃあ相対主義の世界では【常識】はどうなってしまうのか。 軽く結論を言ってしまうと、常識の定義自体は変わりません。 定義ではなく、常識の【在り方】が変わります。 相対主義のことを久々に思い出して欲しいんですが、 相対主義を生きるわれわれの特徴は一言で言えば 【バラバラ】 でしたね。 従うべき一つの絶対的な基準が存在しないから みんな好き勝手やって生きている。 アイツはアイツ、オレはオレ。 アイツがどう思うかは知らないけど、 オレはオレでやりたいことやるからほっといて。 これが相対主義の主な特徴でした。 ってことはですよ。 相対主義の世界で万人に共通する1つの常識なんてものは 存在しえるのか?という話になるワケです。 みんなバラバラの価値観を持って考えたり動いたりしてるのに、 常識だけが統一されていることなんて有り得るのか、と。 有り得ないですよね? だって相対主義ではみんな 「自分の持ってる常識こそが常識なんだ!」 って思ってしまうんだから。 要するに 相対主義における常識というのは、共同体の中の 誰もに共通した1つの常識ではなく、個人個人が バラバラに持っている【自分勝手な】常識に過ぎない、 ということなのです。 こんなのはもう常識じゃないですよね? 常識という名の個人主義というか何というか。 「オレが基準だ」的な常識観になってしまっている。 他人に対して自分の常識を押し付けるワケではないので そこまでは言い過ぎかもしれませんが、それでもやっぱり 従来の常識とはかけ離れた意味になってますよね。 のび太がぶつかって謝らないのはムカつくけど、 オレ(ジャイアン)がぶつかって謝らないのは 何も問題ない、みたいな。 これは僕の偏見かもしれませんが、電車の中や街中の風景を 見ているとそんな風に感じることは多いです。 で。 また前回の話に戻ります。 前回の【共同体の常識】という言葉が出た辺りを 読み返してみて欲しいんですが、その辺に われわれには共同体の常識があるから、自分の目標が 明確じゃなくても虚無感に襲われずに毎日をそれなりに 生きることが出来るんだ という感じの文章があると思います。 コレ。 逆に言えば、共同体の常識がなければ虚無感に襲われる、 ってことですよね。 ということは、現在社会問題になっている自殺者の増加と 相対主義の関係が見えてきませんか? 社会の大きな目標であったはずの共同体の常識が崩壊した結果、 多くの人が目標を見失い、虚無感に襲われ、 その精神的苦痛を避けるためにみんな自殺していく・・・。 これが正しいかどうかは分かりませんが、 僕にはそういう構図が見えます。 さっきも言ったように、相対主義でも常識自体は存在します。 ただ、その常識は共同体の常識ではなく、何の基準にも 支えにも成り得ない「ヤワ」で自分勝手な常識に過ぎません。 より分かり易く言えば、それは もたれかかることの出来ない常識であり、目標 なのです。 なぜなら、そこには【文化】という大事な大黒柱が 抜け落ちてしまっている。 もう分かると思いますが、共同体の常識というのは 【文化】と同じ意味なんですね。 われわれが【日本文化】という言葉を口にするとき、 それは【日本(という共同体)における常識】を 意味します。 もちろん文化という言葉にはもっと広い意味もありますが、 それはまた別の話。 今ここで言う【文化】とは上のような意味です。 その文化が今、無くなろうとしているのです。 近所付き合い?そんなの面倒だし。 年賀状?別にメールでいいじゃん。 お中元?お互いにやめればお金もかからないし、楽じゃん。 ・・・。 こんな声がどこからともなく僕の耳には聞こえてきます。 これまで常識だったそれらの文化が軽視され、 最新鋭のITの方が重要視される時代。 そんな時代が現代です。 こんなことを偉そうに書いてる僕も、こうやって ネット上でブログを書き、メールを送っているワケですから その影響から脱することは出来ていません。 でも、大事なのはそれに【気付いている】ことだと 思うんですね。 これは自分を正当化してるんじゃなくて、 【今の時代に迎合しないために】という意味で。 時代は【気付いていること】が大事なのであって、 流れに【乗らないこと】が大事なワケではありません。 というか流れには乗らないといけない。 だってそれがその時代のルールですから。 ただ僕が言いたいのは、その流れに乗りつつも 「自分を見失ってはいけない」ということなのです。 「みんなバラバラだから自分もバラバラでいいや」ではなく、 そんな状況を見つつ自分もバラバラのような振りをして 一歩高い視点で全体を見渡しておく。 この視点がないから、いつの時代も多くの人は メディアに踊らされてしまうワケです。 要するに、現状が普通だと思わないで欲しいのです。 むしろ今は【異常】だと思って欲しい。 (正確に言えば、常に「今」を疑って欲しい) 何を以って異常とするのかは人によると思いますが、 僕はほとんど何もかもがオカシイと思っています。 そもそも【常識がバラバラ】という時点で、 根本的なところからズレてますから。 ただ今は、それにいきなり反発するんじゃなくて 様子を伺っておいてほしいんですね。 大事なのは上に書いたように【気付いている】ことなんで。 いろんなニュースを見ながら 「あぁ、相対主義なんだなー・・・」 と感じ取っておいて下さいませ。 さてさて。 なんか今回の記事は取りとめのない感じで 進めてきちゃいましたが、意味は伝わったでしょうか? 念のためにザックリまとめておきますね。 相対主義の影響によって共同体の常識は崩壊し、 個人が自分勝手な常識を持つようになった。 しかし、文化(共同体の常識)を無視して個人が作り上げた常識は 自分さえ支えられないほどに脆かった。 その結果、人は自分で自分を追いやることになり、 今や自身をも崩壊させてしまっている。 文化の無い人間とは、大黒柱の無い家である。 どれだけ外見を立派に見繕っていても 軽い地震があっただけですぐに崩れ落ちる。 見た目や「安さ」にこだわるのもいいが、本当に大事なのは いざという時に自分を支えてくれる大黒柱ではないだろうか。 こんな感じ。 こんなにスッキリまとまるんなら、最初から これだけ書いときゃよかった(笑) まあそれはともかく。 今回の記事は今までの記事の「総まとめ」的な 意味合いが強いので、これを機会に今一度 以前の記事を読み直してもらえれば新たな発見があったり、 より深く理解できる部分があったり、何かと気付くことが あると思います。 ってかそうなるように書いてるので 出来れば復習して欲しいと願う今日この頃。 よろしくです。 ではでは。 ありがとうございました。 ...more»
成功哲学の本質的矛盾
  今回は久々にベーシックインカムの話を離れて 僕が嫌っている【成功哲学】をテーマに記事を 書いてみようと思います。 なんでわざわざ嫌っていることをテーマにするのかと言えば、 タイトルを読んでもらえれば分かる通り、 「そんなもん信じててもしょうがないよ」 ということが言いたいから。 好きで信じている人を否定するつもりはないんですが、 本質的な矛盾に気付いている人は恐らく少ないと思うので、 念のため書いておいてみようかな、と。 完全なお節介です(笑) 知らない方が幸せかもしれませんので 見たくない場合はここで閉じて下さいませ(笑) では早速本題へ。 本田健、斉藤一人、ナポレオン・ヒルよろしく、 いろんな人が声高に叫び続けている成功哲学。 「こうやれば成功出来ます」「ああやれば成功出来ます」 と言い続けている割には成功している人があまりに 少な過ぎる気がしてなりません。 その理由を聞けば恐らくほとんどの人は 「本の内容を実行しない人がほとんどだからだ」 というような一見して反論の余地のなさそうな 回答をすると思います。 でもそれって本当なんでしょうか? というのも、成功哲学系の書籍というのは、基本的に 【誰にでも出来るようなこと】しか書かれていない印象が 僕にはあるからです。 「毎日靴を磨きなさい」とか「感謝の気持ちを忘れるな」とか 「ツイテルって1日100回言いなさい」とか「寄付しろ」とか 大よそこんな誰でも出来る感じのことが書かれているのに 実行しない方が僕には信じられません。 だってそんな誰でも出来ることをやるだけで 成功出来るって書かれているんですよ? しかも実際、それで成功した人が書いてるんですよ? 言葉は悪いですが、やらない方がバカじゃない?と 思われても仕方ないと思うんです。 「じゃあ、お前もやってみろよ」 と思うかもしれませんが、その批判は受け付けません。 今回のテーマとそれは何も関係ないので。 じゃあ何でみんな実行しないのか、って話になるワケです。 どうしてみんな読むだけ読んでやらないのか。 また、仮にやっていたとしても成功出来る人が どうしてわずかしかいないのか。 僕が考えるに、その理由は大きく分けて2つあります。 1つは、根本的なところでみんな本に書かれている内容を 信じていないから。 この話については詳しくはカルヴィニズムについての 予備知識がないと分からないと思いますが、 要は、われわれは1つのものを信じ続けられるような 文化では育っていない、ということです。 日本は多神教の国(文化)なのに対して、 成功哲学とは西洋から輸入されたもの、 つまり一神教の国で生まれたものになります。 一神教と多神教の違いを一言で言ってしまえば、 それは、1つのことを無根拠に信じることが 出来るか否かの違いです。 日本には八百万の神がいると信じられている反面、 西洋にはキリスト教の神一人。 要するに、西洋では成功哲学という1つの体系を無根拠に 信用出来るのに対して日本では「他にも方法があるんじゃないの?」 という疑念を抱きやすい、ということです。 キリスト教の人は「他にも神様がいるんじゃないの?」とは 絶対に思いませんから。 疑念を抱くっていうことは、どこかで信じていない証拠。 100%信用する、というのは日本人には難しいのです。 仮に100%成功哲学を信用出来たとしたら その人は成功すると思います。 かつてカルヴァンの予定説を信じていた多くの人が 経済的成功を収めた歴史を調べれば、なんとなく分かる かもしれません。 詳しくはエーリッヒ・フロムが書いた 自由からの逃走 新版という本を参考にして 色々考えてみて下さい。 ・・・とか言って終わろうと思ったんですが、せっかくなんで もうちょっと説明を足しておきましょう。 カルヴァンの提唱した予定説というのは、 「天国に行ける人は生まれた瞬間に決まっている」 「だから生れてから頑張っても仕方がない」 というもの。 われわれの感覚だと、これだけ読んでしまったら、 「何をやっても天国に行けるヤツは行けるし 行けないヤツは行けないんだったら、生きてるうちに 悪いことやりまくってもいいんじゃないの?」 なんてことを思ってしまうかもしれませんが、 それは現代的・日本的な観点からものを見すぎです。 中世ヨーロッパの人々にとって、神は絶対であって 神に選ばれることが彼らの全てだった、ということを 分かっていないとそーゆー発想に陥ります。 じゃあ予定説を信じている人はどう考えていたかというと、 「私が神に選ばれないワケがない」 「私が地獄に落ちるはずがない」 と考えていた(無根拠に確信していた)ワケです。 そして肝心なのはここから。 カルヴァン曰く、天国に行ける人は既に決まっているから 今更何をあがいてもその予定は変えられない。 しかし、よーく考えてみると、その選ばれた者は 他の人よりも運がいい。 運が良いということは、その人は現世で 成功している確率も高いのではないか。 職業は神から与えられた使命なのだから その職業で成功するならば、その人は 神から選ばれた可能性が高い。 つまり。 お金をたくさん持っている人は天国に行ける確率が 高いということカルヴァンは言ったワケです。 ちょっと僕らの感覚からするとオカシイですけどね。 その頃の発想がそうだったんだから仕方がない。 まとめておきましょうか。 中世ヨーロッパ(16世紀頃)では人々は予定説を信じ、 「私が神に選ばれないワケがない」と確信していたため、 自らの職業で成功を収め、たくさんのお金を貯める人が増えた。 そんな感じです。 ついでに言っておくと、神に選ばれた者が悪行など 行うはずがないですから、善なる行為を行うことによって 「自分は神に選ばれた者なんだ」とアピールするような ことも起こったそうな。 この辺がキリスト教の面白いところですよねー。 もう分かったと思いますが、これが成功哲学の 根っこの部分になります。 読んで分かる通り、われわれ日本人にはちょっと 理解し難いですよね? 頭では分かっても心では分からない、みたいな。 ただ1つ言えるのは 他人に親切にしたり、寄付をしたり、靴を磨いたりするのは 【そうやったら成功出来るから】という卑しい発想ではなく、 成功に値する人間はそれぐらいのことは当然のこととして 行うはずだ、という信念に基づいて行わなければ意味がない ということです。 1つ目が随分長くなっちゃいましたが、成功する人が少ない もう1つの理由は、成功哲学というモデルでは ネガティブとポジティブの概念が矛盾しているから。 「ポジティブ思考で毎日を生きよう」 という感じの言葉が成功哲学系書籍にはよく見られますが、 この思考自体がネガティブなことにお気付きでしょうか? もう少し分かり易く言うと、 「ポジティブにならなきゃ成功出来ないんだ」 と思うことはネガティブな思考じゃにゃいにょ?と。 本当にポジティブに考えるなら 「ネガティブな(今の)ままでも大丈夫!」 という発想になるはずなんです。 つまり、本質的に成功哲学的なネガティブとポジティブは 矛盾しているのです。 これも上の予定説の話と関係しているんですが、 ネガティブとかポジティブとか考えている時点で それが既にネガティブなんですよ。 もっと言えば、成功哲学系の書籍を読んでいる時点で その行動がもうネガティブですよね? 成功したい、つまり今の自分じゃ成功出来ないと思うから 本を読むワケであって、自分が成功に値する人だと思っていれば そんな本を読むより、もっとすることがあるはずですから。 最初の話よりこっちの方が分かり易いと思うんですが、 どうでしょ? そんなワケでありまして、結局のところ成功哲学というのは 【成功哲学を100%信じていること】 (自分は成功するんだと確信していること) 【ネガポジの矛盾に気付くこと】 この2つがキーになっているんじゃないかと 思っています。 ただ、これはあくまで僕個人の考えに過ぎませんので 参考程度に思っておいて下さいね。 ではではー。 追伸 毎度コメントを下さるkyunkyunさん。 コメントしてもらえるのは非常に有難いのですが、 ちょっと僕の発言と論点が噛み合っていないようなので 一旦ベーシックインカムの話は保留にしますね。 また何かあればいつでもコメントして下さいませ。 ...more»
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