UA-32556480-1
top-image

Archives for 文化

解釈からの逃走 ~スーザン・ソンタグ著『反解釈』を手引きに~
ども、ペスです。 最近僕は現代美術に対して以前とは違う感情を抱くようになってきました。 以前(と言っても、つい1ヶ月程前までですが)は現代美術の展示には学芸員などの 美術に理解のある人の補助が必要だと言っていたし、実際そう思っていたのですが、 それは少し違うような気がしてきたのです。 その考えは最初、キュビズム以後を現代美術と呼ぶのが妥当と言えるのではない だろうか、という発想から始まりました。 キュビズムを現代美術の起源とする場合、それ以前とそれ以後の美術作品には明確な 違いが見られます。 キュビズム以前の美術は理解度の差はあれど誰が見ても“容易に”楽しめるもの だったのに対して、キュビズム以降の美術は人々の理解からどんどん遠ざかっている、 ということです。 古典主義やマニエリスム、浪漫主義、印象派などの巨匠が生み出した人物画や風景画は 万人を魅了し、今もその効力を失っていません。 彼らの作品は今でも人気があり、展覧会を開けば比較的多くの人が美術館に集います。 一方で、キュビズム以降のフォーヴィズムやシュールレアリズム、ミニマリズムといった 美術作品は人々の注目を集めるどころか、名前さえ知られていないのが現状です。 それらを見に来るのは極一部のマニアックな人だけであり、今の時代の「ぶっ飛んだ」 美術作品においては、彼らすらも敬遠する傾向にある。 こうした現実を見ると、現代美術は(人々の)解釈から逃げているように見えてきます。 解釈から身をかわすために、芸術はパロディになることもあろう。 あるいは、抽象的になることもあろう。 あるいはまた装飾的になることもあろう。 さらにまた、解釈に完全な空振りをくらわせるために、芸術は非芸術になることも ありうる。 スーザン・ソンタグは『反解釈』の中でそう言っていますが、われわれが現代美術と 呼ぶものは、まさしく彼女の言葉そのままではないでしょうか。 ただ石を床に並べてみたり、ただハンカチを重ねてみたり、ただ身の回りのものを 箱の中に入れてみたり、ただキャンバスを黒く塗ってみたり・・・。 これらの美術作品には解釈の余地がありません。 もちろん、これらを“無理やり意味付けて”語ることは可能だし、そういうことを している人はネット上にもたくさんいますが、それは正しい芸術との接し方ではない、 むしろそれは芸術を安易なものにおとしめていると彼女は言います。 現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに 放っておきたがらない俗物根性にすぎないことが分かる。 本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力を持っている。 だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、人は 芸術作品を飼いならす。 解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。 そもそも知的態度で芸術と接すること自体が間違いである。 彼女はそう言うワケです。 では、われわれは現代美術(芸術)とどう接すればいいのか、という話になるワケですが、 それについては彼女のこんな発言が参考になるかもしれません。 いま重要なのは、われわれの感覚を取り戻すことだ。 われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければ ならない。 われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけ出すことではない。 ましてすでにそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。 われわれがなすべきことは、「もの」を見ることができるように、内容を切りつめること である。 芸術についてのあらゆる解説と議論は、芸術作品を――そしてひろげて言えば、われわれ 自身の経験を――われわれにとってもっと実在感のあるものとすることを目指すべき である。 これは簡単に言えば、芸術体験を大切にしなさい、ということです。 石が置いてあろうが、ハンカチが重ねてあろうが、ガラクタが並べてあろうが、 それを見て感じたものを知識ではなく経験として積み重ねなさい。 そして芸術に関わる者は、その経験を補助、つまり余計な解釈が起らないよう、 鑑賞者に働きかけなさない。 僕には彼女がこう言っているように思えます。 すなわち芸術、特に現代美術に対する補助とは「分かろうとしないこと」を鑑賞者に 教えてあげることであり、感性を理性の支配下に置かないことを警告してあげること なのです。 知識同様、経験も積み重ねなければ、その本来の効力を発揮しません。 一度美術作品を見ただけでは、その醍醐味は味わえないのです。 釣りだって、サッカーだって、読書だって、ゲームだって、続けているからこそ 見えてくる魅力があると思います。 続けなければ身に付かない技術もあるだろうし、続けているからこそ分かる感覚、 分かる嬉しさ、分かる悔しさなどがあるはずです。 1回目は何も分からなかったけど、3回目ぐらいからコツがつかめて、10回目に なる頃には人に教えられるぐらいになっている。 経験とはそういうものです。 だとしたら、彼女は単純なことしか言っていません。 いっぱい経験すれば体が勝手に覚える、そして経験は別のものへ昇華する。 それだけです。 芸術とはいっぱい体験するためのものであって、いっぱい学ぶためのものではない。 そして現代美術とは、今までにない新しい体験をするためのものである。 僕には彼女のそんな囁きが聞こえます。 ...more»
近代における芸術の限界 ~なぜわれわれはダ・ヴィンチを超えられないのか~
ども、ペスです。 現在われわれが芸術と呼ぶものは音楽であれ美術であれ演劇であれダンスであれ、 およそどれもが言葉にならない自己を表現したものだと言われます。 思想であったり、哲学であったり、感情であったり、表現されるものは様々ですが、 いずれも自己の内から湧き出たものを表現している。 芸術の歴史を振り返ってみると 「16世紀以前には画家は職人であった」 とハーバード・リードが言っているように、その頃まで画家(芸術家)は ひたすら完成度の高いもの、最も調和のとれた美しさを追い求めて 描き続ける人たちだったことが分かります。 彼らの代表格とも言えるレオナルド・ダ・ヴィンチは 「絵を描くにあたって最も困難なことは、人間の魂の意図を描写することである」 という言葉を残していますが、当時の人間像からすると「人間の魂の意図」というのは 恐らく「神の意志」の言い換えではないかと思われ、そこに美しさが宿るという信念が あったのではないかと想像できます。 彼らにとって美しさを表現することは、自分が神の意志にそえたことを確信していく プロセスだったのではないか、ということです。 「これだけ美しい絵が描けたのだから、神の意志にそえたに違いない」 彼らの綿密な計算の上に描かれた絵や言葉からは、そういった信念が 垣間見られます。 そこには自己を超えたものを必死で捉えようとする真摯な芸術家の姿があったのです。   当時の職人というのは信仰の差はあれ、みんな同じ信念をもって生活していました。 彼ら(主にプロテスタント)には、自分が職人の家に生まれてきたのは 神の意志であり、その職は神が自分に与えた使命だ、という信念があったのです。 芸術家は美を表現することで神に触れ、鍛冶屋は優れた斧や剣を作ることで 神に触れ、料理人は美味しい料理を作ることで神に触れる。 彼らにとっては自分の職を極めることが、神への信仰そのものだったのです。   このことから、現代の芸術家は今のままでは彼らを超えることはできないだろう、 という悲観的な未来が見えてきます。 未だにダ・ヴィンチやミケランジェロを超える作品は生まれず、 ルーヴルを超える美術館は世界にありません。 何をもって「超える」と判断するかは人それぞれですが、 われわれはもはや彼らと同じ土俵にすら立てていないのです。 現代の芸術と中世の芸術を区別することは確かに大事なことです。 彼らは彼ら、現代人は現代人。 そうやって相対主義的に比べることを避けるのもいいでしょう。 しかし単純な「パワー」を比較した場合、彼らが120%のパワーを 出せたのに対して、われわれは絶好調の時でさえ100%程度のパワーしか 出せておらず、その点では確実に彼らに劣っています。 仮にわれわれが無意識の世界に身を置いたとしても100%を超えることは できません。 それが「神のものである自己」を「自分のものである自己」に変化させた 近代の宿命です。 われわれは自己を手に入れた引き換えに、自己を超えるものを失ったのです。   創作の「創」という字が神の業を示すとすれば、現代の芸術家が行っていることは その真似ごとに過ぎません。 それでも100%のパワーを出せば、歴史に残る作品を生み出すことは可能でしょう。 しかし、それはあくまでその時代の中で優れているというだけであって、 歴史的には巨匠の服のボタンをもぎ取るぐらいの影響しか与えられないと 思います。 それは中世の人間より現代人が劣っているからではなく、近代という原理が そうさせているのです。   もし現代の芸術家にも使命のようなものがあるのならば、 それはこの原理を超克することではないかと思います。 ただし、それは超克であって回帰ではありません。 神の時代に戻っては意味がないのです。 自己を手放すことによって可能性という新たな神をとらえ、 それを強靭な力で作品の中に詰め込んでいくこと。 それこそが現代における芸術家の仕事なのです。 ここに至ってようやく、われわれは過去の巨匠と同じ土俵に立つことができます。 そこではもはや「どちらの作品が素晴らしいか」という低次元の話は 意味を為しません。 「どちらの神が優れているか」 お互いの神を懸けた戦いがそこから始まるのです。   念のためにもう一度言っておきますが、われわれはまだその土俵にすら 立てておらず、相手にもしてもらえない状況だということを理解して下さい。 われわれはわれわれの土俵で戦うことに満足しており、その中で小競り合いを 続けているだけなのです。 それではいつまで経っても近代の表皮を剥ぎとるぐらいしかできません。 われわれは自らの殻を破り、新たな神を発見しなければならないのです。 それが現代の芸術家に課せられた第一の使命であり役割です。 「神は細部に宿る」という言葉がありますが、これを技法的に捉えることに 固執せず、思考や意識、行動、生活態度に至るまで徹底できれば、 神はわれわれの目の前に現れることを厭わないでしょう。 人生のすべての面において美しくあること。 ダ・ヴィンチと勝負したいと思うなら、徹底してみる価値はあると思いますよ。   ...more»
兵庫県立美術館「バーン=ジョーンズ展」「S.W.ヘイター展」「祐成政徳展」「コレクション展」にて
ども、ペスです。 美術館視察(?)第3弾は兵庫県神戸市にある兵庫県立美術館に行ってきました。 ここに行ったのは今回が3回目で、以前に「ムンク展」と「印象派の画家展」を 見に行った覚えがあります。 JRの灘駅からは徒歩10分、阪神の岩屋駅からは徒歩7分ほどで行けるため、 関西の美術館の中では比較的交通の便は良い方です。 敷地面積は国立国際美術館と並ぶぐらいの広さがあり、 その黒っぽく巨大な外観は異様な存在感を放っています。 ただその巨大さ故に、はじめて来た人は入口を探すのが大変らしく、 僕がここを去る際、目の前からやってきたおばあさんに 「美術館の入り口はどこですか?」と尋ねられた、 ということは今後の美術館建設の参考のために書き残しておきましょう。 (実は僕もはじめて行った時は結構迷いました) いくら外観がよくても、入口が分からないようじゃ本末転倒ですからね。 その分かり難い正面の入口を入ると左右に大きな棟が1つずつあり、 現在は右側で「バーン=ジョーンズ展」と「コレクション展」、 左側で「パール・海の宝石展」を開催中です。 では展覧会の解説、いや、美術館の批評に入っていくことにしましょう。   ■バーン=ジョーンズ展 この手の展覧会の特徴は一言で言えば「名前や分かり易さで人が呼べること」に あります。 今回のバーン=ジョーンズ展の場合、彼の名前はよほど絵画が好きな人でない限り 知らないと思われますが、絵そのものにミーハー心をくすぶるもの、 つまり物語性や神秘的な要素が含まれています。 描かれているものはすべて具象的で、何が書かれているかは誰が見ても分かるし、 絵のことをまったく知らなくても「上手いなー」「綺麗だなー」ぐらいの感想は 抱くことができる。 平たく言えば、取っ付きやすい、ということです。 ラファエル前派やバーミンガム美術館やバーン=ジョーンズの名前を知らずとも、 立派な絵を見ることで崇高な体験をした気になれる、 というのがこの手の展覧会の特徴で、大体の人はそれを求めてやってきます。 5千円とか1万円出してクラシック音楽を聴くのは抵抗があるけど、 千円程度で一流の作品を見られるなら行ってみようかな、と。 「美術なんて難しくて分からない」と思っている人でも、 どこかで「けど、たまには一流の崇高さに触れてみたい」と思っているワケです。 そういう人たちは絵を見たいと思っているのでもなければ、絵を見てもいません。 彼らは「崇高な絵を見ている自分」という状態に陶酔するためにやってくるのです。 彼らにとって美術とは欲求を満たす道具であり、美術館はそれを提供する場所でしか ありません。 美術館で崇高な体験をしてみたい。 崇高そうなものであれば作品は何でも構わない。 それが近代人、特にオルテガが大衆と呼ぶような人間の視点なのです。 もちろん美術館に来る目的は自由ですから、それが悪いということではありませんが、 美術館はそういう人たちを対象にしているんだということを深く自覚しておくべきだと 思います。   さて、話は変わって展示についてです。 僕が気付いた限りですが、この展覧会では1つ、美術館らしい工夫があります。 それは、絵画の雰囲気に合わせて壁紙の色を変えている、ということ。 すべての作品に対してではありませんが、後半の展示では作品ごとに赤、青、 茶色、3つの背景を使い分け、さり気なく作品を演出しています。 そのさり気なさ故に僕も思わず見逃しそうになりましたが、 それぐらい裏方に徹しているからこそ作品が引き立っているとも言えます。 この展示方法を考えたのが兵庫県立美術館なのかバーミンガム美術館なのか、 それとも全然別の人なのかは知りません。 知りませんが、知恵をしぼればこういった方法が生まれてくるワケです。 これは展示をより良くしようという情熱の現れだと思いますので、 今後もその意識を低下させることなく運営を続けていってもらいたいです。   ■S.W.ヘイター(Stanley William Hayter)展 最初に言わせて下さい。 この展覧会は絶対に見ておいた方がいい!! 日本では無名で、僕もこの展覧会を見るまではヘイターの存在を 知りませんでしたが、彼の作品は本当に素晴らしいです。 最低でも僕が「展示の仕方なんてどうでもいい」と思うぐらいには 素晴らしい。 普段あまり作品についての感想を書くことのない僕ですが、 今回ばかりは絶賛せずにはいられませんでした。 あんなにいい作品を191点も寄贈してもらった兵庫県立美術館を 羨むばかりです。 彼の作品はほとんどが抽象画で、何が描いてあるとは 表現し難いものなんですが、その作品から伝わってくる衝撃は すさまじいものがあります。 特に個人的には1965年以降に描かれた晩年の作品に心を 揺さぶられました。 絵を見て目が潤んだのは、これが初めてです。 ヘイターの情報については日本語版ウィキペディアには彼の名前さえなく、 英語版でも情報は限られています。 ただ色々と探してみたら画像は案外たくさん見つかったので、 よかったら参考までに見てみて下さい。 画像集その1 画像集その2 画像集その3 画像集その4 画像集その5   ■祐成政徳展 ヘイター展から一転、この展覧会は僕には理解不能でした。 「目の不自由な方にも美術を楽しんでもらおう」という主旨から 兵庫県立美術館はこの「触れる美術」というコンセプトの展覧会を 始めたそうなんですが、そのことがどこまで反響を得ているのか、 僕には未知数です。 これは前にも言いましたが、やはりこの手の現代美術には 言葉による解説(補助)が必要なのではないかと思います。 触れば分かる、見れば分かる、といった放任主義も一定の領域を超えると 単なる怠慢になってしまうのではないでしょうか。 もちろん体験を通して自ら何かを見出すことは非常に大事なことですし、 それを否定する気はありません。 ただ、何の取っ掛かりも掴めていない人に対してそれを要求することは、 泳いだことのない人間をプールに投げ込んで「取り敢えず泳いでみろ」と 言っているようなものだと思うのです。 時と場合によっては、そういった荒行も必要ではありますが、 その態度が現代美術の一般的評価を歪めている気がしてなりません。 現代美術や現代アートという言葉が皮肉の域を脱するためには、 もう少しこっち側の人間が手を伸ばしてやる必要があるのでは ないでしょうか。   ■(その他の)コレクション展 兵庫県立美術館の2階には小磯良平の展示室、その隣に金山平三の展示室、 さらにその隣には田中敦子、鷲見康夫、元永定正、白髪一雄、菅野聖子などの 具体を代表する作家の作品が多く展示されている展示室があります。 個人的に気になったのは3つ目の具体作家の展示室で、 この部屋は薄暗さと作品の雰囲気、そして天井の低さが合わさって 薄気味悪い雰囲気を漂わせています。 それゆえ作品を見てまわるのも少し怖いのですが(苦笑)、 作品はインパクトの強いものが多く、どれも存在感が半端では ありませんでした。 先日、東京の国立新美術館で行われている具体の展覧会を 見逃してしまったので、ここでその埋め合わせができて 個人的には非常に満足です(笑) ただ、基本として展示リストは置いておいて欲しいですね。 1階は比較的雰囲気も明るく、天井も3階の特別展と 同じぐらいの高さがあって、大きい、というよりも巨大な作品なども 展示されています。 いずれの階も面白い作品が揃っているので、もし行く機会があるなら どちらも見逃さずに回って下さいませ。 追伸: 作品については既に触れているので、最後に観覧料について思ったことを 少しだけ話しておくことにします。 今回、僕はバーン=ジョーンズ展とコレクション展のチケットを 一緒に購入したので、観覧料は1450円でした。 この内訳はバーン=ジョーンズ展が1300円、コレクション展が 150円です。 同時購入割引でコレクション展が100円安くなりました。 僕がここ行ったときはクールスポット割引(?)という割引が 適用されていたらしく、コレクション展の料金は単体でも250円だったのですが、 通常時は400円ぐらいするようです。 ここで考えたいのは、その微妙な料金システムはなんとかならんのか、 ということです。 いくつかの美術館に行ったことがあれば分かると思いますが、 普通コレクション展の観覧料はどこの美術館でも特別展の観覧料に 含まれています。 今の国立国際ならリアルジャパネスクのチケットを買えばコレクション展も見られるし、 滋賀近代だって自然学のチケット買えばコレクション展は無料で見られるようになって いました。 これは僕の中ではデフォルトとして組み込まれており、今回も同じように特別展の チケットを買えばコレクション展も無料で見られるだろうと思っていたワケです。 ところが、チケット売り場で確認してみると追加料金が必要だと言われた。 ここで僕をケチだと思うのは、とんだ見当違いです。 僕はコレクション展が有料であることに文句を言っているのではなく、 どうせだったら特別展の料金を1500円にしてコレクション展は無料だと 言ってくれた方が確実に心理的な負担は少なかった、ということなのです。 これはコレクション展に興味のない人に対する美術館の配慮なのかも しれませんが、たとえ大衆であっても美術館に来るような人は、 たかだか200円ぐらいでグダグダ言ったりしません。 むしろ、追加料金が必要である、ということに大きなストレスを感じるはずです。 配送料金が無料のつもりで冷蔵庫を買い替えたのに、会計するときになって いきなり「配送料は千円になりますが、どうされますか?」と聞かれれば 誰だってイラッとしますよね? いやいや、冷蔵庫なんて配送するに決まってんだから、最初からその千円を 商品代金に加算しておけよ、と。 それと同じ感覚なのです。 特別展を見る人は大体コレクション展も見るんだから、 最初から料金を1つにしときゃいいじゃない、というのが僕の率直な意見です。 自分が同じ立場だったらどう思うかを考えて、ご検討下さい。 ...more»
近代(単語帳)
近代とは、啓蒙思想と主権国家体制により神の絶対性が失われた時代のことです。 年代で言えば17世紀頃から19世紀頃を指すことが多いですが、人によって意見が 異なるため厳密に何年から何年ということは断言できません。 近代の特徴としては、デカルトの大陸合理論に代表される合理主義や(物心)二元論、 そして合理主義から派生的に生まれた科学主義、要素還元主義、自由主義、人権思想、 民主主義、決定論、単純進歩史観などが挙げられます。 例えるなら近代建築あたりが分かり易いでしょうか。 直線的で左右対称で無機的、合理的で無駄がなく、機械的で再現性が高い。 こういうのが近代と名のつくものの特徴です。 例外的に「モダン焼き」みたいなものもありますが(笑)、あれは多分言葉の響きだけで 付けた名前だと思うので、あんまり深い意味はないんじゃないかな、と。 だったらいっそのこと「デカルト焼き」にして欲しい、と思うのは恐らく僕だけ でしょう(笑)   それでは、ここからはザックリと近代化の流れを見てみることにしましょう。   中世の世界では神が絶対的な根拠であり、どんなことが起ってもすべて「神の意志」で 片づけられていました。 リンゴが落ちるのは、神の意志が働いているから。 植物が育つのは、神がそうなるようにしたから。 人間が存在するのは、神が人間を創ったから。 こういう今から考えれば根も葉もない根拠の上に世界が成立していたワケですが、 それでも世界はなんとか無事に回っていました。 ところがある時、ガリレオ、ニュートン、コペルニクス、ケプラーという世界の運命を 揺るがす4人が現れます。 彼らはあまりに敬虔なクリスチャンだったため、彼らの信念は 「神が世界を創ったのなら、それは美しいに違いない」 という一般的なクリスチャンの信念から飛躍して 「世界が美しいなら、それは数式で表せるに違いない」 という信念にまでいたったのです。 その信念から彼らは世界を数式化し始めます。 それによって地動説やニュートン力学が生まれてくるワケですが、それをわれわれは 科学革命(Scientific Revolution)と呼ぶワケです。 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示したように、 熱烈な信仰というのは、それとは一見何の関係もないものの発展に寄与することが 案外多いようですね。   このあと彼らは、努力が報われるどころか、教会から危険人物のレッテルを貼られて しまうことになります。 この時代、さっき挙げた4人以外にも偉大な功績を残した敬虔なクリスチャンはたくさん いたと思われますが、そういった人たちは教会に消されてしまったのです。 ではなぜ教会は彼らに危険人物のレッテルを貼ったのでしょうか。 それは彼らの発見した数式が、のちのちに教会の(神の)地位を危うくすることが 分かっていたからです。 この頃はまだまだ神は絶対であり、だからこそガリレオやニュートンらはその神を 追い求めて多くの数式を発見したワケですが、その理性的な行為こそが100年・ 200年の時を経て、神を殺す要因となるのです。 もちろん当時の彼らがそんなことを知っているはずもありません。 けれども、教会は分かっていた。 だからこそ教会はその芽をいち早く摘もうとしたのです。   ところで、科学革命がじわじわと起っていた頃、人々の心にも変化が起っていました。 ホッブズ、ロック、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールといった 啓蒙思想家と呼ばれる人たちが現れ、周りの人々に対して啓蒙を促し始めたのです。 啓蒙とは、自らの理性の力で世界を切り拓く、ということ。 「存在するかしないかも分からないような神に頼ってないで、自分の理性を信じて何事も 自分の力で解決していこうじゃないか」 と言ったかどうかは知りませんが、彼らはそんなことを人々に説いてまわりました。 今のわれわれの感覚からは信じられないかもしれませんが、当時の人々は自分に自分の 人生を変える力があるとは誰も思っていませんでした。 貴族はずっと死ぬまで貴族、農民はずっと死ぬまで農民、それが普通だったのです。 「このとき、社会に不平等と貧困はあったが、精神の頽廃はなかった」 とトクヴィル(トゥクヴィル?)が言っているように、これが普通だったからこそ、 彼らは自ら理性の力で自分の人生を動かす必要はなかったし、動かそうという発想すら なかったのです。 しかし、啓蒙思想家の説教を聞いたことで、彼らは気付いてしまいます。 「生まれた家は確かに違うけど、みんな同じ人間じゃないか」 ということに。 ・・・みんな同じ人間。 この今では当然すぎる発想が生まれたのはこの頃です。 みんな同じ人間だから分かり合えるはず。 みんな同じ人間だから平等じゃなきゃだめ。 みんな同じ人間だから理性的能力も同じ。 こうした発想から自由主義や個人主義が生まれ、それが人権思想になり、市民革命 (フランス革命など)が起るにいたったワケです。   上記2つの革命の行き先を考えると、科学革命は科学的知識を急速に発展させ、 市民革命は個人主義や自由主義から資本主義の精神を育んだ、と言えます。 科学的知識の発展は様々な機械を生み、生活を合理化し、資本主義の精神は人間を より貪欲にした。 そしてこの2つが合わさって人類は産業革命という爆発的進歩を達成したのです。   これで科学革命・市民革命・産業革命の3つが出そろったワケですが、話はここで 終わりません。 上の3つの革命だけでは神の絶対性は揺らいでいないのです。 市民革命は神に対してそこそこ大きなダメージを与えている気はしますが、それでも 神を殺すまでには至っていない。 神にとどめを刺すには主権国家体制が必要なのです。 主権国家体制とは、国家に主権を認める(国のことは国が決めていい)ということです。 1648年に決まった30年戦争の講和条約であるウエストファリア条約というのが この主権国家体制というのを定めています。 これによって、それまでは宗教的に内政干渉されまくっていた国も、その国ごとに 宗教的自由を保障され、カトリックだろうがプロテスタントだろうが、はたまた イスラム教だろうが仏教だろうが無宗教だろうがいろんな宗教が入り混じってようが、 国が決めたことに従うだけでよくなったのです。 こうなると神は国ごとに存在したり、存在しなかったり、たくさんいたり、1人しか いなかったりして、絶対的とは呼びがたい存在となります。 ここにきてようやく神の絶対性が失われるワケです。 このことをニーチェは 「神は死んだ」 と表現したワケですが、彼が言ったのは「神は既に死んでいる」ということであって、 彼が神の死に直面したということではありません。 その点は少し注意しておいて下さい。   以上、簡単ではありますが近代化の流れをまとめてみました。 学者が読んだら目玉が飛び出るほど乱暴なまとめですが、学者が読むことはないと 思いますので、そのままにしておきます(笑) 詳しいことが気になったらウィキペディアや関連書籍などを参照しながら、自分なりに 知識を深めていって下さいね。 ではではー。 ...more»
対談音声『美術館に足りないもの』
ども、ペスです。 かなり久しぶりに画家の川田祐子さんと対談音声を録ってみました。 冒頭では「行列のできる美術館にする方法」なんて言っていますが、中身はもう少し広い話をしています。  ●どうすれば美術品を見て感動することができるのか。  ●美術品から何かを学び取るにはどうすればいいのか。  ●特定のカテゴリーに特化した美術館を作るとしたら、どういった問題があるか。  ●美術館が潰れてしまう本当の理由とは何か(経済的理由で美術館は潰れません)。  ●川田祐子が感動した、バーゼル美術館警備員の話。  ●美術に興味のない人でも、いとも簡単に美術品に興味を持つようになる、ある問いとは。  ●結局、美術館に一番足りないものとは何なのか。 などなど、8割がた川田さんが話してくれました(笑) もし興味があれば聴いてくださいませ。 前半音声はこちら(約40分) 後半音声はこちら(約50分)   ちなみに、8月28日から川田祐子さんの個展が東京の神田ではじまりました(僕は初日に見に行きました)。 詳細は川田さんのブログに載っていますので、こちらも興味があれば是非。 ではではー。   追伸: 僕の本名は杉野です。 一応念のため。 ...more»
滋賀県立近代美術館「自然学」「常設展」にて ~美術館のターゲティング1~
ども、ペスです。 美術館視察(?)第2弾ということで、今回は滋賀県の瀬田というところにある 滋賀県立近代美術館に行ってきました。 今そこで行われているのが「自然学」「常設展」です。 「自然学」のパンフレットを見ると、「自然学」は芸術において自然を語ることを テーマとしているらしいのですが、展示を見た限りではその意味はよく分かりません。 作品を見ればテーマが自然と関係あるということはなんとなく分かります。 ただ、それが何を伝えようとしているのかは、それだけでは分からない。 そこでパンフレットの別紙を見たところ、この企画のプロジェクトリーダーである 岡田修二氏が解説を載せてくれていました。 その中の一部を抜粋して載せておきましょう。   今日私たちは、当然のように意識の支配下に置き、材料として対象化し、 利用しています。 はたしてこれはあるべき姿でしょうか? 自然を、征服すべき対象としてきた近代は、本質的な価値(=美)を見失っていたと 言わざるを得ません。 人間の奢りが文明の危機を招いたとすれば、それらの問題を乗り越えるための 1つの戦略は、自然美の再認識、つまり「自然美学」の構築にあるのでは ないでしょうか。 (中略) 自然を考えることは、生命と環境の関係について考えることでもあります。 それはすなわち芸術を、生命と環境の問題として読み替える試みであり、 それらを生成・循環・共生・多様性などの視点から考察することを意味します。 従ってここでの芸術行為は、自然に聴く姿勢から制作が始められ、 フィールドワークが重要な方法となるでしょう。 生物的秩序と人間的秩序の媒介の理論が必要となります。 それは、芸術の、広い意味での生態学(Ecology)的領域への接近であり、 価値基準の転換です。   前半の話はそこまで難しい話ではないので、なんとなく分かると思います。 われわれ(近代的個人)は自然を支配することで財を構築し、生活してきました。 畑からは野菜を得、川や湖からは水を得、山からは木を得、それを利用することが われわれと自然の主な関係だったワケです。 その生活の中では自然の美は考慮されず、使える使えないという使用価値だけが その自然の価値を決めます。 そうして自然の本質的価値、つまり美を美たらしめている合目的性や 調和というものがわれわれには見えなくなってしまったのです。 このことが現在のような事態を招いているとしたら、その「美」をわれわれが再度 認識し直すことが、問題を解決する1つの方法として有効なのではないでしょうか。 前半を言い直すと、こんな感じです。 後半は分かりそうで、よく分からない。 多分、芸術を生態学的に表現することで生物的秩序と人間的秩序を媒介させ、 そこから「人間」対「自然」ではなく、自然としての人間、すなわち美という調和を 生み出していければいいなー、みたいなことを言ってるんだと思います。 まとめると、「自然学」とはわれわれ近代的個人の自然における美的価値観の復活を 目的とした芸術の生態学的表現だということです。 まとめてしまうと逆に難しくなってしまうのが難点ですが、もっと簡単に言えば、 人間も自然の一部なんだから、自然を壊すことは人間を壊すことにも繋がるよね? という疑問を多くの人が当然のこととして持てるような感覚を「自然学」を通して 磨いて欲しい という感じでしょうか。   上記を読んでも分かるように、この企画展は美術館がやるにしてはアカデミック寄りで、 この企画展を一般に公開する意味はあるのか、と思うほどです。 僕が入る時に出てきた男女ペアは「イマイチだったね」と言って去っていきましたが、 この企画展を楽しめるのは学芸員や美大生、美術学者のような人だけでしょう。 そもそも企画展を分かりやすくするための解説が論文みたいになってますからね。 それに、解説の意味が分かったからといって展示の意味が分かるとは限りません。 少なくとも僕は分からなかったし、今もやっぱり分からない。 そこで、あらためてパンフレットを読み返してみると「自然学」の対象としている人が 見えてきました。 この企画展は、今書いたように恐らく一般人向けではありません。 というのは、パンフレットに 「調和と共存のための感性の獲得を目指して、鑑賞者・アーティスト・学者・学生が 語り合っていける活性化された場を形成したいと考えます」 と、ちゃんと書いてあるからです。 ここで言う鑑賞者とは、単なる一般の鑑賞者ではなく、意識の高さを持った鑑賞者を 意味します。 意識の高い鑑賞者でなければ、活性化された場を形成することなど出来ないですし、 「調和と共存のための感性の獲得を目指して」いるワケですから、参加者にそれ相応の 意識が求められるのは当然のことです。 「活性化」が何を意味するのかは、はっきりとは分かりませんが、この文脈からは 「互いの意見を活発に交換し合う様子」を指しているように思います。 つまり、それが出来るような鑑賞者を「自然学」は対象としているワケです。 まあホームページを見ただけでも、見るからに小難しそうな企画展であることは 分かると思うので、その辺で判断してくれ、ということでしょう。 その意味で「イマイチだったね」と言っていた男女ペアは、美術館の意図を汲み取れ なかった、もしくは汲み取ろうとしなかった人たちだと言えます。 もしこのことを分かっていたら、彼らの感想は「イマイチだったね」ではなく、 「分からなかったね」だったはずですから。   なんでもかんでも良い悪いと評価することがすべてではありません。 分からないものは素直に分からないと思っておけばいいのです。 特に「自然学」のような難しいテーマのものは、その内容からして誰にでも 分かるようなものではないのですから、レクチャーなしには分からないのが当然です。 われわれは長年の学校教育で「分からないことは悪いことだ」という教え方を されてきた経験があるため、分からないものに対してどうしても悪いことだと 判断してしまう傾向にあります。 学校のテストでは問題が解けなければ点数は入りません。 その問題が解けない(分からない)ことは0点と同じです。 世間では0点というと「勉強をサボった」「悪いことだ」と判断されるのが 普通だと思います。 すなわち、分からない作品や展示を見せられると、われわれはどうしても それに対して嫌な感じがしてしまうワケです。 別にテストでも何でもないはずなのに、作品や展示の意味が分からないことを、 無意識に自分が劣っていることだと思い込んでしまう。 その嫌悪の感情を彼らは作品や展示のせいにして「イマイチだ」という言葉で 表現したのではないかと個人的には思います。   この企画展はそういう人間の近代性を芸術的自然美の再構築において いかに克服するか、というのがテーマになっているワケですが、 そのテーマの上に問題が自らやってくるという生々しい現実を見ることができれば、 あなたは相当な上級者です(笑) 「常設展」については次回の記事に持ち越すことにします。 ではでは。   追伸: 作品については毎度追伸に書いていますが、今回は個人的に岡田修二氏の スーパーリアリズムの≪水辺≫シリーズが印象的です。 これは分かり易いという意味でも印象的だったし、作品のパワーも 他のものと比べて圧倒的でした。 その他にも最近流行の空間を使った作品や黄緑色に塗られた鉄のオブジェ作品、 4つの液晶画面に奇妙な光が映し出された不思議な作品などもあったのですが、 作品について僕から語れるのはこれぐらいです。 あとは気になったら自分の目で確かめて下さい。   ...more»
ホルベインの理念
ども、ペスです。 絵を描かない人はまず知らないと思いますが、画材を作っている有名な会社に ホルベイン工業株式会社というところがあります。 この会社は創業60年以上を誇る老舗で、日本の若手画家を積極的にサポート していることで有名な会社です。 例えばホルベインはスカラシップと称して、毎年50万円相当の画材を今後活躍が 期待される有力な若手に無償で提供しています。 そのスカラシップに選ばれた画家は、これまたホルベインが作った冊子で作品を 紹介してもらえ、その冊子はホルベインに関わったことのある人々(画廊オーナーや 学芸員や活躍中の画家など)に無料で配布されます。 そうやって若手を育てることが自社の存続に繋がるということを、この会社は 非常によく分かっているのです。   ホルベインのホームページを見ただけでも、ここがいかに素晴らしい理念の下に 活動を行っているかがよく分かります。 僕がまず目についたのは、ここが独自に発行しているレポートです。 顔料や染料について、顔料の素材について、素材の混ぜ方について等、絵具に関する 科学的な知識がここには集結しています。 僕にホルベインのことを教えてくれた方は、その昔、ここのレポートを使って大学の 授業を行ったと言っていました。 しかもその方が言うには、以前ホルベインにそれらの資料を印刷して送ってほしいと 頼んだら、段ボール箱いっぱいの資料がこれまた無料で送られてきたそうです。 そういえば栄養学の最新レポートを無料で提供している某サプリメント会社が海外に ありますが、それに少し似ているかもしれません。 どちらも、そういった情報を提供することで、自社製品がいかに素晴らしいかを 分かってもらうことが、一番の利益だと判断しているのでしょう。 なんにせよ、ありがたい話です。   次に目についたのは技術的な質問に関する「技術情報Q&A」。 僕は絵をまったく描かないのでよく分かりませんが、最近のものでは 「皮革製品にアクリル絵具を使う場合、ひびが入りにくくするには どうすればいいのですか?」 「日本画制作において、アクリル メディウムで水干絵具や岩絵具を使うのと、 膠を用いるのとで発色がどう違うのですか?」 などの質問に対して、丁寧な解説が載せられていました。 また右側にはタグクラウドが表示されていることで人気のキーワードが 分かったり、特定のキーワードでの検索もできるようになっています。 ホルベインの絵具には、他社製品とは違う、それに適した使い方や扱い方が あるということでしょう。   んでもって、その次に目についたのはYoutubeにアップされていた工場見学。 20分ぐらいある長い動画なんですが、面白くて全部見てしまいました。 この記事の最後に紹介したページのリンクをまとめて貼っておくので、 よかったら見てみて下さいませ。 音声は聞き取り難いですが、ある程度のことは字幕と映像で分かると思いますし、 何よりそのこだわりに驚かされると思います。   そして最後が無名の画家に発表の場を与えるサイト『Show Me』と、アートと アーティストのポータルサイト『artist navi』。 絵具を作っている老舗の会社が、こういったサイトを率先して運営している というのはやはり感心せざるをえません。 画廊や美術館は、この辺をもっと見習うべきでしょう。 ここまで大掛かりなことは費用的に出来ないにしても、自分のところが扱っている 作品についてのレポートを書くことぐらいは出来ると思います。 ましてや学芸員であれば、それはウェブサイトを作ることより得意分野でも あるはずです。 作品の横に直接レポートを置くことは許されないとしても、ホームページ内で そのレポートを配って、作品をより深く楽しんでもらえるようにすることは そこまで難しいことではないと思います。 僕が美術以外のことを学ぶべきだと言ったのは、こういうことなのです。 同じ業界でここまでがんばっている会社があるのですから、ぜひとも見習って下さい。   以上、ホルベインについて絶賛してきたワケですが、僕はホルベインの回し者でも なければ、ホルベインから絵具を送ってほしいワケでもありません(笑) ただ、僕は純粋に美術を愛する者として、この会社を紹介しておきたかったのです。 もっと僕に画家的な視点があれば、絵具やジェッソ、絵筆やキャンバス生地の質に 関する話もできたのでしょうが、それはまた誰かが書いている(書いてくれる)ことを 祈りましょう。 それでは、また。   【ホルベインリンク集】 ホルベインのメインページ 色彩の解剖学 画家たちの美術史 技術情報Q&A 工場見学の動画 Show Me artist navi ...more»
Page 2 of 3:« 1 2 3 »
bottom-img

Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1