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現代の善と悪
ここ5,6年ほどでしょうか。 ニュースでスマホの盗撮事件というのをよく目にするように なりました。 学校の教師が女子トイレや女子更衣室に・・・みたいな話は 最近では珍しくないワケですが、先日この手のニュースを 見ていて、ふと思ったんです。 悪いのは本当にその教師なんだろうか、って。 以前のメルマガや『意志力セミナー』でも言ったように、 われわれ人間の意志力なんてものはたかが知れています。 どれだけ誠実で真面目な教師でも、手元にスマホという 便利な道具があって、周りに若さ溢れる魅力的な女性が 集っていたら、誘惑というのは必ず襲ってくるワケです。 何のストレスもない元気な状態であれば、鉄壁の意志で その誘惑をはねのけることもできるかもしれませんが、 今の時代にそんなストレスフリーな環境で働いている 教師が何人いるでしょう? 皆無ですよね、多分。 そう考えたら、それだけ誘惑が多い環境を「放置」したまま 意志力がだだ漏れの状態で教師に仕事をさせている学校や 教育委員会、文科省にも大きな責任があるんじゃないかと 思うのです。   当たり前ですが、スマホが手元になければ誰も盗撮なんて できません。 これは物理的に不可能ですから、犯罪の起こりようがない。 たったこれだけのことをするだけで「悪」は生まれずに 済みます。 つまり現代の悪の多くは、それが生まれる条件さえ 満たせないようにしてやれば、無くすことができるワケです。 もちろん全国民のスマホを没収するなどというのは まったく現実的な案ではないし、スマホを持っている男性が みんな盗撮するのかというと、そんなこともありません。 ただわれわれが分かっておくべきなのは、多くの場合、 われわれは環境には抗えないということです。 環境の力はそれだけ強力で、善良な人間を一瞬にして 盗撮犯に仕立て上げる力を持っています。 どれだけ周りからの信頼が厚い人間的に素晴らしい人でも、 ストレスフルかつ欲望を簡単に実現できる環境に置かれれば、 いつでも悪人になりうるのです。   なぜそれまで善良だったドイツ市民がホロコーストを 平然と容認し、協力までしたのか。 それは彼らがそういう環境に置かれたからです。 絶望的な失業率、莫大な借金、他国からの圧力・・・ そういったストレスフルな環境とユダヤ人にすべての 責任をなすりつけるという安易な誘惑が彼らを悪の道へと 走らせたのです。 これは意志力の理屈ですべて説明がつきます。 痴漢や放火、その他諸々の子供じみた犯罪も、 多くの犯罪者が語っているように「イライラしたから 憂さ晴らしにやった」、つまり、彼らはストレスフルな 環境に置かれ、目の前にそれを簡単に発散できる環境が あったからやった、ということです。 この条件さえ揃わなければ、彼らは犯罪者にならずに 済んだとも言えます。 特に前者さえなければ、善人とは言わないまでも、 彼らは普通の人でいられた。 だとすれば、ストレスフルという環境こそが、現代の悪の 正体だと言えないでしょうか。   誰もが知っているように、悪の反対は善です。 この理屈でいけば、ストレスフルの反対であるストレスフリーの 環境を整えれば、その人は自然と善人になるということです。 凄くシンプルですね。 別に「みんなで善人になりましょう」みたいなことを 言うつもりはないですが、ストレスフリーということは 要するに余裕があるということで、余裕があるからこそ 人は他人のことまで気遣えるし、欲望にも打ち勝てるし、 自分の倫理観を突き通すことができるワケです。 ストレスフルな会社で働いて疲れてクタクタになってるのに、 誰がお年寄りに席を譲ろうなんて思うでしょう? むしろその環境では、ちょっとしたことで怒って喧嘩に なったり、場合によってはブチキレて殺すつもりのない人を 殺したりしてしまうと思います。 逆にストレスフリーな会社で働いて心がウキウキしていたら、 ちょっとぐらい席を譲ってもいいかな、って思えるはず なんですよ。 つまり善人になろうと思うまでもなく、ストレスフリーな 環境で生きていれば、われわれは善人的な行いが自然に できるのです。   われわれのような凡人が人間的に優れた人間であるためには、 ストレスフリーな環境に身を置き続ける必要があります。 ストレスフリーとは、自分に正直であるということです。 あなたが今置かれている環境はストレスフリーでしょうか? 自分に正直でいられる環境でしょうか? もしそうでないなら、一刻も早くその環境を変えましょう。 現状を維持した先には、犯罪者になる道か病人になる道しか 残されていません。 いいんですよ、我慢しなくて。 家族や親戚や恋人を大切に思う気持ちは分かりますが、 一番大切なのは自分です。 彼らのために自分を犠牲にする必要なんてないんです。 もっと自分に優しくしてあげましょう。 ありがとうございました。   ブログの記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
自分の器をデカくする方法
  去年の9月から、このメルマガは6年目に入りました。 メルマガをはじめて1年目や2年目は、読者登録がある度に 心が躍っていたのをよく覚えています。 数十人しかいないメルマガで、読者が1人増えるというのは、 それはそれは重大な出来事なのです(笑) ましてや僕は広告を一切使わず、ブログだけでやっていたので、 その喜びはひとしおでした。 当然ながら今も、読者が増えることが嬉しいことに変わりは ありません。 ただこれだけやっていると、1年目2年目では特別だったことが そこまで特別ではなくなってきます。 言い換えると、今まで特別だったことが当たり前になった、 ということです。 われわれの当たり前のレベルというのは、こうやって少しずつ 見えないところで上がっていきます。   恋人ができて大喜びする人、大金を稼いで大喜びする人、 試験に受かって大喜びする人などなど、何かに大喜びする人は その大喜びの対象を特別だと思っています。 大喜びではなくても構いません。 高級な腕時計をドヤ顔で身につけること、高額な買い物を 自慢することなど、とにかく何かを特別だと思ったり、 何かを凄いと思ったりすることは、それ自体が本人の 当たり前のレベルを表しています。 僕にも心当たりが山ほどあるので偉そうには言えないですが、 そういう特別だとか凄いだとかを主張する人は、当たり前の レベルが低く、「器が小さい」というレッテルを貼られます。 男は黙ってサッポロビール。 結局これが一番カッコイイわけです(笑) 黙っていれば、自分に起こることすべてを当たり前だと 受け入れているように見えますからね。 特別なことがあれば誰だって心は動くはずですし、 それを主張したり自慢したりしたくなると思いますが、 その気持ちをグッと抑え、さもそれがなんでもないこと かのように振る舞うこと。 それが器のデカイ人だと認識させる、そして実際に器を デカくするための最もシンプルな方法だと思います。   自分にとって凄いこと、あり得ないこと、難しいこと、 喜ばしいことを「こんなのぜんぜん普通だしぃ」、 「こんなの当たり前だしぃ」(ギャル男風)と思う努力を してみてください(笑) 世間的に凄いとされることを達成しても、「だから?」って 顔をしておきましょう。 繰り返しますが、これが一番カッコイイのです(笑) 難しいのは分かってるけどね。 木村拓哉や福山雅治も、自分をカッコイイと思っていない (ように見える)から余計にカッコイイわけです(笑) そんな感じ。 何の話がしたいのかよく分からなくなってきましたが、 まあ頑張ってカッコよくなりましょう(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
ブランド品は何の役に立つのか ~相応しさを求めて~
  今から約13年前、僕はとあるアルバイトをしていました。 実働時間は1時間ほどで日給は6千円。 これだけ見れば恐ろしく割のいい仕事に思えるワケですが、 おいしい話には必ず裏があります(笑) たしかに実働は1時間だったのですが、なんと拘束時間が 12時間以上だったのです。 しかも仕事があるのはおおよそ土日祝のみ。 これではアルバイトというより、お小遣い稼ぎです。 けれども、僕は18歳から20歳までの専門学校生だった間、 ずっとその仕事を続けました。 その仕事が好きだったからです。 特に儲かるワケでもなければ楽なワケでもない、むしろ体力的に かなりキツイ仕事でしたが、お恥ずかしながら、今から思えば その頃から今のような仕事を志向していたのかもしれません。 さて、勿体ぶるのはこの辺にして、そろそろ中身を明かしましょう。 僕がやっていたアルバイトとはヒーローショー、正確に言うと スーツアクターの仕事です。 簡単に説明しておくと、なんちゃら戦隊とか仮面ライダーとか そういうヤツに入ってショッピングモール(主に北陸)でショーを やっていました。 一度だけですが、お化け屋敷のお化けもやったことがあります。 客を待ってる間の冷房が寒いのなんのって(笑) まあそれはいいとして、僕はそういう世間一般から見れば 珍しいアルバイトをしていたワケですが、今からお話したいのは そのヒーローの「中身」についてなのです。   いきなり夢も希望もない話で申し訳ないのですが、ちびっこが 憧れるあのヒーローの中には、僕を含め彼らのヒーロー像とは 乖離した人間が入っています(苦笑) 正義感に溢れているワケでもなければ、ちびっこの見本と なるような人間でもない、それどころかまともに コミュニケーションもとれないヒーローオタクが入っていることも しばしばです。 彼らは決して悪い人たちではないですが、マスクを取ればただの人、 ただの凡人です。 殺陣やアクションは上手くても、実生活はまるでだらしない。 そういう人たちがヒーローの中に入っています。 つまり、ヒーローに相応しくない人がヒーローの中に入っている ということです。 当たり前ですが、相応しくないこと自体は仕方のないことであって、 なんら悪いことではありません。 ヒーローとはわれわれが勝手に作り上げた理想像なのですから、 そこに到達していないのは当然です(到達していないから理想 なのです)。 ただ本人に悪気はなくとも、それは子供たちを欺いていることに なるのではないか、と今になって思うのです。 ショーである以上、ウソというか、作りものであることは 仕方のないことですが、作りものを作りもので終わらせている点に 大人の無責任さが現れているように思えてなりません。 理想を見せることにばかり目を向けて、理想へ近づくこと、 現実を理想へ近づけることから目を反らしているのではないか。 そんな気がするのです。 演技を演技で終わらせているかぎり、それは子供たちに かりそめの夢を見せるだけの、残酷な行為に他なりません。 当時はそんなことは微塵も考えていませんでしたが、 彼らに本当の夢を見せたいならば、何よりも先に夢を見せるに 相応しい人間にならなければならないのではないでしょうか。   僕は自分の周りのあらゆるものに対して相応しさを考えるべきだと 思っています。 例えば本。 僕がそれなりに哲学書を読んでいるのは周知のことだと思いますが、 哲学書は読まなくても、部屋に置いておくだけで効果があります。 それは環境を厳しくする、つまりその哲学書に相応しい自分で あろうとする進化圧力を自分にかけることになるからです。 この限りにおいて、ブランド品や工芸品、芸術作品などの高級品を 持つことには意味があります。 あれは自慢するために買うものでもなければ、自分の欲望を 満たすために買うものでもなく、それに相応しい自分であるために、 自分をいつでも戒めておくために買うべきものなのです。 自分が怠けそうになったとき、流されそうになったとき、 それらを眺めると、ふと「このままではいけない」という気持ちが 湧いてくる。 それが本来の高級品の使い方であり役割です。 この使い方を知っている人にとって、高級品を買うことは自分で 自分を追いこむことになります。 高級であればあるほど、そこから生み出される進化圧力は強く、 人間としての相応わしさが求められます。 自分は、一流の職人が何ヶ月、ときには何年もかけて 作り上げたものを持つ人間として相応しいだろうか。 この問いが、われわれの人間的成長を促すのです。 これは物に限ったことではなく、人であっても同様です。 自分はあの人に相応しい夫・妻・彼氏・彼女だろうか。 自分はあの子に相応しい親だろうか。 この問いで「ぜんぜん相応しくない」という結論が出たとしても、 落ち込む必要はありません。 なぜなら、この問いを問うことが相応しい自分になるための 第一歩だからです。 繰り返しますが、問題なのは今相応しくないことではありません。 相応しさを考えないこと、相応しくあろうと努力しないことが 問題なのです。 よく考えてみてください。 相応しくあろうとしないということは、相手をその程度の人だと 思っているということです。 これって失礼じゃないですか? もし僕がヨレヨレの服でセミナーに現れたら、それはあなたに 対して失礼だと思うのです。 本人にそのつもりがなくても、その服が「あなたと会うなら こんな服装で十分だ」「私にとってあなたはその程度の人だ」と 語ってしまうことを多くの人は気付いていません。 この手の見えないメッセージをメタメッセージを言いますが、 普段から相応しさを意識していないと、こういうことに 気付けなくなってしまうのです。   今すぐにどうこうしろとは言いません。 言いませんが、ちょっとしたときに考えてみてほしいのです。 自分は親として、上司として、先輩として、経営者として、 師匠として、仲間として、恋人として、リーダーとして 相手に相応しい人間だろうか、と。 自分はこの本を、このバッグを、このスーツを、この家具を 持つに相応しい人間だろうか、と。 そうしなければ結局、われわれ自身が恥をかくことになります。 身の丈に合わないものは滑稽にしか映りません。 本や家具は人に見せなければ問題ないですが、バッグやスーツ、 腕時計、車などはどうしてもイタさが伝わってしまうのです。 そんな滑稽な人間にならないためにも、その人に、その物に、 相応しい人間をわれわれは目指すべきだと思います。 カップルや夫婦だって(良い意味で)「お似合い」って言われると 嬉しいでしょ? そういう単純なことですよ。 お似合いの家に住み、お似合いの物を持ち、お似合いの者同士で 暮らしていく。 そういうバランスが大事なんじゃないですかね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
国立西洋美術館「ラファエロ展」にて ~芸術が死ぬとき~
ども、ペスです。 平日の、しかも雨の日に行ったにもかかわらず、ラファエロ展は人で溢れていました。 春休み終了間近だったこともあり、家族連れや若いカップルなども多く、予想以上の盛況ぶり。 運営者側からすれば、大いに喜ばしいことだと思います。 しかし同時に、僕はこのことに絶望したということを告白しなければなりません。 偉大な芸術は自らの役目を果たし、すでに死を遂げていたのです。   彼の作品は確かによく出来ていました。 あの時代の材料であそこまで精緻な作品を作ったということ、そのこと自体は今でも評価されるべきだと思います。 けれども、それはあくまで作品だけを対象として評価した場合の話です。 以前どこかで話したように、芸術とは見る人と作品の関係によって生まれます。 見る側と見られる側、双方の正常な関係が芸術を芸術たらしめているのです。 この関係が失われたときに、芸術は死にます。   芸術における正常な関係は、鑑賞者が偉大な芸術と対等に渡り合おうと努力するときにのみ生まれます。 クラシック音楽の演奏会に、クラシックを理解しようとしない、いや、クラシックを聴くに相応しい人間であろうとしない人間が大勢やってきたとしたら、その演奏会は大きく価値を損なうことでしょう。 それに伴い、そういった演奏会に行くことに「憧れる」人間も減っていくはずです。 なぜなら、それを評価する人間の質が、その芸術の価値を決めているからです。   多くの人がラファエロを見に行くのは、ラファエロを評価する人間が、一定以上の権威を持っているからに過ぎません。 各国の文化人が一目置くようなラファエロだからこそ、ラファエロの作品は(大衆にとって)価値があるのです。 もし僕が売れっ子の芸能人で、芸能界でも大きな影響力を持つ存在だったならば、僕が評価する作品は大衆にとって一定以上の価値を持つことになります。 キムタクが月9のドラマでかけていたサングラスがほしい、みたいな感覚と同じです。 ですから、そのサングラスを何の影響力もない、それどころか怠惰で傲慢で自己中な凡人が大勢かけていたら、そのサングラスの価値はなくなります。 それと同じ理屈で、怠惰で傲慢で自己中な凡人ばかりが見に来るラファエロの作品には、もはや何の魅力もないということです。   高級フレンチの店に、スウェットやジャージ姿の喋り声がうるさくて態度のでかい人間ばかりが来店していたとして、あなたはそんな店に好き好んで行きたいと思いますか? 仮にそこの料理がどれだけ美味しかったとしても、誰もそんなところには行きたいと思わないと思うのです。 僕にとってのラファエロ展は、そんな感じでした。 ラファエロの絵がどれだけ素晴らしくても、それを見に来る人間の質があまりに悪く、作品そのものの品質まで下がってしまっている。 僕もその中の一人なのかもしれませんが、それを考慮したとしても、そういう質の悪い僕ですら、嫌悪してしまうほどの雰囲気だったワケです。 あれでは彼の作品は死んだも同然だと思います。 料理の味を壊すのは、いつだって周りの雰囲気であり、そのときの気分なのです。   誤解のないように言っておきますが、美術館の中が実際にがやがやと話し声でうるさかったワケではありません。 展覧会の会場ではみんな静かに見ていたし、走り回る子供もいませんでした。 ただそれでも、雰囲気が、空気が、悪いのです。 分かるでしょうか、この感覚。 比較的マイナーな展覧会に行き慣れている僕にとって、この雰囲気の悪さはどうにも耐えがたく、展覧会の質そのものをも下げてしまうのです。   この体験から、僕は当初見に行こうと思っていた京都市立美術館のゴッホ展に行くのを取り止めました。 またしばらくは、よほど気になるものでない限り、美術館に行くこと自体を自粛しようと思っています。 それは美術に魅力を感じなくなったということではなく、もっとそれに相応しい人間になることを優先しようと思ったからです。 「他人のふり見て我がふり直せ」ではありませんが、今回の件で少なからず自分も芸術の寿命を縮めるような人間だったのではないかと自覚するにいたりました。 そして何より、今の自分のレベルで理解できるものの限界が見えました。 そんなワケで、しばらくは自分を磨き上げることに専念したいと思います。   なんだかブログ自体が終わってしまいそうな雰囲気ですが、ブログはやめませんから 安心してください(笑) ただ今後は美術への接し方云々ではなく、いかに美術の、芸術の権威を高められる人間になるか、ということが記事のテーマになってくると思います。 つまり、広い意味で「人間学」的な記事になるということです。 それはすなわち哲学を意味します。 僕にとってはどの記事も哲学だったのですが、前面に出ていたのが美術だったので あまりそういう風に感じていなかった人も多いようですね。 まあともかく。 これからも楽しく色々学んでいきましょう(笑)   ...more»
美術と人間性
ども、ペスです。 僕が本格的に美術館の展覧会に通い出して、かれこれ4年程が経ちます。 最初はデュシャンやリヒターやウォーホルの名前すら知らなかった僕が、 今ではこうして展覧会の記事なんかを書いたりしているのですから、 面白いもんです。 しかし、この約4年の間に僕は美術における、ある重大な問題を 目の当たりにしました。 それは、多くの人は美術を理解する気がないらしい、ということです。 美術館へ行くと、みんな分かったかのような顔をして美術作品を 鑑賞しているのですが、彼らが見ているのは作品の表面的な綺麗さや 上手さだけです。 「ここが細かい」とか「写真のようで凄い」とか「色使いが綺麗」とか そういうところにばかり目が向いていて、それ以外の部分は何も見えて いない、もしくは見ようとしていない。 それは彼らの美術館での会話や、話題の展覧会にしか見に行かない性質を 見ていれば誰でも分かります。 いつも言うように、僕はそういう鑑賞が悪いと言いたいのではありません。 お金を払っているのは本人ですから、好きなように見ればいいとは 思います。 ただ僕は 「それに何の意味があるの?」 と言いたいのです。   僕が見るかぎり、彼らは自分の虚栄心を満たすために美術を鑑賞している ような気がします。 「私は美術鑑賞を趣味にしている素敵な人間です」 そういうことを周りに見せたいがために彼らは美術館に行くのではないか、 ということです。 これは特にミーハーな展覧会に来るお年寄りの鑑賞者から感じます。 というか、話題の展覧会ほど、テレビCMや車内広告をやっている 展覧会ほど、ホントにお年寄りが多い。 僕みたいにメジャーな展覧会からマイナーな展覧会まで色々通っていれば 分かりますが、展覧会の話題性によってまったく客層が異なります。 前に東京国立近代美術館でやっていた「岡本太郎展」なんかは、さすがに 若者が多かったですが、そういう若者に人気の作家でない限りは、話題の 展覧会はお年寄り比率が格段に高いです。 若者は若者で、岡本太郎や草間彌生のようにミーハーなんだけども、 それを見ることがファッションとしてカッコイイものに集まります。 だからエルミタージュ美術館展みたいな古典作品の展覧会にはあまり こなくて、リヒターやポロックやピカソのような比較的インパクトの 強い作家の展覧会に足を運ぶことが多いです。 どちらにも共通するのは、最初に言った虚栄心を満たすために美術を 見ているということ。 以上をまとめると、彼らは主に 1.話題のものを知っておきたい 2.ファッションとして美術を楽しみたい という2つの理由で美術館に来るのではないか、ということです。 これは僕の主観的なデータに基づくものなので、必ずしも正しいとは 言い切れませんが、そこまで大きく的をはずいていることもないと 思います。   さてさて。 上記で「虚栄心を満たす」という話が出ましたが、虚栄心というのは 文字通り「虚の栄える心」ですから、満たせば満たすほどにその人の心は 虚しくなっていきます。 本人はそれに気付かない振りをしていますが、実際には心のどこかで 気付いているはずです。 美術を分かった気になったって、自分は何も変わらない、って。 僕はこの虚しさを学生時代に体験しました。 当時の僕は周りから一目置かれるぐらいのファッション狂だったのですが、 それは自分の弱さを覆い隠すためにやっていたことです。 何もできない人間だからこそ、人はそれを隠すために、ごまかすために、 悟られないために、自分以外の何かに頼るのです。   本当にファッションを愛する人は、そのファッションに相応しい人間に なることを考えます。 下品な人間のファッションほど、ファッションをけがすものはないと 知っているからです。 美術もこれと同じで、本当に美術を愛する人は、その美術に相応しい 人間になることを考えます。 下品な人間の見る美術は、「下品な人が見ている」というただそれだけの 理由で軽蔑されることを知っているからです。 ファッションも美術も、最終的な作品の価値はそれを身につける人や 見る人のレベルで決まります。 素敵な人の着ている服はたとえ安物だったとしても素敵に見えるし、 素敵な人が持っている絵はたとえ無名の作家が作ったものだったとしても 素敵に見える。 僕はそういう当たり前のことを言っているだけです。   世の中に美術好きを豪語する人は多いですが、彼らは自分が美術の価値を 下げていることに気付いていません。 彼らは「美術を見ている自分が」好きなのであって、本当には美術のことなど 何も考えていないのです。 僕はいつも「自分を高めましょう」と言ってきたつもりです。 少し前の記事では「ホンモノになりましょう」とも言いました。 それはわれわれ自身のためでもありますが、美術の権威を正常に保つためでも あります。 どれだけ素晴らしい作品でも、その素晴らしさを理解できる人がいなくなれば、 その素晴らしさは失われてしまいます。 ヘーゲルの言うように、作品の素晴らしさとは、その作品を「素晴らしい」と 感じる人間の素晴らしさなのです。   われわれは美術をけがす人間になってはいけません。 われわれの仕事は、素晴らしい作品から、それ以上の素晴らしさを引き出せる 人間になることです。 そうならなければ、せっかく素晴らしい作品を残してくれた過去の偉人に 申し訳ないじゃないですか。 彼らはその作品に命を懸けたんです。 だったら、われわれもそれに相応しい態度で接しましょうよ。 僕はそういう当たり前のことを言っているだけなんですけどね。 どうして誰も気付いてくれないんだか。   ...more»
合格祈願に意味はあるのか?
  毎年この時期になると受験ムードが高まってきます。 お正月に神社へ行って合格祈願をする。 これは日本にはよくある光景です。 僕も受験生のときは神社に行った覚えがありますし、記憶が確かなら 絵馬も書いたような気がします。 「受験に受かりますように」って。 人によってはお賽銭をはずんじゃう人もいるでしょう。 このことは普通、神様に願いを叶えてもらうためにするワケですが、 その願いが本当に叶うと信じている人は恐らくいないと思います。 「神様にお願いしたから後は遊んでも大丈夫だ、ひゃっほー!」 なんて思って遊び呆けている能天気な受験生がいないことからも 明らかなように(いるのかもしれないけど)、合格祈願をしたから といって、その人が受験に受かるとは限らないワケです。 むしろ合格祈願云々よりも、実際にどれだけ勉強したかが受験の 合否をわけるというのは、誰もが知っています。 合格祈願をしたかどうかにかかわらず、受かるヤツは受かるし、 落ちるヤツは落ちる。 こんなことは当たり前のことです。 しかし、これが当たり前ならば、どうして受験生はそんな無意味な 合格祈願をするのでしょうか?   合格祈願しないよりはする方がいい。 僕らにそういう感覚があることは間違いありません。 明確な理由は説明できなくても、みんなそう感じていると思います。 だから願いが叶うワケではないと知りながらも、わざわざ合格祈願を しに行くワケですが、流れ星に願い事をするのもそれと同じです。 流れ星に願い事をすると願いが叶う、というのは、   流れ星を見るのは希少な体験である 希少な体験をした人は運がいい 運がいい人は(多分)願い事も叶いやすい   というかなり無理矢理な(カルヴァンの予定説的な)推論の下に 組み立てられているという点で、合格祈願とはタイプが違うのですが、 それについては今は触れません。 今大事なのは、誰もがそんなものが迷信であると知っていながら、 願い事をしてしまうのはなぜなのか、ということです。   当たり前ですが、願い事というのは、それを願っている時点では 叶っていません。 「お金持ちにりたい」と願うのは、今お金持ちではないからであって、 お金持ちに値する額のお金を持っていたら誰もそんな願い事はしない ワケです。 同様に、「合格したい」という願いも、その時点では合格していない ことを意味しています。 それは受験前だから当然のことなのですが、受験前であっても、 事前に合格することが分かっていたり、100%合格する自信が ある場合には、いちいちそんなことを願ったりはしません。 つまり僕らは、その願いが叶わない可能性がある(と思う)からこそ、 願い事をするワケです。   ところで、願い事が叶わない可能性とは何でしょうか? 受かるかどうかは、試験を受けてみなければ分かりません。 模試でE判定が出ていたとしても、実際の試験をやってみるまでは 何も分からないワケです。 にもかかわらず、僕らは叶わない可能性なんてものを考えます。 「もしかしたら落ちるかもしれない」 そう考えてしまうから“落ちないように”願い事をするワケです。 落ちる可能性があるということは、受かる可能性もあるということ なのですが、僕らは本能的にリスク回避を重視しがちです。 人間はリスクに目が向くと行動が鈍ります。 例えば「誰かを殺してしまうかもしれない」というリスクを考えはじめたら、 車に乗ることが恐くて億劫になると思います。 実際にそういう理由で車に乗らない人はたくさんいますし、この可能性は どうやっても消すことはできません。 けれども、安全運転を心がけていれば確率的には誰かを殺してしまう 可能性が低いのは確かです。 また車のない不便な生活の方がリスクが高いと思う人もいるでしょう。 酷い場合はリスクもメリットも何も考えていないかもしれません。 いずれにしても、「誰かを殺してしまうかもしれない」という不安を 振り払える、もしくは不安を持っていない人だけが、怯えずに(平常心で) 車に乗ることができるのです。 これは起業することも同じです。 「起業に失敗するかもしれない」という不安を抱えたまま、起業の準備は できません。 起業というのは人生を懸けてするものです。 それが失敗するということは、本人にとっては人生そのものの失敗を 意味します。 そんな生死を分かつような不安と闘いながら順調に準備を進められるほど、 人間は強くできていません。 僕は経験があるから分かりますが、単なる思い込みでも、勘違いでも、 とにかく何でもいいから成功すると信じていなければ、恐くて準備なんて していられないのです。 起業の例が分かり難ければ、宝くじで考えて下さい。 あれは「1億円当たるかも」と思っているから何十枚も何百枚も平気で 買えるのであって、「買った分だけ損するかも」と思っていたら絶対に 買えません。 ここで言っているのは、そういう単純なことです。 要するに、願い事が叶わない可能性(を漠然と考えること)は、 願いを叶えるための邪魔になるのです。 だとしたら、その可能性を振り払うことが、願いを叶えるためには 大事だということになります。 その不安な気持ちが勉強の障害になっているなら、それを振り払えれば、 もっと順調に勉強を進められるということです。 すなわち。 僕らはその不安な気持ちを振り払うために、「落ちるかもしれない」を 「受かるかもしれない」に変えるために、願い事をするのです。   以上のことから、合格祈願にはちゃんと意味があることが分かりました。 それは 「合格へと向かうために」 するのであって、神様に合格させてもらうためにするのではないのです。 神様は願いを邪魔するものは取り除いてくれますが、願い事そのものを 叶えてはくれません。 そう。 神様はちゃんと分かっているのです。 僕らが自力で願いを叶えなければ、何も意味がないということを。   自分ではない誰かに叶えてもらう願いほど、下らないものはありません。 願いは自分で叶えるからこそ、価値あるものになるのです。 どんな小さな成功も、自力でつかみ取れば大きな価値になります。 この心構えは絶対に忘れないで下さい。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
美術館「えき」KYOTO「山口晃展」にて ~百貨店の裏事情~
ども、ペスです。 以前滋賀県立近代美術館の常設展で見かけた山口晃氏の展覧会が 京都駅ビルの伊勢丹で行われているということで見に行ってきました。 サブタイトルに「老若男女ご覧あれ」と書かれているように、 彼の描く絵は誰が見ても楽しめる絶妙なバランスを持っており、 そのセンスの良さには感心させられます。 ふざけたものに真面目に取り組んだ作品。 これが彼の絵に対する僕の印象です。 馬をかたどったバイクに侍が乗っていたり、合戦場に女子高生がいたり、 高層ビルに瓦屋根がついていたり、発想自体は子供っぽく ふざけたものなのですが、描く技術の高さやディテールの繊細さゆえに、 まったくぶざけているように見えないという不思議さが彼の絵にはあります。 それは芸術性とはまた別で、どちらかと言えばニコニコ動画で 「才能の無駄使い」と呼ばれているものや宮藤官九朗氏の作品が近い と言えば伝わるでしょうか。 コンセプトはふざけているけど、作品の質は極めて高い。 こういう感じです。 やろうとしていることはシュールレアリズムに近い気もしなくは ないですが、そう捉えてしまうと、彼の絵はまだまだ「ひねり」が 足りないと言わざるを得ません。 偉そうな発言に見えてしまうかもしれませんが、ダリと彼の絵を比べれば 誰だってそう感じるはずです。 しかし、彼の絵は恐らくシュールレアリズムではないし、 ダリと比べるようなものでもありません。 それどころか芸術作品として評価することも間違いだと思います。 彼の絵は工芸作品なのです。 そうでなければ平等院の襖絵に奉納されることはなかったでしょうし、 百貨店が率先して今回のような展覧会を開くこともなかったはずです。 彼の絵は「人を呼ぶ絵」であり、誰からも一定以上の評価を得られる 絵であるからこそ、平等院にも百貨店にも選ばれたと考えるのが 妥当でしょう。 重要文化財と商業施設を並列して論じるのもどうかと思いますが、 両者とも、評価が分かれるものは欲していない、という点で共通しています。 平等院には平等院の、伊勢丹には伊勢丹の権威(ブランド)があり、 両者はそれに見合った作品、つまり「平等院のような」 「伊勢丹のような」絵を求めているワケです。 それがどのような絵なのかは、持っている(売っている)絵を見れば 分かります。 あっちの世界には、あっちの世界でしか評価されない絵があるのです。   上記の事情があるにもかかわらず、彼の絵は美術館にも買われ、 なおかつ百貨店でも評価を得ているという点で非常に稀です。 「平等院へ奉納」という肩書を利用したい百貨店の意図は丸見えですが、 それでも百貨店が販売ではない純粋な展覧会を企画したというのは、 やはり凄いと思います。 それぐらい今回の展覧会は費用対効果が大きいと見込んだのでしょう。 美術品に限って言えば、百貨店というのはリスクを負うことを極端に 嫌います。 百貨店で販売されている絵については通常100%画廊が責任を負うことに なっており、その絵が偽物であったり傷ものであったりしても、 百貨店はその一切の責任を画廊や作家に丸投げします。 彼らは作品が売れた際に場所代と手数料を取るのみで、 他はまったく何もしてくれない、というのが実際のところなのです。 それは販売スタッフについても同じで、あれは百貨店の従業員が代理販売を 行っているのではなく、画廊のスタッフが百貨店に出向いて販売している、 もしくは画廊が別で雇ったスタッフが販売しています。 そういう殿様商売だということを知った上で「山口晃展」を見ると、 それがどれほど凄いことなのかが分かるワケです。 平等院おそるべし。 あ、失礼。 山口晃おそるべし(笑) 百貨店には百貨店の事情があるのでしょうから、あまり百貨店を悪者みたいに 言いたくはないのですが、少なくとも(売れない)画廊や作家への対応は 最悪であるということは最後に言い残しておきましょう(笑) ではでは。   ...more»
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