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Archives for 感性

京都市立美術館「ダリ展」にて ~よい作品とは何なのか~
見てきました、ダリ展。 シュールレアリズムと言えばダリ、ダリと言えばシュールレアリズム。 ダリとはまさにそういう存在・・・だと勝手に思い込んでいたんですが、 行ってビックリ、その印象は完全にぶち壊されました。 個人的にはシュールレアリズムの作品よりも、ピカソに影響を受けて 描いたキュビズムもどきの絵画や、非常に抽象度の高いもやもやした 炎のような抽象画などの方が「いい!」と感じました。 いや、正確には、彼の作品はすべてが面白く、すべてが違った意味で 「よい作品」なのです。   シュールレアリズムの作品をじかに見て感じたのは、 とにかく魅力的である、ということです。 シュールなモチーフがイラスト的・デザイン的に表現されていて、 「これは家に飾りたいなー」と思わせるような作品になっています。 こういう表現が正しいかは分かりませんが、キャッチーなんですよ。 コピーライティングを絵画に応用するとあんな感じなるのかな、と。 見た瞬間に「素敵!」と思わせる何かがそこにはあります。 彼が超売れっ子だったことは有名ですが、この絵ならたしかに いくらでも売れるわ、と思いました。 その意味で、売れることを第一に考えるならば、彼のシュールな 作品は「よい作品」だと言えるでしょう。   抽象画は抽象画でまた「よい絵画」です。 先程も言いましたが、僕は個人的にはこっちの方が好きです。 というのは、こっちの方が魂が込められている(ように感じる) からです。 フランシス・ベーコンとは少し違った意味で実存的と言えば 多少は伝わるでしょうか。 何を根拠にそう感じるかを言葉で表現するのは難しいですが、 これは以前どこかで言った「動き」があるということだと 思ってください。 僕が見たかぎり、シュールレアリズムの作品にはまったく動きが ありません。 パッと見はすごく素敵なんだけど、ずっと見ていたい作品では なかった。 一方で抽象画の方は、パッと見は地味なんだけれども、 見れば見るほど動きが見え、味が出て、吸い込まれていきます。 この感覚、わかるでしょうか? 「静止画なのに動くワケないだろ!」とか突っ込んでしまう 脳みそだけで生きている人には絶対に分からないことですが、 動く絵はホントに動くんですよ。 それほど多くはなかったですが、ダリの作品の中にも 渦を巻くように動くものや鼓動を打つように動くものが ありました。 本当はどの作品がそう見えたか作品名をメモっておいて、 それを見て確認してもらうのがいいんでしょうけど、 それはあくまでも僕の見方であり楽しみ方ですから、 そういう検証でせっかくの鑑賞を台無しにしないでほしいので、 そこは伏せておくことにします(作品名を覚えてない だけだけど・笑)。   「上手い!」 これがダリの作品を僕なりに一言で言い表したものです(笑) 上手いことが絵画のすべてだとはまったく思いませんし、 何をもって上手いとするかも人それぞれだと思いますが、 やっぱり上手いに越したことはないよなー、とは思います。 彼のノウハウ本を読めばわかることですが、彼は絵画の技法に やたらと詳しいですし、いろいろ自分なりの実験をしています。 その本には適切な昼寝の仕方とかも書いてありますからね(笑) (ちなみに『私の50の秘伝』っていう本です) 一世を風靡し、アートの歴史に堂々と名を刻んだ彼とて、 やはり天才ではなかったのです。 ダリの作品が一度にたくさん見られる機会はそう多くはないと 思いますので、もしお時間に余裕があれば行ってみるといいと 思います。 彼の絵なら、絵画を好きになるキッカケになるかもしれませんしね。 それでは。 ...more»
成功しやすい体質になる方法
ビジネスに限らず、人生をトライ&エラー&修正、 つまり実験として捉えることは、われわれにとって 非常に大きな意味があります。 例えば僕は毎日の食事でいろんな実験をしています。 噛む回数を増やしたときと減らしたときでははお腹の調子は どう変わるのか、朝ごはんを食べたときと食べなかったときでは 仕事の効率や頭の回転はどう変化するか、食事の量を 増やしたときと減らしたときとでは、どれぐらいの体への 負担が変わるのかなどなど、挙げ出せばきりがありません。 他にも今まで入ったことのない飲食店に積極的に入って みるようにしたり、今まで使ってこなかったフェイスブックで みんなの反応を調べてみたり、メルマガで敢えて変なことを 言ってみたり(笑)、そういうこともやっています。 これらはすべてが実験であり、トライ&エラー、そして修正の 繰り返しです。 今年の前半は食事の実験をちょっと極端にやり過ぎて 体調を崩したりもしましたが、その代わりに、どこまでやると 体調が崩れてしまうのかもよく分かりました。 「あぁ、自分はここまでやるとヤバイんだな」と。 今回のコンセプトにしても、あれは実験というか、 本気で考えて書いたのですが、結果として見てみれば やはり実験ということになります。 どれだけ自分がいいと思ったことも、究極的にはやってみなきゃ 分からないワケです。   「やってみなきゃ分からない」 これについては少し前にも話しましたが、このマインドセットは 言い換えると、人生を実験として捉える、ということです。 頼んだことのないメニューを頼んでみる。 入ったことのない店に入ってみる。 行ったことのないセミナーに行ってみる。 話したことのない人と話してみる。 聞いたことのないことを聞いてみる。 このトライによって、今までと同じことをしていては 決して得られなかった何かがそこから得られます。 そのほとんどはエラーかもしれませんが、われわれはエラーを 経験すればするほど、成功する確率が高まっていきます。 例えばある飲食店の全メニューを食べる実験をしたとしましょう。 当たり前ですが、すべてのメニューを食してみれば、 どれが一番美味しいかは誰にだって分かります。 その一番美味しいメニューを選べるようになること、 それが成功です。 当たり前過ぎてバカバカしいと思うかもしれませんが、 結局これしか方法はありません。 自己管理の話も同じで、何をどうすれば自分の体調や気分や 調子が上がるのか、というのは自分で実験して見つけなければ ならないのです。   「自分を観察する」というのも、人生を実験として捉えることを 別の視点から表現したものにすぎません。 実験と観察はセットです。 どれだけ素晴らしい実験をしても、観察する人がいなければ 意味がないですよね? ただそれだけの話です。 同様にして、観察して終わり、というのも意味がありません。 観察して見つけた何かは、自分なりに使ってみたり試してみたり しなければ、宝の持ち腐れになります。 「歩いているときに自分は下ばかり向いている」ということを 観察で発見したなら、次は「上を向いて歩く」という実験を するということです。 そしてまた自分を観察して、調子や気分の変化を調べる。 この繰り返しによって、自分がどういう方向を向いているときに 調子や気分がよくなるか、つまり「成功しやすくなるか」が 分かるワケです。   もう分かると思いますが、この実験は今この瞬間から始められます。 朝に起業の準備をするのがいいのか、それとも夜の余った時間で 準備をするのかいいのか。 朝はコーヒーがいいのか、お茶がいいのか。 いつもの道を通るのと、少し遠回りした道を通るのとでは どっちが心地良いのか。 こういうことを「いつも」考えてやってみてほしいのです。 そうすることで、われわれは人生の質を高めていくことができます。 僕の場合であれば、僕は朝食を食べないときが最も調子がいい ということが分かっているので、それを毎日実行するだけで 最高の1日を作ることに繋がるワケです。 でも、これを知らなかったらどうでしょう? 知らず知らずのうちに僕が朝ごはんをお腹いっぱい食べて、 自分の調子や気分を落としていたとしたら? そう、こんなメルマガは書けないんですよ、朝からは。 つまり、ほとんどの人はそれを知らないから、何が適切な 自己管理かを実験で知ろうとしないから、自分で自分の首を 絞めてそのまま人生が終わってしまうのです。   毎日実験のつもりでいろんなことを試してください。 いつもと違う時間に起き、いつもと違う箸を使い、 いつもと違う食器で、いつもと違うご飯を食べる。 この小さなことの積み重ねが理想の実現に繋がっていくのです。 ボーっと生きてちゃダメですよ。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合はこちらをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 ...more»
素敵な人になる方法
  ファッションやインテリア、建築、園芸、手芸、料理などなど ジャンルを問わず、女性が読むような雑誌には必ずと言っていいほど 「素敵な人」が登場します。 彼らは「素敵な家具や食器に囲まれながら、素敵なキッチンや リビングやテラスのある、素敵な家に住み、素敵な料理を作って、 素敵な趣味をたしなみながら、素敵なパートナーや家族と、 素敵に暮らしている」という風に紹介されるワケですが、 その「素敵さ」は何から生まれるのかということを考えてみたことが あるでしょうか? 彼らは最新のものばかり買い揃えているワケでもなければ、 高価なものばかり持っているワケでもありません。 家だって新築じゃないことがほとんどだし、誰もが羨むほどに 広いリビングやキッチンがあるワケでもない。 食べている物、着ている物、使っている物も、どこでも普通に 手に入るものだったりします。 家族やパートナーだって、とんでもない天才や奇人なんかじゃない 普通の人です。 にもかかわらず彼らが素敵に見えるのは、それらの組み合わせ方や 取り入れ方、つまり工夫が上手いからです。   工夫とは、バランスをとること、崩れたバランスを調整すること、 特定の文脈に合わせてバランスを最適化することです。 何であれバランスをとるためには、どこにバランスを合わせるか、 という基準をあらかじめ決めておかなければなりません。 例えば部屋を片付ける場合、どういう状態になれば片付いたと 言えるのか、という自分なりの基準が決まっていないと、 本来的には片付けることができません。 多くの人はなんとなく部屋を掃除して、散らばったものを なんとなくそれっぽい場所に収めることによってそれを片付いたと 判断するワケですが、これは主観的な判断なので、その状態を 周りが自分と同じように片付いていると判断するとは限りません。 僕から見て片付いている状態であっても、あなたがその状態を 僕と同じように片付いていると判断する保証はないワケです。 この「自分だけが片付いていると思うバランス」が素敵の反対、 つまりダサイ状態です。 実際には、物を整理すればある程度は誰が見ても綺麗な部屋に なるので、積極的にダサイと言われることはまずありませんが、 それはただ綺麗なだけであって、素敵とは異なります。 素敵さが生まれるためには、自分と他者の基準がピッタリと 合っていて、その基準に従って生き方が工夫されていなければ ならないのです。   僕が知るかぎり、素敵な人たちはいくつも自分の基準を持っていて、 その基準に沿った自分ルールを持っています。 片付けの基準、買い物の基準、コーディネートの基準、 考え方の基準、時間配分の基準、休日の過ごし方の基準、 料理の基準、盛り付けの基準、育児の基準、仕事の基準などなど、 これらの基準の数だけ彼らには自分ルールがあります。 例えば料理の基準が「栄養満点」だったとしたら、料理のルールは、 できるだけ栄養のある料理を作ること、になるでしょう。 基準が「お腹いっぱい」だったとしたら、ボリューム満点の料理を 作ることがルールになるかもしれないし、基準が「創作」だったら 栄養やボリュームを無視してでも異色の組み合わせを考えて料理を 作ることがルールになるかもしれません。 休日の過ごし方にしても、「回復」が基準だったら、 その日は掃除や洗濯はしない、というルールになる可能性があるし、 「充実」が基準だったら、面倒な家事はさっさと終わらせる、 というルールにすることもあると思います。 こういった基準や自分ルールが細かく決まっているほど 行動や気持ちにムラがなくなり、メリハリがあって統一感のある 素敵な生活になることはなんとなく想像できると思います。 一方ダサイ人というのは、メディアで聞きかじったことをそのまま ――何の工夫もなく――自分の基準やルールにしています。 雑誌に書いてあったこと、テレビで言っていたこと、俳優やモデルが 日課にしていることなどを自分で実践してみるまではいいのですが、 それを自分に合うように、つまり自分とバランスがとれるように 工夫するところまで頭が回らないというか、そもそも工夫する気が ないワケです。 それゆえ彼らはいつも誰かの基準や自分ルールに従って生きることに なります。 試しにあなたの周りのダサイ人、いや、ダサイとは言わないまでも、 特に何の魅力も感じない人たちを観察してみてください。 彼らは大抵毎日をテキトーに、場当たり的に、そのときの気分だけで 生きていると思います。 彼らにはこれといった基準や自分ルールがないために、巷に溢れる 「よさそうなもの」に流されて生きることになるワケです。   僕が最近よく見ている「Veggie Dishes」という料理動画があります。 これは日本人(多分僕と同い年ぐらい)の男性がヴィーガン料理を 作る動画なのですが、個人的にこの動画は「素敵」を絵に描いたような 動画だと思います。 見てもらえば分かるように、使っている道具から食材から雰囲気から 撮影の仕方から本人の立ち振る舞いまで、これでもか、というぐらい メリハリがあって統一感がある。 彼が人間的に優れた人なのかどうかは会ったことがないので 分かりませんが、少なくとも僕の定義で言う「素敵な人」であることは 間違いありません。 もちろん彼にそれほど魅力を感じない人もいるでしょうし、 僕も別に彼のようになりたいと思っているワケではないのですが、 僕の場合はどちらかと言えば彼自身というよりも、彼のセンスに 共感していて見習うべきだと思っているという感じです。 視点を変える、角度を変える、見方を変える・・・それだけで世界が 変わるということを地で実践している稀有な動画だと思います。 追伸にリンクを載せておきますので、「素敵」の具体例として 参考にしてください。   素敵な人とは、その人自身が誰かにとっての基準である人のことです。 あの人のやっていることはカッコイイ、あの人の選んだものなら 間違いない、あの人の真似をしたい。 そういう基準になれたときに、われわれは素敵な人になります。 今の自分は誰かの基準に、見本に、憧れの的になっているか。 誰かから真似したいと思われるような生き方をしているか。 素敵な人になりたければ、常にそれを気にするという自分ルールを 自分に課しておきましょう。 そこからあなたの素敵ライフは始まります。 ありがとうございました。 追伸1:Veggie Dishesの動画 本文で紹介した動画はこちら。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
「なんとなく」の精度
  先日、なんとなく植物園へ行ってきました。 気分転換ということ以外にこれといった目的はなかったのですが、 これが今まで行き慣れた美術館や動物園や本屋ではなく、 なんとなく(一度も行ったことのない)植物園でなければならない 気がしたというのが興味深いところです。 ただの気分転換であればどこへ行っても同じはずなのですが、 僕が特定の場所でなければならない気がするときは大抵 その場所に僕の求めていた答えがあります。 そこへ行ってみるまでは僕自身にも自分が何を求めていて、 何のためにそこへ行くのか、なぜそこでなければならないのかは 分かりません。 本当にただなんとなく出かけた方がいい気がして出かける。 それだけです。 けれども、行ってみるとそこにはちゃんと答えがあります。 今書いているこの記事こそが、まさに植物園へ行ったことの 答えです。 僕がそこへ行かなければこういう内容にはならなかったことを 考えると、ちょっと不思議な感じですよね。   僕は「なんとなく」には、大きく分けて2つの種類があると 思っています。 1つは「粗悪ななんとなく」、もう1つは「良質ななんとなく」 です。 使っている言葉からも分かるように、前者と後者は表面上は 同じものでも、その質が大きく異なります。 冒頭で、なんとなく植物園へ行った、という話をしましたが、 これが「粗悪ななんとなく」だったとしたら、僕はこの記事を 書けなかったと思います。 なぜなら「粗悪ななんとなく」は文字通り質が悪い、 言い換えると精度が低いからです。 何に対する精度かは時と場合によりますが、多くの場合は 「自分にとっての答えや正解を得る精度」だと考えておけば 間違いありません。 つまり、なんとなく行動していても物事が上手くいく場合は 「良質ななんとなく」、なんとなく行動すると痛い目にばかり 遭ってしまう場合は「粗悪ななんとなく」だということです。   この「なんとなく」の精度は人生の質のほとんどを 決めています。 例えばわれわれはなんとなく今日の献立を決めたり、 なんとなくいつもと同じ歯ブラシを買ったり、なんとなく ニュースサイトを見たりしながら生きているワケですが、 それはすなわち、その「なんとなく」の精度が低いほど 今日の献立が自分にとっての正解である確率が低くなる ということです。 献立に正解なんてあるの?と思うかもしれませんが、 その献立がその日の自分のパフォーマンに影響することを 考えれば、そこに正解・不正解があるのは当然でしょう。 その日の体調に合った献立をどれだけ的確に立てられるかが、 その日の健康や仕事の出来、しいては幸福にも関係してくる ワケです。 無論、ニュースサイトを見ることだってその日考えることや 周りとの会話などに影響を与えますから、どのニュースを どのように読んだのかということにも正解・不正解はあります。 こうした毎日のことが積み重なってできているのが人生だ ということを考えれば、誰もが「なんとなく」の精度を高めて おかなければならないことは容易に理解できるでしょう。   「なんとなく」の精度を高める第一歩は、日頃の「なんとなく」 という判断を減らすことです。 言い換えると、今日の献立を決める際に、なぜそれでないと いけないのかをイチイチ考えるということです。 八宝菜でも肉じゃがでもドリアでもなく、なぜシチューでないと いけないのか。 まずは答えが出なくてもいいので、とにかくそれを考える。 そうすることで日常の「なんとなく」が減っていきます。 なぜ?を頭(意識)で考えているワケですから、その時点でそれは 「なんとなく」ではないワケです。 これができたら次は頑張ってその問いの答えを見つけてください。 最初はある程度無理やりになると思いますが、続けているうちに いくつかのことに気がつくと思います。 それらが何かはやれば分かるので、というか、やってほしいので、 ここではあえて説明しません。 これで精度は上がっていきます。 あとは同じことを日常のあらゆる場面で繰り返すだけです。   「なんとなく」の精度が上がってくると冒頭で話したようなことが 普通に起こるようになります。 不思議に思うかもしれませんが、それは実は当たり前のことです。 というのは、答えはいつでも外ではなく内に、つまり自分の中に あるからです。 それを見つけられないのは、見つけるための目を鍛えていない からであって、そこに答えがないからではありません。 先程言った精度を上げるとは、自分の中にある答えを 見つけるための目を鍛えるということです。 これが以前話した(上級で鍛えている)「見えないもの」を 見る力だということは言うまでもないでしょう。 それさえしっかり鍛えられていれば、家にいようがどこに行こうが 必要なときに必要な答えは見つかります。 僕がなんとなく感じ取ったのは、植物園という場所を通せば 答えがよりクリアに見える、ということに過ぎません。 だって植物園を動物園や家に変えたところで、この記事の内容は 何も変わらないんだから。 変わるのは僕が答えに気付くか否かだけです。 答えに気付きやすい場所をなんとなく察知するのも1つの 答えだと考えると、この問題は延々と続くことになりますが、 それはともかく、こういう凡人にはできない恐ろしく地味な努力を 続けていかなければ、脱凡人であることはできないのです。   なぜAをしなければならないのか、なぜAでなければならないのか。 その問いの数だけ答えはあります。 なぜシチューを食べなければならないのか。 こんな問いでも人生を変えるキッカケになりうるのだということを 忘れないでください。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
狂った感覚
  近くに住む親戚のおじさんは冬になると、庭で育てたミカンを よくくれる。 彼はそのミカンを無農薬で育てていることを誇りに思っており、 ミカンを持ってくる度に「うちのミカンは無農薬やから安全やで」と 自慢げに語るのだが、今の僕はその言葉を聞くと複雑な気持ちになる。 去年の春頃からだろうか。 庭で野菜を育て始めたことをキッカケに、僕は急激に食に興味を 持つようになった。 はじめた頃はなるべく農薬と化学肥料を使わずに野菜を作りたいと 思っていただけだったのが、今では本当に安全で野菜本来の味がする ホンモノの野菜を作りたいというプロ的な欲求に変わってきている。 おじさんのミカンは無農薬ではあるのだが、大量の化学肥料と 有機肥料を使って育てられている。 それでも今まではこのミカンを食べることに抵抗はなかったし、 実際、美味しいと思って食べていた。 スーパーで売られているミカンと比べても味が濃く甘みも 強かったこともあり、これが「ミカンの味」だと、そう信じていた。 しかしあるとき、自然農法を実践されている方が 「化学肥料で育てられたものは味の素の味がして不味い」 と言っているのを知ってから、僕は自分の舌を信じられなくなった。 僕は別に自分がグルメだと思っていたワケではないし、自分の舌に 自信があったワケでもない。 けれども、今まで普通に美味しいと思って食べていたものを、 ホンモノを食べ続けている人に堂々と不味いと言われたことの ショックは大きかった。 それから僕はそれが本当かどうかを確かめたい欲求に駆られた。 もし彼の言うことが本当であれば僕の舌は狂っていることになる。 彼がウソをついているとは思えなかったし、ウソをつく理由も 見当たらなかったが、やはり実感できないことは納得もできない。 そこで僕は試しにホンモノを食べてみることにした。 最初に食べてみたのは無農薬・無肥料の(化学肥料も有機肥料も 使っていない)ミカンだった。 正直な話、最初はこれを食べてもおじさんのミカンとの違いは 分からなかった。 普通に美味しいミカンだとは思ったが、それは文字通り 「普通」であり、僕が勝手に想像していた飛び抜けて美味しい ミカンではなかった。 しかし1ヶ月後、僕は驚くべき変化に気付くことになる。 僕は1カ月間毎日無農薬・無肥料のミカンを食べ続けた。 その間、おじさんのミカンやスーパーのミカンは一切食べず、 ひたすら同じミカンばかりを食べ続けた。 その結果、おじさんのミカンが不味くて食べられなくなったのだ。 これがウソのようで本当の話だから笑えない。 久々に食べたおじさんのミカンは、食べた瞬間は美味しいのだが、 味わうにつれて舌には鉄を舐めたときのような嫌な感じが残り、 噛めば噛むほど気持ち悪くなる不味いミカンに変わっていた。   上記は僕が最近体験したことをそのまま書きました。 この話から学べることはたくさんありますが、今考えてほしいのは、 普通の生活をしていて舌が狂っていたとすれば、他の感覚も 狂っている可能性が多分にあるのではないか、ということです。 僕は数年前まで音響のプロをやっていたので分かるのですが、 舌に限らず多くの人の耳はユーチューブやMP3音源などの 劣悪な音を聴き過ぎて、何が本当に「いい音」なのか分からなく なっています。 僕がホンモノのミカンを「普通に」美味しいと感じたように、 彼らもいい音を「普通に」いい音だとは感じられるんだけれども、 MP3といい音との違いがほとんど分からない。 仮に分かっていたとしたら、昔の僕のように「MP3なんか 聴いてたら気持ち悪くて仕方がない」という状態になっている はずですなのですが、そんな人は滅多にいないワケです。 あと人工香料なんかもそうですね。 最近やたらと香りが添加された洗剤が宣伝されていますが、 自然香料との違いが分かる人からすれば、あの洗剤の香りは 気持ち悪くて仕方がないと思います。 同様に人工香料で香りづけされたシャンプーや石鹸、消臭剤、 柔軟剤なども、すごく違和感があって僕は気持ち悪いです。 我慢できないほどではないとは言え、ドラッグストアのそれ系の 陳列棚には近づきたくない、と思うぐらいには不快になります。 でもその一方で、あれを毎日普通に使っている人は(昔の僕を含め) 山ほどいて、彼らはそれを「いい香り」だと思っているワケです。 これらの例だけでも、いかにわれわれの感覚が狂っている (狂わされている)かが分かると思います。 別に化学肥料やMP3や人口香料を悪者扱いするつもりは ありませんが、そうした質の悪いものを自分から選び、自分で自分の 感覚を狂わせているのが凡人だということは分かっておかなければ なりません。 狂った感覚は質の悪いもの、精神や肉体に害のあるものを平然と 「良いもの」と判断します。 つまり感覚が狂ったままだと正しい判断ができないワケですが、 はたしてその状態のまま幸せになることは可能なのでしょうか?   今や科学技術の進歩によって、脳に電極を差し込んで快楽物質を 大量に分泌させれば、一生寝たままでも「幸せ」に生きることが 可能となりました。 チューブで必要な栄養を体に流し込み、脳に電流を流し続けて さえおけば、その人は「幸せ」に生きることができる。 ここまで極端ではないにせよ、狂った感覚はこれと似たような 「幸せ」を求めているような気がします。 甘いものではなく「甘く感じるもの」で作られた昨今のお菓子は、 その顕著な例です。 狂った感覚は、美味しいと感じさえすれば体に悪いものでも 平気で欲しがるワケですが、これは極端に言えば、 その辺に生えている雑草でも、見た目や食感や風味を それっぽく加工して、舌がそれを美味しいと感じるようにすれば 人はそれを欲しがるということです。 実際、それに近いことが多くの人の知らないところで 既に行われていることを考えると、恐ろしいことだと思います。 本人が気付かなければ実質的な問題は(少なくとも短期的には) ないですから、彼らがその誰かによって作られた「幸せ」で人生を 終えるのも、それはそれでアリなのかもしれません。 どんなウソも、ウソだとバレなければ、本人にとっては真実です。 ただ、やっぱり「それでいいのか?」と思ってしまうんですよね、 僕としては。 そう感じるものと、そうであるものとは、やっぱり違うだろ、と。 ましてや、それが狂った感覚だと知っておきながら放置するのは もっと違うだろ、と。 そう思うのです。   上では「幸せ」と言いましたが、多くの人がまったく望んでいない 人生を歩み、なぜそうなってしまうのか分からないまま解決できずに 死んでいくのは、彼らの感覚が狂っているからに他なりません。 何が正しいかを判断する感覚が狂っているワケですから、 正しい選択ができないのは当然です。 彼らがよかれと思ってやることは、そのほとんどが裏目に出ます。 よかれと思って行った教育が子供の将来を潰してしまうように、 宝くじに当たった人が不幸になってしまうように、彼らの判断は大抵 彼らが望んだものとは真逆の結果を招いています。 彼らは失敗する度に「もっとああすればよかった」と思うワケですが、 残念なことに、その「もっとああすればよかった」の内容でさえも 誤っていたりするワケです。 僕が何年か前に「これから生き残っていくには自分の判断基準を 作ることが大事だ」と言ったのを覚えているでしょうか。 忘れていたらブログに残っているはずなので探してみてください。 そこで言っていた判断基準が、ここで言うところの感覚です。 要するに凡人の判断基準は、世の中に溢れる数々の誘惑によって 狂わされているということです。 食べるべきでないものを食べたいと思わされ、買うべきないものを 買いたいと思わされ、すべきでないことをしたいと思わされている。 そりゃ不幸にもなりますよね。   じゃあどうやったら狂った感覚を正常な感覚に直せるのか。 僕が知るかぎり一番近道なのは健康になることです。 なんとも抽象度の高い答えで申し訳ないのですが、一言で言うと どうしてもこうなっちゃうんですよね。 精神・肉体ともに健康になれば判断基準の狂いを自覚できるようになり、 どこをどう直せばいいのかが分かるようになります。 これは健康になればなるほど詳細に分かるようになっていきますので、 可能なかぎり日頃から気を付けておくことが大事です。 当たり前だと思ったかもしれませんが、そもそも健康がどういう状態か 知っているでしょうか? 漠然としたイメージだけで考えていませんか? 健康になるには、そういう根本的なところから考えなければ なりません。 一般に理解されている健康は、僕からすれば使い古された旧世代の 健康です。 使おうと思えば使えないことはないけれど、すぐにエンジンが 止まってしまってあまりに効率が悪い。 今の時代には、今の時代に合った健康が必要とされています。 それを見つけようともがくこと。 それもまた健康への、しいては正常な感覚へのプロセスなのです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
ネギの種が教えてくれた自然としての正しい在り方
  2週間ほど前だったでしょうか。 某ホームセンターで買ってきた万能ネギの種を見ていて、ふと、 ある疑問が浮かびました。 「なんで種は袋の中では芽が出ないのに、土に蒔くと芽が 出るんだろう?」 このことはあまりにも当たり前のことなので普通は誰もが 見過ごしているのですが、この疑問からはわれわれにとって 非常に重要な仮説を立てることができます。 種には周りの環境を感知する能力があり、芽を出しても 枯れないであろう環境でのみ芽を出すという適切な判断が できるのではないか、という仮説です。 袋の中ではいくら放置しておいても絶対に芽は出てきません。 しかし、然るべき場所に種を蒔けば芽は自然と出てきます。 もし種に環境を感知する能力がなかったとしたら、袋の中でも 芽が出てくると考えるのが自然です。 袋の中で芽を出した種は、そこから生長するための栄養 (光や水や養分)が得られないためにすぐに枯れてしまう。 こうなって然るべきでしょう。 でもそんなことにはならないワケです。 現実を見れば明らかなように、種は然るべき場所でしか芽を 出しません。 ということは種には環境を感知する触覚のようなものがあって、 それによって生長するための適切な環境に自分がいるか否かを 判断していると考えられないでしょうか。 そうだとしたら、種はどうやって適切な判断をしているの でしょうか。   現時点で言えるのは、種は思考錯誤の結果として 「よし、芽を出そう」と決めているワケではないだろう、 ということです(笑) たしかに種を植えてから発芽まではある程度時間がかかりますが、 その間に種が発芽すべきか否かで悩んでいるというのはちょっと 考えにくいですよね? だって、ほら、植物だし。 もしかしたら彼らも彼らなりに悩んでいるのかもしれないけども、 その話を持ちだすとややこしくなるので、今は種は悩んだりしない ということにしておいてください。 じゃあ種はどうやって適切な判断をしているのか。 それは先程僕が言った「感知」や「触覚」という言葉からも 分かるように、おそらく感覚(直観)によってです。 「自分がここだ!と思ったから芽を出しただけだよ」 種に気持ちを尋ねればこんな感じに答えると思います(笑) つまり、それは究極的に主観的な判断によるものなのです。 だから当然、同じ種類の種でもその場所で芽を出すヤツもいれば、 出さないヤツもいるということになります。 それぞれの種はそれぞれに「自分にとって適切な場所はここだ」と 判断していて、その判断基準もそれぞれに異なるということです。 元も子もないようですが、自然というのは本来そういうものなのです。   こんなことからでも、われわれが学べることが2つあります。 1つは自分にとって何が適切な環境なのかを判断できるように 自分自身の感覚を鍛えなければならないということ、もう1つは その自分の感覚をどれだけ信じられるかが重要だということです。 前者はなんとなく分かりますよね。 今属しているコミュニティが自分にとって適切なのかどうか。 自分が付き合っている人、暮らしている地域など、 それらの環境は果たして自分が芽を出すべき(根を張るべき) 環境なのかどうか。 そういう判断ができるように感覚を鍛えておかなければ、 袋の中でも平気で芽を出す種に、つまり自滅する人になって しまいますよ、ということです。 ただより大事なのは後者の方で、どれだけ適切な判断ができても、 それを自分が適切であると信じられなければ意味がありません。 なぜなら、世の中に客観的な正解なんてものはないからです。 さっきの種の例でも分かるように、自分がここだ!と思ったら それに向かって真っすぐ進めないとダメなんです。 答えは結果だけが教えてくれるのであり、やってみるまでは それが正しいか否かは誰にも分かりません。 僕が「やめといた方がいいと思うよ」と言った企画や案でも、 もしかしたらいい結果が出るかもしれません。 だから自分がどうしてもやりたいと思ったり、自分は絶対に 成功すると思うならば、僕がなんと言おうとやってみれば いいんです。 そこまで自分を信じられるなら、多分上手くいきますから。   種は「そこはあんまり栄養ないから芽を出すのやめとけよ」と 言ったとしても絶対にそこに芽を出します。 これはただの独りよがりではなく、種が自分を信じ切っていて、 その結果どうなろうとすべての責任を自分で負う覚悟がある からです。 当たり前ですが、種はそこに芽を出した結果、枯れたとしても 文句なんて言いません。 ただ素直にそれを受け入れて死んでいくだけです。 われわれはこの潔さを見習うべきだと思います。 周りの判断に便乗しておいて、それがダメだったら責任を周りに 押し付ける。 こんな見苦しいことをするのは人間ぐらいです。 われわれは環境を自分で選ぶこともできるし、自分で適切な環境を 作ることもできるのですから、種よりよほど有利で自由です。 それほど条件に恵まれているにもかかわらず、われわれは種以下の 醜い生き方しかできていない。 そのことをもっと恥じるべきでしょう。   自然はわれわれに本来あるべき生き方を示してくれています。 自然に生きるとは、自分に正直に生きるとは、ここまで話した 種のように生きるということです。 すべてを自分の基準で判断し、すべての責任を自分で背負い、 余計なことは一切考えず、自分のやるべきことだけをやる。 たったこれだけでいいのです。 たったこれだけのことを万人が実践するだけで、われわれが 抱えている問題のほとんど(恐らくすべて)が解決します。 われわれは随分と自然の道から外れてしまいました。 もうそろそろ寄り道をやめて、元の道に戻ってもいい時期では ないでしょうか。 不自然な生き方は身体だけではなく精神も蝕みます。 どうか道から足を踏み外さないようにお気をつけて。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
誰でも芸術の凄さが実感できるようになる感性の磨き方
  「芸術のことはよく分からない」 ブログに芸術に関する記事を書いていることもあってか、 僕はたまに読者の方からこういうことを言われます。 これは彼らなりの「分かってみたい」という希望なのだと 僕は捉えていますが、その希望に対して、僕はこれまで 「こうすれば分かるようになるよ」という具体的な道を 示すことができませんでした。 ある人には「哲学を学んでいれば分かるようになる」と 言った記憶がありますが、それも間違いではないとは言え、 納得のいく答えには程遠いと言わざるを得ません。 なぜ哲学を学ぶと芸術が分かるようになるのか。 その理屈が抜け落ちているからです。 ご存知のように、芸術の価値や素晴らしさは言葉では 説明できません。 無理やり言葉で説明しようとしている評論はたくさん ありますが、それらはどれも野暮ったく、言葉にすれば するほど胡散臭い言葉が並ぶことになります。 だからこれまで僕も芸術を(言葉で)理解してもらうことは 諦めていました。 しかし最近、僕はあることに気が付きました。 それは、直接僕があーだこーだ言って芸術を分かって もらうことはできなくても、芸術を捉える感性を磨いて もらうことによって、間接的に芸術を分かってもらうことは 可能なのではないかということです。 つまり、感性の磨き方を教えることで、「芸術が分かる人」に なってもらうことはできるということに気が付いたのです。   感性は主に2つのことを意識することで鍛えることができます。 その2つとは 1.比較 2.丁寧さ です。 比較は感性の幅、丁寧さは感性の深さだと思ってもらえば、 分かりやすいかもしれません。 比較が欠けても、丁寧さが欠けても、感性は粗雑なものに なります。 今から1つずつ説明していきますので、どちらもしっかりと 意識していくようにしましょう。   まずは比較についてです。 人は差異にしか反応できない、というのは有名な話ですが、 これは感性でも同じで、われわれはいいものと悪いものを 比較することではじめて、いいものがどれぐらいいいもの なのかが分かります。 僕がこれを強く実感したのは、米の味の違いを知ったときです。 それまで家で食べている米が美味しいなんて思ったことが なかったのに、某牛丼チェーン店で不味い米を食わされて 普段食べている米がどれだけ美味しいかを実感しました(笑) 米の味ってこんなに違うのか、と。 そのときにはじめて僕は家の米の有り難さを知ったワケです。 この話はそのまま芸術にも当てはまります。 われわれが美術館で見る作品というのは、おおよそどれもが 一級品です。 ピカソやムンク、モネ、ルノワール、ゴッホなどなど、 有名な作品はどれも比べようのないものばかりですから、 それしか見たことのない人は、家の美味しい米しか食べたことが なかった僕のように、それらの凄さが分からないのです。 しかし、画廊や県展(県が公募作品を集めて展示する展覧会)で 展示されている、素人に毛が生えた程度の作品群を見れば、 誰でもゴッホやピカソの凄さが実感できるようになります。 何がどう凄いのかということは分からなくても、あの作品より この作品の方が優れているという判断は誰にでもできる。 つまり、比較する対象を増やすこと、松竹梅ジャンルを問わず あらゆるレベルのものに触れることが感性を磨く第一歩なのです。   続いて丁寧さ。 丁寧さは、今言った「何がどう凄いのか」が分かるように なるために必要なものです。 AとBを比べて、Aの方が凄いということは分かった。 じゃあ一体AはBに比べて何がどう凄いのか。 これが分かるようになるには、何度も何度もAとBを細かく 比べてみるしかありません。 米の味であれば、何度も何度も食べ比べて、米の甘さや食感、 風味、水分量などを調べていくという感じになります。 絵ならば、絵具の質感や全体のバランス、使われている技法、 時代性などを見ていく。 丁寧さとは言い換えれば、より具体的な比較に必要なものです。 今までは「米」や「絵」というザックリした単位でしか比較して いなかったものも、「米の甘さ」や「絵の色使い」で比較して いくことによって、より深い次元の感性が磨かれます。 対象を丁寧に見るからこそ、より精密に「何がどう凄いか」まで 比較して知ることができるのです。   以上の2つ 1.比較 2.丁寧さ を普段から意識して生活してもらえれば、われわれの感性は 自然と磨かれていきます。 ただ誤解しないでほしいのは、ここで言う感性は別に芸術に 対する感性に限定しているワケではないということです。 今はたまたま芸術のことがメインになっているだけで、 ここで言っている感性とは、われわれが知っている 最も広い意味での感性を意味します。 だから例えばファッションセンスも、この方法で磨いて いくことが可能です。 ショボイ服からエレガントな服まで一通り着てみれば それらの違いは分かるし、それらの組み合わせの良し悪しを 丁寧に見ていけば、コーディネートのセンスも磨かれる。 すなわち、応用の幅は無限大なのです。   感性を磨けば、日常に対して感じることも変化します。 今まで凄いと思わなかったものも凄いと思えるようになり、 今まで美味しいと思わなかったものも美味しいと思える ようになる。 凄さを感じたければ、ショボイものや凄いものにたくさん 触れてください。 美味しさを感じたければ、美味しいものから不味いものまで いろんなものを食べてください。 それだけで僕らの感性は磨かれていきます。 好き嫌いをしないこと。 未体験ゾーンに足を踏み入れ続けること。 これこそが感性を磨く道です。 こういう当たり前のことを、当たり前にやっていって くださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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