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Archives for 心理

なぜ縛りプレイは正義なのか
  将棋の世界には、電王戦と呼ばれるコンピュータソフトVS棋士の 対決があります。 その第5回目の試合が4月に行われました。 ネットの記事によると、その試合では棋士が「ハメ手」と呼ばれる 戦法を使って3勝2敗でコンピュータに勝ち越したとのこと。 ハメ手とは、コンピュータのバグを突く戦法のことで、純粋に将棋を 指すのではなく、コンピュータがミスをする(非合理な手を指す)のを 誘う戦法のことです。 この戦法は「将棋で勝つ」というよりも「プログラムで勝つ (勝てれば何でもいい)」というある意味で非常に冷徹な合理性が 支えています。 実際、こういう勝ち方をしたことに一部のファンから批判が寄せられた、 ということも記事には書かれているワケですが、棋士は単に合理的に、 つまり最も勝つ確率の高い手を考えて将棋を指したにすぎません。 棋士とコンピュータの目的は同じ「勝つこと」ですから、その目的を 達成すべく努力したという点では棋士は何も間違っていないワケです。 にもかかわらず一部から批判が出たのは、それでは面白くない (将棋を指したというよりもプログラムを学んだだけではないか)、 という気持ちが彼らの中に湧いてきたからでしょう。 例えばサッカーで(まともにサッカーをやらずに)オフサイドトラップ ばかり仕掛けるチームが勝ったとしたら、あなたはどう思うでしょう? 同じく(まともに野球をやらずに)牽制を何度も繰り返してランナーを バテさせることで毎回勝利している野球チームがあったら? どちらもルールは破っていませんから、合理的には何も間違っては いません。 でもやっぱり見てて不快だと思うんですよ、そういうのって。 もしすべてのチームや人がそういう戦法を取り始めたら、 野球もサッカーも将棋もまったく面白くなくなることは 想像に難くありません。 では、なぜ合理的(過ぎる)な戦法は面白さを失わせるのでしょうか?   ゲームには主に3種類のルールがあります。 1つ目はわれわれのよく知っている「これをやったらダメ」という 禁止ルールです。 手を使っちゃダメとか、二歩はダメとか、そういうヤツが 禁止ルールに属します。 日常生活でも、タバコを吸っちゃダメとか、走っちゃダメとか、 人の物を盗んじゃダメとか、いろいろありますよね。 2つ目は「これができます」という可能ルール(便宜上 そう表現しておきます)があります。 サッカーなら「足でならボールを触っても問題ないですよ」という ルールがあるし、将棋で言えば「このコマはこの範囲でなら 動かせますよ」などのルールがそうです。 もちろん日常生活の中にも「この速度の範囲内でならいくらでも スピードを出せますよ」みたいなものがいくつもあります。 そして3つ目は「これをすべきである」という(暗黙の) 規範ルールです。 選手宣誓で語られることは、この規範ルールに属します。 われわれはスポーツマンシップに則り、正々堂々と・・・みたいな。 日常生活で言うなら「お年寄りには席を譲るべきだ」とか 「思いやりを持つべきだ」という信念が典型的ですね。 まとめると 1.禁止ルール 2.可能ルール 3.規範ルール の3つのルールがゲームにはあるワケですが、言うまでもなく、 面白くないゲームというのは3つ目の規範ルールを破っています。 規範ルールは他の2つとは違って自ら定めた「自分ルール」なので、 それを破ったからといって他者や外的な機関からペナルティーを 課されることはありません。 どれだけピッチャーが牽制球を投げたとしても、禁止ルールと 可能ルールを守っている以上、審判にはそれをやめさせることが できないワケです。 とはいえ現実には、ゲームで規範ルールを破る人はまずいません。 電王戦で勝利した棋士も、人間と対決するときは規範ルールを 守っているはずだし、電王戦はやむを得ずハメ手を使っただけだと 思います。 なぜなら規範ルールを破ることは、ファンの期待は当然として、 自分自身をも裏切ることになるからです。 ゲームを行う人(特にプロ意識の高い人)は、 言葉にするまでもなく「正々堂々と戦うべきだ」という信念を 持っています。 この場合の「正々堂々」とは、万人が(暗黙に)共有している 規範ルールを守るという意味です。 これを破ったときにわれわれは「卑怯者」と呼ばれるワケですが、 卑怯者と呼ばれ、なおかつ自分でもそれを自覚していて平気で 居られる人はそれほど多くはいません。 真剣にゲームに打ち込んでいる人ほど「(合理的ではあっても) 卑怯な手を使うべきではない」というメタ的な規範ルールを 守る傾向にあるため、それによってゲームの面白さは保たれる ワケです。   テレビゲームの世界には「縛りプレイ」と呼ばれるものがあります。 縛りプレイとは、自分で自分に新たな(規範?)ルールを課すことで、 普通にプレイすれば簡単にクリアできてしまうゲームを敢えて自分で 難しくしてプレイするスタイルのことです。 例えばお金を一切使わないとか、武器を一切装備しないとか、 特定のキャラしか使わないとか、個人的に一番笑った、 足だけで『マリオブラザーズ』をクリアする、みたいなヤツも あります(笑) めちゃくちゃ下らない動画なんだけれども、これがまた異様に 面白いんですよね、不思議なもんで。 で、なんで面白いのかなぁ?と考えてみた結果、あることが 分かりました。 それは「必死さ」です。 われわれが面白いと感じるもののほとんどには規範ルールがあり、 その規範ルールは必死さを生み出します。 プロ野球よりも高校野球が面白いのは、まさにこの必死さにあると 言っていいでしょう。 合理的な戦法を使えば試合には勝てるかもしれませんが、 その戦法は最初から結果が見えてしまっているため、 必死さが失われます。 コンピュータのバグを突くことができれば勝てるということが 事前に分かっていれば、バグを見つけた時点で試合の結果は 出ているワケです。 そういう予定調和的なゲームは必死さを生みません。 ただ淡々と決まったことをやるだけ。 そりゃつまらなくなるのは当然でしょう。 しかし縛りプレイは違います(笑) ゲームをクリアするという目的に対しては恐ろしく非合理的でも、 ゲームを楽しむ(楽しませる)という目的に対しては、 ときに異様なまでの必死さを生み出すという点で合理的なワケです。 つまり規範ルールを守ることは、われわれが自分で必死さを 生み出すための工夫であり、ゲームを楽しむための、すなわち 本気を出すための(おそらく唯一の)方法なのです。   ところで、あなたは普段自分で自分にどれだけの規範ルールを 課しているでしょうか? どれだけ「自分は(脱凡人たる者は)こうあるべきだ」という 信念を持っていて、それを守っているでしょうか? その数が多ければ多いほど、それが厳しければ厳しいほど、 われわれの人生はどんどん縛りプレイ化していきます。 それによって生きる必死さ、面白さ、楽しさがアップすることは、 人生もゲームも同じです。 「新しいことにチャレンジし続けるべきだ」という規範ルールを 守っている人は、いくつになってもワクワクドキドキを失わない だろうし、「妻を幸せにすべきだ」という規範ルールを 守っている夫は、いつでも妻のことを真剣に考え、彼女を幸せに するために必死になるでしょう。 それがゲームを、人生を、そしてその人自身を魅力的にするのです。   どうして規範ルールは人間的魅力を生むのか。 そもそも人間的魅力とは何なのか。 その答えは自分で考えてみてください。 「答えは自分で考えるべきだ」というのも、脱凡人たるわれわれが 守るべき規範ルールの1つです。 こんなところで甘えちゃダメですよ(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
ほんの些細なことでキレてしまう人の真実
  ついカッとなって殺してしまった。 巷のニュースではよくこの手の事件が取り上げられます。 車のことで口論になって・・・。 肩がぶつかって・・・。 別れ話がこじれて・・・。 このようにほんの些細なことが殺人事件にまで発展することは 珍しくないワケですが、不思議なことに、この逆のことは滅多に 起こりません。 逆とは例えば、ハンカチを拾ってもらったこと(些細なこと)が 発展して一緒の家に住むほど仲良くなるとか、電車で席を 譲ってもらったことが発展してお礼のプレゼントをもらったとか、 そういったことです。 サラッと読めば当たり前のように思うかもしれませんが、 よくよく考えると不思議じゃないでしょうか。 ただ肩がぶつかっただけで怒りの感情は相手を殺すほどに 激化するのに、どうして感謝や喜びの感情は激化しないの でしょう? 仮に激化しやすい感情と激化しにくい感情があるとすれば、 それは一体どのようなメカニズムによって生まれるもの なのでしょう? 以下そんな素朴なことを真剣に考えてみたいと思います。   多くの人は自分の日常に対して満足よりも不満をたくさん 感じています。 会社では、もっと給料を上げてほしい、残業を減らしてほしい、 昼寝の時間がほしい、クールビズにしてほしいなどの不満があり、 家に帰っても、お風呂を先にわかしておいてほしい、スーパーの お惣菜ではなく手料理を作ってほしい、愚痴を聞いてほしい、 子育てに協力してほしいなどの不満があります。 満足はそれが習慣化されるにつれて感じ難くなっていく一方、 不満は習慣化されるとむしろ敏感になる傾向があることは ご自身の体験からなんとなく分かるのではないでしょうか。 給料が上がった満足感は半年も続けばいい方で、その給料に 慣れてしまえば有り難さはなくなります。 しかし給料が上がらない不満は、それが長く続けば続くほど 増幅され、ストレスになり、やがてストライキや辞職などの形で 噴火するワケです。 われわれが何かに怒るときというのは大よそ「相手がこちらの 思うようにしてくれない」という不満(傲慢さ)が原因です。 肩がぶつかったから謝ってほしいのに謝ってくれない。 付き合い続けてほしいのに言い分を聞き入れてくれない。 その相手に対する不満が怒りを引き起こすワケです。 だとすると、怒りやすい人とは、相手に多くのことを求めていて、 相手に多くの不満を感じている人だと言えます。 それは言い換えれば、自分のことを棚に上げてすべての責任は 相手にあると思っている人です。 もうお分かりでしょう。 つまり凡人であればあるほど怒りやすく、カッとなりやすい 傾向にあるということなのです。   先程も言ったように、一時的にはどれだけ喜ばしいことであれ、 満足感というのは日に日に薄れていきます。 今年のボーナスが10倍になったとしても、来年の同じ時期には より大きな満足感を求めるようになっている。 満足とはそういう性質のものですから、満足で得た喜びや感謝の 感情は長続きしません。 このことだけでも、喜びや感謝が激化しにくいことは分かると 思います。 人の感情というのは不合理にできていて、満足にはすぐに 慣れてしまうのに、不満にはなかなか慣れないのです。 じゃあ喜びや感謝の感情は何でもかんでもすぐに消えて しまうのかというと、そうでもないんですよね、これが。 「充実」による喜びや感謝はずっと、場合によっては 一生続きます。 充実は満足と違って慣れることがありません。 なぜなら充実は継続することによって得られるものだからです。 充実した学生生活、充実したクラブ活動、充実した田舎暮らし、 充実した毎日などなど、充実という言葉はそれを継続している 時間に対して使われます。 要するに、喜びや感謝の感情を保ち続けることそれ自体が、 充実の定義になっているワケです。 自分にとっての充実した生活を想像してみてください。 体が健康で、周りの人も楽しく暮らしていて、みんな仲が良く、 やりたい仕事が好きなだけできて、自分がやりたいことを やることによって他の人にも喜んでもらえる。 こういった生活から得られる喜びや感謝は、日を増すごとに 積み重なり、周りにもどんどん大きく広がっていきます。 すると、周りはこちらの思うように協力的に動いてくれる ようになり、それに伴って自分の不満もなくなっていくのです。   ここで分かってほしいのは怒りっぽい人ほど、つまり 凡人であるほど充実していない、つまらない生活を おくることになるということです。 彼らは不満にばかり敏感になっているため、ほんの些細な、 しかし素晴らしい日常の出来事に気付くことができません。 彼らにとって世界はストレスだらけで、飲み会やカラオケや 映画や遊園地にお金を払わなければストレスを解消することも ままならないワケです。 そう考えると、彼らが可哀想に見えてこないでしょうか。 些細なことでいつもイライラして、大声でわめき散らして、 それで一体何が得られるのでしょう? 百歩譲ってそれで気分がスッキリするならいいですが、 怒りの感情はどれだけ激化してもスッキリはしません。 それどころか、冒頭で話したように背負わなくてもいい 無駄な罪まで背負ってしまうことにもなり得るワケですから、 いいことなんて何もないのです。 だったら。 そんな人間からは早く脱しませんか。 満足を求めるのではなく、充実を求めませんか。 そうすれば僕らの人生は勝手に輝いていくのですから。   人生の99%はほんの些細なことで成り立っています。 あなたが今こうして無事に僕のメルマガを読めることだって ほんの些細なことだし、ご飯を食べること、靴を履くこと、 お風呂に入ることもほんの些細なことです。 その1つ1つを充実させることでしか人生は変わっていきません。 ほんの些細なことでイラッとするのか、ニコッとするのか。 そのことを常に意識して生活してください。 しょーもないことで怒っちゃダメですよ。 ありがとうございました。     ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
ファンができるまでの4つのステップ
  僕は高校生の頃、セックスマシンガンズというヘビメタバンドの ファンでした。 何回か友達とライブも見に行ったし、僕がファンをやめるまでに 発売されたCDはシングルも含めてすべて持っていました。 僕が彼らを好きになったのは、シティーハンターというアニメの (映画版?)エンディング曲を聴いたことがキッカケです。 それまでヘビメタというジャンルに縁のなかった僕は、 その曲を聴いて衝撃を受けました。 「なんだこの恐ろしくカッコイイ曲は!?」 それから僕はその曲のCDを買いに行ったワケですが、 そこで僕はさらなる衝撃を受けることになります。 僕のお目当ての曲は、彼らの代表曲である『みかんのうた』の カップリング曲だったのです。 みかんは色々あるけれど 愛媛のみかんは1つだけ みかんを粗末にするヤツは みかんにやられて死んじまえ コタツにみかんがない家は 日本の心をなくしてる 日本の心を取り戻せ 取り戻せ みんなで飲もう 愛媛の心 命の水だ ポンジュース みかん みかん みかん みかん みかん みかん この『みかんのうた』こそ、僕の青春でした(笑) 高校に入ってからギターを買い、軽音楽部でバンドをはじめた 僕にとって、これほど魅力的なコピー曲はなかったのです。 それから僕はアルバムを買い、バンドスコア(バンド用の楽譜)も 買って必死に練習しました。 毎朝登校前に30分、学校が終わってからはいつも2~3時間は 練習していたと思います。 高校3年間でギターを触らなかったのは、修学旅行に行っていた間 ぐらいです(ホントの話)。 当然、部活があるときは、バンドメンバーと一緒に練習しました。 音楽室には演奏の爆音と 「みかん!みかん!みかん!」 という僕らの声が響き渡ります(笑) まさに若気のいたり。 「マシンガンズみたいになりたい」 当時の僕にとって彼らは単なる「かっこいいバンド」ではなく、 僕の理想であり、目標だったのです。   では、僕がどのようにしてマシンガンズのファンになったのかを 分析してみましょう。 当たり前ですが、僕が彼らのファンになるには、まず出会いが 必要でした。 僕がテレビをまったく見ない人間だったなら、僕と彼らが 出会うことはなかったと思います。 また僕がテレビを見ていても、彼らの曲がテレビで流れなければ、 同じく出会うことはなかったでしょう。 次に興味・関心です。 彼らの曲に出会ったとしても、僕がバンドをやっていなければ、 ここまでカッコイイと思うことはなかったかもしれません。 これは逆にも言えます。 僕がバンドをやっていなくても、彼らの曲が強烈なインパクトを 持っていたことによって、興味を引き立てられたかもしれない、 ということです。 僕の場合は、どっちも、でした。 この次に行動があります。 彼らに出会い、興味が湧き、僕はCDを買うという行動に出ました。 今であれば、ユーチューブを見る、ということになるでしょうか。 当時はまだ動画サイトがなかったので、CDを買う、もしくは レンタルショップでCDを借りる、というのが行動としては 自然だったのです。 ここまでの段階では、まだ僕がマシンガンズのファンになったとは 言えません。 なぜなら、そのときの僕にとっては、カッコイイ曲であれば彼らの 作った曲である必要はなかったからです。 極端な話、仮にそれがスピッツの曲だったとしても、 問題はなかったワケです、違和感はあったでしょうけど(笑) 僕が彼らのファンになり始めるのは、この次の段階です。 さらなる行動(アルバムを買う)。 これがファンの第一歩になります。 ただし動機が重要です。 ファンがアルバムを買う動機は「アルバムの曲もカッコイイから 買った」ではなく、「他の曲も気になるから買った」でなければ なりません。 これは抽象的に言うと、バンドのコンテンツが好きなのか、 バンドそのものが好きなのか、の違いです。 「他の曲も気になるから買った」というのは、厳密には 「こんなカッコイイ曲を作るバンドは、他の曲もカッコイイに 違いない」 という勝手な思い込みによる購買です。 以前に買った曲がカッコイイことと、他の曲がカッコイイことの 論理的な繋がりは一切ありません。 にもかかわらず、なんとなく他の曲もカッコイイに違いないと 思い込んでしまうのは、そのバンドをちょっぴり好きになって、 ちょっぴり信用しはじめているからです。 当時の僕は自覚していませんでしたが、今から考えるとやはり そうだったと思います。 彼らを一発屋だと判断することも可能だったのに、そうとは考えず、 きっと他の曲もカッコイイだろうと思っていた。 ファンならではのポジティブさです。 しかし、これがファンであることの証なのです。   以上をまとめると 1.出会う 2.興味・関心を持つ 3.行動する 4.更なる行動をする という4ステップで、僕がマシンガンズのファンになっていったことが 分かります。 4以降は、ずっと更なる行動です。 バンドスコアを買ったり、コピー曲を練習してみたり、ライブに足を 運んだりなどなど、その繰り返しによって「ファン度」が上がって いきます。 つまり、この4ステップがファンができるまでの基本的な流れになる ワケです。 もちろん僕が標準的でない可能性もありますから、そのかぎりでは ありませんが、今は僕しかサンプルがないので、このまま話を 進めます。   お分かりのように、われわれは「ファンになる」側ではなく、 「ファンになってもらう」「ファンを作る」側の人間です。 ファンになることは何も悪いことではないですが、ファンになる だけなら凡人でも出来ます。 現代に生きるわれわれにとって、そこで満足するというのは、 もはや自殺行為です。 だって、もう凡人のままじゃ生きていけないのは明白なんだから。 「そんな大袈裟な」とか思っている時点で、それが凡人の発想だ ということです。 われわれはそんな凡人から脱するために勉強をしているのだ、 ということを今一度思い出してください。 何かに夢中になること自体は素晴らしいことです。 好きなバンドや歌手がいるなら、好きなだけ追いかければいいと 思います。 しかし、それだけで終わってはいけない。 われわれは誰かに夢中になると同時に、誰かを夢中にさせる人間で なければならないのです。 だとすれば、われわれがここで考えるべきは 1.いかにして出会うか 2.いかにして興味・関心を持ってもらうか 3.いかにして行動してもらうか 4.いかにして更なる行動をしてもらうか です。 この4つをクリアすれば、僕がマシンガンズのファンになったように、 人はあなたのファンになってくれます。 ただし注意しなければならないのは、これらは一連の流れを便宜上 4ステップに分けただけである、ということです。 実際にやるべきことが4つある、ということではありません。 むしろ、やるべきことは1つだけです。 「とにかく素晴らしいコンテンツを作って、ネット上の媒体で 公表すること」 それだけやってください。 ただ、ここでさらに注意してほしいのは「素晴らしい」とは、 誰にとっての「素晴らしい」なのか、ということです。 これはあなたのファン候補となる人にとっての「素晴らしい」で なければなりません。 多くの人は自分にとっての「素晴らしい」を目指す傾向に あります。 日本の大学教授なんかが、その典型です。 知識が豊富で、言っていることも学術的には素晴らしいのかも しれないけれども、学生にはただの念仏にしか聞こえない。 これでは意味がないワケです。   「素晴らしい」とは、ファン候補者にとっての「素晴らしい」です。 どんな高度な知識や技術も、それを適切に伝えられなければ、 存在しないのと同じです。 多くの人にとって哲学書が無価値なのは、その素晴らしさが 伝わっていないからです。 一方で「超訳なんちゃら」というシリーズが何十万部も 売れるのは、内容はホンモノの一億倍ぐらい薄いかも しれないけれども、それなりに素晴らしさが伝わっているから だと言えます。 そういうものなんですよ、今の世の中は。 「私の方が絶対に素晴らしいのにぃー!!」と思うならば、 それを相手にとっての「素晴らしい」に翻訳してやらなければ ならないのです。   われわれが何かを素晴らしいと思うのは、それが自分にとって 「役に立つ」場合です。 自分の能力や技術をファン候補者の役に立つカタチで表現できた ときに、「素晴らしい」という評価が得られます。 「役に立つ」とは、単なる実用性ではありません。 実用性も含まれますが、重要なのはそれによってファン候補者が 一歩でも二歩でも理想に近づくことができる、ということです。 つまりわれわれは、ファン候補者が理想へ近付くためのお手伝いを することによって、ファンになってもらうことができるのです。 無論これは簡単なことではないし、誰にでも出来ることでは ありません。 むしろ酷く面倒で、地味で、苦しくて、思うようにいかなくて、 途中で投げ出したくなることの方が多いでしょう。 しかし、だからこそ、それを耐え抜いた人間には価値があり、 そういう人間に人は夢中になるのです。   「自分のファンがいない人生」と「自分のファンがいる人生」。 どっちが楽しいと思いますか? 自分の胸に聞いてみてください。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
アイスクリームのアフォーダンス
ども、杉野です。 ここ数日、関西はクソ暑い日々が続いています。 10代の頃に強烈な蒸し暑さに耐えるバイトをやっていたお陰で、比較的暑さには強い方なのですが、さすがに35度を超えてくるとへばります。 先日、それに耐えかねた僕は某大型量販店へアイスクリーム的なものを求めて、炎天下の中、はるばる出かけていきました。 店についたときには、案の定、汗だく。アイスを食べるにはベストな状態です。 しかし、そこでいざアイスを買おうとすると、不思議なことに、当初の目的だったはずのアイスをまったく買う気にならないのです。 それはそれらの商品が不味そうだったとか、好きなものがなかったとかそういうことではなく、一般に言われる「生理的に受けつけない」という感覚でした。 ご存知のように(?)僕は甘いものが好物です。当然、アイスクリームやソフトクリーム、かき氷なども好物です。 どれぐらい好きかというと、たとえば小学校3年生の夏休みに毎日アイスの類を1本以上食べて、その約1ヶ月で体重を7キロ増やしたぐらいには、その手のものが好きだという自信があります(お陰で中学で部活を始めるまではデブ人生でした)。 その僕が、汗だくになってまで買いに行ったそれらの商品を生理的に受けつけなかったワケです。 これがいかにショッキングであるかは、言うまでもないでしょう。正直、自分でも信じられませんでした。 脳では欲しているのに、体はなぜか拒んでいるのです。 今あなたが思ったように、「そんなバカなことがあるワケない」と思った僕はアイスクリームのコーナーを数分程うろうろしてみたのですが、一向に買いたくなる気配がありません。 そこで僕は考えました。 僕がアイスを買わないのではなく、アイスの方から僕が買わないように仕向けているのではないか、と。 これは実は大真面目な話で、今から話すことは、このアイスから僕に送られたメッセージについてなのです。   ■アフォーダンスについて アフォーダンスという言葉を知っているでしょうか。 これはジェームズ・ギブソンという学者が作った概念で、 物事の意味や価値は、その物事とそれを取り巻く周りの環境や状況によって決定される というような意味で使われます。 例えば、あなたがリンゴを持っていたとしましょう。あなたのお腹が空いていたとしたら、あなたはそのリンゴを食べようと思うかもしれません。 しかし、あなたがストーカーに追われていたなら、そのリンゴを武器として投げつけることもあるでしょう。 またあなたが芸術家だったとしたら、そのリンゴを削って彫刻作品に仕上げるかもしれない。 アフォーダンスの概念では、今挙げた「食べ物」「武器」「作品」という3つの価値は、すべてリンゴに内在していると考えます。 リンゴはわれわれの状況に応じて投げかける価値を変化させているということです。 この「リンゴがわれわれに価値を投げかけること」を、リンゴが価値をアフォードする、という言い方をします。 お腹が空いているときには、リンゴは「私を食べてもよい」という価値をわれわれにアフォードし、ストーカーに追われているときには「私を投げてもよい」という価値をアフォードする。 こういう感じです。 ですから、リンゴそのものは無限の価値を持っています。 上記の以外にも、状況に応じてキャッチボールのボールという価値をアフォードすることもあるかもしれないし、料理の隠し味としての価値をアフォードすることもあるかもしれないし、お手玉としての価値をアフォードすることもあるかもしれません。 われわれは通常、リンゴを食べ物としてしか認識していませんが、リンゴの価値はその限りではなく、状況次第で無限に広がるのです。 ただ、例えばストーカーに追われていたとしても、リンゴを投げるという発想を思いつくかどうかは、その人の機転次第です。 どれだけリンゴが「私を投げてもよい」とアフォードしていても、逃げるのに必死でそのアフォードを拾えなければ、それは価値にはなりません。 この「アフォードを拾う能力」のことを、ピックアップ能力と言います。 つまり、リンゴに無限の価値があったとしても、その価値を拾う人間のピックアップ能力が低ければ、リンゴの価値はごく一般的な「食べ物」としてしか発揮されないということなのです。   ■便利な社会は人間を退化させる われわれの日常は、われわれのピックアップ能力が衰退するように作られています。 スマートフォン、冷蔵庫、電子レンジ、自転車、サプリメント、本、靴、ハサミ、マウスなど、われわれの身の回りにあるものはすべて、あらかじめ誰かによって用途が決められています。 スマートフォンとして売られている四角くて平らで薄い機体はスマートフォン以外の用途で使われることについてはまったく考えられていません。 冷蔵庫や自転車やサプリメントなど、そういった「物の名前」はその物の用途(使い方)とセットになっているワケです。 そのため、われわれは自分のピックアップ能力を使わなくても、その物の使い方を誰か(例えばメーカー)から教えてもらうことができます。 取扱説明書を読めば、そこには特定のアフォードを最大限に活かす方法が載っているワケです。 しかし、本来それをどう使うか、どう活かすかは、提供者ではなくわれわれが決めることです。 リンゴを食べるのか投げるのかは状況によって異なります。 ストーカーに追われていれば、投げることがリンゴの最大の価値になるかもしれません。 赤ちゃんにスマートフォンを持たせれば、投げたり叩いたりすると思います。 それがスマートフォンに本来備わっている無限の可能性です。 赤ちゃんがスマートフォンを投げたり叩いたりするのは、その子にスマートフォンが「私を投げてもよい」「私を叩いてもよい」とアフォードしていて、そのアフォードを赤ちゃんがピックアップしているからです。 それが適切な使い方であるかは別として、そういう可能性をわれわれは無視すべきではないのです。 しかし、世間の商品はその物の可能性をことごとく奪い、たった1つの価値に固定して販売しています。 スマートフォンはスマートフォンとして、自転車は自転車として使われることだけが推奨され、われわれはそれを無批判に受け入れ、盲目的に従っている。 それによって、われわれのピックアップ能力が衰えているということは言うまでもありません。 能力というのは、使わなければ自然と衰えます。 一切のピックアップを慣習的に他者に委ねてしまっているわれわれは、自ら意識してピックアップ能力を使うことによってしか、この能力を鍛えることができなくなっているのです。   ■ピックアップ能力の重要性 ピックアップ能力の有無がわれわれの人生の質を左右することは明白です。 あなたがこここまでメルマガを読んでどれだけの価値を得たかは、あなたのピックアップ能力に依存しています。 僕の書く記事にかぎらず、あらゆる文章には無限の価値があり、状況に応じていろんな価値をわれわれにアフォードしています。 あなたが人間関係に悩んでいるならば、このアフォーダンスの話は人間関係を改善させる方法として読めるかもしれませんし、ビジネスアイデアを練っているならば、斬新なアイデアを生み出す方法としても読むことができるかもしれません。 それはあなたの状況とあなたのピックアップ能力に依存するのです。 ただ、このことはある意味、僕にとって絶望的なことでもあります。 というのは、僕がどれだけいい記事を書いても、あなたの能力が低ければ、それだけ低くしか評価してもらえないからです。 これがお互いにとって大きな損失だということは明らかです。 僕はどれだけ頑張っても報われず、あなたはどれだけいい文章読んでもわずかな価値しか得られない。 これほど最悪な関係はありません。 だから僕は、僕のためにも、あなたのためにも、あなたの能力を 高めることに力を向けなければならないし、向けるべきなのです。 これは僕だけの話ではなく、世界中の人が考えるべきことです。 当然あなたも例外ではありません。 あなたはあなた自身のためにも、あなたの周りの人のためにも、あなたのアフォードを最大限にピックアップしてくれる仲間を集め、彼らと一緒に成長することで、あなたの価値が最大化されるように努力すべきなのです。   ■アイスクリームと僕 僕の体がアイスを拒否したのは、アイスを食べることが僕にとってマイナスになる、つまりアイスからのマイナスの価値をピックアップしたからだと思います。 例えば「お腹を壊してもよい」もしくは「小さい頃からの食習慣に縛られてもよい」みたいなアフォードがあったのかもしれません。 「暑くなったらアイスを食べる」みたいな食習慣は確かに僕の中にありましたから、その世間一般にありがちな常識を避けるようにアフォーダンスが働いたということは、自分の能力もそれなりに鍛えられてきているのかな、と思っています。 まあ生理的なことなので細かいことは分からないですけどね。 しかし、冒頭のあんなしょーもないアイスの話が、これだけ重要な話になるんだから、ピックアップ能力の有無がどれだけの差になるかは想像に難くないでしょう。 アイスを買いに行って、なぜかアイスが買えなかった。 この何でもない事実から何をピックアップするかが、われわれの人生の質を決めるのです。 われわれの日常はあらゆる可能性で溢れています。日常はあらゆる価値をわれわれにアフォードしているのです。 その価値をいかにたくさんピックアップできるか。凡人と脱凡人との差は、ここで決まります。 どんなときも油断しないでくださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
思考を現実化させる方法
  前回の記事を読んで 「無意識的な思考ってどうやって変えるの?」 という疑問が浮かんだと思います。 僕はそういう質問を待っていたんですが、残念ながら誰からも そういうメールは届きませんでした。 やる気あんの? とか言ってみたり(笑) ただ、あれでは説明が足りていないのは分かっているし、 それをそのまま放っておくのも嫌なので、もう少し補足の説明を 加えておくことにします。   無意識的な思考というのは、文字通り「無意識的」ですから、 普通に考えれば意識的(意図的)に変えることはできないように 思えます。 しかし、歩いている時に左足だけで跳ねたり、ご飯を食べてるときに 味噌汁ばかり飲んでみたり、そういったことは意識すれば普通に できるし、普段は無意識的にやっている呼吸だって、意識すれば 止めることができます。 つまり、無意識的な思考そのものは変えられなくても、無意識的な 思考による“行動”は変えることができるということです。 ところで、無意識的な思考というのは、どこからともなく湧いてきた ものなのでしょうか? 僕らが意識せずに歩けるのは、あるとき突然そういう無意識的な思考が 頭の中に湧いてきたからなのでしょうか? そんなことが有り得ないことぐらいは、誰でも分かるはずです。 僕らが歩けるようになったのは、記憶もないぐらい小さい頃に 何度も転んでその技を身に付けたからです。 自転車だって、一度乗れるようになってしまえば無意識的に感覚で 乗れてしまうけれども、乗れなかった頃は何度も練習したと思います。 ・・・。 気付いたでしょうか? 何度も練習すれば、それが無意識的にできるようになるということは、 何度も意識的に繰り返していることは、そのうち無意識的な思考に 組み込まれるということです。 無意識的な思考はこういう方法で変えていくことができます。 一言で言えば、無意識的な思考になるまで何度も意識的な思考で 繰り返す、という感じでしょうか。 ただし、これは「私は成功できる・・・」を繰り返すことの正しさを 証明するものではありません。 あれは単に言葉を繰り返しているだけですから、無意識化されるのは 「私は成功できる・・・」と唱える行動だけです。 つまり、意識しなくても「私は成功できる」と唱えられるようになる、 ということです。 当たり前ですが、そんなもんは誰も望んでいません。 重要なのは、繰り返している“行動”、より正確に言えば行動や 思考から得る“経験”が無意識化していくということです。 これを理解していなければ、その人は自分の思い描いく思考を現実化 させることはできません。 例えば「モテたい」というのを現実化させたいなら、モテている人と 同じ行動や思考を、それが無意識化するまで繰り返すということです。 同じく、お金持ちになりたいなら、お金持ちと同じ行動や思考を、 それが無意識化するまで意識的に繰り返す。 そうすれば“気付いたときには”思考は現実化しています。   分かるとは思いますが、これは単純ではあっても簡単ではありません。 誰でも簡単にできるなら、そもそも「“成功”哲学」ではないですしね。 成功とは、多くの人が容易に到達できないからこそ成功なのです。 「思考は現実化する」は特別なことを言っているのではなく、 当たり前のことを言っているにすぎません。 成功者と同じことを繰り返せば、成功者になれる。 語弊を恐れずに言えば、そう言っているだけです。 巷の下らない本は、この言葉を何かと都合のいいように拡大解釈して いますが、そういうのにだけは踊らされないで下さいね。 そんなのを読むぐらいなら、このメルマガの過去の記事を読み返す方が 100倍有益です。 それは断言できます。 あんなのは凡人の読むものですから、あなたが手を出すべきでは ありません。 気をつけて下さいね。     ...more»
なぜあなたの思考は現実化しないのか
ども、杉野です。 「思考は現実化する」という有名な言葉があります。 ナポレオン・ヒルだったか誰だったか忘れましたが、そんな人の言葉です。 成功哲学や自己啓発にハマってしまっている人の中には、これを信じて毎日寝る前に1時間ぐらい「私は成功できる、私は成功できる、私は・・・」と唱えている人がいるワケですが、お恥ずかしながら、僕も一時的に唱えていたことがあります。 1日5分を3日間(笑)。当たり前ですが現実化はしませんでした。 さすがに3日じゃ無理だろ、と思うかもしれませんが、実はこれはそういう単純な話ではないんです。 1日何分唱えないといけないとか、毎日唱え続けないといけないとか、そういうのは効果の有無以前に「思考は現実化する」とはまったく関係がありません。 詳しいことは後から話しますが、とにかく、そういう念仏には効果はありませんので、そんなことをやっている暇があるなら、もっと他の努力をして下さい。 その方が絶対に有益ですから。   ■勝手な解釈 そもそも「思考は現実化する」とは、一般に考えられているような「考えたことは実際に起こる」というアホな意味ではありません。 ましてや「ポジティブ思考は世界を救う」みたいなイタイ意味でもありません。 今挙げたのは僕らの“勝手な解釈”であって、正確な意味とは違います。 例えば「この魚を下さい」というセリフを考えてみましょう。 僕らがこのセリフを読んで普通に想像するのは、主婦が魚屋さんで特定の魚を指して「この魚を下さい」と言っている場面だと思います。 人によっては料亭の料理人が市場に魚を仕入れにきたところを想像するかもしれませんし、もっと他の場面が浮かんだかもしれません。 この時点で2通り以上の解釈が出てきたワケですが、僕はもっと違う場面を想定して今のセリフを書きました。 B'zの稲葉さんがテレビCMで「この魚を下さい」と、消臭力ばりの熱唱でシャウトしている。そういう場面です。 これは敢えて極端な例にしましたが、そこに明確な文脈が設定されていなければ、僕らは“勝手に”自分で文脈を設定して、勝手な解釈をしてしまいます。 こうして僕の意図した稲葉さんは、あなたの勝手な解釈によって消え去っていくのです。 グッドラック、稲葉さん。   ■「思考は現実化する」の誤解 「思考は現実化する」でも、今の話と同じことが起こっています。 「思考」という言葉から僕らが想像するのは「考えること」です。 同様に、「現実化」という言葉からは「実際に起こること」という意味が浮かんできます。 しかし、それらが作者の意図した意味かどうかは、その言葉が使われた文脈を確認しなければ分かりません。 僕はその文脈を正確には知りませんが、恐らく今言ったような意味になる文脈ではないと思います。 だって「考えたことが実際に起こる」なんて有り得ないですから。 もし出来るなら目の前でやって見せて下さいよ、という話です。 信じたいなら信じてやってもらえばいいですが、「考えたことが実際に起こる」には根本的に理屈が欠けています。 どういう仕組みで、何がどうなって考えたことが実際に起こるのか。それが説明されていません。 とにかく毎日念仏を唱え続けていればいいんだ、という強引な理屈なのかもしれませんが、それではあまりに説得力がないですよね。 理屈を重んじるアメリカ人が、それを無視して本を書くなんてことは考えられませんから、そこには必ず納得のいく理屈があるはずです。 その理屈さえ分かれば、言葉自体は何でもいいワケです。 大事なのは「思考は現実化する」という言葉ではありません。「思考は現実化する」は何を意味しているのか。 それが何よりも重要なのです。   ■「思考」の意味 そこで今からこの言葉の意味を1つずつ丁寧に考えていきます。 僕の言うことが必ずしも正しいワケではありませんが、少なくとも巷に出回っている成功哲学や自己啓発の本よりは、厳密で、論理的で、何より「本気だ」ということは間違いありません。 変なビジネス書を読むよりかは100倍ぐらい役に立つことを話していきますので、ここからも集中して読んで下さい。 まずは「思考」という言葉から考えます。 先程も言ったように、これは一般的には「考えること」という風に解釈されています。 それは言葉の定義としては間違いではありません。 思考という言葉を辞書で引けば「考えること」という意味は当然載っているはずです。 ただ“厳密に言うと”「考えること」には2つの種類があります。 細かい話は長くなるので割愛しますが、1つは意識的な思考、もう1つは無意識的な思考です。 その中で一般に「思考」と呼ばれるのは前者です。 僕らは何かを考えると同時にその何かを意識しています。 計算をしたり、明日の予定を考えたり、物思いにふけったり、稲葉さんを応援したり(しつこい)、そういうことを意識的に考えているワケですが、この意識が働いているのは一日のうち多くても数時間程度です。 歩いているときや電車に乗っているとき、相手と話しているとき、食事をしているとき、お風呂に入っているとき、寝ているときなどは意識的な思考はほとんど働いていません。 だったら何も考えていないのかというとそうではなく、そこでは無意識的な思考が働いてくれているのです。 いちいち歩くときに「次は右足を出して、その次は左足を・・・」なんて考えませんよね? いつもの通勤電車に乗るときに「次はあの駅で降りて、乗り継ぎはこの辺が一番便利で・・・」というのも考えないと思います。 さら言えば、食事中に「次はご飯を食べて、その次に味噌汁を一口飲んでからハンバーグを食べよう」なんて考えないはずです。 そこではすべてが無意識的な思考で処理されています。 そしてこの思考は寝ている間も脳をリフレッシュさせたり、その日の情報を処理するために24時間働き続けているのです。   ■無意識の思考の影響力 さて、ここで問題です。 1日数時間しか働かない思考を変えるのと、24時間働いている思考を変えるのとでは、どちらが人生に大きく影響するでしょう? ・・・答えは明確ですね。 24時間働いてくれる無意識的な思考の方が圧倒的に影響は大きいです。 当然、意識的な思考も人生に影響を与えますが、それは無意識的な思考に比べれば多くても6分の1程度(通常は10分の1以下)の影響力しか持ちません。 だとしたら、人生に、現実に、実際に、影響を与えているのは無意識的な思考だと言い切っても言い過ぎではないと思います。 というか24時間働いてるんだから、当たり前ですよね。ここまで言えば、なぜ念仏が無意味なのかは分かったんじゃないでしょうか。 それは意識的な思考にしか影響を与えないから無意味なのです。 そんなもんは1日1時間やろうが5時間やろうが、無意識的な思考の影響力にはおよびません。 だからもっと他の努力、つまり無意識的な思考を変える努力をして下さい、と言ったのです。 「思考は現実化する」の「思考」については、もはや説明の必要はないと思いますが、それは一般に思われているような“意識して”考えることではなく、24時間“無意識的に”勝手に考え続けられていることを意味しているということなのです。   ■「現実化」の意味 次は「現実化」の話。 こっちはもう何も言うことがないというか、上記の話が理解できていれば自分で導けることなんですが、これは「実際に起こる」というよりも「既に起こっている」に近い意味になります。 無意識的に思考したこと、例えば歩くことは、それを意識するまでもなく起こっていますよね? 電車の乗り換えも食事も全部、気付いたときには既に起こっていると思います。 それが「現実化」の意味です。 恐らくこれを読んでもしっくりきてないと思いますが、それはあなたに「思考」は「意識的に考えること」だという固定観念があるからです。 僕らが意識しようがしまいが、無意識的な思考の方は勝手に働いています。 だから現実化は僕らの気付かないうちに常に起こっているのです。 わかるかなー、この感覚。これは言葉ではこれ以上説明できません。 いや、実際には出来るんだけども、それは『初級』の領域からは大きく外れていってしまうので、あえて詳しくは説明しないという意味です(新年一発目の『中級』では、それに近いことを話しましたが)。 ですから、「現実化」の方は今すぐ理解できなくても構いません。 「思考」の方さえちゃんと理解して実践していってもらえれば、そのうち“実感として”(感覚として)分かるようになりますから。 今は「ふーん、そうなのかぁ」と気楽に捉えておいて下さいませ。   ■まとめ 以上をまとめると、「思考は現実化する」とは 無意識的な思考は既に(常に)現実となって起こっている という意味になります。 これが“実感レベルで”分かるようになれば、もうあなたは余裕で脱凡人です。 そのためにまずはちゃんと頭で、論理で、理屈で、理解して下さい。 その上で自分の人生に当てはめてもらえれば、誰よりも効果的に「思考は現実化する」という格言を活かすことができます。 そうなれば、あとは楽勝です。 是非やって下さいね。   ではでは。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
京都市立美術館「須田国太郎展」にて ~美術鑑賞の行動経済学~
ども、ペスです。 以前、京都市美術館で日展を見た際に「須田国太郎展」も一緒に見てきました。 本当はこっちがメインだったんですが、これといって話すことが思いつかなかったので、 今まで延び延びになっていた、という感じです。 たまにはそーゆーこともありますよ、人間だもの。 そういえば今年の春は京都市美術館でゴッホとリヒテンシュタインを同時開催する ようですね。 これについては色々言いたいことがあるんですが、それはともかく、定評のある作家の 作品を一気に見るには良い機会だと思います。 気になったら行ってみるといいかもしれません。   さて、須田国太郎展の話です。 失礼な話なのですが、僕は須田国太郎という人物をまったく知りません。 この展覧会を知るまで名前も聞いたことがなかったし、彼の絵を見たあとも特に何も 調べていません。 調べていないのは僕の単なる怠慢なのですが、そんな情報は無くても作品の 良し悪しは分かります。 以前から言っているように、作品の良し悪しを判断するには自分の感覚に頼るしか ありません。 作家の活動歴や人物像を知るのはもちろん大事ですが、その情報が作品に 反映されているということを“感じ取る”には、やはりそれを捉える感覚が 必要なのです。 こう言うと大体の人は 「感覚って言われても・・・」 みたいな感想を持つと思います。 言いたいことは分からないでもないけど、どうすりゃいいのよ、と。 これについては今までいろんな解説をしてきましたが、今回はこれまでと違った視点、 行動経済学という視点を導入して、 美術の良し悪しを判断することはいかにして可能か ということを出来る限り科学的に解説してみようと思います。 この時点では意味が分からないと思いますが、期待してもらって構いません。 あなたの美術鑑賞、いや、生き方は今日から変わりますよ。   まずは行動経済学の基本概念を学んでおきましょう。 今からお話する内容で最も重要な概念はシステム1とシステム2と呼ばれるものです。 システム1とは、直感や感情、衝動、感覚、価値判断といった自分では意識的に 制御できないものを指します。 例えば誰かを好きになった場合、その「好き」という感情はわれわれには絶対に 制御できません。 たまたま変な場面に遭遇してその人を嫌いになることはあっても、意識的に感情を コントロールして「好き」を「嫌い」に変えることは出来ないはずです。 もちろんその逆も然りですし、他にも「美しい」と思ったものを無理やり「醜い」と 感じるように感情を操作することは出来ません。 表面的に「醜い」と言い張ることは可能ですが、それでも自分の心は「美しい」と 感じ続けています。 そういう無意識的に生まれてくる自分でも操作不可能な直感や感覚などのことを システム1と言うワケです。   われわれは日常生活のほとんどをシステム1に委ねています。 それは自分の行動を思い返してもらえれば分かるはずですが、 今あなたがこのブログを読んでいるのだって、恐らくシステム1の仕業です。 その証拠に、あなたはブログを見にきた理由を自分でも知らないはずです。 「更新されたから」とか「面白いから」とか、そういう理由はあるかもしれませんが、 その理由がそもそもシステム1ですよね? 更新されたから、なんとなく見にきた。 面白いから、なんとなく見にきた。 そこに明確な目的や意図、もしくは見なければならない理由などは無いと思います。 要は感覚的に、感情的に、衝動的に、なんとなく見たいから、あなたはこのブログを 見にきているワケです。 あなたのシステム1は間違いなく優秀です(笑) ちなみに今の話は良いとか悪いとかはまったく関係ありません。 こんな感じでわれわれは日常のほとんどをシステム1の判断(感覚)に任せて 生きているということを言いたかっただけですので、単なる事実として 捉えておいて下さい。   システム2とは、論理的思考や選択、行動などの自分で意識的にコントロールできる (と思っている)ものを指します。 この記事を読んだり読まなかったりすることは誰でも自由にできます。 また極端に難しいことでなければ、字を書いたり、計算したり、数を数えたり、 投票したり、買いたい商品を選んだり、一定の条件で商品を振り分けたり、 といったこともできるでしょう。 それらはすべてシステム2に属するものです。 このシステム2はシステム1を自覚し、それを自分が望む方向に矯正していくことが できます。 「好き」という感情を生み出すのはシステム1ですが、それが「好き」であると 自覚するのはシステム2の役割です。 システム2はシステム1の生んだ「好き」という感情を抑えつけるために、その相手と 顔を合わさないようにしたり、メールアドレスを変更したり、遠くに引っ越したりする ことができます。 システム2は「好き」を直接「嫌い」に書き換えることはできなくても、「好き」という 感情が減衰するような対応を取ることが出来るワケです。 しかしシステム2は基本的に怠け者で、それを働かせるためには努力(注意力)が 必要です。 普段多くの人が自分の感情や価値判断(システム1)に何の疑問も持たない (自覚していない)ことからも明らかなように、システム2は意識的に注意しなければ 働きません。 例えば「自分はなぜその商品が欲しくなったのか」なんてことは余程ビジネスに関心が ある場合にしか考えないはずです。 考えない理由は大体「面倒臭い」とか「考える意味がない」とか「考えるという発想すら 無かった」とか、そういうものだと思います。 そんな感じでシステム2というのは意識しておかないと楽なことばかりを選ぶのです。 まったく、誰に似たんだか。 システム2に関してはこんなところです。   なんとなくシステム1とシステム2については分かってもらえましたか? まあ分かってなくても進んじゃうんですけどね。   もうお気づきかと思いますが、美術鑑賞というのはシステム1の仕事です。 われわれが作品を見たときにわれわれのシステム1がそれを「美しい」と感じたり、 「この作品には価値がある」という価値判断を行ったりするワケです。 それは先に言った「感覚で捉える」という言葉からも明らかでしょう。 しかし重要なのはここからです。 だったら、どうして特定の人にだけ「この作品は素晴らしい」という感覚や 価値判断が引き起こされ、それ以外の人には起こらないのか、ということです。 これは考えればすぐに分かることなのですが、人それぞれシステム1の能力に差が あるからです。 システム1の能力は人によって違います。 優れたシステム1を持っている人は、体操選手のように考えなくても感覚でくるくる 回れたり、ボクシング選手のように条件反射的にパンチをかわせたり、サカナくんの ように「ぎょぎょっ!」とか言いながらお魚と話しができたり、そういうことができます。 ホントなら凄いよね、サカナくん。 ぎょぎょっ。 それらはすべて、最初はシステム2で意識的に繰り返されていたことです。 例えばあなたも最初からパソコンのキーボードをすらすら打てたワケではないと 思います。 最初はシステム2で基本ポジションみたいなものを習って、キーボードの文字の位置を 確認して、1つずつ文字を意識しながら打っていたはずです。 それが何ヶ月か続けているうちに体に染み込み、システム1として特に意識することなく できるようになった。 システム1とシステム2にはこういう関係があるワケです。   しかし、それは今紹介したような技能や特技に限った話ではありません。 われわれが日々の生活の中でなんとなく繰り返していることは、知らない間にすべて システム1に組み込まれて、それを強化していきます。 ここが今回の最重要ポイントです。 自分の日常を振り返ってみれば分かると思いますが、何か明確な意図や目的をもって 意識的に行動することはかなり稀なはずです。 なんとなくフェイスブックを見て、なんとなくニュースサイトを見て、なんとなく テレビを見て、なんとなく安い物を買って、なんとなくお菓子を食べて、なんとなく ゴミを捨てて、なんとなく働いて、なんとなく食器を洗う。 ほとんどの人はこういう生活をしていると思います。 この何の意図も目的もない「なんとなく」というしょーもない生活の繰り返しが、 しょーもないシステム1の“しょーもなさ”を強化しているのです。   システム1が美術鑑賞の質を左右するのならば、多くの人に美術の良し悪しが 判断できないのは、しょーもないシステム1しか持っていないからです。 残念ですが、しょーもない人間のしょーもないシステム1には作品は何も応えて くれません。 そういう人はシステム2で「きれい・汚い」や「上手い・下手」といったこと捉えるのが 精一杯でしょう。 確かにそれも必要なことですが、それは感覚で捉えることとは別の話。 作品を感覚で捉えられるようになるには、その作品を見るに相応しい“生活”をする 必要があるのです。 それは「大豪邸に住まなければならない」とか「お金持ちでなければならない」という 一般人が考えるような下品な意味ではまったくありません。 むしろそんなのは邪魔です。 大事なのは毎日を“丁寧に生きる”こと。 それだけです。 たったそれだけで歴史に残る美術から誰よりも多くのことを得られるようになるの ですから、安いもんですよね。 お金も一切かかりません。 そうだと分かれば、あとはやることをやるのみ。 今年の抱負は「丁寧に生きる」にしましょう。 結果は僕が保証します。   追伸1: あ、そうそう。 「丁寧に生きる」の意味が分からなくても僕に聞かないで下さいね。 そうやって人に聞けばいいと思って甘ったれてるから、ダメなんですよ。 今のままでは仮に僕が答えを教えたとしても、あなたには丁寧に生きることなんて できません。 断言できます、絶対に無理です。 「丁寧に生きる」とは何なのか。 まずはそれを考えることからやって下さい。 それが丁寧に生きることの第一歩です、いや、マジでね。 ヒントは記事の中にありますから、それこそ“丁寧に”読めば分かります。 もし答えを知りたいなら、自分なりに答えを考えてから 「私は・・・だと思うんですが、どうでしょうか?」 という感じでコメントするか、僕に直接メールを出して下さい。 別に出し惜しみしているワケではないので、やることさえやってくれれば、いくらでも お教えします。 あとはご勝手にどうぞ。   追伸2: 「須田国太郎と何も関係ないじゃないか!」というツッコミは受け付けません。 いつものことじゃないですか(笑) 気にしない、気にしない。 ひとやすみ、ひとやすみ。   追伸3: 今回のような行動経済学の話に興味があれば ダニエル・カーネマン著『ファスト&スロー』(早川書房) という本を読んでください。 ご存知のように、僕は普段あまりオススメの書籍を紹介したりはしないのですが (それには明確な理由があるのですが今は割愛)、この著書と『大衆の反逆』に限り、 万人に必読だという理由でオススメします。 上下巻合わせても、たかだか4千円程度です。 新年会を1回削って買う価値は十分にあります。 ぜひ買って読んで下さい。 人によっては、人生が変わるほどのものが得られると思いますよ。     ...more»
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