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Archives for 宗教

続・見えるものと見えないものの関係
  古事記の冒頭に、五柱の別天津神(ことあまつがみ)が 高天原(たかまのはら)に現れて姿を隠してしまう話があります。 別天津神のうち天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、 そして天之常立神(あめのとこたちのかみ)についてはそれ以降 何の記述もなく、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)も 思金神(おもいかねのかみ)という娘が少し出てくるのみで、 唯一本人(本神?)について記述があるのは神産巣日神 (かむむすひのかみ)だけです。 しかし神産巣日神にしても植物の種を作った(?)というような 短い一文があるに過ぎません。 彼らが取るに足らないような、窓際族的な神様たちだったなら 記述が少ないのも分かるのですが、古事記の冒頭に登場する ということは、彼らの位置づけは間違いなく創造神です。 そんな重要な神様の記述がここまで少ないのはなぜなのか。 重要な神様のことであれば、もっと詳しく書くべきではないのか。 職業柄なのか、どうもそういうことが気になるのです。   別天津神のことは日本書紀でも存在が明らかになっているのみで、 何の神なのか、何のために高天原に現れたのかなどは分かりません。 古事記や日本書紀の著者・編者が書きそびれたという可能性も なくはないですが、そう解釈するのはあまりに失礼というか、 当時日本で指折りの賢者だった彼らを侮辱し過ぎだと思います。 あの時代に漢字が読み書きできるというのは、今で喩えるなら 恐らく20ヶ国語が自由に読み書きできるぐらいのレベルです。 なんせ日本人のほとんどは字が読めないどころか、日本語すら まだ文字として存在していなかった時代ですからね。 そう考えると、論理的に妥当なのは、やはり著者・編者が 「意図的」に別天津神の詳細を記述しなかった、という解釈に なるでしょう。 さて、ここでまた疑問が浮かびます。 仮に彼らが意図的に別天津神の詳細を記述しなかったとすれば、 それはなぜなのでしょうか。 敢えて書かなかったからには、当然そうするだけの理由が あったはずです。 その理由とは何なのでしょう。 これには色々意見があるでしょうが、僕は裏方にまわること、 つまり神々が「見えないもの」として存在することの重要性を 彼らが理解していたからだと思います。 別天津神について何も書かれていないのは、書かれていない方が、 われわれの神々に対する畏怖や畏敬の念が湧いてくるからです。 もし神社にいる神様が「見えるもの」として目の前に現れたら、 なんだか有り難さも威厳も無くなってしまうと思いませんか? ましてや貧乏神や福の神のように具体的に何をやっている神様か 分かってしまったら、「この神様は別に拝まなくてもいいや」とか 「この神様は拝んでおこう」という発想になってしまうと思うのです。 実際、学問の神様や恋愛の神様は、そういうある種の欲望の対象に 成り下がっています。 これでは神様の威厳も何も、あったものではありません。 つまり、偉大な神様であればあるほど、謎に包んでおいた方が 何かと都合がいいのです。   分からないことの良さ、見えないことの良さをわれわれはもっと 理解しなければなりません。 昔の人は現代人なんかより想像力に優れ、感性も鋭く、頭の回転も 早かったのだと思います。 なにより「見えないもの」を見えないままにしておくことで、 そこから無限の可能性が湧き出てくることをよく理解していました。 心の豊かさは「見えないもの」に宿ります。 見えないからこそ幽霊は怖いし、神様には逆らえないのです。 これを持たない人間は持つ人間と比べて倫理観が圧倒的に劣ります。 人の見ていないところなら何をやってもいい。 バレなければ大丈夫。 そう考えるようになります。 昨今の日本でモラルの崩壊が頻繁に起っているのは、 元々あった「見えないもの」、宗教学で言うところのアニミズムを われわれが失ってきているからです。 お寺や神社を拝まなくなり、お地蔵さんも、家の神棚も、お墓も 拝まなくなったからです。 時代の流れからすれば、失われた本質は次に必ず求められます。 モラルがなくなればモラルが求められるようになるのは 当然の流れです。 温故知新。 こんな時代だからこそ、われわれはもっと昔の人たちを見習うべき ではないでしょうか。   閑話休題。   前回の記事で僕は「見えないものの結果が見えるものだ」という 言葉を引用しました。 「見えないものの結果が見えるものだ」ということは、 われわれはいつも結果しか見ていない(見えていない)、 ということです。 結果とはプロセスの終わりを意味しますから、われわれが見ている 「見えるもの」とは、いつも「終わったあとのもの」です。 例えばニュース。 われわれは大体ニュースを見てから騒ぐことが多いワケですが、 それは既にすべてが終わったあと、換言すれば、その時点で 何もかも手遅れだということです。 尖閣諸島問題や原発問題など、あらゆる問題は顕在化した時点で、 もう結果は出てしまっています。 当たり前だと思うでしょうが、この「終わったあとのもの」を見て 騒ぐことの愚かさを多くの人は理解していません。 悪いのは顕在化するまでそのことに気付かなかった、 関心を持とうとしなかった自分たちなのに、それを棚に上げて 一方的に関係者を批判する。 これを愚かと言わず、なんと言うのでしょう。 TPP反対や原発反対と言っている人たちを観察してみてください。 彼らは揃いも揃って、TPPや原発を無くせばすべて解決する、 という幻想を抱いています。 でも問題はそこじゃないんですよ。 確かにTPPや原発は反対運動で無くせるかもしれませんが、 そういう無責任で無反省な人間が存在し続けるかぎり、何度でも、 いくらでも、危うい問題は起こり続けるのです。   本当に問題を解決したければ、問題が顕在化(問題化)する前に 警告や運動をしなければなりません。 それはまだ顕在化していないワケですから、現時点では当然 「見えないもの」です。 そのため世間からは寒い目で見られることが多いと思います。 実際、環境問題を研究している世界的な研究機関であっても、 温暖化や環境破壊の警告は各国から寒い目で見られています。 本腰を入れて環境問題に取り組む先進国はいまだに存在せず、 彼らの警告は警告としての意味を為していません。 僕がこれまで何度か言ってきたハイパーインフレなどについても、 それがまだ「見えないもの」である以上は、寒く感じられている ことでしょう。 金融の実情を知れば、疑う余地はまったくないと言っても いいぐらいなのですが、それもまた「見えないもの」であるため、 「見えないもの」が「見えないもの」をより見えなくしている、 というのが現状です。 世間の人たちに見えているのは精々、なんだか分からないけど 円安が進んだことぐらいだと思います。 あれは別にアメリカの景気が回復しているからではないし、 前にも言ったと思いますが、そもそもお金を刷り続けている国の 通貨価値が上がるというのは、まったく正常ではありません。 僕がこういうことを言っても伝わるのは極一部だということは 理解していますが、それでも諦めずに伝える努力を続けるのが、 われわれ脱凡人たろう者の仕事なのです。   思いがけず続編まで書いてしまった「見えるものと 見えないものの関係」は、現実のいたるところに存在します。 もうお気付きでしょうが、「見えるものと見えないものの関係」 それ自体もまた「見えないもの」です。 関係なんてものは誰の目にも見えません。 しかし、それは確かに存在します。 見えないのに、なぜか存在すると断言できてしまう。 これもまた人間の不思議なところです。 これをキッカケに存在の深淵へ落ちていくのも面白いかもしれません。 身の周りにある「見えるものと見えないものの関係」を探してみて ください。 そこからはきっと、存在の奇跡が溢れ出ているはずです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
六波羅密 ~仏教が教える成功哲学~
  仏教には「六波羅密」というある種の成功哲学があります。 六波羅密が定める6つ(実際には5つ)の修行を実践していけば 般若へ至ることができる、というものです。 般若を分かりやすく言うと、現実をありのまま見ることができ、 それによって生活を改善したり世界に貢献することができる状態、 という感じになるでしょうか。 悟りとの違いは、実用的である点です。 悟りの目的は自分が悟ることにあるのですが、般若の目的は 生活をよくすること、世界をよくすることにあります。 われわれが目指している脱凡人とは、まさにこの般若の状態を 指すワケですが、仏教の教えによれば、たった5つの修行を 実践するだけで、その状態に至ることができるそうです。 その5つとは 1.布施 2.持戒 3.忍辱 4.精進 5.禅定 です。 本当は六波羅密の6つ目に「般若」が入るのですが、般若自体は 上の5つを実践することで到達できるので、ここでは修行には 含めていません。 通常この5つは非常にシンプルな説明がされるだけなのですが、 今回はそれを僕なりにもっと使いやすいカタチにアレンジして 話してみたいと思います。   1.布施 布施とは、与えることです。 物質的なものだけでなく、知識や知恵を与えること、思いやりなどの 気持ちを与えることもここに含まれます。 布施で大事なのは、与えることそのものではなく、どういう動機で、 どういう目的で与えるかです。 それが般若へ至るために与えているならば、実質的には何の意味も ありません。 なぜなら、その不純な動機を正すための修行が布施だからです。 一切の見返りを求めず、ただただ「与えたい」という気持ちから 与えること。 この純真さを獲得して、はじめて布施ができるワケです。 その意味でこの修行は自分の中にある邪念との闘いと言えます。 これだけ与えたのだから、何か見返りがあって当然だ。 これだけ金を払ったのだから、特別なサービスがあって当然だ。 これだけブログを書いたのだから、コメントが付いて当然だ。 そういった器の小さい発想のままでは、いつまで経っても般若には 到達できません。 「あれだけ色々してあげたのに、どうして自分には何もして くれないんだ」とか思っちゃいけない、ということです。 むしろ「自分がしたくてしただけだ」と思わないといけない。 はじめはそうやって自分を言い聞かせるところから始めて、 最終的には自然と「与えたい」という気持ちで与えられるように なるのが理想です。 それができれば、般若に至る日も、そう遠くはないでしょう。   2.持戒 持戒とは、戒律や規律を守ることです。 この場合の戒律や規律というのは道徳的・倫理的規律を指します。 例えばダラダラしないこと、規則正しい生活をすること、 奇をてらったバカな行動を慎むこと、他者に迷惑をかけないこと、 他者を喜ばせること、マナーを守ること、適度な体形を 維持することなどなど。 一言で言えば「人として恥じない生き方をすること」です。 ただ注意しておくべきは、それを他者にまで求めてはいけない ということです。 意識の高い人ほど同じレベルの意識を周りに求める傾向があります。 俺はこんなに頑張ってるのに、なんでアイツらは・・・。 そう思っているうちはまだまだ未熟なんだと思ってください。 同様に、マナーの悪い人を見てイライラしたり、体形のだらしない 人を見て蔑んだりするのも未熟な証拠です。 こう言うとすぐに「私は未熟だからダメなんだ・・・」と凹む人が いるのですが、僕はそういうことを言っているのではありません。 未熟なのは仕方のないことです。 誰だって最初は未熟なのですから、それがダメだと考えること自体が 間違いです。 そうではなく、イライラしたり蔑んだりする度に「自分はまだまだ 未熟なんだ」と自覚しておきましょう、と言っているのです。 未熟がダメなのではなく、未熟であることを自覚せず、自分のことを 棚に上げて他者にばかり不満をぶつけることがダメなのです。 まずは自分が徹底的に持戒を実践しましょう。 周りのことをとやかく言うのは、それからでも遅くはありません。   3.忍辱 忍辱とは、耐え忍ぶことです。 これだけを読むと「我慢」と同じような意味に捉えてしまうと 思いますが、忍辱はそれとは次元が違います。 厳密に言うと、忍辱とは、ありのままの現実を見ることで、 苦痛を苦痛と思わないようにすることです。 例えば「痛い」という感覚は普通われわれにとって苦痛ですが、 痛いことそれ自体は単なる感覚であって善でも悪でもありません。 痛みがあるお陰で症状を自覚でき、いち早く処置ができるワケ ですから、考え方によっては有り難くも思えてきます。 こういう見方をするための修行が忍辱です。 同様にして、自分の(善意の)行為が無視されても、 逆境に陥っても、それは悪いことではなく単にそういう現実が そこにあるだけだ、という見方をすることも忍辱になります。 つまり忍辱とは字ばかりで、実際にやっていることは坐禅や瞑想と 同じなのです。 僕の言葉で言えば、これは「解釈の幅を広げること」もしくは 「ピックアップ能力を高めること」などに当たります。 苦痛という側面だけを見たり、苦痛という価値だけを拾うのではなく、 もっと他の側面や価値にも目を向けましょう、ということです。 それが難しいというのは重々承知ですが・・・がんばって(笑)   4.精進 精進とは、精一杯努力すること、全力でやることです。 これについては特に説明することはないと言いたいところなのですが、 一点だけ注意しておきたいことがあります。 それは今から3年以上も前に、僕がメルマガ第1号(創刊号)で 言ったことです。 「われわれは全力を出そうと思っても、意識的に全力を出すことは できない」 これを理解しておいてもらいたいと思います。 「全力でがんばります」と言って、本当に全力を出せる人はいません。 なぜなら、全力とは「出すもの」ではなく「出さざるを得ないもの」、 「出てしまうもの」だからです。 寝る間も惜しんで何かに打ち込んだ経験があれば分かると思いますが、 あんなことはやろうと思ってできることではありません。 全力とはそういう性質のものを言います。 狂ったかのように1つのことに集中し、他のことが一切見えなくなる。 文字通り「全」力ですから、それ以外のことには意識を向ける力すら 残っていないワケです。 つまり精進とは、極限まで集中力を高めて1つのことに打ち込む ということなのです。 もちろんこの状態を「常に」維持しなければならないワケではなく、 「出来る限り」維持することが修行なんですけどね。 ご参考まで。   5.禅定 禅定とは、いかなる状況においても冷静であることです。 これは忍辱とも被ります。 いかなる状況でも、ありのままの現実を見ることによって、 心は平静に保たれる、ということです。 これだけで説明を終えるのもアレなので、もう1ついいことを お教えしましょう。 心を平静に保つには、ありのままの現実を見ることに加えて、 長期的に物事を考える、という方法があります。 長期的というと普通は10年や20年ぐらいを考えると思いますが、 僕の言っている「長期的」は100億年とか200億年とか、 そういう天文学的レベルの長さです。 その長さで考えれば、われわれの身に振りかかるどんなことも、 ちっぽけなことに思えてこないでしょうか。 そもそも人間が生まれたのは宇宙の歴史からすれば0.01秒前 ぐらいの出来事であり、そんな人間が今日明日どうなろうが 宇宙にとっては石ころが1つ転がった程度の影響しかないワケです。 この形而上学的な視点を持つことで、自分の置かれている状況や 自分のことがどうでもよく思えてきます。 どうでもいいことに対して心を乱されたりはしませんよね? そうやって心を平静に保つことができるということです。 何かパニックになったときには、宇宙的視点から自分を見るように してください。 それだけで随分と気が楽になると思います。   以上の5つ 1.布施 2.持戒 3.忍辱 4.精進 5.禅定 が般若へ、つまり脱凡人へ至るための道です。 改めて言いますが、脱凡人とは何か特別な人間を指すのではなく、 こういう当たり前のことを当たり前にやっている人間を指します。 われわれにとって毎日の生活は常に修行なのです。 その修行に気付かず、ときにはそれから目をそらし、 逃げてばかりいるのが凡人であって、脱凡人はそれを真正面から 受け入れているに過ぎません。 嫌なことがあっても、辛いことがあっても、その目の前の現実を ありのまま受け入れ、自分や世界と向き合っていく。 われわれのやるべきことは、それだけです。 それだけでわれわれは理想を手に入れることができるのです。 これは僕が言っているのではなく、僕なんか比べ物にならないぐらい 修行を重ねた昔の偉い人が言っているのですから間違いありません。 とにかく気を抜かずに生きることを意識してください。 それが般若への第一歩です。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
近代における芸術の限界 ~なぜわれわれはダ・ヴィンチを超えられないのか~
ども、ペスです。 現在われわれが芸術と呼ぶものは音楽であれ美術であれ演劇であれダンスであれ、 およそどれもが言葉にならない自己を表現したものだと言われます。 思想であったり、哲学であったり、感情であったり、表現されるものは様々ですが、 いずれも自己の内から湧き出たものを表現している。 芸術の歴史を振り返ってみると 「16世紀以前には画家は職人であった」 とハーバード・リードが言っているように、その頃まで画家(芸術家)は ひたすら完成度の高いもの、最も調和のとれた美しさを追い求めて 描き続ける人たちだったことが分かります。 彼らの代表格とも言えるレオナルド・ダ・ヴィンチは 「絵を描くにあたって最も困難なことは、人間の魂の意図を描写することである」 という言葉を残していますが、当時の人間像からすると「人間の魂の意図」というのは 恐らく「神の意志」の言い換えではないかと思われ、そこに美しさが宿るという信念が あったのではないかと想像できます。 彼らにとって美しさを表現することは、自分が神の意志にそえたことを確信していく プロセスだったのではないか、ということです。 「これだけ美しい絵が描けたのだから、神の意志にそえたに違いない」 彼らの綿密な計算の上に描かれた絵や言葉からは、そういった信念が 垣間見られます。 そこには自己を超えたものを必死で捉えようとする真摯な芸術家の姿があったのです。   当時の職人というのは信仰の差はあれ、みんな同じ信念をもって生活していました。 彼ら(主にプロテスタント)には、自分が職人の家に生まれてきたのは 神の意志であり、その職は神が自分に与えた使命だ、という信念があったのです。 芸術家は美を表現することで神に触れ、鍛冶屋は優れた斧や剣を作ることで 神に触れ、料理人は美味しい料理を作ることで神に触れる。 彼らにとっては自分の職を極めることが、神への信仰そのものだったのです。   このことから、現代の芸術家は今のままでは彼らを超えることはできないだろう、 という悲観的な未来が見えてきます。 未だにダ・ヴィンチやミケランジェロを超える作品は生まれず、 ルーヴルを超える美術館は世界にありません。 何をもって「超える」と判断するかは人それぞれですが、 われわれはもはや彼らと同じ土俵にすら立てていないのです。 現代の芸術と中世の芸術を区別することは確かに大事なことです。 彼らは彼ら、現代人は現代人。 そうやって相対主義的に比べることを避けるのもいいでしょう。 しかし単純な「パワー」を比較した場合、彼らが120%のパワーを 出せたのに対して、われわれは絶好調の時でさえ100%程度のパワーしか 出せておらず、その点では確実に彼らに劣っています。 仮にわれわれが無意識の世界に身を置いたとしても100%を超えることは できません。 それが「神のものである自己」を「自分のものである自己」に変化させた 近代の宿命です。 われわれは自己を手に入れた引き換えに、自己を超えるものを失ったのです。   創作の「創」という字が神の業を示すとすれば、現代の芸術家が行っていることは その真似ごとに過ぎません。 それでも100%のパワーを出せば、歴史に残る作品を生み出すことは可能でしょう。 しかし、それはあくまでその時代の中で優れているというだけであって、 歴史的には巨匠の服のボタンをもぎ取るぐらいの影響しか与えられないと 思います。 それは中世の人間より現代人が劣っているからではなく、近代という原理が そうさせているのです。   もし現代の芸術家にも使命のようなものがあるのならば、 それはこの原理を超克することではないかと思います。 ただし、それは超克であって回帰ではありません。 神の時代に戻っては意味がないのです。 自己を手放すことによって可能性という新たな神をとらえ、 それを強靭な力で作品の中に詰め込んでいくこと。 それこそが現代における芸術家の仕事なのです。 ここに至ってようやく、われわれは過去の巨匠と同じ土俵に立つことができます。 そこではもはや「どちらの作品が素晴らしいか」という低次元の話は 意味を為しません。 「どちらの神が優れているか」 お互いの神を懸けた戦いがそこから始まるのです。   念のためにもう一度言っておきますが、われわれはまだその土俵にすら 立てておらず、相手にもしてもらえない状況だということを理解して下さい。 われわれはわれわれの土俵で戦うことに満足しており、その中で小競り合いを 続けているだけなのです。 それではいつまで経っても近代の表皮を剥ぎとるぐらいしかできません。 われわれは自らの殻を破り、新たな神を発見しなければならないのです。 それが現代の芸術家に課せられた第一の使命であり役割です。 「神は細部に宿る」という言葉がありますが、これを技法的に捉えることに 固執せず、思考や意識、行動、生活態度に至るまで徹底できれば、 神はわれわれの目の前に現れることを厭わないでしょう。 人生のすべての面において美しくあること。 ダ・ヴィンチと勝負したいと思うなら、徹底してみる価値はあると思いますよ。   ...more»
近代(単語帳)
近代とは、啓蒙思想と主権国家体制により神の絶対性が失われた時代のことです。 年代で言えば17世紀頃から19世紀頃を指すことが多いですが、人によって意見が 異なるため厳密に何年から何年ということは断言できません。 近代の特徴としては、デカルトの大陸合理論に代表される合理主義や(物心)二元論、 そして合理主義から派生的に生まれた科学主義、要素還元主義、自由主義、人権思想、 民主主義、決定論、単純進歩史観などが挙げられます。 例えるなら近代建築あたりが分かり易いでしょうか。 直線的で左右対称で無機的、合理的で無駄がなく、機械的で再現性が高い。 こういうのが近代と名のつくものの特徴です。 例外的に「モダン焼き」みたいなものもありますが(笑)、あれは多分言葉の響きだけで 付けた名前だと思うので、あんまり深い意味はないんじゃないかな、と。 だったらいっそのこと「デカルト焼き」にして欲しい、と思うのは恐らく僕だけ でしょう(笑)   それでは、ここからはザックリと近代化の流れを見てみることにしましょう。   中世の世界では神が絶対的な根拠であり、どんなことが起ってもすべて「神の意志」で 片づけられていました。 リンゴが落ちるのは、神の意志が働いているから。 植物が育つのは、神がそうなるようにしたから。 人間が存在するのは、神が人間を創ったから。 こういう今から考えれば根も葉もない根拠の上に世界が成立していたワケですが、 それでも世界はなんとか無事に回っていました。 ところがある時、ガリレオ、ニュートン、コペルニクス、ケプラーという世界の運命を 揺るがす4人が現れます。 彼らはあまりに敬虔なクリスチャンだったため、彼らの信念は 「神が世界を創ったのなら、それは美しいに違いない」 という一般的なクリスチャンの信念から飛躍して 「世界が美しいなら、それは数式で表せるに違いない」 という信念にまでいたったのです。 その信念から彼らは世界を数式化し始めます。 それによって地動説やニュートン力学が生まれてくるワケですが、それをわれわれは 科学革命(Scientific Revolution)と呼ぶワケです。 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示したように、 熱烈な信仰というのは、それとは一見何の関係もないものの発展に寄与することが 案外多いようですね。   このあと彼らは、努力が報われるどころか、教会から危険人物のレッテルを貼られて しまうことになります。 この時代、さっき挙げた4人以外にも偉大な功績を残した敬虔なクリスチャンはたくさん いたと思われますが、そういった人たちは教会に消されてしまったのです。 ではなぜ教会は彼らに危険人物のレッテルを貼ったのでしょうか。 それは彼らの発見した数式が、のちのちに教会の(神の)地位を危うくすることが 分かっていたからです。 この頃はまだまだ神は絶対であり、だからこそガリレオやニュートンらはその神を 追い求めて多くの数式を発見したワケですが、その理性的な行為こそが100年・ 200年の時を経て、神を殺す要因となるのです。 もちろん当時の彼らがそんなことを知っているはずもありません。 けれども、教会は分かっていた。 だからこそ教会はその芽をいち早く摘もうとしたのです。   ところで、科学革命がじわじわと起っていた頃、人々の心にも変化が起っていました。 ホッブズ、ロック、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールといった 啓蒙思想家と呼ばれる人たちが現れ、周りの人々に対して啓蒙を促し始めたのです。 啓蒙とは、自らの理性の力で世界を切り拓く、ということ。 「存在するかしないかも分からないような神に頼ってないで、自分の理性を信じて何事も 自分の力で解決していこうじゃないか」 と言ったかどうかは知りませんが、彼らはそんなことを人々に説いてまわりました。 今のわれわれの感覚からは信じられないかもしれませんが、当時の人々は自分に自分の 人生を変える力があるとは誰も思っていませんでした。 貴族はずっと死ぬまで貴族、農民はずっと死ぬまで農民、それが普通だったのです。 「このとき、社会に不平等と貧困はあったが、精神の頽廃はなかった」 とトクヴィル(トゥクヴィル?)が言っているように、これが普通だったからこそ、 彼らは自ら理性の力で自分の人生を動かす必要はなかったし、動かそうという発想すら なかったのです。 しかし、啓蒙思想家の説教を聞いたことで、彼らは気付いてしまいます。 「生まれた家は確かに違うけど、みんな同じ人間じゃないか」 ということに。 ・・・みんな同じ人間。 この今では当然すぎる発想が生まれたのはこの頃です。 みんな同じ人間だから分かり合えるはず。 みんな同じ人間だから平等じゃなきゃだめ。 みんな同じ人間だから理性的能力も同じ。 こうした発想から自由主義や個人主義が生まれ、それが人権思想になり、市民革命 (フランス革命など)が起るにいたったワケです。   上記2つの革命の行き先を考えると、科学革命は科学的知識を急速に発展させ、 市民革命は個人主義や自由主義から資本主義の精神を育んだ、と言えます。 科学的知識の発展は様々な機械を生み、生活を合理化し、資本主義の精神は人間を より貪欲にした。 そしてこの2つが合わさって人類は産業革命という爆発的進歩を達成したのです。   これで科学革命・市民革命・産業革命の3つが出そろったワケですが、話はここで 終わりません。 上の3つの革命だけでは神の絶対性は揺らいでいないのです。 市民革命は神に対してそこそこ大きなダメージを与えている気はしますが、それでも 神を殺すまでには至っていない。 神にとどめを刺すには主権国家体制が必要なのです。 主権国家体制とは、国家に主権を認める(国のことは国が決めていい)ということです。 1648年に決まった30年戦争の講和条約であるウエストファリア条約というのが この主権国家体制というのを定めています。 これによって、それまでは宗教的に内政干渉されまくっていた国も、その国ごとに 宗教的自由を保障され、カトリックだろうがプロテスタントだろうが、はたまた イスラム教だろうが仏教だろうが無宗教だろうがいろんな宗教が入り混じってようが、 国が決めたことに従うだけでよくなったのです。 こうなると神は国ごとに存在したり、存在しなかったり、たくさんいたり、1人しか いなかったりして、絶対的とは呼びがたい存在となります。 ここにきてようやく神の絶対性が失われるワケです。 このことをニーチェは 「神は死んだ」 と表現したワケですが、彼が言ったのは「神は既に死んでいる」ということであって、 彼が神の死に直面したということではありません。 その点は少し注意しておいて下さい。   以上、簡単ではありますが近代化の流れをまとめてみました。 学者が読んだら目玉が飛び出るほど乱暴なまとめですが、学者が読むことはないと 思いますので、そのままにしておきます(笑) 詳しいことが気になったらウィキペディアや関連書籍などを参照しながら、自分なりに 知識を深めていって下さいね。 ではではー。 ...more»
瞑想のジレンマ
ども、ペスです。 実はここ10日間ほど京都の山奥で瞑想の修行をしていました。 といっても、別に僕は何かの宗教を信仰しているワケではなく、たまたま師匠の 紹介やら何やらで縁があっただけの話です。 瞑想の内容は思っていた以上に充実したもので、濃厚な10日間となりました。 そこで得たアイデアは数知れないのですが、残念ながらそこのルール上、 ペンとノートを使ってメモを取ることが許されていなかったため、ほとんどは 僕の記憶の彼方へ飛んでいってしまいました(苦笑)。 まさにこの世は無常なり。 あにっちゃー。 そんな瞑想を受けている最中に、あるジレンマが僕の頭に浮かびあがりました。 それは 本当に瞑想しなければならない人ほど、その場にはいない というもの。 この話自体は瞑想に限ったことではないのですが、本当にそれを受けるべき人は それに興味の無い人たちなのです。 まあ「なのです」と言ってしまうと押しつけがましいですが、少なくとも僕は そう思っています。 例えばこういった瞑想に参加する方というのは、ある種の悩みを抱えていて、 それをある程度自覚した上で参加を決めます。 恋愛や仕事のいざこざを解決したい。 自分のコンプレックスを無くしたい。 自分の殻を破りたい、自分を見つけたい。 もっと自分の生活を向上させたい。 みんなそういったことに対する答えを求めてやってくるワケです。 実際、現場で話を聞いてもそうでした。 福島や栃木から来ている人もいて、彼らは原発の問題に対して自分との決着を つけるためにここに来たと言っていました。 つまり、瞑想参加者のほとんどは問題意識そのものがかなり明確なのです。 もちろん漠然とした悩みを抱えながら参加していた人もいないワケではありません。 そういう人も中にはいます。 ただ、それが圧倒的少数であるという点をここでは取り上げたいのです。 僕は問題意識が明確である人は、瞑想に頼らずともその答えを自力で見つけることが できると思っています。 それは問題が解けない生徒に先生がアドバイスするのに似ています。 「何が分からないかが分からない」 と言っている生徒には手のほどこしようがなくても 「ここが分からない」 と言っている生徒は考え方や何かのキッカケを与えてやるだけで、先生が答えを 教えるまでもなく自分で答えを導けるからです。 この例の場合はキッカケは先生が与えることになっていますが、そのキッカケは 必ずしも先生である必要はありません。 例えばテレビドラマでたまたま主人公が言っていたセリフがキッカケになるかも しれないし、友達との会話がキッカケになるかもしれない。 何がキッカケになるかは分かりません。 分かりませんが、それが絶対に瞑想じゃないといけない理由というのはありません。 瞑想によって問題が解決することはもちろんあるでしょうし、それが瞑想のお陰だと 思い込むこともあるでしょう。 けれども、その問題は10日間もの瞑想に参加するほどの行動力と決断力があれば、 いずれ近いうちに解決していたのではないか、と考えるのが妥当だと思うのです。 たまたま解決するキッカケが瞑想だった。 たまたまとった行動が瞑想だった。 多分それだけです。 ですから、本当に問題なのは「瞑想に参加しよう」という気すら起こらないような 問題意識そのものが低い人たちなのです。 何が問題なのか分からない。 何が分からないのかが分からない。 問題なんて自分は何も抱えていない。 そういう人たちにこそ、問題を明確にする(自分と対話する)機会を与える、 という意味で瞑想が必要なのではないでしょうか。 この手のジレンマはあらゆるところで起っています。 哲学書を読まなければならない人に限って哲学に興味がなく、食に気を付けなければ ならない人に限って食に興味がなく、勉強しなければならない人に限って勉強には 興味がない。 これは頭が良い悪いの話をしているワケではありません。 問題意識があるというだけで、その人は人間的に突出しているということです。 哲学を、瞑想を学ばなければならない。 そう思うこと、それ自体がある程度明確な問題意識に他なりません。 何も問題を感じなければ、そんなものを学ぼうとすら思わないワケですから、 学ぶことを決めた時にそれはもうあらかた解決しているのです。 問題は認識された時点でそのほとんどが解決している。 誰かがこんなことを言っていたような気がしますが、自分が悩んでいることの答えは 自分の中にしかないワケですから、問題さえ見つけられればその答えは引っ張り出して こられます。 問題なのは答えではなく、問いなのです。 いかに鋭く、緻密に、問題を分析していけるか。 そこが重要です。 例えば自分が貧乏で苦しい生活をしていたとしましょう。 毎月赤字で、このままいけば破産してしまう。 そんな状態で「生活を楽にするにはどうすればいいか?」という漠然とした問いを 投げかけても「もっとお金を稼げるようにする」というぐらいのテキトーな答えしか 出てきません。 この答え自体は問いに対しては正しい答えです。 もっとお金を稼げば生活が楽になることには違いありません。 けれども、それが「自分が求めていた答え」かと聞かれれば、やはり違うワケです。 もっと具体的に生活を楽にする方法を私は知りたいんだ。 普通ならそう思うでしょう。 だったら「苦しい生活」の何がどれぐらい苦しいのか、苦しい具体的な原因は何なのか、 というのを明確にしなくてはなりません。 家賃が高くて苦しいのかもしれないし、食費が高くて苦しいのかもしれないし、 給料が低くて苦しいのかもしれない。 ここまで明確化すれば、家賃を減らすにはどうすればいいか、食費を抑えるには どうすればいいか、今の仕事のままバイトをするにはどうすればいいか、そういった 個別具体的で明確な問いが立ち、それを調べる方法も、それに対する答えも自ずと 見つかります。 問題を明確にするとは、こういうことです。 瞑想に参加する人は、こういった問いを(大体の場合は無意識的に)繰り返した上で、 瞑想に参加するという答えを導き出して参加してきます。 つまり、問題を解決するためには瞑想が必要である(ような気がする)、という答えに 導かれてやってくるのです。 それはまさしく問題意識ゆえに導かれた答えと言えるでしょう。 ですから何度も言うように、本当に瞑想が必要なのはここまで到達していないような 漠然とした不安を抱えた人たちだと思うのです。 こんな問題だらけの世の中に何の問題も感じないというのは、ある種の病気です。 どれだけ自分の生活が順風満帆であっても、自分や家族が突然交通事故で死んでしまう 可能性は消せないし、会社が潰れる可能性も、地震が起こる可能性も消せません。 自分はこのままでいいんだろうか。 そんなことを考えたことのある人はたくさんいると思いますが、そういった漠然とした 問題というのは明確化して行動に移さない限り、何歳になっても解決しません。 放っておいて解決したような気になっているかもしれませんが、われわれにはそういう 放置している漠然とした問題が山のようにあるのです。 それを考えることなく、のほほんと生きていること自体、大きな問題です。 瞑想の中でも「われわれは常に感覚を感じているはずなのに、それに気付いていない」 ということを教わりましたが、それはまさに病的なことなのです。 本来の(自然の)人間の感覚ではない。 だからこそ、それら感覚や問題に気付いていくために、瞑想というものがあるのでは ないでしょうか。 瞑想のジレンマそのものを解決する方法は僕には分かりません。 囚人のジレンマよろしく、考えたところで結局は非合理な結果が生まれてしまうのは 目に見えています。 仮に僕が瞑想の宣伝をしまくったとしても、その表現次第では参加者が増えるどころか 行くはずだった人まで行く気がなくなる、みたいな現象が起こってしまうことでしょう。 世の中というのは、そういうものなのです。 良いものだからといって広めりゃいいってものではありません。 それは広めるというよりも勝手に「広まる」というのが理想です。 思わず話してしまう。 つい行動に出てしまう。 そういう体験者の感覚だけが、このジレンマを解決へと導いてくれるのかもしれません。 ...more»
聖なる空間 ~日常の中のスピリチュアル~
  朝早くに駅前なんかを歩いていると、たまにボランティアか何かで ゴミ拾いをしている人がいます。 僕はそれを見るたびに「偉い人がいるもんだ」と感心するんですが、 それと同時に「でも掃除する人がいるから捨てる奴がいるんだよな」 という虚しさをおぼえます。 「どうせ汚されるなら掃除するだけ無駄なんじゃないか」とすら 思ってしまうほどです。 実際、ゴミを捨てる人が減らない限り、いくら掃除をしても 街はキレイにならないワケですから、表面的に見れば無駄です。 それを続けるぐらいならシンガポールのようにポイ捨てする人に 罰金を科すことの方が、街をキレイにする効果は高い。 しかし、です。 だったらなぜわれわれは自分の部屋を掃除するのでしょうか? 何度掃除しても汚れることは分かっているのに、どうしてそんな 無駄なことを繰り返すのでしょうか? 「いや、自分の部屋と街とでは話が別でしょ」 そう思うのが普通だと思いますが、では何が別なのでしょう? 自分の部屋と街の違いなんて精々お金を払ってるか払ってないか、 私的空間であるかないか、広いか狭いか、それぐらいしかありません。 それぐらいしかありませんが、われわれにとってはそれが大事なのです。 素朴な感覚として、自分の部屋がピカピカになったら、誰でも嬉しいと 思います。 それは自分の住んでいる街がキレイになることよりも嬉しいはずです。 どちらも現象としては同じことなのに、なぜこれだけの感覚の差が 生まれるのかというと、自分の部屋には他の空間とは違う特別な何かを 感じているからです。 会社にひとりでいるのと、自分の部屋にひとりでいるのとでは同じ 状態のはずなのに、自分の部屋の方が落ち着くのはなぜなのか。 仮に仕事のない休日だったとしても、会社にいるのと自分の部屋に いるのとでは落ち着き具合がまったく違うと思います。 ベッドやソファーが無かったり、部屋の広さが違ったり、環境的な差も それなりにあるとは思いますが、それにしたって休日にやることは 大体毎回同じなんだから、必要最低限のものが揃っていれば同じように 生活できても不思議はありません。 けれども、やってみれば分かりますが、まったく体の回復の度合いや 精神的安定の度合いが違うのです。 この感覚の違いはどこから生まれてくるのでしょうか。   ・・・ところで。 旅行から帰った後って、なぜか分からないけど、すごい疲れた感じが しませんか? もしかしたらそれは僕があまり旅行好きじゃないからかもしれませんが、 それにしたって個人的にあの疲れ具合は尋常ではないように思うのです。 僕の場合、一泊二日で東京に行っただけで、帰ってきた次の日の 午前中ぐらいまで疲れをひきずっています。 特に遊びまわったワケでもなく、歩き回ったワケでもなく、ちゃんと 睡眠をとったにもかかわらずこんな感じです。 とにかく疲れるんです、家から出ると。 老けたのかしら。 だからといってまったく出ないワケにはいかないので、それなりに 意識して出掛けるようにはしてますが、基本的には(特にここ最近は) あまり出掛けるのは好きではありません。 だから「やっぱり自宅が一番ですよね」という話がしたいワケではなく、 そんな疲れが出るにもかかわらず、どうして多くの人は大金を払ってまで 旅行に行きたがるのか、ということを考えたいワケです。 まあシンプルに考えれば、疲れ以上に得るものが多いからというのが 一番真っ当な理由になると思います。 旅行に行けば身近な場所にはない特別な体験ができる。 大金を出して旅行に行く価値はそこにあるんだ。 恐らく多くの人はこう答えるでしょうし、これを否定する気はまったく ありません。 ただ失礼かもしれませんが、そういった特別な体験をした人たちが おしなべて普通の人である現実を見ると、僕にはその発言が真実を 語っているようには思えないのです。 旅行の理由をもう少し抽象的な言葉にするならば、彼らは日常から 離れた「非日常」を体験するために旅行していると言えます。 家でじっとしていたのでは面白くもなんともない。 だから外に何か目新しいものを、日常には無いものを求めて旅立つ ワケです。 外に出れば何か面白いものが見つかるはずだ、という期待を抱いて。 けれども、その結果なにが得られるかというと、大体の場合は 「旅行は旅行で確かに楽しかったけど、やっぱり我が家が一番だな」 という感想なのです。 つまり、みんな非日常を通して日常の大事さを再確認しているだけ なのです。   これはこれで重要であることには違いありませんが、当初本人たちが 求めていたものとはまったく逆のものが手に入っているというのは なかなか興味深い結果ではないでしょうか。 非日常を求めて外へ出たはずなのに、手に入ったのは非日常以上の 日常だった。 『青い鳥』を極力抽象化して論理的に解説すると、こんな感じになる かもしれません。 まあ青い鳥はどうでもいいんですが、ここであらためて考えたいのは 「どうして我が家は一番なのか」 ということです。 掃除の行きとどいたホテルに泊まって、美味しいもの食べて、 綺麗な景色を見ているはずの旅行先よりも、表面上は明らかに 劣っている我が家を一番だと感じるのはなぜなのか。 実はこういう素朴な感覚の中にわれわれのスピリチュアルが潜んで いるのです。   われわれが生きている空間には大きく分けて特別な何かを感じる空間と 何も感じない空間という2種類の空間があります。 この特別な何かを感じる空間のことをミルチャ・エリアーデという 宗教学者の言葉で 「聖なる空間」 と言います。 癒し、安心、安定、暖か味、落ち着き、パワー、オーラ、エネルギー、 そういったものを感じる空間はすべて「聖なる空間」です。 典型的なのは自分の実家や部屋ですが、そこに癒しを感じるのは、 そこが自分にとって「聖なる空間」だからです。 素朴な感覚として、外から自分の部屋に帰ってくると、なんとなく ほっとしますよね? なぜだか分からないけれども、今まで張りつめていたものが、 ふっと解消されたような気がする。 それが「聖なる空間」です。 自分の部屋以外では例えば神社の鳥居をくぐったり、山に登ったり、 洞窟に入ったりしたときにも、何か特別な感じを受けると思います。 それも「聖なる空間」の一種で、要は「聖なる空間」には自分にしか 分からない純粋に主観的なものと、他人とも共有できる客観的なものが あるということです。 同様に、特別な何かを感じる時間のことをエリアーデの言葉で 「聖なる時間」 と言います。 これは友達と遊んでいるときの時間とか映画を見ているときの時間とか、 そういう普段とは違う早さを感じる時間のことです。 友達と楽しく話してるときって、時間が経つのが早いでしょ? その時間を「聖なる時間」と言うワケです。 便宜上、更につけ足して特別な何かを感じるモノ、思い出の品や 思い入れのあるモノをここでは勝手に「聖なるモノ」と呼ぶことに しましょう。 それに対して何も感じない空間のことをエリアーデの言葉で 「俗なる空間」 と言います。 これは言い換えてしまえば、単純に「聖なる空間」以外の空間 ということです。 これも人によって違うので断定はできませんが、例えば学校とか 会社とか公園とか電車の中とか駅とか、そういうのが典型だと 思います。 そこにいるからといって何か特別なものを感じることはない。 そういう空間が「俗なる空間」です。 「聖なる空間」と同じように、何も感じない時間を「俗なる時間」 といい、何も感じないモノをまた勝手に「俗なるモノ」と呼ぶことに しましょう。   一通り説明が終わったところで話を進めていきますが、 エリアーデはこれら聖なるものと俗なるもののバランスが 崩れたときに人は「実存の危機」に陥ると言っています。 実存の危機とは 「なんとなく生きている心地がしない」 「毎日がどこか虚しい」 「生きがいを感じない」 「毎日が平凡すぎてつまらない」 「いつも将来のことを不安に感じる」 「死んだ方が楽な気がする」 そういう状態のことです。 こんな状態になってしまうのは聖と俗のバランスが崩れているからだ とエリアーデは言っているワケです。 このバランスというのは、人によって異なります。 例えば聖なるものばかりを追いかけていくと、自分の部屋から 一歩も出ずに動画サイトやゲームばかりを見て、自分の好きなもの ばかり食べて暮らしているような状態になります。 世間で言うところの引きこもりです。 この人を周りから見れば、無駄なことばかりに時間や労力を費やして 世間との接点を一切持とうとしない非常識な人、という感じに見える でしょう。 が、本人にとってはそれが正常なバランスなのかもしれません。 毎日ゲームをやってないと死んでしまう。 1回でも見たいアニメを見逃したら死んでしまう。 あくまでも予想の範囲ですが、多分そういう人もいると思うのです。 この例が分かり難いなら、携帯電話のことを考えてみて下さい。 今の時代、携帯が無くなっただけでヒステリーを起こすような人は 案外多いと思います。 毎日暇があれば携帯の画面ばかりを眺め、特に用事もないのに タッチパネルをずっと触っている。 そういう人はまさしくその携帯が「聖なるモノ」であり、それを 触っている時間を「聖なる時間」として過ごしているのです。 それを行儀が悪いとか校則違反だとかいう理由で禁止すると、 その人の聖と俗のバランスが崩れ、毎日の生活が虚しいものに 変わってしまうかもしれません。 逆に、携帯やゲームがあることによって「俗なる時間」が減り過ぎて、 人によってはバランスが保てなくなるということもあります。 この場合は、浮世離れしていく、という感じでしょうか。 ネットゲームにハマり過ぎて廃人になってしまった人なんかが その典型です。 このバランスというのは、あくまでも個人が感じるバランスなので、 聖と俗が50:50でつり合っていることが必ずしもバランスが 取れている状態とは言えません。 つまり「実存の危機」に陥らないためには、何が自分にとって ベストバランスなのかを常に監視し、どちらか一方に偏り過ぎないよう、 自分の生活をコントロールしてやる必要があるのです。   そこで話を戻します。 なぜ多くの人は旅行をするのか。 その理由は自らの聖と俗のバランスを保とうとしているからなのです。 本当は自分の部屋だけで、携帯電話だけで、テレビドラマだけで、 十分に聖なるものを体験しているはずなのに、それがあまりにも 当たり前になり過ぎて、そこに何も感じなくなってしまった。 だからみんな外にそれを求め始めたワケです。 最近、凄い勢いでパワースポットなるものが人気を得ていますが、 あの人気もまさに今が「実存の危機」だからだと言えます。 富士山や熊野古道や伊勢大社というのは、どこもずっと昔から 存在していたところばかりですから、本来であれば別に今更 パワースポットだなんだかんだと騒ぐようなものではありません。 確かにそこに行けば何か癒されたような感じを受けることも あるでしょうし、だからこそ誰もがそこに癒しを求めて出掛ける のだと思います。 けれども、そういうところにお金を払ってまで行くということは、 現状の自分が、普段の生活が、病んでいるという証なのです。 念のために言っておきますが、僕はパワースポットに行くことが バカげていると言っているワケではないし、パワースポットに 行くなと言っているワケでもありません。 そうではなく、行くなら行くで、なぜ自分はパワースポットに 惹かれるのかを考えて欲しいのです。 なぜわざわざ癒しを求めて出掛ける必要があるのかを考えて 欲しいのです。 それを考えれば、おのずと今自分が置かれている立場が分かり、 パワースポットに行くような一時的な措置ではない、根本的な 措置を自分自身でとれるようになります。 癒しを求めて出掛けるのも結構ですが、そもそも病んでなければ 癒される必要はないのですから、その病みの原因をつきとめて 解決してやるのが本当の意味での癒しなのではないかな、と。 個人的にはそう思います。   われわれはいつだって小さな「実存の危機」を抱えています。 その危機を補正するために、われわれは人と話したり、働いたり、 ゲームをしたり、旅行をしたりするのです。 何を俗なるものと感じ、聖なるものと感じるかは人それぞれです。 はたから見れば意味の無いことを繰り返しているような人も、 もしかしたらその人にとって、それをやっている時間は大切な 聖なる時間なのかもしれません。 通勤時間に電車の中でゲームをやることによって、かろうじて 仕事ばかりの俗なる毎日とのバランスを取っている人もいるかも しれません。 それは単なる現実逃避だと批判する人もいると思いますが、それが 本当に現実逃避なのかどうかは、本人にしか分からないのです。 この話は深掘りすれば、もっともっと個人的な領域に突っ込んで いくことができます。 僕はそこまで詳しくはないので、これ以上のスピリチュアルを 語ることはできませんが、興味があるならヒエロファニーや ヒーリング、サイティカル体、アファメーションなどを調べてみるのも 面白いかもしれません。 最終的に行きつく先は親鸞や道元、孔子や老子あたりのような 気がしますが、それは色々やってみて自分で判断して下さい。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
成功哲学の本質的矛盾
  今回は久々にベーシックインカムの話を離れて 僕が嫌っている【成功哲学】をテーマに記事を 書いてみようと思います。 なんでわざわざ嫌っていることをテーマにするのかと言えば、 タイトルを読んでもらえれば分かる通り、 「そんなもん信じててもしょうがないよ」 ということが言いたいから。 好きで信じている人を否定するつもりはないんですが、 本質的な矛盾に気付いている人は恐らく少ないと思うので、 念のため書いておいてみようかな、と。 完全なお節介です(笑) 知らない方が幸せかもしれませんので 見たくない場合はここで閉じて下さいませ(笑) では早速本題へ。 本田健、斉藤一人、ナポレオン・ヒルよろしく、 いろんな人が声高に叫び続けている成功哲学。 「こうやれば成功出来ます」「ああやれば成功出来ます」 と言い続けている割には成功している人があまりに 少な過ぎる気がしてなりません。 その理由を聞けば恐らくほとんどの人は 「本の内容を実行しない人がほとんどだからだ」 というような一見して反論の余地のなさそうな 回答をすると思います。 でもそれって本当なんでしょうか? というのも、成功哲学系の書籍というのは、基本的に 【誰にでも出来るようなこと】しか書かれていない印象が 僕にはあるからです。 「毎日靴を磨きなさい」とか「感謝の気持ちを忘れるな」とか 「ツイテルって1日100回言いなさい」とか「寄付しろ」とか 大よそこんな誰でも出来る感じのことが書かれているのに 実行しない方が僕には信じられません。 だってそんな誰でも出来ることをやるだけで 成功出来るって書かれているんですよ? しかも実際、それで成功した人が書いてるんですよ? 言葉は悪いですが、やらない方がバカじゃない?と 思われても仕方ないと思うんです。 「じゃあ、お前もやってみろよ」 と思うかもしれませんが、その批判は受け付けません。 今回のテーマとそれは何も関係ないので。 じゃあ何でみんな実行しないのか、って話になるワケです。 どうしてみんな読むだけ読んでやらないのか。 また、仮にやっていたとしても成功出来る人が どうしてわずかしかいないのか。 僕が考えるに、その理由は大きく分けて2つあります。 1つは、根本的なところでみんな本に書かれている内容を 信じていないから。 この話については詳しくはカルヴィニズムについての 予備知識がないと分からないと思いますが、 要は、われわれは1つのものを信じ続けられるような 文化では育っていない、ということです。 日本は多神教の国(文化)なのに対して、 成功哲学とは西洋から輸入されたもの、 つまり一神教の国で生まれたものになります。 一神教と多神教の違いを一言で言ってしまえば、 それは、1つのことを無根拠に信じることが 出来るか否かの違いです。 日本には八百万の神がいると信じられている反面、 西洋にはキリスト教の神一人。 要するに、西洋では成功哲学という1つの体系を無根拠に 信用出来るのに対して日本では「他にも方法があるんじゃないの?」 という疑念を抱きやすい、ということです。 キリスト教の人は「他にも神様がいるんじゃないの?」とは 絶対に思いませんから。 疑念を抱くっていうことは、どこかで信じていない証拠。 100%信用する、というのは日本人には難しいのです。 仮に100%成功哲学を信用出来たとしたら その人は成功すると思います。 かつてカルヴァンの予定説を信じていた多くの人が 経済的成功を収めた歴史を調べれば、なんとなく分かる かもしれません。 詳しくはエーリッヒ・フロムが書いた 自由からの逃走 新版という本を参考にして 色々考えてみて下さい。 ・・・とか言って終わろうと思ったんですが、せっかくなんで もうちょっと説明を足しておきましょう。 カルヴァンの提唱した予定説というのは、 「天国に行ける人は生まれた瞬間に決まっている」 「だから生れてから頑張っても仕方がない」 というもの。 われわれの感覚だと、これだけ読んでしまったら、 「何をやっても天国に行けるヤツは行けるし 行けないヤツは行けないんだったら、生きてるうちに 悪いことやりまくってもいいんじゃないの?」 なんてことを思ってしまうかもしれませんが、 それは現代的・日本的な観点からものを見すぎです。 中世ヨーロッパの人々にとって、神は絶対であって 神に選ばれることが彼らの全てだった、ということを 分かっていないとそーゆー発想に陥ります。 じゃあ予定説を信じている人はどう考えていたかというと、 「私が神に選ばれないワケがない」 「私が地獄に落ちるはずがない」 と考えていた(無根拠に確信していた)ワケです。 そして肝心なのはここから。 カルヴァン曰く、天国に行ける人は既に決まっているから 今更何をあがいてもその予定は変えられない。 しかし、よーく考えてみると、その選ばれた者は 他の人よりも運がいい。 運が良いということは、その人は現世で 成功している確率も高いのではないか。 職業は神から与えられた使命なのだから その職業で成功するならば、その人は 神から選ばれた可能性が高い。 つまり。 お金をたくさん持っている人は天国に行ける確率が 高いということカルヴァンは言ったワケです。 ちょっと僕らの感覚からするとオカシイですけどね。 その頃の発想がそうだったんだから仕方がない。 まとめておきましょうか。 中世ヨーロッパ(16世紀頃)では人々は予定説を信じ、 「私が神に選ばれないワケがない」と確信していたため、 自らの職業で成功を収め、たくさんのお金を貯める人が増えた。 そんな感じです。 ついでに言っておくと、神に選ばれた者が悪行など 行うはずがないですから、善なる行為を行うことによって 「自分は神に選ばれた者なんだ」とアピールするような ことも起こったそうな。 この辺がキリスト教の面白いところですよねー。 もう分かったと思いますが、これが成功哲学の 根っこの部分になります。 読んで分かる通り、われわれ日本人にはちょっと 理解し難いですよね? 頭では分かっても心では分からない、みたいな。 ただ1つ言えるのは 他人に親切にしたり、寄付をしたり、靴を磨いたりするのは 【そうやったら成功出来るから】という卑しい発想ではなく、 成功に値する人間はそれぐらいのことは当然のこととして 行うはずだ、という信念に基づいて行わなければ意味がない ということです。 1つ目が随分長くなっちゃいましたが、成功する人が少ない もう1つの理由は、成功哲学というモデルでは ネガティブとポジティブの概念が矛盾しているから。 「ポジティブ思考で毎日を生きよう」 という感じの言葉が成功哲学系書籍にはよく見られますが、 この思考自体がネガティブなことにお気付きでしょうか? もう少し分かり易く言うと、 「ポジティブにならなきゃ成功出来ないんだ」 と思うことはネガティブな思考じゃにゃいにょ?と。 本当にポジティブに考えるなら 「ネガティブな(今の)ままでも大丈夫!」 という発想になるはずなんです。 つまり、本質的に成功哲学的なネガティブとポジティブは 矛盾しているのです。 これも上の予定説の話と関係しているんですが、 ネガティブとかポジティブとか考えている時点で それが既にネガティブなんですよ。 もっと言えば、成功哲学系の書籍を読んでいる時点で その行動がもうネガティブですよね? 成功したい、つまり今の自分じゃ成功出来ないと思うから 本を読むワケであって、自分が成功に値する人だと思っていれば そんな本を読むより、もっとすることがあるはずですから。 最初の話よりこっちの方が分かり易いと思うんですが、 どうでしょ? そんなワケでありまして、結局のところ成功哲学というのは 【成功哲学を100%信じていること】 (自分は成功するんだと確信していること) 【ネガポジの矛盾に気付くこと】 この2つがキーになっているんじゃないかと 思っています。 ただ、これはあくまで僕個人の考えに過ぎませんので 参考程度に思っておいて下さいね。 ではではー。 追伸 毎度コメントを下さるkyunkyunさん。 コメントしてもらえるのは非常に有難いのですが、 ちょっと僕の発言と論点が噛み合っていないようなので 一旦ベーシックインカムの話は保留にしますね。 また何かあればいつでもコメントして下さいませ。 ...more»
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