UA-32556480-1
top-image

Archives for 学校・教育

真の記憶術、教えます
  先日、僕にしては珍しく「記憶術」に関する本をいくつか 読みました。 この手の本は昔から出版され続けていて、書かれていることは 今もほとんど変わりません。 最近は脳科学の研究とタッグを組むことが増えていますが、 それも言っていることは同じで、記憶というのは結局 1.繰り返し 2.感動 の2つが肝になっています。 何度も目や耳にしたり感情が大きく動いたことは記憶に定着する、 というヤツです。 ここから導き出されるあまりにも当たり前の結論があります。 それは「記憶したかったら楽しめ」です。 ゲームであれ、マンガであれ、デートであれ、セミナーであれ、 楽しければ繰り返し体験したくなる(継続したくなる)し、 楽しいワケですから当然感情も大きくプラスに動いています。 実際、それらの体験は記憶に残っているはずです。 つまり「真の記憶術」なるものがあるとすれば、それは巷に溢れる なんちゃら記憶術などではなく、記憶すること自体を楽しむこと なのです。   われわれが記憶を楽しむためにできることは2つあります。 1つは記憶したいことを楽しく語ってくれる人を 見つけることです。 英語であれ、数学であれ、歴史であれ、どんなコンテンツも それ自体がつまらないワケではありません。 われわれがそれをつまらないと感じるのは、そのコンテンツを 取り巻くコンテクストが、つまりその語り方や語る人が つまらないからです。 数学が苦手だったとしても、片思いの人に教えてもらえば、 強烈に記憶に残ると思います。 それは無味乾燥な「数学の記憶」ではなく、甘酸っぱい 「思い出」になるからです。 同じ数学というコンテンツでも、先生に語られるのと 片思いの人に語られるのとでは、記憶の定着具合が まったく異なるワケです。 もう1つは、自分で楽しさを見出すことです。 例えば子供がよくやる「白線からはみ出たら死ぬ」みたいな ゲームがありますよね。 あれは彼らが「白線」という無機質でつまらないものに 楽しさを見出している1つの例です。 われわれは本来そういったことができる生き物なのですが、 大人になる過程でその能力を失ってしまいます。 特にエンターテイメント、つまり楽しませてもらうことに 慣れてしまうと、つまらないものをつまらないものとしてしか 見られなくなってしまうワケです。 そうなると自分で自分の記憶力を高めることができないので、 もし楽しい人を見つけられないなら、そこは地道に鍛えて おきましょう。   まとめると 1.楽しませてもらうこと 2.楽しさを見出すこと の2つが僕の考える「真の記憶術」です。 ただし前者は人を探すのが大変、後者は鍛えるのが大変です(笑) 前者を見つけられればそれに越したことはないと思いますが、 自分の学びたいジャンルに必ずそういう人がいるとは限りません。 「だったら、あなたがそれをやったらどう?」というのが 僕からの提案です。 つまらないものを楽しく伝えることは、それだけで恐ろしく 価値がありますからね。 そろそろ与えてもらう側は卒業して、与える側になりませんか? それが人生を好転させる最大のコツだと思いますよ。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
良い我慢と悪い我慢の違い
  われわれの人生には「我慢した方がいい嫌なこと」と 「我慢しない方がいい嫌なこと」の2種類の嫌なことが あります。 例えば僕にとって語学やランニングは前者で、 誰かに命令されることや場の空気に従うことは後者です。 ここでは前者を本来的嫌悪、後者を非本来的嫌悪と呼ぶことに しましょう。 分かるとは思いますが、本来的嫌悪は進化淘汰圧のことです。 自分に負荷はかかるんだけども、その負荷に耐えることで 成長することが分かっている。 それが本来的嫌悪ですね。 一方、非本来的嫌悪は、耐えれば耐えるほど苦しさが深まり、 成長どころか、下手をすれば精神病にかかるような嫌悪です。 最近までの僕はこっちの嫌悪を無理やり(無意識的に) 我慢することをしていました。 僕の意識としては本来的嫌悪のつもりだったんですが、 結果として振り返ってみれば、それは非本来的嫌悪だった ワケです。   今あなたが自分のレールを走っていたとしましょう。 そのレールに大きな岩が置かれていて、その岩を乗り越えたり 壊したりするのが本来的嫌悪で、その岩を避けて別のレールに 乗り換えて走るのが非本来的嫌悪です。 僕は自分のレールに乗ったまま障害物を壊すべきだったのに、 自分の弱さを自覚していなかったために、その障害物を 避けていることに気付かず、別のレールを選んでいました。 加えて別のレールを選んだこと自体も無自覚だったために、 別のレールから元のレールへ戻ろうという発想が浮かんで きませんでした。 そんな別のレールで何をがんばったところで、そこが自分の レールに変わるワケではないのに、そこで必死にもがいていた ワケです。 これは恐らく僕に限った話ではなく、結構な割合で多くの人が 陥るパターンだと思います。 誰かが提示した正解や成功を、あたかも自分の正解や成功だと 思い込み、そこへ向かって進もうとしてしまう。 それで一生を棒に振ってしまう人は、あとを断ちません。 僕がビジネス書や自己啓発書を嫌う理由はここにあります。 あれらの本は、自分のレールを走ったままでいられる人が読めば 有効に作用しますが、そうでない人、自分のレールの障害物を 避けて別のレールを走ってしまう大多数の人が読んでしまうと、 非本来的嫌悪を促進することになってしまうのです。   僕が哲学書が好きなのは、それらの本がいつも僕に 「お前は今、自分のレールを走っているか?」と問いかけて くれるからです。 ビジネス書が「こうすればいいよ」と天使の顔をして 答えを押し付けてくるのに対して、哲学書は鬼の顔をして 「本当にそれでいいのか?」と厳しく問いかけてくれます。 その声を聞き取るのにはそれなりの修行がいりますが、 決してそれは意地悪でそうなっているのではなく、 その修行自体が自分への問いかけになっているのです。 「この本は何が言いたいんだろうか?」 そう問いかけることは、自分に「この本から何を読み取れば いいんだろうか?」と問いかけることであり、 「本当にこの解釈でいいんだろうか?」と問いかけることでも あります。 哲学書が理解できるなんてことは一生あり得ません。 しかしそうやって「正解なんて一生分からない」ということを、 哲学書はその身をもって教えてくれているのです。   ある人が言っていました。 「諦めてもいいのは、その諦めを自慢できるときだけだ」と。 別のレールを諦めて、自分のレールに戻ってきませんか? 常識を守ること、場の空気を読むこと、好かれることを諦めて、 自分らしく生きることを選択しましょう。 その諦めはきっと、胸を張って自慢できるもののはずです。 ありがとうございました。 杉野   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養へ至るための5段階
  僕が考えるに、われわれが教養へ至るためには5つの段階を 踏まえていく必要があります。 その5つとは 1.無知(知らない) 2.知識(知っている) 3.理解(分かっている) 4.知恵(使える) 5.教養(にじみ出る) です。   1.無知 何も知らない段階です。 今この文章を読んでいる時点で完全に無知ということは あり得ませんが、特定のジャンルや分野に無知だったり、 特定の人に対して無知だったりすることは普通にあります。 自分が無知であることに対して無知であることもありますよね。 いずれにしても、この段階の領域を極力減らすこと、 もう少し突っ込んで言うと、何に対しても無知であることを 恥や不快だと思うことが教養への第一歩です。 知らないってのは恥ずかしいことなんですよ、人として。 それは自分の専門は当然として、専門外に関しても同じです。 加えて、知らないことは恥である以上に危ないことである という自覚も持っておいてください。 ボストン美術館の収蔵品なんかを見ると分かると思いますが、 芸術の価値を分かっていない無知な人たちが、ああやって 貴重な日本の文化遺産を海外に売り渡してしまったワケです。 最近だと慰安婦問題の件とか、あれも結構ヤバイですよね。 安倍総理が知ってやってるのか知らずにやってるのかは 分かりませんが、あの件はメディアで騒がれているほど 素晴らしいことではありません。 こういう過ちを犯さないためにも、そして教養へ至るためにも、 日々自分の無知を減らすように努めましょう。   2.知識 知っている段階です。 1192年に鎌倉幕府ができたのは知っているけど、 なぜ・どのように鎌倉幕府が作られたのかは分からない。 そんな感じですね。 別の言い方をすると、インプットと解釈で終わっているのが この段階です。 これにアウトプット(説明する・教える)が加わわれば 理解に変わります。 知らないのも恥ですが、理解しておくべきことを理解して いないのも恥だと思ってください。 何が理解しておくべきことなのかは、あなたが持っている 人として基準によります。 この基準が低い人ほど恥を恥だと感じない(自尊心が低い) 傾向があるので、気を付けておきましょう。   3.理解 知っていることを教えられる段階です。 理想的には、ここを最低ラインにしておきいたいところです。 当然すべてを理解するなんてことは現実には不可能ですから、 あくまで「理想」です。 何かを知ったあとに、そのことを誰かに教えられれば、 それは理解できていると言っていいと思います。 逆に言うと、説明する・教えるという行動を起こさなければ、 この段階へは「絶対に」至れないということです。 ほとんどの人が行動を起こさないことからも分かるように、 一般的にはこの段階で十分に「教養人」と見なされます。 大学の教授なんかは、大体この段階じゃないでしょうか。 それが良いか悪いかはともかく、理解の段階とは そういうものだと思っておいてください。   4.知恵 理解していることを役立てられる段階です。 世間一般の成功している人たちは、大体この段階だと 思います。 一応言っておきますが、別に彼らを軽蔑しているワケでは ないですからね。 単に僕がそう分析しているだけですので、価値判断は棚に 上げておいてください。 役立てられるとは、自分や他者に貢献できることであり、 この段階から自分の価値(相応しさ)が跳ね上がります。 その意味で、この段階は努力が報われる段階と言っても いいでしょう。 ここまで至れれば普通は十分だと思います。   5.教養 その人の言動の1つ1つが本人の意思とは無関係に、 周りの役に立ってしまう段階です。 知恵が人格化されたもの、と言えば伝わるでしょうか。 言葉で表現するのが非常に難しい段階ですが、 そういう人たちが世の中にはいます。 教養の手前の段階に知恵があることからも分かるように、 誰の役にも立たない哲学や芸術、政治、経済などの知識は 僕の言う意味での教養ではありません。 教養という言葉は文脈によって「芸術の知識があること」を 意味したりすることもありますが、それはせいぜい理解の 段階です。 ここで言っているのはそういう意味での教養ではなくて、 もっと本来的な意味、貴族的な意味での教養ですので、 その点は誤解のないように。   以上の5つ 1.無知(知らない) 2.知識(知っている) 3.理解(分かっている) 4.知恵(使える) 5.教養(にじみ出る) が教養へ至るための5段階になります。 この段階を1つ1つ踏まえていくことが、われわれが成功、 すなわち教養へ至るためのステップです。 そのために何をどうすべきなのかは、これから追々話して いきます(今までもずっと話してますけどね)。 ここで分かっておいてほしいのは、1つの教養や知恵を 極めたぐらいで満足するな、ってことです。 何であれ、長い間やっていれば自分の専門分野で 教養の段階へ至ることは可能ですが、それは師匠の言葉を 借りるなら 「バカの1つ覚え」 にすぎません。 20年や30年も同じことを続ければ「誰だって」 そうなるのであって、別に凄いことではないということです。 そうではなく、われわれは「あなたは何をやっている 人なんですか?」と聞かれるぐらい、いろんなことを 知っていて、理解していて、使える人でないといけない。 音響の仕事「を」していますとか、英語「を」教えています とかではなくて、音響の仕事「も」しているし、英語「も」 教えています、じゃないといけないワケです。 音響の仕事をしていますというのは、逆に表現すると 音響の仕事しかできません、音響のことしか知りません、 ということですからね。   リーダーとして、一人の人間として相応しくあることに 終わりはありません。 常に今の自分を恥じ、絶望し、それを乗り越えていくこと、 それこそが人格としての教養なのです。 相変わらず苦しい道ですが(笑)がんばっていきましょう。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養の4つの定義
  教養のことをネットで調べたり自分で考えたりしてみた結果、 教養の定義は大体4つぐらいに集約できることが分かりました。 1つ目の定義は、僕が前に言った「教養それ自身を役立てる何か」。 哲学や芸術、宗教、思想などを分かりやすく語れるだけでなく、 それを誰かの役立つカタチで構築し直して表現できる能力を 僕は教養と呼んでいます。 まあ平たく言えば翻訳です。 単に分かりやすく翻訳するだけなら、できる人はそこそこいると 思うのですが、使えるカタチで、となると結構難しいワケです。 その辺のポジションを僕は目指したいな、と。 というか、多分僕はその辺をふらついてるんじゃないかな、と。 そんな風に今はぼんやり考えています。   2つ目の定義は「共通の土台」です。 これについては『脱凡人の教科書』で詳しく語っていますが、 共通言語と言い換えてもいいかもしれません。 例えば禅のことを西洋人に説明しようと思った場合、 比喩として聖書の内容を引用できれば、かなり良い感じで 相手に伝わると思います。 この場合の「聖書の内容」が自分と相手との共通言語であり 教養です。 禅を禅的に、つまり日本的文脈、日本的バックボーンで 語ったのでは、西洋人が理解するのは難しいけれども、 聖書を通して禅を表現できればそれほど伝わりやすいものは ないワケです。 最近僕が書いたハイエクとケインズの話なんかも、桃鉄という 共通言語を通すことで、なんとか伝えようとした例です。 どれだけの人にとって桃鉄が共通言語と言えるのかは 不明ですけど(笑)、少なくとも桃鉄をやったことのある 世代にとっては、結構分かりやすかったと思います。 要はAをBやCやDという別の内容でどれだけ表現できるか、 その能力がこの定義で言うところの教養だということです。 まあ1つ目の翻訳とほとんど変わりませんね。   3つ目の定義は「知識や経験が人格にまで昇華されたもの」。 これも前に言いましたね。 何の意図もなくサラッと自分の言葉としてシェイクスピアや ゲーテ、トルストイ、カント、ヴェートーベン、デュシャン、 カンディンスキー、道元、弘法大師の言葉が出てくるような、 そういう人格化された知、血肉となった知が教養です。 誤解の無いように言っておくと、これは別にこの人たちの 本を読んでいなければならないワケではありません。 そうではなくて、彼らと同じようなことが言えるほどに、 そういう言葉がポロっと出てくるほどに高められた人格には、 教養が備わっているということです。 恐らく難しい本なんて読んでいないであろうスポーツ選手から サラッと凄い言葉が出てくるのは、彼らに教養があるからです。 そういうなんとも言葉にし難いものが、この3つ目の定義の 教養になります。   4つ目の定義は「漠然とした賢さ」。 良いか悪いかは置いておくとして、特に定義づけられずに 使われる場合の教養はこんな感じの意味です。 一般教養とか、教養学部とか、あの人には教養があるとか、 そういう使われ方をされるときは、この定義で使われていると 思っていいんじゃないかな、と。 本当は漠然としている時点で定義とは言えないんですけどね。 細かいことは気にしないでおきましょう。   まとめておくと 1.教養それ自身を役に立てる何か 2.共通の土台・共通言語 3.知識や経験が人格にまで昇華されたもの 4.漠然とした賢さ の4つがおおよその教養の定義です。 4つ目はともかくとして、2と3あたりを主流と考えておけば 変な方向には行かないと思います。 1つ目は2つ目のプラスαって感じですかね。 共通の土台を相対的側面、知識や経験が人格にまで 昇華されたものを絶対的側面と考えれば、この2つの側面を それぞれ磨いていくことが教養と言えます。 いつだったか、上級の方で個性の話をしたと思いますが、 今回の話も個性を磨くことと原理は同じです。 そう考えると個性を輝かせるのは教養であるとも言えますね (ここの論理的飛躍は自分で埋めてみてください、 良い思考訓練になると思います)。 ますます教養が無視できないものになってきました。 ちょっとずつでいいので、着実に身につけていきましょう。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養と成功の関係 ~新しい成功の定義~
  僕のメルマガはあなたに何を提供し、 僕自身は何を体現していて、何を求め、 あなたにどうなってほしかったのか。 僕を長い間苦しめていたこの答えがようやく 見つかりました。 もう長々話すのは面倒なのでいきなり言います。 それは「相応しさ」です。 僕はあなたに、 ・日本人として ・仲間として ・リーダーとして ・大人として ・社会人として ・上司として ・先輩として ・部下として ・後輩として ・親として ・子として ・パートナーとして ・一人の人間として 相応しい人であってほしいと思っていると同時に、 僕自身もそういう人間であろうとしています。 相応しさについては以前メルマガでも書いたことがあるし、 もう1つのメルマガや、フェイスブックのコメントでも 書いたことがありますが、近すぎるものほど見えないもので、 それが自分の体現しているコンセプトだということに今の今まで 気付きませんでした。 僕にとっての、いや、われわれにとっての成功とは、 哲学書を読むに相応しい、大金を持つに相応しい、 優秀な人と付き合うに相応しい、自由を満喫するに相応しい、 そういう人間になる(である)ことだったのです。 この成功をつかむためには教養が必要になります。 というよりも、教養を通してしか、この成功は実現しません。 僕が教養にこだわり、人としての在り方にこだわってきた理由は ここにあったワケです。   いつものことながら、気付いてみればなんてことないこと なんですよね。 まあでも、新年早々に大きな一歩を踏み出せた気がします。 なんと言っても、これでもう目指す方向はブレないですからね。 あとはゴールまでの筋道を緻密に作り込むだけでいいんだから、 ホントに肩の荷がおりました(笑) そんなワケで、次回は「教養の4段階」みたいな話から 始めてみようと思います。 お楽しみにー。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
教養を身につける意味 ~4つのベネフィット~
  なんのために教養が必要なのか。 教養が身につくと何がどう良くなるのか。 この問いについて、これまで僕は考えようとしたことがなく、 考えなければならないという自覚もありませんでした。 僕の中での教養は、ただただ身につけることが楽しいから 身につけるべきものであって、それ以上でもそれ以下でも なかったのですが、つい先日ある方から 「果たしてそうかなぁ?」的なアドバイスをいただいて、 僕をせき止めていた見えない壁をまた1つ見つけることが できました。 言われてみれば当たり前なのですが、本当に楽しいだけで 教養を身につけていたなら、こうしてあなたに メルマガを読んでもらうこともできなかっただろうし、 あなたの役にも立たなかっただろうし、ビジネスにも ならなかったはずです。 僕が今なんとかかんとか生かしていただけるのは、 僕の身につけた教養なるものが、何かしらのベネフィットを あなたに提供しているからに他なりません。 だとすれば、それは何なのか。 それを知ることによって、あなたがメルマガを読む意味 (僕にとってはメルマガを書く意味)がより明確に 見えるようになり、これからこのメルマガが目指すべき方向も 定まってくるのではないかと思い、教養についてあらためて 「具体的に」考えることにしました。   それにあたって最初に明確にしておきたいのが教養の定義です。 ウィキペディアによると、教養とは「個人の人格に結びついた 知識や行いのこと」ということになっています。 これは非常によくまとまった定義だと思います。 ポイントは、個人の人格と結びついた、というところです。 単なる物知りと教養のある人は何が違うのかというと、 前者は知識と自分が乖離している、つまりその知識を持つのに 相応しくない在り方・生き方をしているのに対して、後者は その知識を持つのに相応しい在り方・生き方をしている点に あります。 どれだけ世界史や日本史に詳しくても、その知識に基づいた 何らかの行動や態度、感情、生き様が伴っていなければ、 それは教養とは言えません。 その知識や経験を通して、いかに生きるのか。 知識や経験をいかに自分の表現へと至らしめるか。 それが教養の有無の重要な点だと言えるでしょう。   僕の考える教養のベネフィットは大きく分けて4つあります。 1.人や物事の良し悪しを判断できる 2.高い確率で未来が予測できる 3.周りから一目置かれる意見が言える 4.質の高いコンテンツを生み出せる これでも僕としては頑張った方なんですが(笑)、まだ一般的には 抽象的でぼんやりしている部類に入ると思うので、ここからさらに 具体化していきます。   1.人や物事の良し悪しを判断できる ・何が自分に合ったダイエットなのかが分かり、無理なく挫折なく 楽しく痩せられる ・自分の体に合った食品が分かり、無駄に高い健康食品 (ココナッツオイルなど)を買わなくて済む ・どの学習法が自分に向いているかが分かることで 学習効率が上がり、他人と同じ時間で何倍もの結果が得られる ・学習したことを適切にアウトプットできれば他者から感謝され、 ビジネスに繋げることができる ・おまけに学習効率は教養が高まれば高まるほど上がっていく ・どの医者が優秀なのかを見分けられることで、 無駄な治療費と通院時間を減らせると同時に、優秀な医者を 紹介することで周りから感謝される ・企業の良し悪しが分かることで、ブラック企業や 未来のない企業を選ばずに済む ・自分の判断を信じられるので、周りの批判や視線、常識などが 気にならなくなる ・自分の判断と他者の判断は違って当たり前だということが 理解できるので、自分と違う価値観や意見に対して寛容になれる ・これによって人間関係も改善される ・人の良し悪しが判断できることで、付き合うべき人、 つまり自分を高めてくれる仲間や自分を幸せにしてくれる恋人を 選べるようになる ・総じてストレスが減り、毎日が成長に繋がり、自分らしさも 浮き彫りになってくる   2.高い確率で未来が予測できる ・今何をやっておけば将来優位に立てるかが分かる ・自分の子供をどの学校に入れれば将来が明るいかが分かる ・どの会社、どの業界に就職すれば比較的将来が安泰かが分かる ・どの国に行けば楽しく生きられるのかが分かる ・どの人についていけば間違いないのかが分かる ・総じて今すべき努力、何をすれば将来報われるのかが分かる   3.周りから一目置かれる意見が言える ・尻込みせずに堂々と外国人と会話ができる ・人間力の高い魅力的な人を引き寄せられる ・人を感動させたりドキッとさせる発言ができる ・自分を必要としてくれる仲間が集まる ・仲間が集まることで自分は自然とリーダーになる ・実力のある人からブレインとして雇われる ・後輩、部下、子供、恋人、パートナーから尊敬される ・会社から重宝され「やめないでくれ」と言われる ・総じて生きている実感、充実感、存在意義が感じられる   4.質の高いコンテンツを生み出せる ・他の人には絶対に真似できないブログ、メルマガ、動画、音声、 セミナー、商品などが作れる ・何気ない会話でも「凄く勉強になりました!」と言って 喜んでもらうことができる   以上の4つ 1.人や物事の良し悪しを判断できる 2.高い確率で未来を予測できる 3.周りから一目置かれる意見が言える 4.質の高いコンテンツを生み出せる が教養を身につける主なベネフィットです。 多分まだまだ細かく出そうと思えば無限に出てくると思うんですが、 改めて書き出してみて、驚くほどのベネフィットだな、と個人的に 感じております(笑) これを読んだだけでも、教養を身につけないなんてあり得ない、 って感じですよね。 もちろんこれらには「度合い」があって、単純に教養があれば これら全部が手に入って、無ければ手に入らない、 みたいなものではないですが、身につければ身につけるほど、 今挙げたものが手に入りやすくなっていくのは間違いありません。 こんなにベネフィットがあるのに今まで気付かなかったというのは、 本当にもったいないことをしていたなー、と思います。 例えば先日の『What's Real』というのは、この全部を 手に入れられるようになりましょう、というある意味で 超欲張りな企画なワケです。 にもかかわらず、僕がそのことを自覚していなかったばかりに、 「現実を見られるようになりましょう」みたいな極端に 抽象的なことしか言えなかった。 それでも申し込んでくれた人はいましたが、そういう人たちは 本当に変人中の変人であって、普通の人は多分上記ぐらい 具体的なことを言わないとピンとこないんですよね。 そんなの当たり前じゃん、って思う人が大多数だと思いますが、 僕にとっては当たり前じゃなかったんです。 だって僕は「存在と時間」みたいなタイトルにヨダレを垂らして しまうような人間ですから(苦笑) むしろ上記のような言葉が並んでいるのを見たら、それだけで 「しょーもない」という判断をして避けるぐらいです。 自分がいかに一般的な感覚から乖離した人間であるかが、 これでよーく分かりました。   そう言えば占い師さんにも言われたんですよね。 「みんなはあなたみたいにはなれないんですよ」って。 加えてこういうことも言われました。 「他者とは分かり合えないけど、手をつなぐことはできる」 これですよ、これ。 当初はこの意味がイマイチ飲み込めていなかったですが、 今はよく分かります。 手をつなぐためには、僕は階段を下りなければならないし、 あなたには階段を上がってもらわないといけません。 僕が上の階からロープをたらしても、ロープで上に上がれる つわものなんて、限られているワケです。 これまでの僕はまさしくこの「ロープをたらす」タイプのことを たくさんやっていたワケですが、それではあまりにも 脱落する人が多いし、何より、助けられるはずの人を見殺しに してしまうことになります。 そのことにやっと、今更、気付いたということです(苦笑)   これを踏まえて、来年はもっと階段を下りようと思います。 これは決してレベルを下げるということではありません。 単に抽象度が下がるだけです。 先日のハイエクとケインズの記事のように、重要なエッセンスは 残しつつ、もっと遊びの部分というか、楽しめる部分を加えて いけたらなー、と。 そんな感じで考えています。 全部が全部、あんなラノベ調にするつもりはないですけど、 やっぱ楽しまなきゃね。 来年はどんな展開になるかなー。 今から楽しみです。 ではでは、一応これを今年最後のメルマガということにして おきます。 来年もまた頑張ってまいりましょう。 それではよいお年を!   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
なぜ縛りプレイは正義なのか
  将棋の世界には、電王戦と呼ばれるコンピュータソフトVS棋士の 対決があります。 その第5回目の試合が4月に行われました。 ネットの記事によると、その試合では棋士が「ハメ手」と呼ばれる 戦法を使って3勝2敗でコンピュータに勝ち越したとのこと。 ハメ手とは、コンピュータのバグを突く戦法のことで、純粋に将棋を 指すのではなく、コンピュータがミスをする(非合理な手を指す)のを 誘う戦法のことです。 この戦法は「将棋で勝つ」というよりも「プログラムで勝つ (勝てれば何でもいい)」というある意味で非常に冷徹な合理性が 支えています。 実際、こういう勝ち方をしたことに一部のファンから批判が寄せられた、 ということも記事には書かれているワケですが、棋士は単に合理的に、 つまり最も勝つ確率の高い手を考えて将棋を指したにすぎません。 棋士とコンピュータの目的は同じ「勝つこと」ですから、その目的を 達成すべく努力したという点では棋士は何も間違っていないワケです。 にもかかわらず一部から批判が出たのは、それでは面白くない (将棋を指したというよりもプログラムを学んだだけではないか)、 という気持ちが彼らの中に湧いてきたからでしょう。 例えばサッカーで(まともにサッカーをやらずに)オフサイドトラップ ばかり仕掛けるチームが勝ったとしたら、あなたはどう思うでしょう? 同じく(まともに野球をやらずに)牽制を何度も繰り返してランナーを バテさせることで毎回勝利している野球チームがあったら? どちらもルールは破っていませんから、合理的には何も間違っては いません。 でもやっぱり見てて不快だと思うんですよ、そういうのって。 もしすべてのチームや人がそういう戦法を取り始めたら、 野球もサッカーも将棋もまったく面白くなくなることは 想像に難くありません。 では、なぜ合理的(過ぎる)な戦法は面白さを失わせるのでしょうか?   ゲームには主に3種類のルールがあります。 1つ目はわれわれのよく知っている「これをやったらダメ」という 禁止ルールです。 手を使っちゃダメとか、二歩はダメとか、そういうヤツが 禁止ルールに属します。 日常生活でも、タバコを吸っちゃダメとか、走っちゃダメとか、 人の物を盗んじゃダメとか、いろいろありますよね。 2つ目は「これができます」という可能ルール(便宜上 そう表現しておきます)があります。 サッカーなら「足でならボールを触っても問題ないですよ」という ルールがあるし、将棋で言えば「このコマはこの範囲でなら 動かせますよ」などのルールがそうです。 もちろん日常生活の中にも「この速度の範囲内でならいくらでも スピードを出せますよ」みたいなものがいくつもあります。 そして3つ目は「これをすべきである」という(暗黙の) 規範ルールです。 選手宣誓で語られることは、この規範ルールに属します。 われわれはスポーツマンシップに則り、正々堂々と・・・みたいな。 日常生活で言うなら「お年寄りには席を譲るべきだ」とか 「思いやりを持つべきだ」という信念が典型的ですね。 まとめると 1.禁止ルール 2.可能ルール 3.規範ルール の3つのルールがゲームにはあるワケですが、言うまでもなく、 面白くないゲームというのは3つ目の規範ルールを破っています。 規範ルールは他の2つとは違って自ら定めた「自分ルール」なので、 それを破ったからといって他者や外的な機関からペナルティーを 課されることはありません。 どれだけピッチャーが牽制球を投げたとしても、禁止ルールと 可能ルールを守っている以上、審判にはそれをやめさせることが できないワケです。 とはいえ現実には、ゲームで規範ルールを破る人はまずいません。 電王戦で勝利した棋士も、人間と対決するときは規範ルールを 守っているはずだし、電王戦はやむを得ずハメ手を使っただけだと 思います。 なぜなら規範ルールを破ることは、ファンの期待は当然として、 自分自身をも裏切ることになるからです。 ゲームを行う人(特にプロ意識の高い人)は、 言葉にするまでもなく「正々堂々と戦うべきだ」という信念を 持っています。 この場合の「正々堂々」とは、万人が(暗黙に)共有している 規範ルールを守るという意味です。 これを破ったときにわれわれは「卑怯者」と呼ばれるワケですが、 卑怯者と呼ばれ、なおかつ自分でもそれを自覚していて平気で 居られる人はそれほど多くはいません。 真剣にゲームに打ち込んでいる人ほど「(合理的ではあっても) 卑怯な手を使うべきではない」というメタ的な規範ルールを 守る傾向にあるため、それによってゲームの面白さは保たれる ワケです。   テレビゲームの世界には「縛りプレイ」と呼ばれるものがあります。 縛りプレイとは、自分で自分に新たな(規範?)ルールを課すことで、 普通にプレイすれば簡単にクリアできてしまうゲームを敢えて自分で 難しくしてプレイするスタイルのことです。 例えばお金を一切使わないとか、武器を一切装備しないとか、 特定のキャラしか使わないとか、個人的に一番笑った、 足だけで『マリオブラザーズ』をクリアする、みたいなヤツも あります(笑) めちゃくちゃ下らない動画なんだけれども、これがまた異様に 面白いんですよね、不思議なもんで。 で、なんで面白いのかなぁ?と考えてみた結果、あることが 分かりました。 それは「必死さ」です。 われわれが面白いと感じるもののほとんどには規範ルールがあり、 その規範ルールは必死さを生み出します。 プロ野球よりも高校野球が面白いのは、まさにこの必死さにあると 言っていいでしょう。 合理的な戦法を使えば試合には勝てるかもしれませんが、 その戦法は最初から結果が見えてしまっているため、 必死さが失われます。 コンピュータのバグを突くことができれば勝てるということが 事前に分かっていれば、バグを見つけた時点で試合の結果は 出ているワケです。 そういう予定調和的なゲームは必死さを生みません。 ただ淡々と決まったことをやるだけ。 そりゃつまらなくなるのは当然でしょう。 しかし縛りプレイは違います(笑) ゲームをクリアするという目的に対しては恐ろしく非合理的でも、 ゲームを楽しむ(楽しませる)という目的に対しては、 ときに異様なまでの必死さを生み出すという点で合理的なワケです。 つまり規範ルールを守ることは、われわれが自分で必死さを 生み出すための工夫であり、ゲームを楽しむための、すなわち 本気を出すための(おそらく唯一の)方法なのです。   ところで、あなたは普段自分で自分にどれだけの規範ルールを 課しているでしょうか? どれだけ「自分は(脱凡人たる者は)こうあるべきだ」という 信念を持っていて、それを守っているでしょうか? その数が多ければ多いほど、それが厳しければ厳しいほど、 われわれの人生はどんどん縛りプレイ化していきます。 それによって生きる必死さ、面白さ、楽しさがアップすることは、 人生もゲームも同じです。 「新しいことにチャレンジし続けるべきだ」という規範ルールを 守っている人は、いくつになってもワクワクドキドキを失わない だろうし、「妻を幸せにすべきだ」という規範ルールを 守っている夫は、いつでも妻のことを真剣に考え、彼女を幸せに するために必死になるでしょう。 それがゲームを、人生を、そしてその人自身を魅力的にするのです。   どうして規範ルールは人間的魅力を生むのか。 そもそも人間的魅力とは何なのか。 その答えは自分で考えてみてください。 「答えは自分で考えるべきだ」というのも、脱凡人たるわれわれが 守るべき規範ルールの1つです。 こんなところで甘えちゃダメですよ(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
Page 4 of 12:« First« 1 2 3 4 5 6 7 »Last »
bottom-img

Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1