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思考にかかる霧 ~あなたが文章を読めない本当の理由~
  ここ最近、ずっと気になっていることがあります。 決断と判断の違いです。 この両者は明らかに別の意味なんだけれども、何がどう違うのかを 厳密に説明しようとすると、これがなかなか難しい。 例えば「善悪を判断する」とは言いますが、「善悪を決断する」 というのはあまり聞いたことがありません。 「進路を判断する」と「進路を決断する」はどちらも使われている ような気がします。 「購入を判断する」という言い方には少し違和感がありますが、 「購入を決断する」はよく聞きます。 こう見ていくと、われわれはこの2つをなんとなく使い分けている ということが分かるワケですが、その「なんとなく」が今の僕には 気持ち悪いんですね。 なんとなく言葉を使い分けているということは、自分の使っている 言葉をなんとなくしか理解していないということですから。 それでもなんとなく使えてしまうのは凄いことだと思いますが、 それはまた別の話。   僕の考えでは今のところ、決断と判断の違いは 決断:判断に伴う決定 判断:判断基準に照らし合わせた振り分け というところに落ち着いています。 これは広辞苑に載っている意味ではなく、僕が自分で考えて導いた 意味です。 あくまで僕が考えただけですから、これが絶対に正しいワケでは ありません。 ただ今の僕にはこれ以上の意味が思いつかない、ということです。 この定義に従うならば、決断と判断の違いは「決定するか否か」の 違いということになります。 決断は決定するけど、判断は決定していない(振り分けているだけ)。 すると今度は「決定ってなんだ?」という疑問が湧いてきます。 決定とは、要するに決めるということですが、「決める」の意味を 説明しろと言われると、これまた難しいワケです。 これも僕なりに考えた意味はあります。 ただ全部を言ってしまっては面白くないので、ここから先は自分で 考えて、どつぼにハマってください(笑)   ここまでの話で分かってほしいのは、われわれは日常的に使っている 「決める」の意味すら、ろくに説明できないということです。 それは言い換えれば、自分が「決める」という言葉を使って何を 言っているのかを曖昧にしか理解していない、ということを 意味します。 これは思考についても同じで、言葉の意味を理解していないの ですから、その言葉を使って考える思考も、実際には何を思考して いるのか本人にもほとんど分かっていないのです。 こう考えると、われわれの思考には非常に濃い霧がかかっている ということが分かってきます。 例えばあなたは体験と経験の違いを説明できるでしょうか? 「貴重な体験をした」 「貴重な経験をした」 この両者の意味はまったく違うのですが、ほとんどの人は この違いを説明できないと思います。 というよりも、使い分ける意味をあまり感じていない。 実際、このことを説明できなくても日常生活にはなんら影響は ありません。 「あれは貴重な体験だったよ」と話しても、「あれは貴重な経験 だったよ」と話しても、大抵の人は同じ意味に捉えるし、 日常会話にそこまで厳密な物言いは求められていないからです。 しかし、この習慣がわれわれの思考に霧をかけているのです。   当たり前の話ですが、体験と経験の違いが分からない人は、 体験と経験を使い分けることができません。 貴重な「体験」だったのか、それとも貴重な「経験」だったのか、 本人にはどっちか分からない。 つまり何が貴重だったのかもよく分からない。 これが「思考に霧がかかる」ということです。 普通、多くの人はこんなことはまったく気にしません。 むしろ、なんとなく分かれば十分でしょ、という感じだと思います。 確かに凡人として生きたいたいならそれでいいのですが、われわれは そんなレベルで立ち止まっていてはいけないワケです。   この霧を払いのけるには、自分の使っている言葉や相手の使っている 言葉の意味を1つ1つ丁寧に理解する必要があります。 自分は「判断」という言葉で何を表現しているのか。 彼は「体験」という言葉で何を表現しているのか。 こういうことをいちいち考えるということです。 これをやらなければ思考のレベルは絶対に上がりません。 思考とはつねに言葉を使った思考なのですから、その言葉をちゃんと 使いこなせなければ、まともな思考なんてできないのです。 この訓練を重ねると、哲学書や学術書で使われている道徳的判断や 存在論的解釈といった言葉遣いの意味が実感として分かってきます。 それらは読者に誤解されないために、解釈の余地を狭めるために、 そしてできるだけ厳密に本人の意図したメッセージを伝えるために、 そういう言葉遣いになってしまうのです。 あれは彼らなりの誠実さですから、文章が難解だからと言って 彼らを責めないであげてくださいね(笑) 逆に、ビジネス書や新聞は読みやすいと感じるかもしれませんが、 それは言い換えれば、それだけ誤解を招きうる書き方になっている ということです。 ついでに言っておくと、どのように誤解させるかは、書き手側で 操作することができます。 例えば喫煙と肺がん患者のデータなんてのは典型的ですよね。 「タバコを吸う人の80%は肺がんを患っています」と言われると、 なんだか禁煙しなければならない雰囲気になってしまうワケですが、 このデータは 「タバコを吸うと80%の確率で肺がんになります」 とは言っていません。 前者はタバコと肺がんの因果関係には何も触れていないのに対し、 後者はタバコが(直接)肺がんに影響していると言っています。 前者と後者ではまったく意味が違うワケです。 にもかかわらず、前者を聞いただけで多くの人は後者的な解釈を 「自動的に」してしまう。 こういう印象操作によって、彼らは知らず知らずのうちにニセの 真実を刷り込まれているのです。   思考にかかる霧は、われわれの進むべき道を曖昧にします。 それは目を瞑って歩くようなもので、自分の中では右に重心を 置いて右に進んでいるつもりだったのに、右を意識し過ぎて 体が反転し、実際に進んでいたのは左だった、ということに なっているのです。 試しに目を瞑ったまま、その場で真っすぐ100回足踏みを してみてください。 自分で動いているつもりはなくても、結果的に思いもしなかった 方向を向いていますから。 そういうことが思考でも往々にして起こりうるということです。 目を開いていても、霧で先が見えなければ、気付いたときには 崖に落ちているかもしれません。 崖に落ちる前に霧を払っておけば何事もなく済んだものを、 それを面倒臭がってサボるから事故に遭うのです。   われわれがまずやるべきは、この霧を払いのけることです。 これさえやってしまえば、後は目の前の道を進むだけですから 恐怖や危険はありません。 どれだけ周りの人間が先に進んでいっても、気にせずに自分の やるべきことをやりましょう。 進むべき道さえ明確に見えてくれば、後からいくらでも走って 追い抜くことができるのですから。 あなたはあなたのペースを守ればいいのです。 焦る必要はありません。 重要なのは順位や結果ではなく、 いつまで走り続けていられるか だということを忘れないでください。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
国立西洋美術館「ラファエロ展」にて ~芸術が死ぬとき~
ども、ペスです。 平日の、しかも雨の日に行ったにもかかわらず、ラファエロ展は人で溢れていました。 春休み終了間近だったこともあり、家族連れや若いカップルなども多く、予想以上の盛況ぶり。 運営者側からすれば、大いに喜ばしいことだと思います。 しかし同時に、僕はこのことに絶望したということを告白しなければなりません。 偉大な芸術は自らの役目を果たし、すでに死を遂げていたのです。   彼の作品は確かによく出来ていました。 あの時代の材料であそこまで精緻な作品を作ったということ、そのこと自体は今でも評価されるべきだと思います。 けれども、それはあくまで作品だけを対象として評価した場合の話です。 以前どこかで話したように、芸術とは見る人と作品の関係によって生まれます。 見る側と見られる側、双方の正常な関係が芸術を芸術たらしめているのです。 この関係が失われたときに、芸術は死にます。   芸術における正常な関係は、鑑賞者が偉大な芸術と対等に渡り合おうと努力するときにのみ生まれます。 クラシック音楽の演奏会に、クラシックを理解しようとしない、いや、クラシックを聴くに相応しい人間であろうとしない人間が大勢やってきたとしたら、その演奏会は大きく価値を損なうことでしょう。 それに伴い、そういった演奏会に行くことに「憧れる」人間も減っていくはずです。 なぜなら、それを評価する人間の質が、その芸術の価値を決めているからです。   多くの人がラファエロを見に行くのは、ラファエロを評価する人間が、一定以上の権威を持っているからに過ぎません。 各国の文化人が一目置くようなラファエロだからこそ、ラファエロの作品は(大衆にとって)価値があるのです。 もし僕が売れっ子の芸能人で、芸能界でも大きな影響力を持つ存在だったならば、僕が評価する作品は大衆にとって一定以上の価値を持つことになります。 キムタクが月9のドラマでかけていたサングラスがほしい、みたいな感覚と同じです。 ですから、そのサングラスを何の影響力もない、それどころか怠惰で傲慢で自己中な凡人が大勢かけていたら、そのサングラスの価値はなくなります。 それと同じ理屈で、怠惰で傲慢で自己中な凡人ばかりが見に来るラファエロの作品には、もはや何の魅力もないということです。   高級フレンチの店に、スウェットやジャージ姿の喋り声がうるさくて態度のでかい人間ばかりが来店していたとして、あなたはそんな店に好き好んで行きたいと思いますか? 仮にそこの料理がどれだけ美味しかったとしても、誰もそんなところには行きたいと思わないと思うのです。 僕にとってのラファエロ展は、そんな感じでした。 ラファエロの絵がどれだけ素晴らしくても、それを見に来る人間の質があまりに悪く、作品そのものの品質まで下がってしまっている。 僕もその中の一人なのかもしれませんが、それを考慮したとしても、そういう質の悪い僕ですら、嫌悪してしまうほどの雰囲気だったワケです。 あれでは彼の作品は死んだも同然だと思います。 料理の味を壊すのは、いつだって周りの雰囲気であり、そのときの気分なのです。   誤解のないように言っておきますが、美術館の中が実際にがやがやと話し声でうるさかったワケではありません。 展覧会の会場ではみんな静かに見ていたし、走り回る子供もいませんでした。 ただそれでも、雰囲気が、空気が、悪いのです。 分かるでしょうか、この感覚。 比較的マイナーな展覧会に行き慣れている僕にとって、この雰囲気の悪さはどうにも耐えがたく、展覧会の質そのものをも下げてしまうのです。   この体験から、僕は当初見に行こうと思っていた京都市立美術館のゴッホ展に行くのを取り止めました。 またしばらくは、よほど気になるものでない限り、美術館に行くこと自体を自粛しようと思っています。 それは美術に魅力を感じなくなったということではなく、もっとそれに相応しい人間になることを優先しようと思ったからです。 「他人のふり見て我がふり直せ」ではありませんが、今回の件で少なからず自分も芸術の寿命を縮めるような人間だったのではないかと自覚するにいたりました。 そして何より、今の自分のレベルで理解できるものの限界が見えました。 そんなワケで、しばらくは自分を磨き上げることに専念したいと思います。   なんだかブログ自体が終わってしまいそうな雰囲気ですが、ブログはやめませんから 安心してください(笑) ただ今後は美術への接し方云々ではなく、いかに美術の、芸術の権威を高められる人間になるか、ということが記事のテーマになってくると思います。 つまり、広い意味で「人間学」的な記事になるということです。 それはすなわち哲学を意味します。 僕にとってはどの記事も哲学だったのですが、前面に出ていたのが美術だったので あまりそういう風に感じていなかった人も多いようですね。 まあともかく。 これからも楽しく色々学んでいきましょう(笑)   ...more»
東京国立近代美術館「フランシス・ベーコン展」にて
ども、ペスです。 行ってきました、ベーコン展。 フランシス・ベーコンと言えば、僕は今まで哲学者の方しか知らなかったんですが、何やらこの彼はその同姓同名の哲学者の血を引いているとか何とか。 誕生日が僕と一緒だったり、ちょうど僕がハイデガー(実存主義)を勉強しているタイミングで彼の展覧会が行われていたり、なんだか彼とは運命を感じます(笑) 気持ち悪いとか言わないでね。   彼の作品は「上手い」や「キレイ」という次元を超越しています。 それは「実存的」としか言い表しようがなく、他に彼の作品を形容する適切な言葉が 見当たりません。 偉大な芸術は、人間の置かれている状況がいかに脆いかを思い出させてくれる という彼の言葉どおり、そこに表現されているのはイマココという状況の脆さや移ろいやすさです。 誰もが当たり前のこととして認識しているイマココの状況は、実は非常に脆いもので、次の瞬間にはもう消えて無くなっている。 「その奇跡をもっと感じろよ」と言ったのはハイデガーですが、ベーコンの作品からもそれと同じような印象を受けます。   彼はある動画の中で 下書きをしたあとは、チャンスが来るのを待っている そのチャンスが来ると、意識することなしに作品が完成する というようなことを言っていたのですが、彼はその「直観」によって現実(イマココ)を 切り取ることに成功した稀有な画家と言えるでしょう。 直観とは、理性の先にある閃きのようなものです。 感覚としては、以前話した帰納的飛躍という言葉に近いと思います。 考えて考えて考え抜いた末に出てくる、突拍子もない何か。 今風に言えばイノベーションということになるでしょうか。 その閃きを閃きのままに描写すると、あんな感じになるんだと思います。   このことから分かるのは、偉大な芸術家は偉大な哲学者である、つまり理性的に考えを突き詰めた上で作品を作っている、ということです。 多くの画家が「言葉にできないから絵で表現するんだ」と言うとき、ほとんどの場合 それは単なる語彙力不足です。 彼らは自分のボキャブラリーの乏しさを言い訳にして、絵を描くことに逃げている。 理性を突きつめるどころか、理性を中途半端なまま放り出して、響きだけが美しい 感性という柱にしがみついて生きているのです。 しかしベーコンは違います。 彼はギリギリのところまで言葉での記述を追求し、その先にある言葉以上ものを絵として表現しようとしました。 「言葉で表現できないもの」のような漠然としたものではなく、「言葉を超えたもの」を 表現したのです。 それは彼の どうやったら理性的でないやり方で機能を作ることができるのだろう 見た目だけでイメージを作り直すのではなくて、私たち自身が把握しているあらゆる 感覚の領域を作り変えたいんだ という言葉からも明らかだと思います。 すなわち、芸術家と哲学者、芸術と哲学を分け隔てることは、芸術への裏切りであり、 哲学への反逆なのです。   哲学を理解できなければ芸術も理解できない。 ここまでの話で、なんとなくこういう理屈が見えてきたと思います。 もちろんこの「哲学を理解する」とは、ハイデガーやカントやヘーゲルの哲学を 知ることではありません。 そんなものは気になった人だけが知ればいいだけのことで、彼らの著書を読もうが 読むまいがどっちでも構いません。 そうではなく、ここで言う「哲学」とは、「哲学する」ということであり、 もっと分かりやすく言えば、自分が生きるとはどういうことかを探求し続ける 態度のことです。 そういう態度で生きていれば、芸術は自然とその意味を語りかけてくれます。 その意味はあなたにとっての意味でしかありませんが、それで十分なのです。 客観的な芸術とは、本質的にはもはや芸術ではないのですから。   哲学は本質的に反時代的である。 なぜなら、哲学は、いつも自分自身の時代のうちに直接の影響をけっして見出しえない、また、けっして見出してはならない、という運命をもつ、かの稀な事柄に属するからである。 直接の影響が起きているように見えるとき、哲学が流行になるときには、本当の哲学は 存在しないか、あるいは、哲学は誤解されて、なにか哲学とは異質の意図にしたがって、日常の要求のために悪用されているのである。 ハイデガーのこの言葉は、そっくりそのまま芸術に当てはめることできます。 つまり、芸術は本質的に反時代的である、ということです。 時代の価値観を超えている、流行に流されないという意味で、それは時代とは縁のないものなのです。 だから必然的に大衆からは支持されない。 ベーコン展は客層がかなり限られており、なおかつ、客数自体が少なかったという点で、まだまだ芸術としての役割を果たしていると言えます。 一方、ダ・ヴィンチやラファエロはもう芸術としては死んでいると言っていいでしょう。 あれらはもはや芸術のシンボルでしかなく、真の意味での芸術ではなくなって しまったのです。 この話は次回のラファエロ展についての記事で詳しく書こうと思います。   最後に一言。 この規模でのフランシス・ベーコン展は、今後2度と見られないかもしれません。 それぐらい手間暇のかかった貴重な展覧会です。 ラファエロ展よりこっちの方が断然見に行く価値があると思います。 上級者向きではありますが、この手の展覧会にはどういうお客さんが来るのかを 見ておくのも1つの勉強です。 もし少しでも気になっているなら、見ておいて下さいな。   ...more»
友達と仲間 ~成長し続ける者の運命~
  以前どこかで、僕には友達がほとんどいない、という話をしました。 具体的には、思いつく限りで3人。 これが今の僕が友達と呼ぶ人間の数です。 僕にとって彼らは大切な存在ではありますが、残念ながら僕には 彼らを助けることができません。 それはお金や知識の問題ではなく、僕と彼らの関係が友達だからです。   友達(親友を含む)関係というのは、一般に思われているほど 素晴らしい関係ではありません。 こんなことを言うと誰かに怒られてしまいそうですが、事実として そうなんだから仕方がない。 例えば学生時代に友達と何をしていたかを思い出してみてください。 ゲームを借りたり、一緒にカラオケや飲み会で気晴らしをしたり、 恋バナをしたり、仕事の愚痴を言い合ったり、同じ趣味を楽しんだり、 傷ついた心を慰め合ったり、理由もなく群れたり、そんなことを していたのではないでしょうか。 それらがすべて無駄だと言うつもりはありませんが、この例を見れば 友達という関係がどれだけ中身のない関係かは分かると思います。 もちろん僕も昔はどこにでもいるバカな学生でしたから、その頃は 中身のない関係だなんて微塵も思っていませんでした。 友達と遊ぶのは素直に楽しかったし、学生時代の思い出のほとんどは 彼らとの関わりの中で生まれたものです。 けれども、人間はある時期になると、明確に「成長を続ける人間」と 「成長をやめる人間」とに分かれます。 このことをわれわれは理解しなければなりません。   僕は決して「友達を捨てろ」と言っているワケでもなければ、 「友達なんてどうでもいい」と言っているワケでもありません。 友達を大切にしたければ、してもいいと思います。 僕が言っているのは、成長を続ける人間にとって、友達が減って いくことは必然である、ということです。 だって考えてみて下さい。 あなたの周りに、どれだけあなたと同じぐらい勉強熱心な友達が いますか? そんな友達は1人いたら良い方だと思うんです。 大抵の友達は、みんな凡人としてダラダラ生活していると思います。 その状態のまま1年や2年もすれば、そういう怠惰な友達と必死に 勉強しているあなたの価値観や常識が合わなくなるのは当然です。 価値観や常識が合わなければ、まともな会話はできないし、 段々とこちらの話は友達に通じなくなっていきます。 あなたがレベルを下げて無理やり話を合わせることは可能ですが、 そこまでして友達という関係を維持することに、何の意味があるの でしょうか? 片方が気を使わなければ保てないような関係は、もはや友達とは 呼べないのではないでしょうか? こうして成長を続ける人間の友達は、必然的に消えていくのです。 冒頭に挙げた僕の3人の友達も、近いうちに僕の周りから消えて いくと思います。 すでにその気配はかなり感じていますし、これはこれで仕方のない ことです。 まったく寂しくないと言えばウソになりますが、そんな理由で僕が 成長をやめるワケにはいきません。 僕にできるのは、彼らが成長する人間に変わり、別の出会い方で また友達になれるのを祈ることだけです。   友達という関係は、われわれが乗り越えるべき「過程」です。 その意味ではこの関係が重要であることには違いないのですが、 そこで歩みを止めてしまうと、それはただの慣れ合いになります。 実際、僕が学生の頃は完全に慣れ合っていました。 今考えてみれば、いつも同じメンバーで飯を食いに行き、 いつも同じメンバーでカラオケに行き、いつも同じメンバーで いつも同じような話ばかりしていたと思います。 誰も新しいメンバーを増やそうとはしなかったし、そのメンバーで 新しいことをやろうなんてことも考えなかった。 そういう変化を拒む凝り固まった関係が続けば、そのグループは 退化していき、いずれみんな仲良く淘汰されることになります。 それが自然の摂理なのです。 友達を経ることは重要ですが、友達をだらだらと続けることは、 お互いにとって害にしかなりません。 そうならないためには、多少無理やりにでもわれわれは次の ステップへ足を進めなければならないのです。   次のステップとは「仲間」という関係です。 仲間というのは「理想を共有し、理想に向かって共に歩む友達」と 解釈してもらえれば、そう遠くはありません。 要は、成長を続ける人間同士の友達関係、ということです。 友達と仲間の違いは、大きく分けて2つあります。 1つは、友達が共に堕落する関係だったのに対して、仲間は共に 成長する関係であるという点です。 お互いに叱咤激励し合いながら、理想の達成に向かって進み続ける。 それがまず1つ特徴として挙げられます。 そしてもう1つは、仲間には、仲間全員を先導していくリーダーが 存在するということです。 自分たちはどこへ向かうべきか。 自分たちは今何をするべきか。 そういったことを的確に判断し、仲間全員をまとめて引っ張っていく リーダーを中心として仲間は集まります。 つまり、 1.成長し続ける人間であること 2.周りからリーダーとして認知されること の2つを満たして仲間という関係を構築していくことが、われわれの 当面の目標だということです。   このメルマガを読んでいる時点で、1については恐らく問題ない でしょう。 成長する気がなければ、こんなメルマガは読んでいないはず ですから、その辺は何の心配もいりません。 しかし、難しいのは2の方です。 この「周りからリーダーとして認知されること」という条件を 満たすには、1とは別の能力が必要になります。 1は自分の能力を鍛えるだけでよかったのですが、2では1で 身につけた能力を他者にいかにして伝えるかが問われるワケです。 例えば僕のメルマガでは、これまでいろんな話題を取り上げて きました。 人権、寄付、少子高齢化、ヘレニズム時代、国債、シリア内戦、 スーダン内戦、労働、禅、スピリチュアル、グローバル化、 量子力学、行動経済学、TPP、社会主義、アベノミクス・・・。 パッと思いつくだけで、これぐらいの幅で記事を書いてきた ワケですが、僕はいつも同じことしか言っていません。 僕は自分の言いたいことを、これらのテーマを「通して」伝えて きただけです。 僕がいつも言っているのは「哲学しろ」ということなのですが、 これをそのまま言ったところで、普通は伝わりません。 実際、僕のメルマガに「哲学しろ」としか書かれてなかったら 意味不明だし、読みたいとも思いませんよね? その「哲学しろ」を僕が手を変え品を変え、あらゆる角度から 表現しているからこそ、僕が言いたいことがあなたに伝わる ワケです。 この 「手を変え品を変え、あらゆる角度から表現する能力」 が2の条件を満たすのに必要とされる能力です。 これができなければ、相手には何も伝わらないと思ってもらって いいと思います。 そして、多くの人はこれが出来ないから、自分の専門知識を 世界に活かすことができないのです。   じゃあどうすればその能力を鍛えることができるのか。 それは一言では説明し切れないのですが、やることは主に2つしか ありません。   1.自分の専門外の知識を身につけること 2.自分の専門の知識と専門外の知識に共通項を見出すこと   これを訓練することです。 1の説明は不要だと思います。 とにかくいろんな知識を身につければいいだけの話です。 2の方は、本質を見つける、という感じでしょうか。 どんな分野にも、その内容を掘り下げていけば、必ず共通する 部分があります。 例えば僕は今、演劇や演出に関する本を読んでいるのですが、 そこに書かれていることは、すべて哲学するということです。 「生活の中で見える特徴に、どんな時も気づいて下さい。 大袈裟に認識する必要はありません。ただ気づくだけでいいのです。 歴史に気づきなさい。歴史の流れの中に自分が存在するのだと 意識しなさい。」 とか 「世界はあなたの目の前にある。それを、取り入れなさい。 これまで見たことのないようなものを見て下さい。そしてそれを 世界に投げ返しなさい。」 なんていうのは、まさしく僕がいつも話していることを別の角度から 言ってくれています。 これを読んで「ペスのメルマガと同じだ!」と思えるようになれば、 それは本質が見えていると思ってもらって間違いありません。 いきなり本質を探すのは難しいでしょうから、最初は表面的でも いいので、それぞれに共通する部分を見つけてください。 こういう毎日の小さな積み重ねが、大きな力に繋がるのです。   この「手を変え品を変え、あらゆる角度から表現する能力」も実は 前回の追伸に書いた「前提を見抜く力」や「情報を組み合わせる力」を 別の角度から表現したものになります。 つまり「前提を見抜く力」や「情報を組み合わせる力」を身に つけたければ、今言ったことを訓練すればいいということです。 新しい企画をやる前にこんなことを教えちゃって大丈夫なのかと 思うかもしれませんが、心配はいりません。 こんなのでネタが切れるようなら、とっくにメルマガなんて書けなく なってますから。 というか、前回言いましたよね。 参加しなくてもいいから、とにかく自分を鍛えろ、って。 そのために僕はこういうことを話してるんです。 そりゃもちろん参加できるなら参加してほしいとは思ってますが、 みんなそれぞれ事情があるんだから仕方がないじゃないですか。 だったら、その事情を自分で解決できるようになってもらって、 次の機会に気持ち良く参加してもらうことの方が僕は大事だと 思うんです。 どうせ参加するなら、無理せず楽しく学んで欲しいしね。   なんだかよく分からない話になってしまいましたが、とにかく、 今回話した 1.成長し続ける人間であること 2.周りからリーダーとして認知されること  (1)自分の専門外の知識を身につけること  (2)自分の専門の知識と専門外の知識に共通項を見出すこと を自分なりに実践していってください。 そうすれば、あなたの周りには向上心バリバリの素晴らしい仲間が 集まってきて、毎日がハッピーで将来の心配なんてする必要のない 環境が出来上がりますから(笑) その道は険しいですが、自分のためにも、自分を必要とする人の ためにも、がんばりましょう。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
素晴らしさの可能性
ども、ペスです。 僕は美術を「実存的に」鑑賞するためには、ある4つの問いを持っておくことが 不可欠だと考えています。 このことを意識しているのは極少数の人だけだと思いますが、この4つのうち 2つについては無意識的ではあれ、誰もが念頭に置いて作品を見ているはずです。 その2つというのは 1.何を見るのか 2.どう見るのか という問いです。 われわれが特定の展覧会を「選ぶ」のは、1の「何を見るのか」という問いが自分の 中にあるからです。 これは無意識的な問いですから、誰も自覚していないと思いますし、もちろん僕も 問うていること自体は自覚していません。 ただ、この問いがなければ「選ぶ」という行為が生まれ得ない以上、われわれの中に こういう前提的な問いがあることは間違いありません。 厳密に言えば、われわれが特定の展覧会を見たいと思うのは「何を見るのか」という 問いと「それを見るか(見たいか)否か」という問いの末に導かれる結論です。 美術の展覧会に興味のない人は「何を見るのか」という問いを持ち合わせておらず、 それ故に彼らには展覧会に足を運ぶということが有り得ないのです。   2の「どう見るのか」は展覧会を見ているときにわれわれが持っている問いです。 みんな自分なりの見方で作品を見ていると思いますが、その「自分なりの見方で見る」 という答えは「どう見るか」という問いから導かれたものです。 これも当然自覚はないと思います。 自覚していたら誰だって美術の正しい見方を心得ているでしょうからね。 多くの人が作品を見て「上手い」や「キレイ」という感想しか持てないのは、 この問いに対する答えがそれだけ単調で乏しいということなのです。   冒頭で言ったように、ここまでは誰もが持っている問いです。 あと2つの問いについてはこれから説明しますが、ここで分かっておいてほしいのは、 それを持っているという事実が重要なのではなく、持っていることを自覚しておくことが 重要だということです。 この問いを自覚することによって、われわれは自分の判断の危うさ、自分の大衆性 (凡人性)を知ることができます。 例えば「何を見るのか」という問いは、多くの人にとって「どれを見るのか」という 問いになっています。 展覧会や美術館の数が限られている以上、それはある意味では仕方のないことでも あるのですが、問題はそこではなく、彼らは勝手に自分でその選択肢をしぼっている ということです。 10個の展覧会があったとしら、その10個のうちから選ぶのではなく、大衆はそれを 「恣意的に」3つぐらいにしぼった上で選びます。 その3つというのは大体、有名だとか、車内広告で見たとか、そういう理由で しぼられていて、彼らはその中からしか答えを出そうとしないのです。 これは夢を諦める人間の思考とまったく同じです。 彼らはやってもいないことを勝手に出来ないと決めつけ、自分から人生の選択肢を しぼっています。 その夢が叶うかどうかはやってみなければ分からないのに、その展覧会が面白いか どうかは行ってみなければ分からないのに、勝手に「出来ない」「面白くない」と 決めつけるのです。 これによって彼らの可能性が著しく狭まっていることは、言うまでもありません。 しかし彼らはそれを自覚していないし、気付こうともしません。 権威主義的な(ミーハーな)展覧会に集まる人間とは、こういう人間なのです。   さて、寄り道はこれぐらいにして、話を前に進めましょう。 われわれが持つべき3つ目の問いは 3.なぜ見るのか です。 なぜ自分はその展覧会を見るのか。 なぜ自分はこの作品を見るのか。 これには明確な答えは必要なく、問うことそのものに意味があります。 というのは、ガダマーが言うように 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することにある からです。 可能性を開いたまま保持するということは、その展覧会と、またはその作品と、 常に関係を持ち続けるということです。 それは必ずしも意識的に関係を持ち続けなければならないという意味ではありません。 心に残る作品や展覧会とは、すべて、事ある度にわれわれに「なぜ見るのか」という 問いを生起させるものだからです。 つまり「なぜ見るのか」という問いは、自分から意識的に持つようなものではなく、 あちら側から投げかけてくるものなのです。 それを上手く受け取れるかどうかは、あなたの人間としての器にかかっています。 小さなグローブでは、真正面にきた素晴らしいストレートのボールでも取り損ねて しまうのです。   最後の4つ目の問いは 4.見るとはどういうことか です。 これが「見るとは何か」という問いでないことに注意してください。 「見るとはどういうことか」という問いは、われわれにとって見るということが 何を意味するのか、ということを問うているのです。 難しい話になりますが、見るとは、われわれの存在の仕方の1つです。 われわれが何かを見ているとき、それはわれわれが見るという仕方で存在していると 言い表すことができます。 つまりこの問いは、哲学的に言えば それを了解しつつ見るという認識を可能にしているア・プリオリな諸条件とは何か ということであり、簡単に言えば 自分のことをもっと探求してね ということです(笑) 自分を探求することについて詳しく話し出すと立派な論文ぐらいの量になってしまうので 今は割愛させてもらいますが、1つだけヒントを出すと 常日頃から自分を自覚しておくこと を意識するといいと思います。 認知科学的な言い方をすれば、メタ認知(メタ思考)能力を鍛える、という感じになる でしょうか。 このことが「見るとはどういうことか」にどう繋がるのかは、やれば分かります。 気になったら、やってみてくださいな。   長くなったので最後にまとめておきましょう。 われわれが美術を「実存的に」鑑賞するために持つべき問いとは   1.何を見るのか 2.どう見るのか 3.なぜ見るのか 4.見るとはどういうことなのか   の4つです。 これらがすべて揃ったとき、われわれの前に「素晴らしさ」が現れます。 これは逆に言った方が実感しやすいかもしれません。 われわれが素晴らしさを感じているときには、無意識的にこういう問いを自分の中で 投げかけているのです。 それらの問いの総合的な答えが素晴らしさであり、実存です。 今はこれを理解できなくても構いません。 ただ、頭の片隅には置いておいてください。 ちゃんと努力を続けていれば、そのうち意味は「実感」できますから。   追伸1:所感など。 僕が『脱凡人のすすめ』という奇怪なタイトルのメルマガを出しているのは既に ご存知かと思いますが、そこでテーマにしてる「凡人から脱する」ことが美術を 「正しく」鑑賞することや美術を理解することに繋がっているということに 気付いている人は極わずかしかいません。 当たり前の話ですが、凡人に美術は理解できません。 だってそういう人間のことを、われわれは「凡人」って呼ぶんだから。 哲学も分かろうとしない、芸術も分かろうとしない、難しいことは何も分かろうと しない。 それが凡人です。 これは凡人をバカにしているのではなく、凡人の定義を述べているに過ぎません。 そうやって怠惰に生きることを何とも思わない人間のことを、われわれは凡人と 呼んでいるということです。 ちなみに、無知であることと凡人であることとは関係ありません。 誰だって初めてのことに関しては無知なのですから、そんなのは仕方のないことです。 そうではなく、自分が無知であることを知りながら、それを克服しようとしない人間が 凡人だと言っているのです。 「美術が分からない」と自覚していながら、その分からない状態をそのまま 放置しておく人間ってどうなのよ、と。 あんたそれでも人間として恥ずかしくないのかよ、と そんなんでよく自分の子供に、勉強しろ、なんて言えるな、と。 僕が言いたいのは、そういうことです。   ここまで言えば僕が普段から抱いている気持ちは分かって頂けたと思います。 僕もバカの類ですから、バカをバカにするような自虐行為はしません。 ただ、自分がバカだってことを知ってるなら、そのバカという短所は克服しようぜ、と 言っているのです。 「脱凡人」とは、人間としてまともに生きよう、ということです。 凡人のように怠惰に生きるのではなく、そこから脱して、人間らしく向上心を持って 生きよう。 そういう思いを込めています。 それはメルマガに限った話ではありません。 このブログも、もう1つのブログも、いつも気持ちは同じです。 僕がプロフィールに「教養主義」と書いているのは、こういうところに由来しています。 僕の教養主義は、自分がバカだと自覚しているからこその教養主義だということを、 分かってもらえると嬉しいです。 ありがとうございました。   追伸2:哲学。 この記事にはハイデガーとコリングウッドの哲学を織り込みました。 美術に負けず劣らず、哲学も楽しいですよ。     ...more»
東京オペラシティー・アートギャラリー「自然の表現 わが山河 Part4」「阿部未奈子展」にて
ども、ペスです。 前に東京に行った際、東京オペラシティーのアートギャラリーにも足を運びました。 ここは新宿の大地主が建てた芸術の複合施設として有名ですね。 詳しい内情は知りませんが、ここの所蔵品は、やり手の画廊がセレクトしているらしく、 マイナーでありつつも優れた作品が数多く揃っています。 このときに見た企画展「新井淳一の布伝統と創生」の方は僕には評価できないのですが、少なくとも常設展が素晴らしいことは間違いありません。 中でも個人的に面白いと思ったのは、川村悦子という作家の『道』という風景画。 一見すると普通の風景画なのに、絵を見ながら横に歩いて見る角度を変えていくと、 それに合わせるかのように絵が動きます。 どう動くのかを言葉で表現するのは恐ろしく難しいのですが、無理やりその動きを 言葉にするならば 「うにょうにょ」 という感じです(笑) うにょうにょと風景全体が動きます(笑) 語れば語るほどドツボにはまっている気がしますが、残念ながら僕のボキャブラリーではこれが限界です(苦笑) もし興味があれば、自分の目で確かめてみて下さい。   それと同じく常設展の有元容子という作家の作品も素晴らしいです。 この方の作品にも、上記の作品とは違った意味で動きがあります。 川村氏の作品は「鑑賞者側の動き」を要求するものでしたが、有元氏の作品には 「作品そのものの動き」が閉じ込められています。 じっと見ていると、絵の中の風景がモヤモヤっと渦を巻くように動きはじめる。 さっきから擬音ばっかりで申し訳ないんですが、僕には文学的な才能が皆無なので、 どうかお許しください(笑) 彼女の作品は計3つ展示されていますが、そのすべてに同じような動きが見られます。 この辺の安定感は凄まじいとしか言い様がありません。 若い作家にありがちな「たまたま凄いの描けちゃいました」ではないというのが、 よく分かります。 そして何より、こういう素晴らしい作品を見つけてきて、ちゃんと美術館に買わせる 画廊の素晴らしさには敬服です。 彼女の作品は常設展を入ってすぐのところにありますので、こちらも是非見てみて くださいませ。   最後に若手作家の展示についても少し書いておきます。 ここでは阿部未奈子という作家の作品がいくつか展示されていましたが、彼女の作品は良くも悪くもまだ成長過程です。 失礼を承知で言いますが、今の彼女の作品に上手さを求めるのは正当だとしても、 素晴らしさを求めるのは時期尚早と言えるでしょう。 ただ、彼女の 「ルールを作って、それを続けるからこそ飛び出してくるものがある」 という考え方は間違いではないと思います。 重要なのは、そのルールをどこまで厳密に突き詰められるかです。 突き詰めて、突き詰めて、突き詰めて行った先に、そのルールからまったく逸脱した 稀有で魅力的なものが生まれてくる。 これを少し難しい言葉で「帰納的飛躍」と言うのですが、この飛躍が起こるように なってくれば、文字通り彼女も彼女の作品も飛躍することでしょう。 5年後10年後が楽しみですね。   記事は短めですが今回はこの辺で。 ではではー。   ...more»
これからの時代を生き抜くための物語
ども、ペスです。 昨日に引き続き、またまた変なPDFを作りました。 『平凡な非凡』という物語です。 PDFはこちらからダウンロードできます。 PDFが見れない方のために、このブログにも直接張っておきます。 ちょっと長いですが、気長に読んでくださいな。   【平凡な非凡】 これは、ある平凡な男性が、非凡になるまでの、小さな物語です。 僕は5年ほど前、システムエンジニアの仕事をしていた。当時僕が出向していたのは携帯電話を作っている大手メーカーの下請けの下請けの、そのまた下請けの会社。そこで僕は携帯ゲームのアプリを作っていた。そのときの僕の日常はハードなものだった。朝5時に起きて10分で朝食をとり、15分で準備を済ませて駆け足で駅へ向かう。5時半の電車に乗り、2時間半かけて都心の出向先に到着。そこから1時間ほど当日の仕事の流れを確認する。正式な勤務は朝9時からだったが、そんな時間はあってないようなものだ。友人からは何度も「都心に住めばもっと楽になるのに」と言われたが、僕は都心に住む気はなかった。あんなところは人間が住む場所じゃない。その考えだけは譲れなかった。 8時50分頃になると、出向会社の社員がぞろぞろと会社に集まり始める。みんな見た目はそれなりにちゃんとしているが、中味はポンコツばかりだ。彼らはこっちの大変さも知らないで「このフォントじゃ見にくいから、もうちょっと大きくできないの?」なんてことをサラッと言ってくる。一度でいいから自分でやってみろ。何度そう言いかけたか分からない。「プログラムを途中で変更することは大変手間のかかることなので、必要なことは最初に言っておいてください」と念を押しておいたのにもかかわらず、これなのだ。否が応でも彼らの無能さは伝わってくる。それだけならまだしも、親会社やメーカーからはもっとエグイ注文が頻繁に入る。今のアプリだって彼らの注文で何度最初から作り直したか分からない。出口のない迷路とはまさにこのことだ。そんな多忙な僕に昼休みなどあるはずもなく、その頃の僕はいつもコンビニのおにぎりをくわえながらパソコンに向かっていた。 夜も9時を超えると、会社には僕以外に誰も残っていなかった。それでも僕は黙々と作業を進めた。終電で帰るのなんて僕にとっては普通のことだった。終電に乗り遅れたときは無理を言って都心に住んでいる友人の家に泊めてもらったり、カプセルホテルに泊まったりもした。そして次の日も、また次の日もこれの繰り返し。何度も辞めようと思った。何度も何度も「こんな仕事やめてやる!」って思ったんだ。だけど、このときの僕には辞めることができなかった。その理由は今ならよく分かる。 恐かったんだ、自由になるのが。 思い返してみれば、僕は学生のときからそうだった。小学校の昼休み。何をして遊ぶのかを決めるのはいつも周りだった。みんなとサッカーやキックベースをして遊ぶのは楽しかったけど、自分から提案したことは一度もない。中学のときも、僕は友達に誘われてバスケ部に入った。もちろん嫌々入ったワケじゃないけど、自分から進んで入ったワケでもない。特にやりたいことがないから入った、というのが正直なところだ。そういえば、高校で初めて彼女ができたときも、告白してきたのは相手の方だった。本当は別に好きな子がいたけど、告白する勇気が持てなかった僕は、妥協してその子と付き合った。その結果どうなったかはご想像の通りである。僕は決して頭が良い方ではなかったが、なんとか大学にも入れた。ただ、僕が大学に入った動機は相変わらず「大学は出ておけ」と親がうるさかったから、だった。 大学2回生のとき、僕は当時入っていたテニスサークルの先輩を好きになる。体系は小柄で性格は姉御肌。その可愛らしさと男気のギャップのお陰か、彼女はサークルの人気者だった。彼女は誰にでも優しかったが、特に僕には優しくしてくれいるような気がした。それが僕の勘違いだったのかどうかは後から判明するのだが、それはともかく、僕は彼女を好きになってしまったのだ。以前の僕なら、ここで何もしなかったと思う。しかし僕には高校の頃の苦い思い出がある。あんな妥協はもうしたくない。その後悔の気持ちが僕を告白へと駆り立てた。 ある日の夜、僕は先輩を大学の近くの公園に呼び出した。周りには犬の散歩をしている人が1人いるだけで、他にはだれもいない。絶好のシチュエーションである。ベタなトレンディードラマのように先輩と2人でブランコに乗る。このときの僕の心臓は文字通り破裂しそうだった。普段は気にもしない心臓の鼓動が、これ以上ないほどに僕の体に響きわたる。先輩と何でもない会話をしながらも、いつ告白の言葉を言うべきか、ずっと僕はタイミングをうかがっていた。そしてそのタイミングは訪れた。先輩がそろそろ帰ると言い出したのだ。その言葉を聞いた僕はすかさず、意を決して告白した。10秒ほどの沈黙が流れる。結果は、惨敗だった。 先輩の卒業式のときに本人から聞いた話によると、先輩にはそのとき別に好きな人がいたそうだ。僕にもそれなりに好意を持っていたらしいが、彼女は 「恋愛に妥協は許されない」 と言い切った。それに引き換え、高校生の頃の僕と言ったら・・・。僕よりも先輩の方がよほど男らしいではないか。それから社会人になるまで、僕に彼女ができることはなかった。 大学3回生の中盤をむかえ、僕もいよいよ就活を始めることになった。リクルートスーツをビシッと身にまとい、周りと足並みを揃えて就職説明会へと向かう。会場の広さと雰囲気に圧倒されつつも、まずは手当たり次第、有名企業のブースを回ることにした。キャノン、シャープ、富士通、NECなどなど、目立つところには見慣れた企業がずらりと並んでいる。しかし、有名企業のブースはほとんど満席で、どこもまともに話を聞ける状態ではない。仕方なく会場の隅にある中小企業のブースに足を向ける。そこには見たことも聞いたこともない企業が軒を連ねていた。こんな企業の説明を聞いて意味があるんだろうか・・・。そう思いながらも、一応それらのブースも回ってみたが、やはり僕にはシックリこなかった。 やがて履歴書を書く段階になり、僕はとにかく有名企業に履歴書を送りまくった。志望動機をでっち上げ、必要とあらば大学での活動を盛ったりもした。バカだった僕は、それぐらいしてでも有名企業に入りたかったのだ。しかし有名企業の人事担当者ともなれば、それぐらいのことはお見通しである。人を見るプロである彼らに、学生が考える程度のまやかしが通用するはずもない。結局、僕が面接を受けられたのは、30社中たったの1社。その会社でも当然のように面接で落とされた。そうして僕はようやく中小企業に目を向け始めるのである。 今まで先輩への告白以外に自分から行動を起こした経験のなかった僕は、何を基準に企業を選べばいいのかがまったく分からなかった。周りの人間は「興味のある業界を受けなよ」とアドバイスしてくれたが、それがブラック企業だったらどうするんだよ、と心の中でいつも反発していた。当時の僕には、有名企業以外はすべてブラック企業に見えていたのだ。そんなことを考えている間にも、時間はどんどん過ぎていく。4回生のゴールデンウィークを過ぎた頃には、周りの人間の半分ぐらいは内定を決めていた。これだけ不景気でも受かるヤツは受かる。さすがにヤバイと考え始めた僕は、以前から少しだけ興味のあったSE業界の先輩を訪問してみることにした。そこで僕のSEへのイメージは大きく変わることになる。先輩の話は僕がイメージしていたものとはまったく違う、明るいものだったのだ。 今になって思えば、これが不幸の始まりでもあり、幸福の始まりでもあった。この話を聞いていなければ、僕がSEであんな過酷な日々を送ることはなかっただろうし、今のようになることもなかったと思う。塞翁が馬とは、よく言ったものだ。 先輩の話を聞いて勢いづいた僕は、それからSEの会社を受けまくった。プログラミングの知識はほとんど無いに等しかったけれど、それでもいいと言ってくれる会社はたくさんあったし、どこも「入ってから勉強すればいいよ」と言ってくれた。なんだ、良い人ばっかりじゃないか、この業界。いろんな会社を受ければ受けるほど、僕はこの業界に好感を持つようになっていった。 そして遂に運命の時が訪れる。ある小さなSEの会社から内定が出たのだ。季節はもう秋になっていた。僕はすぐにこのことを親に報告した。この報告を聞いた両親はすごく安心したようだった。それから無事に大学を卒業して、束の間の卒業旅行から帰ってくるまでは良かった。だがしかし、僕はここから地獄のような日常をおくることになる。 初出社から2ヶ月ぐらいはまだよかった。覚えることはたくさんあって忙しかったけれども、自社勤務で周りは優秀な先輩や上司ばかりだったこともあり、毎日が充実していた。問題は3ヶ月目に入ってからだった。研修期間を終えた僕は、いきなり出向先へ飛ばされることになる。もちろん最初の1週間ほどは先輩に付き添ってもらって、業務の引き継ぎなどがあったが、それが終われば自分一人でその場をやりくりしなければならない。しかも、出向先の連中はどいつもこいつもポンコツぞろい。今まで優秀な先輩や上司に囲まれて勉強していただけに、その無能さは余計にきわだって見える。そうして僕は、無能で下らない連中にへこへこ頭を下げる、理不尽で孤独なSE生活をおくることになったのである。 そんな日々が2年ほど続いた頃だっただろうか。僕がたまたま本屋でプログラム系の本をあさっていると、『フリーランスSEになる!』という本が目に留まった。まったくの素人の状態からSEを始めた僕は、フリーランスになろうなんて今まで一度も考えたことがなかった。けれども、その本を見た瞬間、どうしても内容が気になった。思わずその本を手に取りページを開く。最初のページにはこんなことが書いてあった。 私はあなたが今この本をどこで読んでいるのかは分からない。しかし、せっかくこうして出合えたのだから、立ち読みでもいいので、せめてこの序章だけはすべて読んでほしい。あなたに余計な時間は取らせないし、後悔もさせない。約束しよう。  この本で私が伝えたいことは、1つしかない。それは   フリーランスたる者、確固とした自分の判断基準を持たなければならない   ということだ。何でもない言葉のように思えるだろうが、フリーランスとしてやっていけるかどうかは、この点にかかっている。プログラミングの知識や技術は関係ない。あなたが何をどう判断するかが、すべてなのだ。ウソだと思うならば、周りのSEを見てみればいい。彼らは技術者としては優秀かもしれないが、いつも会社からの指示で動いている。自分で判断を下すのはプロジェクトの範囲内だけで、どの仕事を受けるべきか、どの仕事が自分の人生をプラスにするのか、なんてことはまったく考えていない。彼らはただ正確に、順調に、プロジェクトを終えることしか考えられないのだ。  しかし、あなたがフリーランスになりたいのならば、彼らと同じではいけない。たとえ技術や知識で負けていたとしても、あなたが自分の信念に従って正しい判断さえ下せれば、自ずと目の前の道は開ける。こう言われてもシックリこないかもしれないが、それはその体験をしたことがないからだ。一度体験すれば、あなたもこの快感に病みつきになることは間違いない。それは私の人生を懸けて保証しよう。  これからはフリーランスの時代になる。たとえ社員であっても、判断を他人や会社に委ねているような人間は、どこからも相手にされなくなるだろう。この本を手に取ったぐらいだから、あなたもそういう予感はしているはずだ。その予感は必ず当たる。まずはその自分の判断を信じてみてほしい。それがフリーランスへの第一歩である。 冒頭の約束通り、ここまで3分で読めてしまった。あまりにも当たり前のことしか書いてなかったので、正直ピンとこなかったが、なぜだかこのときの僕は続きを読まなければならない気がした。そして気付いたときには僕はその本を買っていた。・・・フリーランス。そういう生き方があることを知った僕の人生は、ここから変わり始める。 この日から僕は、朝晩の通勤時間を使ってこの本をむさぼるように読んだ。そうして読み込むうちに、最初はピンとこなかった言葉も心に浸透してくるようになっていた。中でも特に僕の心を動かしたのは以下の言葉である。 トイレや風呂に入っているときでも、つねに何かを判断していろ。 これがフリーランスとして成功するための鉄則だそうだ。当時の僕を含め、この言葉の重要さを実感できる人は多くないと思うが、今の僕なら分かる。要するにこれは 人生のすべてを自分の判断で生きろ、下らない生活習慣に流されるな ということである。僕らは、ともすれば、雰囲気や習慣に自分の行動を流されがちである。歯の磨き方から歩き方、いつも食べている物、いつも見るサイト、いつも見る番組、そういったものは余程意識して変えようとしない限り変わらない。お風呂で体を洗う順番もそうだし、トイレのときに使うトイレットペーパーの量だって、みんな意識していないはずだ。つまり、それらはすべて自分の判断で決めたことではない、ということである。じゃあ誰が決めたのか、というのは問題ではない。ここで重要なのは、そういう1つ1つの細かいことを、自分の判断で決めて行うということだ。そして、その積み重ねがフリーランスとして生きるための判断基準を育んでくれるのだと、著者は言っているのである。 このときばかりは、僕の周りに流されるという性格が役に立った。どういうことかというと、僕は自分では何も考えず、本に書いてある通りに内容を実践した(本の内容に流された)のである。そのお陰で、僕はみるみるうちに効果を実感した。と同時に、普通の人たちがどれだけ流れて生きているのかも分かるようになった。もちろん、これまで自分がどれだけ流されていたのかも。 それから数カ月後に僕はフリーランスになるのだが、そのキッカケはいきなり訪れた。うちの会社が倒産したのである。あれだけ優秀な人間が揃っていながら潰れるなんて、僕には信じられなかった。しかし、社長から倒産した理由を聞かされて、僕は思わず納得してしまった。どんな優秀な人間も、無能な人間にこき使われて仕事をしていると人格が崩壊する、ということだ。優秀だった先輩たちは、みんなノイローゼになってやめていったらしい。実はこれもあの本が予測していた通りだった。 あれから5年。晴れてフリーランスSEとなった僕は、あの本をバイブルに、ここまで難なくやってこられた。今は無能な連中の言うことを聞く必要はないし、自分のしたい仕事だけを選んでやっている。それでも生活が成り立つのは、僕がいつでも的確な判断を下しているからとしか言えない。知識や技術なんてのは後からどうにでもなる。実際僕がそうだったんだから間違いない。大事なのは、いつどのタイミングでどれぐらいの量の知識や技術を身につけるべきかを判断することだ。余分な努力は人生を疲弊させる。 今の自分には何が必要なのか。それが的確に判断できるだけで、人生はすべて上手くいくのだ。 この物語は、たかだか29歳の若造の半生にすぎない。しかし、ここから学べることは山ほどある。これを一度読んで捨てるのも、何度も読み返すのも、あなたの判断次第だ。その判断が正しいかどうかは、あなたにしか分からない。もしあなたが僕のように人生を自分の力で変えていきたいと思っているなら、『脱凡人のすすめ』というメルマガに登録してみるといい。きっと僕が読んだあの本以上の内容を学べるはずだ。その点については僕が保証する。 僕とはここでお別れだ。ここまで僕の話に付き合ってくれてありがとう。あなたなら必ず僕を超えられるよ。僕はそう確信している。僕がそう判断したんだから間違いないよ。自信を持って。 それじゃあ、またね。 ※この物語はフィクションです。 『脱凡人のすすめ』に登録する ...more»
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