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Archives for 哲学

なぜ人生は思い通りにいかないのか
ども、杉野です。 人生とは虚しいものです。 「このシチュエーションで告れば完璧!」と思ってした告白では見事に振られ、「これってもしかして大金持ちになれるんじゃね?」と思ってはじめたビジネスでは閑古鳥が鳴き、「こんだけ頑張ったんだから合格するでしょ」と思って受けた試験では不合格になり、「私の人生は私が決める!」と思っていた人生では、誰かの作ったレールに乗ってそのまま・・・。 「なぜなんだっ!」 そう心の中で叫んだ経験は誰しもあるでしょう。 しかし、この「なぜなんだ」を真剣に考えたことのある人がどれだけいるでしょうか。 もちろん個々で努力してきたことを反省することはあると思いますが、今ここで考えたいのは、そもそもなんで人生は思い通りにいかないようになっているのか、というある種の哲学的な問いなのです。 読んで分かるように、この問いは「人生は思い通りにはいかない」ということが前提になっています。 ごくわずかではありますが、思い通りの人生をおくっている人がいることも事実ですから、そういう人にはこの問いそのものが意味をなしません。 つまり、より厳密な言い方をすれば、ここでは 「人生が思い通りにいかない人は、なぜ思い通りにいかないのか」 を考えたいということです。 【関連記事】人生が思い通りにならない4つの理由とその解決策を教えよう   ■「思い通りにならない」とは何か さて、まずは言葉の定義から確認していきましょう。 そもそも「思い通り」とは何なのか。この場合の「思い」とは、期待、願望もしくは理想という意味です。 自分が期待していること、自分が望んでいること、自分が理想としていること。 それをわれわれは「思い」と言っています。そんでもって「通り」とは、現実になること、実際に起こることです。 だから「思い通り」とは 自分が期待していることが現実になること ということになります。 これは冒頭の例からも明らかです。自分が期待していることは、告白して付き合えること、ビジネスで成功すること、試験に合格すること、ですね。 それが現実になる、つまり、実際に起これば思い通りにいった、起こらなければ思い通りにいかなかった、ということになります。   ■期待したことは起こらない? ここで元の問いに戻りましょう。 「なぜ人生は思い通りにいかないのか」を今の定義で変換すると、「なぜ人生は期待していることが起こらないのか」という問いになるワケですが、こうすると何か見えてこないでしょうか? ・・・なにも見えてこない? あ、そう(笑) じゃあもうちょい頑張ります。 期待していることが起こらない。これって実は、われわれが普段あまり経験してないことなんですよ。 前に話したように、われわれは(無意識的にではありますが)日常に対して「何も起こらないこと」を期待しながら生きています。 歩いているときに自動車やバイクが突っ込んでこないこと、石につまづかないこと、突然雨が降ってこないことなどなど、そういう期待をしているからこそ、その期待が裏切られたとき、つまり何らかのトラブルがあったときに凹んだり嫌な気持ちになったりするワケです。 でも普段身の周りで、そんな頻繁にトラブルは起こらないでしょ? 「私はトラブルばっかりです」って人もたまにはいるのかもしれませんが、そういう人にしても、多くて1日の3分の1ぐらいがトラブルなだけで、他の3分の2は普通にご飯食べたり、お風呂に入ったり、電車に乗ったりしてると思うんです。 まさか寝てるときまで毎日自分の家だけ地震で揺れるとか、毎日上からゴキブリが降ってくるとか、そんな奇怪なことはないでしょ(笑) 要するに、どれだけ少なく見積もっても、われわれの人生の3分の2ぐらいは思い通りに、「何も起こらない」という期待が実現されている、ということです。 「なんでもないようがことが、幸せだったと思う」という歌詞の有名な歌がありますが、これも同じです。 「なんでもないようなこと」は、何も特別なことが起こらないことを意味しています。 あの歌は、それが幸せであることに気付いた、思い通りであること気付いたと歌っているワケです。   ■人生のほとんどは思い通り ということは、ですよ? 僕らの人生って、ほとんどが思い通りにいってるんじゃないんですかね? だって特別なことはなんて滅多に起こらないでしょ。 大体毎日なんでもないようなことばっかりですから、みんな何も起こらないという期待通りに生きています。 ・・・でも、おかしいですね。だったらなんで多くの人は、人生は思い通りにいかないなんて真逆のことを「感じている」のでしょうか? 現実はほとんど思い通りにいっているのに、どうしてその現実を「無視して」、思い通りにいかないと嘆くのでしょう? そう、これこそが、われわれが本当に向き合わなければならない、真の問題なのです。   ■なぜ多くの人は人生は思い通りにならないと思い込むのか なぜ人生は思い通りにいかないのか。 この問いは、問いそのものが間違っています。 その理由はここまで話してきたことからも明らかでしょう。 そんなものよりも、われわれが考えなければならないのは 「なぜ人生のほとんどは思い通りにいっているにもかかわらず、ごく一部の特別なことが思い通りにいかなかっただけで人は凹み、落胆し、挫折するのか」 ということです。 あっさり言ってしまいますが、この答えは、人は見たいものしか見ようとしない、もしくは見たいものしか見えていないからです。 そう、多くの人は、そのごく一部の特別なこと(告白やビジネスや試験)しか見えていないのです。 だからそれだけを「人生」だと思ってしまう。これこそが、すべての不幸を生み出す原因だと思います。 本当はみんな、人生のほとんどが思い通りにいっているのに、それに気付けなくなってしまっているワケです。 これほど不幸なことはないでしょう。 今こうして「無事に」僕のメルマガを読めることだって、本当は幸せなことのはずなのです。 それは僕のメルマガの質云々の話ではなく、「無事に読める」ということ自体が、思い通りの人生をおくれていることを意味しているからです。 凡人はこんなことを言っても、恐らく鼻で笑うだけでしょう。 「お前は綺麗事を言っているだけだ」と言う人もいるかもしれません。 しかし、これが現実であることは、誰も否定できない「事実」なのです。   ■見えない「思い通り」 われわれは凡人には見えないものを見なければなりません。 そして、それを伝えることによって、一人でも多くの人に自分が幸せであることを気付かせなければなりません。 この活動によってのみ、あなたは信頼し合える本当の仲間を得ることができるのです。 何も起こらないことが、いかに素晴らしいことであるか。無事であることが、どれほど有り難いことであるか。 この意味を実感できたとき、あなたは人をリードする立場に立っていることでしょう。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
今こそ本来の年功序列に立ち返れ
  日本では、ここ20年ほどで、これまで当たり前とされていた 年功序列という価値観がほぼ無くなりました。 未だに年齢を気にする日本人は(僕を含め)たくさんいますが、 一昔前のように、年齢で一律に年収が決まったりすることは もうありません。 長年同じ会社に勤めていても、どれだけ年長者であっても、 実績が伴っていなければ給料は上がらない。 今はむしろ「年齢で収入が決まるなんて理不尽すぎる」という 主張の方が、正論であり常識だと言われるでしょう。 しかし、なぜ以前は年功序列のような価値観がまかり通ったのか ということを考えると、この言葉の本当の意味が見えてきます。   そもそも年功序列とは儒教の教えに由来するものです。 儒教と言えば、孔子ですね。 彼が残した言葉に以下のようなものがあります。   子曰く、吾れ十有五にして学に志す。 三十にして立つ。 四十にして惑わず。 五十にして天命を知る。 六十にして耳順う。 七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず。   有名な言葉なので、聞いたことぐらいはあるでしょう。 15歳ぐらいからちゃんと学ぶことを志して、30歳までには 自分の力で生きられるようになって、40歳までには世の中に 惑わされない強靭な精神を身に付け、50歳までには自分が 世界に対して何を為すべきかを知り、60歳までには寛容さを 身に付け、70歳になる頃には残りの人生を謳歌すべきだ。 口語訳にすると、大体こんな感じになるでしょうか。 お分かりのように、これは孔子の説いた、その年齢に相応しい 人間的レベルを表しています。 このぐらいの年齢のときは、このぐらいの人間になっていて もらわないと困る。 上記の言葉からは、そんな孔子の声が聞こえてくるワケですが、 もしこれを万人が達成していったとしたら、世の中はどうなって いくでしょうか? もし30代の人がみんな「立って」いて、40代の人がみんな 「惑わず」、50代の人がみんな「天命を知って」いたら どうなるか。 そう、それは自然と年功序列になります。 なぜなら、年齢の高い人ほど人間的レベルが高いからです。 30歳の人はまだ自分の力で生きていけるようになっただけで、 40歳の人のように世の中に惑わされないというワケには いきません。 40歳の人は惑わされないのかもしれないけれども、 50歳の人のように自分の為すべきことはまだ分かっていない。 年功序列とは、本来はこういう前提で成り立つものなのです。   終戦直後の日本では、まだこの前提は失われていませんでした。 年齢の高い人ほど経験や知識が豊富で、人間的レベルも 高かったため、彼らは若い人から尊敬され、慕われていました。 彼らのことをほとんど知らない僕ですら、今の70代や80代の 方々はみんな、いろんなことを知っていて頼りになると感じるし、 人間的にも逞しいと思います。 しかし、高度成長期やバブル時代に育った人間はどうでしょう? ちょっとキツイ言い方になりますが、あまりにも無知で、貧弱で、 傲慢だと思いませんか? もちろん、全員が、とは言いません。 言いませんが、少なくとも僕には、彼らが年齢に相応しい 人間的レベルを達成しているとは思えないのです。 彼らが「お坊ちゃん」や「お嬢さま」になってしまったのは、 彼らだけの責任ではありません。 戦後の教育に何かと問題があったのは確かでしょう。 けれども、こんな時代になっても未だに自分の立場をわきまえず、 自分から何も変わろうとしないというのは、どうなのでしょうか。   われわれが年功序列を理不尽だと思ってしまうのは、 今話した「お坊ちゃん」や「お嬢さま」を人間的レベルの 前提として考えているからです。 年ばっかり食ってて、まるで中身がない。 そんな下らない人間が社会の上層部を席巻していたら、理不尽に 思うのは当然でしょう。 けれども今や、その腐った前提は崩れ、次の時代に向かって 年功序列が再構築されようとしています。 長く生きている分だけ、経験や知識が多くて、それ故に人間的に 優れていて実力がある。 今後はこの素朴な感覚に根ざした当たり前のことが、当たり前に 求められる時代になっていくでしょう。 そうなれば、年相応でないことは「恥ずべきこと」として 認識されていくはずです。 高齢者たるものは、若者の手本にならなければならない。 この純儒教的な価値観が復活することにより、少子高齢化は 「問題」ではなく、「利益」となります。 国民の比率として、優れた人間(高齢者)の方が多く、 劣った人間(若者)の方が少なくなるのですから当然ですよね。 ファーストリテイリングの柳井さんは 「結果としての年功序列」 という言葉を使っていましたが、まさにそれこそが本来あるべき 年功序列の姿なのです。   人生の節目節目で、孔子の言葉を思い出してください。 30歳になったとき、自分は「立って」いるか。 40歳になったとき、自分は「惑わず」にいるか。 50歳になったとき、自分は「天命を知って」いるか。 そこで素直に達成していると言い切れるなら、順調に年を 重ねていると言っていいでしょう。 しかし、もし達成できている自信がないならば、遅れた分を 必死に取り返さなければなりません。 われわれに与えられた時間は平等かつ有限です。 時間は大切に、真剣に、濃縮して使いましょうね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
コミュニケーションの質を決める3つの媒体
  現在の日本社会で求められている能力を3つ挙げろと言われれば、 恐らく多くの人が英語力、主体性、コミュニケーション能力という 3つを挙げるのではないかと思います。 特にコミュニケーション能力については、ここ20年ほどで随分と その不足が指摘されるようになってきました。 これはよく考えてみると、携帯電話やインターネットが普及し始めた 時期と重なります。 そもそも携帯電話は、より円滑に個々がコミュニケーションを とることができるように開発されたものです。 いつでもどこでも話したい人と連絡が取れ、場所に縛られることなく、 周りを気にすることなくコミュニケーションをとることができる。 これが携帯電話が登場した本来の意義だったと思います。 しかし蓋をあけてみると、今や携帯電話はコミュニケーションを 疎外するものとして存在しています。 誰もが携帯の画面にばかり夢中になり、本来何よりも優先して コミュニケーションをとるべき相手である、目の前にいる他者の 存在を軽視するようになったのです。 友達同士で遊んでいるときでさえ、彼らはお互いの顔ではなく、 自分の携帯に意識を向けています。 相手がトイレで席を外そうものなら、すぐさま携帯を開いてメールや ラインやフェイスブックやツイッターを確認するワケです。 こうして相手から意識をそらす時間が増えるに従って、その場での コミュニケーションの質が低下していったことは明白でしょう。 この傾向を生み出した張本人は携帯ではなく、インターネットである ことは言うまでもありません。 携帯がただの電話だった頃は、誰も携帯の画面に夢中になったり しなかったワケです。 それが携帯でもインターネットに繋げられるようになったことで、 携帯は「電話」ではなく「環境」になりました。 あらゆる便利な環境を携帯できるもの。 それが今の携帯電話でありスマートフォンなのです。 そして最近はこれにタブレット端末が加わり、ますますこの傾向に 拍車がかかっています。 多くの人は便利になったと喜んでいますが、これによって今も 失われ続けているコミュニケーションの質と量は計りしれません。 これから生まれてくる子供たちは、こういった環境が当たり前の 時代に育てられます。 その結果、世界はどうなっていくのか。 時代に求められる能力とは、時代が失った能力でもあるのです。   こういう時代において、コミュニケーション能力があることは、 それだけで突出した価値になります。 みんなが持っていないもの、みんなが求めているものを自分だけが 持っていれば、そりゃ価値が高いのは当然ですよね。 ところで、コミュニケーション能力とは一体何なのでしょう? この定義には無限の答えを出すことができますが、ここでは 「伝える力」をコミュニケーション能力としておきます。 つまり今の時代は、伝える力を身につければ突出した価値になれる、 すなわち、周りから必要とされる人間になれるということです。 相手に何かを伝えるには、何かしらの媒体を通して伝える必要が あります。 その中で最も一般的なのが言葉です。 「ちょっとそれ取って」「危ない!」「おはようございます」など、 われわれが何かを伝えるときには、主に言葉を使います。 というよりも、われわれが「伝える」と言うときには 「(言葉によって)伝える」ということを意味していますから それ以外の媒体を思いつく方が難しいはずです。 しかし、実は言葉という媒体は僕の知っている媒体の中では最も 相手に伝わり難い媒体なのです。 心から嬉しいときには、誰しも「ありがとう」では伝えきれない 感覚があると思います。 それは「ありがとう」という言葉の媒体が、その気持ちよりも 小さいからです。 われわれが本気で伝えたいと思うとき、その思いは言葉には 収まりきりません。 言葉は感情や気持ちを荒削りに軽量化(概念化)したものなので、 誰にでも扱いやすく便利ですが、その分だけ相手には「軽く」しか 伝わらないのです。   われわれが何かを伝える際に用いることができる媒体は全部で 3つあります。 1.言葉 2.行動・態度 3.存在 の3つがそれです。 これは下に行くほど伝わりやすくなっています。 言葉が一番伝わり難く、次に行動・態度、最後の存在が一番相手に 伝わりやすいということです。 1の言葉については今説明した通りなので、ここからは残りの2つを 説明していくことにしましょう。   あなたは口で「今度手伝うよ」と言う人と、実際に手伝いに 来てくれる人のどちらを信用するでしょうか? よほど特別な理由がないかぎり、普通は後者を信用すると思います。 では、なぜわれわれは後者を信用するのでしょう? 後者の方が気持ちが大きく伝わるからです。 もしかしたら前者も手伝う気はあるのかもしれません。 しかし、実際に手伝いにこない以上、前者の気持ちはその程度のもの としてこちらに伝わります。 一方で後者は、「言うはやすし、行うはがたし」と言われるように、 敢えて難しいことをこちらのためにやってくれたワケです。 わざわざこちらのために時間と労力を割いてくれた。 これは理屈ぬきに、気持ちが伝わってきます。 言葉より行動や態度の方が伝わるというのは、こういう素朴なことを 言っているだけです。 逆に言えば、気持ちが大きければ、それは嫌でも行動や態度に如実に 表れます。 自分のことを尊敬しているか見下しているかは、相手の態度を見れば 誰でも分かるワケです。 伝える力で重要なのは、この「気持ち」です。 かなり訓練された役者でないかぎり、どれだけ隠そうとしても 気持ちは行動や態度に出てしまいます。 いや、役者は自分の気持ちがコントロールできるから役者なのです。 われわれには到底そんな真似はできませんから、むしろ自分の 気持ちに対してより正直になることを目指すべきでしょう。 それは要するに、気持ちの向かないこと、心に思っていないことは やらない、気持ちの向かない相手には何も伝えないということです。 だって、どうせ自分の気持ちの向いていない相手になんて何も 伝わらないんだから。 われわれが行動や態度で何かを伝えられるのは、行動や態度で 自分の気持ちを伝えたいと思うような相手に対してだけです。 つまりわれわれは、「原理的に」自分の好きな人や尊敬する人にしか 気持ちを伝えることができないのです。 だとすれば、行動と態度に関してわれわれにできることは、 2つしかありません。 1.好きな人(尊敬する人)とだけ接する 2.接すべき相手を好きになる(尊敬する) このどちらかです。 どちらかによってしか、われわれは相手に言葉以上の何かを 伝えることはできません。 なぜなら、この「好き」や「尊敬」の気持ちがわれわれの相手に対する 行動や態度を支配しているからです。 まとめてしまうと、話はおそろしくシンプルになります。 「相手に何かを伝えたければ、できるかぎり相手のことを好きに なればいい」 それだけです。 すなわち、伝える力とは、相手を好きになる力のことなのです。   胡散臭いと思ったでしょ? でも、これが真実です。 無関心な相手、嫌いな相手、見下している相手となんて、まともな コミュニケーションはとれません。 というか、そもそもそういう人とはコミュニケーションをとりたいと 思わないですよね? 仕事で強制されるのでないかぎり、普通そういう人たちとの関りは 避けると思います。 逆に好きな人や尊敬する人に対しては、なんとかして関われるように 積極的になります。 片思いの相手や憧れの芸能人に会うためならば、われわれは高い 交通費や旅費を払ってでも会いに行くワケです。 そして気持ちが強いほど、ただ会うだけでなく、できるだけ自分の 印象が強く残るような工夫を考えます。 何をすれば相手は喜ぶだろうか。 何をすれば覚えておいてもらえるだろうか。 その思考錯誤の結果、相手への気持ちは行動や態度に表れるのです。 だから、われわれは相手を好きになるだけでいいということです。 納得いったでしょうか?   最後は行動や態度を上回る媒体、存在についてです。 これについては実は説明できることがほとんどありません。 というのは、これこそまさに言葉にならない領域の話だからです。 言えることは、前回の記事の最後に言ったことと同じです。 とにかく周りに有無を言わせぬ人間になること。 それが存在という媒体を使う方法です。 言葉でもなく、行動や態度でもなく、存在そのものが語りかける。 これが何よりも強く伝わります。 「生きざま」と言えば、多少は分かりやすくなるでしょうか。 自分が伝えたいと思うことを、生きざまとして表現できたとき、 それは何よりも相手のコアに伝わるのです。 今も継続中のThe Hard Lifeという講座では「背中」という言葉を 使いました。 「子供は親の背中を見て大きくなる」の「背中」です。 この「背中」は行動や態度を通して作られます。 日々の積み重ねが「背中」となって表れるということです。 毎日何を見て、何を聞いて、何を食べて、何を感じて、何を考えて、 何に意識を向けて生きているかが、すべて「背中」に反映されます。 存在は最も伝わりやすい媒体ですから、隠すことができません。 それは嫌でも相手に伝わってしまいます。 引き寄せの法則があるとすれば、恐らくこのことでしょう。 存在が語ることは、存在のレベルによって変化します。 ショボイ存在はショボイことしか語りませんが、偉大な存在は世界に 偉大なことを語りかけるのです。 それによって、その存在のレベルに応じた人たちが、その語りに 共鳴ないし呼応して寄り集まってくる。 そういうなんとも不思議なことが、われわれの目に見えないところで 頻繁に起こっているということです。   これについては信じなくても構いません。 というか、実際に体験しないと分からない話なので、体験するまで 信じられないのが普通だと思います。 今の話はまったく理屈になってないですから。 説明されて理解できる話ではありません。 だったらなんで説明したんだ、っていうツッコミは入れないでね。 まあ、そういう話なので、分からなければ「ふーん」と読み流して、 行動と態度のところを実践していってくださいませ。   以上の3つ 1.言葉 2.行動・態度 3.存在 の順番で伝わりやすさは強くなります。 常識的にコミュニケーション能力が失われている今の時代において、 1を超えて2や3を使える人は、相当活躍できる人材です。 凡人から脱する以上は、それぐらいの人にはなってもらわらないと 困りますから、今回の記事はよくよく復習しておくように(笑) まだまだやることはいっぱいありますよ。 覚悟しておいてください(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
アイスクリームのアフォーダンス
ども、杉野です。 ここ数日、関西はクソ暑い日々が続いています。 10代の頃に強烈な蒸し暑さに耐えるバイトをやっていたお陰で、比較的暑さには強い方なのですが、さすがに35度を超えてくるとへばります。 先日、それに耐えかねた僕は某大型量販店へアイスクリーム的なものを求めて、炎天下の中、はるばる出かけていきました。 店についたときには、案の定、汗だく。アイスを食べるにはベストな状態です。 しかし、そこでいざアイスを買おうとすると、不思議なことに、当初の目的だったはずのアイスをまったく買う気にならないのです。 それはそれらの商品が不味そうだったとか、好きなものがなかったとかそういうことではなく、一般に言われる「生理的に受けつけない」という感覚でした。 ご存知のように(?)僕は甘いものが好物です。当然、アイスクリームやソフトクリーム、かき氷なども好物です。 どれぐらい好きかというと、たとえば小学校3年生の夏休みに毎日アイスの類を1本以上食べて、その約1ヶ月で体重を7キロ増やしたぐらいには、その手のものが好きだという自信があります(お陰で中学で部活を始めるまではデブ人生でした)。 その僕が、汗だくになってまで買いに行ったそれらの商品を生理的に受けつけなかったワケです。 これがいかにショッキングであるかは、言うまでもないでしょう。正直、自分でも信じられませんでした。 脳では欲しているのに、体はなぜか拒んでいるのです。 今あなたが思ったように、「そんなバカなことがあるワケない」と思った僕はアイスクリームのコーナーを数分程うろうろしてみたのですが、一向に買いたくなる気配がありません。 そこで僕は考えました。 僕がアイスを買わないのではなく、アイスの方から僕が買わないように仕向けているのではないか、と。 これは実は大真面目な話で、今から話すことは、このアイスから僕に送られたメッセージについてなのです。   ■アフォーダンスについて アフォーダンスという言葉を知っているでしょうか。 これはジェームズ・ギブソンという学者が作った概念で、 物事の意味や価値は、その物事とそれを取り巻く周りの環境や状況によって決定される というような意味で使われます。 例えば、あなたがリンゴを持っていたとしましょう。あなたのお腹が空いていたとしたら、あなたはそのリンゴを食べようと思うかもしれません。 しかし、あなたがストーカーに追われていたなら、そのリンゴを武器として投げつけることもあるでしょう。 またあなたが芸術家だったとしたら、そのリンゴを削って彫刻作品に仕上げるかもしれない。 アフォーダンスの概念では、今挙げた「食べ物」「武器」「作品」という3つの価値は、すべてリンゴに内在していると考えます。 リンゴはわれわれの状況に応じて投げかける価値を変化させているということです。 この「リンゴがわれわれに価値を投げかけること」を、リンゴが価値をアフォードする、という言い方をします。 お腹が空いているときには、リンゴは「私を食べてもよい」という価値をわれわれにアフォードし、ストーカーに追われているときには「私を投げてもよい」という価値をアフォードする。 こういう感じです。 ですから、リンゴそのものは無限の価値を持っています。 上記の以外にも、状況に応じてキャッチボールのボールという価値をアフォードすることもあるかもしれないし、料理の隠し味としての価値をアフォードすることもあるかもしれないし、お手玉としての価値をアフォードすることもあるかもしれません。 われわれは通常、リンゴを食べ物としてしか認識していませんが、リンゴの価値はその限りではなく、状況次第で無限に広がるのです。 ただ、例えばストーカーに追われていたとしても、リンゴを投げるという発想を思いつくかどうかは、その人の機転次第です。 どれだけリンゴが「私を投げてもよい」とアフォードしていても、逃げるのに必死でそのアフォードを拾えなければ、それは価値にはなりません。 この「アフォードを拾う能力」のことを、ピックアップ能力と言います。 つまり、リンゴに無限の価値があったとしても、その価値を拾う人間のピックアップ能力が低ければ、リンゴの価値はごく一般的な「食べ物」としてしか発揮されないということなのです。   ■便利な社会は人間を退化させる われわれの日常は、われわれのピックアップ能力が衰退するように作られています。 スマートフォン、冷蔵庫、電子レンジ、自転車、サプリメント、本、靴、ハサミ、マウスなど、われわれの身の回りにあるものはすべて、あらかじめ誰かによって用途が決められています。 スマートフォンとして売られている四角くて平らで薄い機体はスマートフォン以外の用途で使われることについてはまったく考えられていません。 冷蔵庫や自転車やサプリメントなど、そういった「物の名前」はその物の用途(使い方)とセットになっているワケです。 そのため、われわれは自分のピックアップ能力を使わなくても、その物の使い方を誰か(例えばメーカー)から教えてもらうことができます。 取扱説明書を読めば、そこには特定のアフォードを最大限に活かす方法が載っているワケです。 しかし、本来それをどう使うか、どう活かすかは、提供者ではなくわれわれが決めることです。 リンゴを食べるのか投げるのかは状況によって異なります。 ストーカーに追われていれば、投げることがリンゴの最大の価値になるかもしれません。 赤ちゃんにスマートフォンを持たせれば、投げたり叩いたりすると思います。 それがスマートフォンに本来備わっている無限の可能性です。 赤ちゃんがスマートフォンを投げたり叩いたりするのは、その子にスマートフォンが「私を投げてもよい」「私を叩いてもよい」とアフォードしていて、そのアフォードを赤ちゃんがピックアップしているからです。 それが適切な使い方であるかは別として、そういう可能性をわれわれは無視すべきではないのです。 しかし、世間の商品はその物の可能性をことごとく奪い、たった1つの価値に固定して販売しています。 スマートフォンはスマートフォンとして、自転車は自転車として使われることだけが推奨され、われわれはそれを無批判に受け入れ、盲目的に従っている。 それによって、われわれのピックアップ能力が衰えているということは言うまでもありません。 能力というのは、使わなければ自然と衰えます。 一切のピックアップを慣習的に他者に委ねてしまっているわれわれは、自ら意識してピックアップ能力を使うことによってしか、この能力を鍛えることができなくなっているのです。   ■ピックアップ能力の重要性 ピックアップ能力の有無がわれわれの人生の質を左右することは明白です。 あなたがこここまでメルマガを読んでどれだけの価値を得たかは、あなたのピックアップ能力に依存しています。 僕の書く記事にかぎらず、あらゆる文章には無限の価値があり、状況に応じていろんな価値をわれわれにアフォードしています。 あなたが人間関係に悩んでいるならば、このアフォーダンスの話は人間関係を改善させる方法として読めるかもしれませんし、ビジネスアイデアを練っているならば、斬新なアイデアを生み出す方法としても読むことができるかもしれません。 それはあなたの状況とあなたのピックアップ能力に依存するのです。 ただ、このことはある意味、僕にとって絶望的なことでもあります。 というのは、僕がどれだけいい記事を書いても、あなたの能力が低ければ、それだけ低くしか評価してもらえないからです。 これがお互いにとって大きな損失だということは明らかです。 僕はどれだけ頑張っても報われず、あなたはどれだけいい文章読んでもわずかな価値しか得られない。 これほど最悪な関係はありません。 だから僕は、僕のためにも、あなたのためにも、あなたの能力を 高めることに力を向けなければならないし、向けるべきなのです。 これは僕だけの話ではなく、世界中の人が考えるべきことです。 当然あなたも例外ではありません。 あなたはあなた自身のためにも、あなたの周りの人のためにも、あなたのアフォードを最大限にピックアップしてくれる仲間を集め、彼らと一緒に成長することで、あなたの価値が最大化されるように努力すべきなのです。   ■アイスクリームと僕 僕の体がアイスを拒否したのは、アイスを食べることが僕にとってマイナスになる、つまりアイスからのマイナスの価値をピックアップしたからだと思います。 例えば「お腹を壊してもよい」もしくは「小さい頃からの食習慣に縛られてもよい」みたいなアフォードがあったのかもしれません。 「暑くなったらアイスを食べる」みたいな食習慣は確かに僕の中にありましたから、その世間一般にありがちな常識を避けるようにアフォーダンスが働いたということは、自分の能力もそれなりに鍛えられてきているのかな、と思っています。 まあ生理的なことなので細かいことは分からないですけどね。 しかし、冒頭のあんなしょーもないアイスの話が、これだけ重要な話になるんだから、ピックアップ能力の有無がどれだけの差になるかは想像に難くないでしょう。 アイスを買いに行って、なぜかアイスが買えなかった。 この何でもない事実から何をピックアップするかが、われわれの人生の質を決めるのです。 われわれの日常はあらゆる可能性で溢れています。日常はあらゆる価値をわれわれにアフォードしているのです。 その価値をいかにたくさんピックアップできるか。凡人と脱凡人との差は、ここで決まります。 どんなときも油断しないでくださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
器の大きい人間になりたいなら解釈の幅を広げろ
  あれは今から5年ぐらい前のことだったでしょうか。 僕が仕事帰りの電車で座っていると、隣に座っていた酔っ払いの 中年男性が居眠りをはじめました。 最初はコクリコクリとしていた彼も、やがて熟睡モードに入り、 段々とこちらの肩に体重がかかってきます。 そして最終的に僕の肩に頭をもたれかけてくるという電車内で よく見かける光景になったワケですが、普通であれば僕側の人は 誰もが嫌な気分になると思います。 僕も機嫌によっては 「んだよ、このオッサン・・・(イライラ)」 となっていたでしょう。 しかし、そのときの僕は違っていました。 まったく嫌な気分にならなかったと言えばウソになりますが、 「なんだよ、このオッサン」と思うほどには嫌悪しなかった。 それは僕がちょっぴりゲイに目覚めたとかではなく(笑)、 その男性の可能性を考えることができたからなのです。   以前にも話したように、われわれはある出来事に出くわすと、 そこに自分にとって最も一般的な文脈を自動的にあてはめます。 酔っ払って電車の席で眠っている男性を見れば、大抵の人は 「飲み会で自分が制御できなくなるほどお酒を飲んだダメな人」 というようなレッテルを貼りつけるはずです。 なぜなら、それが一番よくある例だから。 ドラマやマンガの中でもそういう場面はよくありますから、 われわれにとって酔っ払って眠っている男性はダメな人間の 代表のように映るワケです。 そんな男性にもたれかかられようものなら、誰だって嫌な気分に なるでしょう。 しかし、今挙げたのはあくまで「一般的な文脈」です。 彼がお酒を飲んだことは事実だと思いますが、もしかしたら彼は 上司に嫌々飲まされたのかもしれません。 会社の仕事や家族関係が上手くいかず、酒に溺れるしかなかったの かもしれません。 はたまた、何十年ぶりに親友と再会し、ついつい飲み過ぎてしまった だけかもしれない。 こういう可能性を考えると、もたれかかられることによって生まれる 嫌な気分がどこかへ行ってしまうんですね。 決して嬉しいことになったりはしないけれども、感情的にならず、 あくまでフラットに状況を捉えられるようになります。 つまり、1つの出来事に対する解釈の幅が広がることによって われわれは寛容になれる、ということです。   世の中には失敗を恐がる人がたくさんいます。 恐がる理由は色々あると思いますが、一言で言ってしまえば、 (広い意味で)損をする可能性があるからです。 株を買うにしても、起業するにしても、それによって今までの 安定した生活を失ったり、株や起業に費やしたお金や時間を損する 可能性があります。 そうやっていろんなものを失うことが、みんな恐いワケです。 しかし、これらもすべて一般的な文脈から考えられている ということに、われわれは気付かなければなりません。 「株を買ったり起業したりするのは、お金のためである」とか 「株を買ったり起業したりするのは、生活のためである」とか 「安定した生活は素晴らしいものである」という文脈が勝手に 設定されているということです。 これが偏った捉え方であることは、今のあなたなら容易に分かる でしょう。 例えば起業を「人間性を鍛える」という文脈で考えるならば、 思うようにお金が稼げない(上手くいかない)期間というのは 非常に重要です。 その苦しい期間をいかに過ごすか。 いかに取り乱さず、冷静に、事態に対処するか。 そういう態度が人間性の成長に大きく影響します。 「どうして上手くいかないんだよ!」と絶望するだけなのか、 それとも「この苦難の中でも平然としていられるだけの人間性を 身につけなければならない」と思うのかでは、同じ結果であっても 全然意味が違うワケです。 後者的な解釈ができれば、思うようにお金が稼げないことはむしろ 自分を成長させることに大きく貢献します。 有り難いとまではなかなか思わないでしょうが、それを自分に 課せられた試練として捉えることはできる。 「ちょっと思うように稼げなかったぐらいで取り乱すような人間に お金を稼ぐ資格なんてない」という考え方ができるということです。 その意味で、失敗はわれわれの器を試していると言えます。 失敗して絶望しているような人間は、そもそも成功する器では ありません。 いかにトラブルを上手く乗り越えるか。 いかに失敗を失敗で終わらせないか。 いかに失敗を失敗以外の文脈で解釈するか。 ここに本当の意味での実力が、人間の器が、問われるのです。   以上の話からも分かるように、一般的な文脈に囚われないこと、 つまり解釈の幅を広げておくことは、われわれが生きていく上で 最上級レベルで重要なことです。 なぜなら、われわれは自分の解釈の中でしか現実を生きることが できないからです。 前回の話を思い出してください。 われわれはつねに世界からの刺激をインプットしています。 われわれはそのうちの必要なものだけを解釈して自分の中に 取り入れているワケですから、われわれが見たり聞いたり触れたり するものは、すべてわれわれが解釈したものだということです。 われわれの周りにいるのは「好きな人」と「嫌いな人」と その他大勢の「どうでもいい人」だけです。 これらにはすべて「好き」「嫌い」「どうでもいい」という 価値づけが行われています。 その価値づけは当然、自分の解釈によるものです。 ということは、あなたの周りにウザイ人がたくさんいたとしたら、 あなた自身が彼らに「ウザイ」というレッテルを貼りまくっている ということです。 周りにウザイ人がいるのではなく、あなたが彼らをウザイ人として 解釈しているのです。 だとしたら、その解釈の幅の狭さからして、あなた自身も相当に しょーもない人間だと言えるでしょう。 相手の良い面を見てあげられない、相手の良い面を見ようとしない。 あなたもそれぐらい器の小さな人間だということです。 誰だって生きていればイライラすることの100や200はあると 思います。 電車の中でデカイ声で電話をしている人に出くわしたなら、 大抵の人はイライラするはずです。 「うっせーな」とか「マナー守れよ」と思うのが普通でしょう。 でもね、そのイライラは全部自分の解釈が作ってるんですよ。 だって考えようによっては、その電話の内容から面白いアイデアを 思いついたり、時代性が読み取れたりする可能性もあるんだから。 「うっせーな」と思うのは、その人の電話を雑音や騒音として 解釈しているからであって、内容に耳を傾ければ案外面白い話を しているかもしれません。 マナーが悪いことには違いありませんが、そんな風に解釈しても、 そこから得られるものは何もないですよね? それにイライラしたところで、どんどん不快な気持ちになるだけで、 何もいいことはありません。 だったら。 自分に有益になるようにすべてを解釈すればいいんじゃない でしょうか? そういう解釈の幅を身につければいいんじゃないでしょうか?   解釈の幅は、人間としての器の大きさを表しています。 器の大きい人というのは、まず怒りません。 相手が失礼なことを言ったり、罵声を浴びせてきたりしても、 彼らの可能性に目を向けて 「正しい教育を受けられなかったのかもしれない」 「親や教師に恵まれなかったのかもしれない」 「嫌なことがあってイライラしていただけかもしれない」 という風に解釈できるからです。 また器の大きい人は(僕と違って・笑)いつも謙虚です。 決して自分の功績や実績を自慢したりしないし、自分から何かを 積極的にアピールしたりもしない。 間違っても「素晴らしい記事が書けた」とかは言いません(笑) それは彼らが幅広い解釈をもっているからです。 自分としては素晴らしいものであっても、周りがどう思うかは 分からない。 そう考えられるから、彼らは何事にも控え目でいられるのです。 さらに、器の大きい人は寛容です。 どんな人に対しても対等に接し、優劣をつけません。 それも彼らの解釈の幅が広いからです。 彼らはその人自身をあらゆる角度からフラットに捉えることが できます。 相手のウザイ面も、優れた面も、弱い面も、強い面も、同時に 捉えることができる。 それによって、相手と対等に向き合うことができるのです。 最後に、器の大きい人は知的です。 彼らは1つの知識に対して、あらゆる角度からアプローチを とれるため、1つのことから10のことを学ぶことができます。 先程の例で言えば、マナーの悪い人間を見てそこから自分の 態度を見直したり、周りの反応を見たり、その内容に注目したり、 話し方や言葉遣いに注目したりすることによって、凡人には まったく見えていない様々なことを学ぶことができるワケです。 他にも特徴を挙げていけばいくらでもありますが、ここで言いた かったのは、   器の大きさと解釈の幅はぴったり一致する   ということです。 多様な解釈ができる人ほど物事を冷静に、謙虚に、寛容に、知的に 捉えることができる。 そういう人は最も成功に近い人、凡人から脱している人だと言えます。 つまり脱凡人として、ホンモノとして、リーダーとしてわれわれが 努力すべきは、解釈の幅を広げ、人間の器を大きくすることなのです。   人生には素晴らしい面もあれば、悲しい面も、醜い面もあります。 それらの面が明確に見えてさえいれば、われわれは自分の意志で 見るべき面を選ぶことができます。 「思うようにお金が稼げない」という事実を失敗という面からしか 見れない人にとっては、それは失敗にしかなりえません。 けれども、試練という面を見ることができれば、われわれはそちらを 選ぶことができるのです。 われわれには見えない面を選ぶことはできません。 だからこそわれわれは解釈の幅を広げ、できるかぎり多くの面を 見られるようにしておく必要があるのです。 デュシャンが男性用小便器を「泉」という芸術作品として 発表できたのは、便器という物体の芸術的側面が彼には 見えていたからです。 他の人では絶対に見ることができないような面を、彼は見ることが できた。 それはまさに彼の異常なまでの解釈の広さによるものだと言える でしょう。 ラーメンズも、安倍公房も、ハイデガーも、宮藤官九朗も、 ジョブズも、フルトヴェングラーも、ベートーヴェンも、 桂文枝(もと三枝)も、立川談志も、ジョイスも、ゴダールも、 黒沢明も、その人にしか生み出せないものを表現している人は みんな共通して独自の解釈を持っています。 その奇特な解釈によって捉えた世界を表現すること。 それが芸術であり哲学でありビジネスなのです。   あなたにはあなたの解釈があり、僕には僕の解釈があります。 本来これらは一致することはありません。 なぜなら、僕とあなたはどちらも唯一無二の存在だからです。 しかし、われわれはメディアや学校教育などの操作によって、 万人が同じような解釈しかできないようにさせられています。 「このとき主人公は何を考えていたと思いますか?」という 現代文の問題に「答え」があるのは、そのためです。 それをどう思うかなんてのは人それぞれです。 主人公と直接会って話をしたのならまだしも、物語の中に出てくる 人の気持ちなんて、読み手の解釈次第で何とでも言えます。 にもかかわらず、テストでは予め想定された特定の「答え」を 書かなければ、その解釈は間違いになる。 こうした何気ない日常を通して、われわれの解釈の幅は無理やり 狭められているのです。   あなたにはあなたの解釈があります。 あなたにしかできない解釈が必ずあります。 その解釈こそが、この世に価値を生むのです。 誰ともかぶらない、あなた独自の解釈を見つけてください。 あなたの言葉を、あなたの世界を見つけてください。 素晴らしい人生は、そこにあります。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
インプット・解釈・アウトプット ~メタ学習のすすめ~
  学ぶとはどういうことか。 まじまじとこの問いを考えたことのある人はかなり少ないのでは ないかと思います。 われわれは最低でも小学校・中学校の9年間で様々な教科を学ぶ ワケですが、学ぶこと自体の意味を教わることはまずありません。 国語や数学、英語、理科、社会などはどれも「何を学ぶべきか」 という問いに答えるもので、「学ぶとはどういうことか」ないし 「学ぶとは何か」という問いには答えてくれません。 不思議なことに、われわれは学ぶことの意味を知らずに国語や 数学を学んできたワケです。 学ぶことの意味が分からないということは、例えばその人にとって 「私は国語を学ぶ」は「私は国語を???する」という風に 認識されているということです。 でも「???する」って何ですか? この「???する」が何か分からないのに、どうしてわれわれは 「国語を学んだ」とか「国語を学んでいる」と言うことができるの でしょう? われわれが気付かないだけで、こういうところにも濃い霧が かかっているのです。 自分は「学ぶ」の意味を知らない。 この自覚(無知の知)からしか、われわれは何かを知ることは できません。 われわれは、自分が何を知らないのかを知ったときにはじめて、 それを知るという一歩を踏み出すことができるのです。   僕の考えでは、「学ぶ」とは、 1.インプット 2.解釈 3.アウトプット という3つの段階を経るプロセスを指します。 広い意味での情報をインプットし、解釈し、アウトプットすること。 それが学ぶことの意味です。 ですから「国語を学ぶ」とは「国語の情報をインプットし、解釈し、 アウトプットすること」ということになります。 普通の感覚からするとアウトプットが学ぶことに含まれているのは 不思議な感じがするかもしれませんが、その点についてはあとから ちゃんと例を挙げて解説しますので、それまでは「ふーん」と思って おいてください。 それでは、1つ1つ丁寧に見ていくことにしましょう。   1.インプット インプットとは、われわれが世界から受ける刺激のことです。 われわれは生きているかぎり、身の回りのあらゆるものから 刺激を受けています。 起きている場合には目や耳や鼻や肌にはずっと何かしらの刺激が インプットされ続けているし、寝ている場合にも耳や鼻や肌には 刺激がインプットされ続けている。 インプットを意識するしないにかかわらず、われわれは世界から 絶えずいろんな刺激を受け取っているということです。 インプットについてわれわれが関与できることは一切ありません。 どれだけインプットしまいとしても、われわれの知らないところで 今この瞬間もインプットは常に行われています。 しかし、インプットの中には、われわれにとって不要なものが 多量に含まれています。 僕がこのメルマガを書いているときには、近くに置いてある 携帯電話の色や、自分が座っている椅子の形なんてのは、 どうでもいいことです。 メルマガを書いているときに、そんな情報がいちいち頭に 入ってきたのでは邪魔でしょうがない。 だからその刺激をより分けたり、排除したりする処理、つまり 「解釈」が必要なのです。   2.解釈 解釈とは、インプットによる刺激を情報化(価値や意味を付加)して 処理することです。 ここでは非常に複雑なことが行われています。 いくつか例を挙げておくと ・情報の選択(より分け) ・情報の格納(記憶) ・情報の最適化(運用) ・情報の価値判断(順位付け) などなどです。 これらはさらに細かく分類することもできますが、ここでは概要を 優先したいので、今は割愛することにします。 僕が考えるに、解釈において重要なことは3つあります。 1つ目は、ここで99%以上のインプットの刺激がカットされている ということです。 パソコンで動画を見ているとき、自分の座っているソファーや マウスの形が気になることはないと思います。 同様に、部屋の広さも、床の質感も、肌に触れている服の感触も、 キーボードの大きさも、パソコンで作業を行っているときには 気にならないはずです。 つまり、その瞬間においては、パソコンの作業に必要となる 刺激以外はカットされているのです。 2つ目は、インプットの価値を判断するということです。 これによって、そのときに価値がないと判断された刺激はカット されます。 パソコンで動画を見ているときには、服の感触やキーボードの 大きさなんてものには価値がないワケです。 その価値判断に従って、われわれはインプットをより分けている ということです。 これは自覚的な場合もありますが、ほとんどは無自覚的で 1つのことに意識を向ければ、その他のインプットは勝手に カットされます。 聴覚で言うところのカクテルパーティー効果です。 われわれ人間は、聞こうと思った声だけを聞くことができる。 これをカクテルパーティー効果と言うのですが、そういうことが 解釈でも行われているということです。 世界の煩雑なインプットの中で、自分に必要な刺激だけを処理して 認識することができる。 人間というのは凄い生き物だと思います。 3つ目は、解釈は変えることができる、ということです。 インプットの処理は、そのときのわれわれの態度に応じて様々に 変化します。 パソコンの動画をまた例にしますが、われわれが動画でアニメを 見ている場合、そこから物語の本質を見出そうと思って見るのか、 ただの娯楽として楽しく見るのかでは、同じものを見たとしても 得られるものがまったく違います。 同様に、人間関係で悩んでいるときにアニメを見るのか、世界に 絶望しているときにアニメを見るのか、食糧問題の解決の糸口を 探しているときにアニメを見るのか、現代の時代性を探るために アニメを見るのかでも、得られるものは当然違ってきます。 これが態度に応じて解釈が変わるということです。 われわれは小さい頃から勉強することだけを叩きこまれていて、 勉強するときの「態度」については一切教わりません。 やる気があるときに勉強するのと、やる気がないときに 勉強するのとでは、得られる量も質もまったく違うということは 誰でも実感していることだと思います。 凡人の親や教師だってそれぐらいは知っているはずです。 にもかかわらず、彼らはその態度を考慮せず「とにかく勉強しろ」 ということだけを言うのです。 そりゃ日本の学生がバカになるのも当然ですよね。 国語や数学や英語などの教科は、単なるインプットに過ぎません。 重要なのは、われわれがそれをどう解釈し処理するか、つまり どういう態度で勉強に臨むかなのです。 ですから、もしあなたがだらけた態度でこの記事を読んでいるなら、 読むだけ時間の無駄です。 もちろん暇つぶしとして読んでもらうことは構いませんが、 「暇がある」ということ自体が、あなたが凡人である証拠ですから そのことは自覚しておいてください。 ともかく ・99%のインプットをカットする ・インプットの価値判断を行う ・解釈はそのときの態度によって変わる の3つが解釈の重要な役割や特徴だということです。 これらの精度によって「学ぶ」の効率や効果は大きく変化するので、 何かを学ぶ場合には気をつけておいた方がいいと思います。   3.アウトプット アウトプットとは、解釈によって得た情報を確認することです。 この確認なくして「学び」とは言えません。 例えばあなたが何らかの数学の公式を覚えたとしましょう。 この時点でインプットと解釈は終わっています。 しかし、その公式を使って問題を解くことができなかったとしたら、 あなたは公式を「学んだ」と言えるでしょうか? それは公式を「覚えた」だけであって、「学んだ」ワケではないと 思うのです。 「学ぶ」とは、しかるべき文脈において、その知識や経験などを 活かすことができる、ということです。 だとすれば、そこにアウトプットが含まれるのは当然だと言える でしょう。 なぜなら、実際に活かす(応用する)ことができるか否かは、 アウトプットをやってみて、はじめて分かるからです。 学ぶことの目的は何なのかを考えてください。 人によって目的は色々だと思いますが、大きくまとめてしまえば 「成長するため」ですよね? じゃあどうすれば成長したと判断できるのか。 それはアウトプットをしたときなのです。 以前より上手くなった、以前は出来なかったことが出来るように なった。 そういうアウトプットによる実感があったときに、われわれは 成長したと感じます。 どれだけ料理のことを勉強しても、実際に料理をしてみなければ、 料理が上手くなったのかどうかは分かりません。 どれだけ国語や数学を勉強しても、その知識を使ってみなければ、 本当に使えるようになったのかは分かりません。 こうした成長を確認するために、アウトプットが必要なのです。 自分がどれだけ成長したかが分かれば、迷わず次のステップに 進むことができます。 しかし、今の自分の立ち位置が分からなければ、次に自分が何を やるべきかも分かりません。 「どこから手をつければいいのか分からない」という悩みは、 このアウトプット不足から来るものなのです。 逆説的に見えるかもしれませんが、もしあなたが何から勉強を すべきか悩んでいたとしたら、まずは自分の知っていることを アウトプットすることから始めてください。 自分がどこまで知っているかを知れば、自ずと学ぶべきことは 見えてきます。 思考にかかる霧は、「知っていること」と「知らないこと」の 間にかかっていて、その境界を曖昧にしています。 その霧を払いのけるには、アウトプットによる確認が必要です。 脱凡人に楽な道はありません。 面倒臭いと思うでしょうが、それをやった人だけが着実に前進して 行けるのです。   お分かりのように、われわれが意識すべきは 1.インプット 2.解釈 3.アウトプット のうちの、2(解釈)と3(アウトプット)です。 ただし、この3つの段階は一連のプロセスですから、本来は切り離して 考えることはできません。 インプット・解釈・アウトプットしたものは、またインプットを経て、 解釈を経て、アウトプットされるということです。 われわれが学び続けるかぎり、この循環(ループ)は無限に続きます。 そして、この循環に飛び込むことこそが「成長」であり「成功」 なのです。 インプットと解釈で、循環を止めてはいけません。 循環を止めた瞬間に、われわれは凡人になります。 凡人とは、いつも自己満足(インプットと解釈)で物事を終わらせる 生き物なのです。 インプットはアウトプットのために。 アウトプットはインプットのために。 すべては自分のためであると同時に、世界の(周りの)ためである という意識を持って学んでください。 あなたが自分のために学ぶべきこととは、あなたが世界のために 学ぶべきことなのです。   ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えられない理由
ども、杉野です。 先日メルマガで以下のようなクイズを出しました。   あなたに自分の子供がいたとして、その子から「ねえねえパパ(ママ)、なんで人を殺しちゃいけないの?」という質問をされたとしましょう。 この質問に対してどう対応するのがベストだと思いますか? 今回は少しだけヒントを出しておきましょう。「真正面から答えたら負け」。これがヒントです。   これについての解説が、今回転載する記事です。 読むだけでも勉強になることは約束しますが、自分なりに上記の問いを考えてから読むと、もっと勉強になります。 というワケで、できれば考えてみてから読んでくださいませ。 【関連記事】「なぜ人を殺してはいけないのか」に哲学的に答えよう   ■3つの一般的な答えに対する反論 「なぜ人を殺してはいけないのか」 僕が考えうるかぎり、この問いに対する一般的な回答は主に 1.法律で禁止されているから 2.誰かが悲しむから 3.自分が殺されたくないから の3つです。 これらはどれも間違いではないのですが、回答としては不十分と言わざるを得ません。 まず1の「法律で禁止されているから」に対しては「じゃあ法律で禁止されていなければ殺してもいいの?」という反論が可能です。 戦場では他国の人間(軍人)を殺しても法律違反にならないワケですが、そういう場合は人を殺してもいいのでしょうか。 国家が起こした天安門事件のような殺戮は正当化されうることなのでしょうか。 この辺を考え出すと1の回答の正当性はどんどん怪しくなっていきます。 2の「誰かが悲しむから」に対しても1と同じように「じゃあ誰も悲しまなければ殺してもいいの?」という反論が可能です。 身うちのいない、近所付き合いも一切ない一人ぐらしの老人を殺すことは、許されうることなのでしょうか。 孤独なホームレスを集団リンチで殺すことは、何も問題がないのでしょうか。こういう点でこの回答も不十分と言わざるを得ません。 3の「自分が殺されたくないから」にも当然「じゃあ自分が殺されなければ殺してもいいの?」という反論ができてしまいます。 自分が殺されるリスクを負うことなく相手を殺す手段として、われわれは死刑を挙げることができます。 死刑は国家が行うことなので、それが執行されたからといって自分が死の危険にさらされることはありません。 もちろん自分が死刑になる可能性はゼロにはなりませんが、少なくとも誰かが死刑になったということを理由に殺されたりすることはないワケです。 多くの人を殺した大量殺人鬼であっても、殺してはいけないのか。これもまだまだ考える余地がありそうです。   ■場合によっては人を殺してもいい? こうして考えると、今回の問いの深さや難しさが見えてきます。 素朴な感覚として、われわれには 「人を殺していいときもあるんじゃないか」 という考えが浮かんできてしまうのです。 しかし、それは決して悪いことではありません。 実際、われわれはそのときの状況によって、平気で人を殺せてしまうし、殺すことが(法的に)正しいことすらあるのですから。 動物愛護団体の人たちだって、自分が野犬に囲まれて死にそうな状況になったら、さすがにその中の1匹や2匹は殺すと思うんです。 それでも殺さないというのは、ある意味でホンモノだと思いますが、べつの意味では自分の命を軽んじる誤った主義であるとも思います。 この茨の道を進むかぎり、われわれが最終的に行き着くのは 「場合による」 という答えです。 言われてみれば当たり前なんだけれども、恐らくほとんどの人はこの答えにすら辿り着かないと思います。なぜなら、そこまで深く考えないからです。 さっき挙げたような戦争や死刑や天安門事件のような例を含めて考えていけば、「場合による」としか答えられないことは誰にだって分かります。 だって「殺してもいい場合」と「殺してはいけない場合」の両方が現実にはあるんだから。 彼らは問いの前提を見抜くことができないため「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが「正しい問い」だと勝手に思い込んでいます。 しかしわれわれが知っておかなければならないのは、世の中には問いそのものが間違いであったり、無意味であったり、不完全であったりすることが往々にしてあるということです。   ■間違った問い 「なぜ人を殺してはいけないのか」は不完全な問いです。 現実には殺してもいい、もしくは殺さなければならない場合もあるということを、この問いはカバーしていません。 だから僕は 「真正面から答えたら負け」 というヒントを出したのです。 この問いを真面目に考えたところで、そこから導き出される答えはすべて不完全です。 問いそのものが不完全なんだから当然ですよね。けれども、このことに気付ける人はほとんどいません。 それは彼らがバカだからではなく、われわれは昔からそういう教育を受けてきているということです。 学校で出題される問題を見て「先生、僕らがこの問題を解かなければならない根拠を教えてください」と質問する生徒は1%もいないと思います。 われわれは誰もが問いを解くことだけを教えられますから、問いそのものの意味を考えることなんて普通はできないのです。 だって考えてみてください。自分が出す問題にいちいち「この問いを解くことに何の意味があるんですか?」なんて聞かれたら、正直かなりウザイですよね? 国だって、文科省だって、教育委員会だって、そういう国民が増えるとウザイんですよ、当然。 だから彼らは、彼らが出した問題を素直に解いてくれる国民を作ろうとしているワケです。 その教育をわれわれは十何年も無批判に受けて続けているワケですから、そりゃ誰だって問いを疑う能力なんて身につきません。 愚民化政策というのは、こうやってこっそり行われているのです。   ■自動的な思い込み われわれは「正しい問い」と「どうでもいい問い」を見分ける力を身につけなければなりません。 そのためには、自分が問いをどう認識をしているかを自覚しておく必要があります。 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを出された際、われわれは無意識的に自分の中で最も一般的な文脈をその問いにあてはめます。 テレビのニュースでは児童虐待や強盗殺人などがよく報道されていますが、多くの人にとってはそれが殺人における一般的な文脈です。 だから「人を殺す」という言葉を聞くと、われわれは無意識的にそれを犯罪という文脈と結び付けて、悪いことだと判断してしまうのです。 これは行動経済学の実験でも証明されています。 例えばある男性が走っていったあとに警官が彼を追っていったとしましょう。あなたはこれをどう思いますか? 普通、この場面を見たら、先に走っていった男性が何か悪いことをしたのではないかと思うはずです。 しかし、それは本当でしょうか?警官に追われることが、必ずしも悪いことをしたという証拠にはなりません。 もしかしたら彼は警官を事件の現場に先導していたのかもしれないし、彼はその警官の上司で、上司のうしろを警官が走ってついていっただけかもしれません。 にもかかわらず、われわれは男性が警官に追われている場面を見ると、自動的に「あの男性は何か悪いことをしたに違いない」と決めつけてしまうのです。 さっきの話もこれと同じです。 「人を殺す」という言葉だけでは何も判断できないはずなのに、そこに自動的に一般的な文脈があてはめられるから、悪いこととして判断されてしまう。 つまり、この「自動」をなんとかできれば、問いを見分けることができるようになるということす。   ■インプットと解釈の区別 「自動」は、それを自覚しさえすれば「手動」に切り替えることができます。難しいのは、それを自覚することです。 われわれは長年のしょぼい教育でその能力をことごとく失ってしまっていますから、それを取り戻すには相応の努力が必要になります。 何十年もサボったツケはそれなりに大きいワケです。 とはいえ、訓練そのものはシンプルです。インプットと解釈を別々に行う。これを繰り返すだけです。 今言った「自動」というのは、このインプットと解釈が自動的に同時に行われているということを意味します。 男性が警官に追われているという事実(インプット)と、男性が何か悪いことをしたに違いないという判断(解釈)が同時に起こっている。 これを別々に行う訓練をしてください。 詳しい方法というのは特にありません。最初は事実を事実として認識し、意味はあとで考える。ホントにこれだけです。 以前話した精読はこの訓練に最適ですので、読書のついでにやってみてもいいかもしれません。 最初はかなり意識しないと難しいですが、慣れれば自動的にできるようになります。 いい機会ですので、ぜひ訓練しておいてください。   ■文脈を見抜く ちなみに、これができないと本も読めないし、それどころか人の話もまともに理解できません。 なぜなら、本の文脈や会話の文脈も「自動」で設定されてしまっているからです。 相手が意図した文脈とは違う文脈で相手の言葉を解釈してしまうと、当然それは相手の意図とは違う意味で自分に伝わります。 相手の心からの「ありがとう」という言葉さえ、場合によっては自分は皮肉だと受け取ってしまうかもしれません。 「そんなつもりで言ったんじゃない」ということが起こるのは、まさしくお互いにこの能力が欠如していることが原因なのです。 コミュニケーションや文脈については、以前に告知した企画でより深く掘り下げる予定なので、こういうことに興味があるなら参加してもらえればと思いますが、それはともかくとして、この記事で大事なのは問いの前提を、つまり問いの文脈を見抜くということです。 「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問自体は不完全ですが、恐らくその質問をした本人は、その問いに何かしらの文脈を設定しています。 何の脈絡もなしに「なぜ人を殺してはいけないのか」と質問してきたとは考えにくい。 例えば戦争映画を見て、そういう問いが浮かんだとは考えられないでしょうか。 だとしたら、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いはその文脈にあてはめて答えることができます。 つまり「戦争中であっても、人を殺してはいけないのだろうか」という問いに置き換えることができる、ということです。 これなら答える余地があると思いませんか? 価値観によって意見が対立することはあるでしょうが、少なくとも自分なりの意見は提示できる。 このことが問いにおいては何よりも重要なのです。   文脈のない問いは、意見すら提示できません。その意見が正しいか間違いか以前に、まともに答えることすらできないのです。 そんな問いに向き合うことほど、バカらしいことはありません。 「じゃあなんでそんなことをさせたんだ」と思うかもしれませんが、その反論は誤りです。 僕が前回のクイズに何と書いたか、もう一度読み直してください。 僕は「なんで人を殺しちゃいけないの?」という質問に答えろとは一言も言っていません。 その質問に対してベストな対応を考えてください、と言ったのです。 ですから、そこには答えないという選択も含まれます。答えてもいいし、答えなくてもいい。 僕がそう言っているにもかかわらず、それを勝手に答えなければならないと解釈してしまうのは、先程話したインプットと解釈を分ける能力が欠けているからです。 僕の書いた文章が読めていないからです。 まずはそのことを自覚しましょう。 われわれはこんなところで立ち止まっている場合ではないのですから。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックしてメルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック     ...more»
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