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Archives for 哲学

教養へ至るための5段階
  僕が考えるに、われわれが教養へ至るためには5つの段階を 踏まえていく必要があります。 その5つとは 1.無知(知らない) 2.知識(知っている) 3.理解(分かっている) 4.知恵(使える) 5.教養(にじみ出る) です。   1.無知 何も知らない段階です。 今この文章を読んでいる時点で完全に無知ということは あり得ませんが、特定のジャンルや分野に無知だったり、 特定の人に対して無知だったりすることは普通にあります。 自分が無知であることに対して無知であることもありますよね。 いずれにしても、この段階の領域を極力減らすこと、 もう少し突っ込んで言うと、何に対しても無知であることを 恥や不快だと思うことが教養への第一歩です。 知らないってのは恥ずかしいことなんですよ、人として。 それは自分の専門は当然として、専門外に関しても同じです。 加えて、知らないことは恥である以上に危ないことである という自覚も持っておいてください。 ボストン美術館の収蔵品なんかを見ると分かると思いますが、 芸術の価値を分かっていない無知な人たちが、ああやって 貴重な日本の文化遺産を海外に売り渡してしまったワケです。 最近だと慰安婦問題の件とか、あれも結構ヤバイですよね。 安倍総理が知ってやってるのか知らずにやってるのかは 分かりませんが、あの件はメディアで騒がれているほど 素晴らしいことではありません。 こういう過ちを犯さないためにも、そして教養へ至るためにも、 日々自分の無知を減らすように努めましょう。   2.知識 知っている段階です。 1192年に鎌倉幕府ができたのは知っているけど、 なぜ・どのように鎌倉幕府が作られたのかは分からない。 そんな感じですね。 別の言い方をすると、インプットと解釈で終わっているのが この段階です。 これにアウトプット(説明する・教える)が加わわれば 理解に変わります。 知らないのも恥ですが、理解しておくべきことを理解して いないのも恥だと思ってください。 何が理解しておくべきことなのかは、あなたが持っている 人として基準によります。 この基準が低い人ほど恥を恥だと感じない(自尊心が低い) 傾向があるので、気を付けておきましょう。   3.理解 知っていることを教えられる段階です。 理想的には、ここを最低ラインにしておきいたいところです。 当然すべてを理解するなんてことは現実には不可能ですから、 あくまで「理想」です。 何かを知ったあとに、そのことを誰かに教えられれば、 それは理解できていると言っていいと思います。 逆に言うと、説明する・教えるという行動を起こさなければ、 この段階へは「絶対に」至れないということです。 ほとんどの人が行動を起こさないことからも分かるように、 一般的にはこの段階で十分に「教養人」と見なされます。 大学の教授なんかは、大体この段階じゃないでしょうか。 それが良いか悪いかはともかく、理解の段階とは そういうものだと思っておいてください。   4.知恵 理解していることを役立てられる段階です。 世間一般の成功している人たちは、大体この段階だと 思います。 一応言っておきますが、別に彼らを軽蔑しているワケでは ないですからね。 単に僕がそう分析しているだけですので、価値判断は棚に 上げておいてください。 役立てられるとは、自分や他者に貢献できることであり、 この段階から自分の価値(相応しさ)が跳ね上がります。 その意味で、この段階は努力が報われる段階と言っても いいでしょう。 ここまで至れれば普通は十分だと思います。   5.教養 その人の言動の1つ1つが本人の意思とは無関係に、 周りの役に立ってしまう段階です。 知恵が人格化されたもの、と言えば伝わるでしょうか。 言葉で表現するのが非常に難しい段階ですが、 そういう人たちが世の中にはいます。 教養の手前の段階に知恵があることからも分かるように、 誰の役にも立たない哲学や芸術、政治、経済などの知識は 僕の言う意味での教養ではありません。 教養という言葉は文脈によって「芸術の知識があること」を 意味したりすることもありますが、それはせいぜい理解の 段階です。 ここで言っているのはそういう意味での教養ではなくて、 もっと本来的な意味、貴族的な意味での教養ですので、 その点は誤解のないように。   以上の5つ 1.無知(知らない) 2.知識(知っている) 3.理解(分かっている) 4.知恵(使える) 5.教養(にじみ出る) が教養へ至るための5段階になります。 この段階を1つ1つ踏まえていくことが、われわれが成功、 すなわち教養へ至るためのステップです。 そのために何をどうすべきなのかは、これから追々話して いきます(今までもずっと話してますけどね)。 ここで分かっておいてほしいのは、1つの教養や知恵を 極めたぐらいで満足するな、ってことです。 何であれ、長い間やっていれば自分の専門分野で 教養の段階へ至ることは可能ですが、それは師匠の言葉を 借りるなら 「バカの1つ覚え」 にすぎません。 20年や30年も同じことを続ければ「誰だって」 そうなるのであって、別に凄いことではないということです。 そうではなく、われわれは「あなたは何をやっている 人なんですか?」と聞かれるぐらい、いろんなことを 知っていて、理解していて、使える人でないといけない。 音響の仕事「を」していますとか、英語「を」教えています とかではなくて、音響の仕事「も」しているし、英語「も」 教えています、じゃないといけないワケです。 音響の仕事をしていますというのは、逆に表現すると 音響の仕事しかできません、音響のことしか知りません、 ということですからね。   リーダーとして、一人の人間として相応しくあることに 終わりはありません。 常に今の自分を恥じ、絶望し、それを乗り越えていくこと、 それこそが人格としての教養なのです。 相変わらず苦しい道ですが(笑)がんばっていきましょう。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
教養と成功の関係 ~新しい成功の定義~
  僕のメルマガはあなたに何を提供し、 僕自身は何を体現していて、何を求め、 あなたにどうなってほしかったのか。 僕を長い間苦しめていたこの答えがようやく 見つかりました。 もう長々話すのは面倒なのでいきなり言います。 それは「相応しさ」です。 僕はあなたに、 ・日本人として ・仲間として ・リーダーとして ・大人として ・社会人として ・上司として ・先輩として ・部下として ・後輩として ・親として ・子として ・パートナーとして ・一人の人間として 相応しい人であってほしいと思っていると同時に、 僕自身もそういう人間であろうとしています。 相応しさについては以前メルマガでも書いたことがあるし、 もう1つのメルマガや、フェイスブックのコメントでも 書いたことがありますが、近すぎるものほど見えないもので、 それが自分の体現しているコンセプトだということに今の今まで 気付きませんでした。 僕にとっての、いや、われわれにとっての成功とは、 哲学書を読むに相応しい、大金を持つに相応しい、 優秀な人と付き合うに相応しい、自由を満喫するに相応しい、 そういう人間になる(である)ことだったのです。 この成功をつかむためには教養が必要になります。 というよりも、教養を通してしか、この成功は実現しません。 僕が教養にこだわり、人としての在り方にこだわってきた理由は ここにあったワケです。   いつものことながら、気付いてみればなんてことないこと なんですよね。 まあでも、新年早々に大きな一歩を踏み出せた気がします。 なんと言っても、これでもう目指す方向はブレないですからね。 あとはゴールまでの筋道を緻密に作り込むだけでいいんだから、 ホントに肩の荷がおりました(笑) そんなワケで、次回は「教養の4段階」みたいな話から 始めてみようと思います。 お楽しみにー。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
理想の理想
  僕は20歳の頃、ラジオミキサーというラジオ番組の音響担当に なるのが夢でした。 その夢を追いかけて(という程のことは何もしてないんだけども) 某音響会社に入り、何年かの研修期間を経た末、「そろそろ デビューしてみるか」ということで、あるときラジオミキサーを やらせてもらえることになりました。 25歳頃のことだったと思います。 しかし、その頃の僕はラジオミキサーへの情熱をほとんど失って いました。 その仕事が嫌いになったワケではなかったのですが、 研修を重ねるにしたがって、ラジオミキサーという仕事が 自分の思い描いていた理想とは随分と違っていることに 気付き始めたのです。 具体的に何がどう違っているかまでは把握していませんでしたが、 何かが違うということは感じていました。 いざラジオミキサーをやってみるとその違和感は益々大きくなり、 僕は今まで抱えたことのない悩みを抱えることになります。 経験した人にしか分からないと思いますが、夢を失うというのは すごく苦しいことです。 今までゴールだと思っていたところが、着いてみたらそこには 「ここがスタート地点です」と書かれていて、その先の矢印は どこにも見当たらない。 絶望とは、こういうことを言うのでしょう。 この頃には既に今の活動の礎となる勉強を何年か続けていたので、 なんとか持ちこたえることが出来ましたが、何もしていなかったら 今頃はどうなっていたことか・・・。 そんな悩みを抱え、苦悩しながら数ヶ月間自分と向き合った結果、 今のような活動をしようと思うに至りました。 具体的なイメージも、ビジネスプランも、ましてや勝算なんて まったくなかったですが、ラジオミキサーという夢が明確だった あの頃よりも、それを失った後の方が心穏やかに過ごせていた 気がします。   夢や理想というのは、案外「ぼや~ん」としているぐらいが 丁度いいのかもしれません。 僕の今の夢は、自分の村を作ることです(笑) これほど「ぼや~ん」としている夢もなかなかないでしょう。 具体的な構想も徐々に固まってきてはいますが、 最終的にどうなれば理想的な村と言えるのかは僕自身も まったく分かっていません。 でもそれが楽しいんですよね、今の僕にとっては。 われわれが日々変化しているように、われわれの理想も 日々変化しています。 このことを多くの人が忘れているように思えてなりません。 冒頭の話はその一例で、ラジオミキサーという夢が 5年も10年も同じ夢であり続けることの方がむしろ 不自然なのではないか、ということです。 実際、僕が小学生の頃になりたかった職業はホテルマンに始まり、 タップダンサー、警察官へと変わって行きました。 中学生の頃はゲームクリエイター、高校生の頃はPA (コンサートなどの音響)、専門学生の2年になる手前で やっとラジオミキサーになる夢を持ったという経緯があります。 これを見ると、昔から気分屋は変わらないんだな、ということが よく分かるワケですが、それはともかく、夢や理想というのは こうして変化していくのが自然なのではないかと思うのです。 宇宙飛行士や野球選手のように、一貫した夢を追い続けられる 人たちがいることを考えると、それが絶対だとは言えませんが、 彼らにしても同じ夢における理想は日々変化しているはずです。 小さい頃から野球選手になりたいと思い続けてきた人でも、 成長するに従って、どんな野球選手になりたいかは 変わってきていると思います。 なぜなら、それが成長するということだからです。 考え方や価値観が変化すれば、目指すものも変わって当然です。 僕だってそのうち、村なんて作っても仕方ないか、と思うかも しれません。 けれども、それが自然なことなのですから、われわれはそれを 素直に受け入れるべきなのです。   夢や理想を「ぼや~ん」とさせておくことの利点は、 その夢や理想の幅(マージン)を広くとれるということです。 今の僕ぐらい夢が「ぼや~ん」としていれば、ビジネスを 勉強しても、哲学を勉強しても、スピリチュアルを勉強しても、 どんなことでも村構想に結び付けることができます。 どんな村にするかが決まっていない、つまり夢が具体的になって いないことによって、自分の気持ちの変化に対応できるワケです。 ただし、これが絶対によいと言っているワケではありません。 例えば、楽しく生きる、という程度にまで「ぼや~ん」とすると、 相応の訓練を積んだ人でないと何をやっていいのかが分からなくて、 逆に夢や理想としての意味を失ってしまうこともあります。 誰だって楽しく生きたいのは間違いないと思いますが、 それをそのまま「私の夢は楽しく生きることです」と言うのには 抵抗があると思います。 なぜ抵抗があるかというと、楽しく生きるためにやるべきことは 無限にあるため、それは多くの場合何も言っていないのと同じに なるからです。 そういえば中学生のとき、成績が学年でトップだった友達が 「俺の夢は何でも屋になることだ」と言っていましたが、 それに似ています。 何でも屋になること自体は凄いことなんだけれども、 何でも屋になるためにすべきことはそれこそ「何でも」ですから、 その発言は「精一杯がんばります」以外の何ものでもありません。 また現実に何でも屋は存在しますが、彼らは何でもできる人など ではなく、どちらかと言えば誰でもできるけど誰もやりたがらない 雑用を受け持っています。 この現実を見れば明らかなように、何の訓練も積まないまま 夢や理想を極端に「ぼや~ん」とさせると、結局普通の人にしか、 凡人にしかなれないのです。   どの程度「ぼや~ん」とさせるかは、自分の抽象化能力によって 使い分けなければなりません。 抽象化能力が高い人は楽しく生きることを夢にしていても そこへ向かって自分を高めていくことができますが、 低い人にはそれができません。 それは上の例で出した僕の友達が証明しています。 彼は当時、学年トップの成績と人間的魅力を兼ね備えた素晴らしい 人間でしたが、15年経った今では普通の人になっています。 どれだけ賢かったとは言っても、中学生で、かつ校内一位ぐらいの 賢さでは抽象化能力が足りなかったということでしょう。 彼が自分の夢だと言っていた何でも屋は、具体的な夢がないことの 言い訳でしかなかったのです。 こうならないためには、まず自分の抽象化能力を把握することです。 これの目安は自分に「しっくり」くるか否か。 例えば僕は「村を作る」でもしっくりきますが、人によっては 「村人が100人の村を作る」とか「村人が100人の世界一若者が 溢れる村を作る」とか「村人が100人の世界一若者が溢れる村を 九州に作る」とか、そうやって具体化していかなければ しっくりこないかもしれません。 どこでしっくりくるかは人によりますが、そのしっくりくるところが 自分の抽象化能力を表しています。 それさえ分かっていれば、夢や理想へ向かう「道」を見失うことは ありません。 昔の僕はラジオミキサーぐらい夢が具体的でないとしっくりこない、 つまり何をすればいいか分からなかったワケですが、今はそこまで 具体的である必要はなくなりました。 別に抽象化能力が高い方が偉いと言いたいワケではありませんが、 高くなると夢や理想へ向かう「道」が広がっていくことは確かです。 禅という道からでも、栄養学という道からでも、 政治という道からでも、夢や理想へ到達できるようになる。 これは気分屋の僕にとって凄く気持ちが楽です。 ラジオミキサーになるための道はかなり限られていますが、 村を作るための道はほとんど無限に用意されていますから、 僕はそのときそのときの気分によって歩きたい道を歩きたいように 歩けばいいワケです。 実際、僕はどの道を歩いていても理想へ近づいている実感があります。 今話していることだって、村を作ることとは関係がないように 見えるかもしれませんが、僕にとっては関係がある。 だから冒頭の話で言ったように、(具体的な)夢を失った今の方が 心穏やかに過ごせているのだと思います。   抽象化能力を鍛えるには、抽象的な文章、一般に難しいとされる 哲学書や学術書などの文章を読むのが最もよい訓練になります。 それらの文章は抽象と具体の間を頻繁に行き来していますから、 それらを理解するということは、抽象化と具体化を行う能力と 直接結びついているワケです。 ちなみに、われわれが哲学書や学術書を「難しい」と感じるのは、 その文章に自分を合わせられるほどの抽象化能力がないからです。 われわれの周りには具体的な情報や、具体的な振りをした 情報ばかりが溢れていますから、普段の生活で抽象化能力が 鍛えられることは滅多にありません。 仮に抽象的な情報があったとしても、われわれはそれを難しいと 感じるため、積極的に避ける傾向があります。 それ故に、ただでさえ少ないわれわれの抽象化能力はさらに衰え、 「ぼや~ん」とした夢や理想を持てなくなってしまうのです。 抽象化能力は以前話した『仲間を選ぶ』という記事の内容とも 密接に関係しているのですが、それはまた機会があればどこかで 話すことにしましょう。   夢や理想というのは、ただあればいいというものではないし、 必ずしもそれを目指すことがよいことだとはかぎりません。 僕のように「過去の夢」に到達して絶望していたのでは、 せっかくの夢も台無しです。 大事なのは「今の夢」を「しっくり」くるレベルで「ぼや~ん」と させておき、そこへ至る道を見失わずに歩き続けることです。 感覚的な言葉が多いのは敢えてそうしています。 本当にその夢が自分の夢なのか。 それを達成することに本当に意味があるのか。 その自分の感覚に対して常に意識を向けておいてください。 少しずつ、しかし確実に、あなたの夢や理想は変化しています。 その変化を捉え、歩くべき方向を微調整し続けること。 それが夢や理想への最短経路なのです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
見えないものを見る力
  人智学を創ったことで有名な、ルドルフ・シュタイナーという 神秘学者がいます。 彼はかつて、一般の人には認識することのできない霊や魂、 すなわちスピリチュアルの世界を科学のルールに則って 伝えようとしました。 正しい修行を正しく積めば、霊や魂は誰にでも認識できる (超感覚には再現性や客観性がある)。 それがシュタイナーの立場です。 スピリチュアルと言うと、一般には何か特殊な才能がないと 認識できないものだと思われていますが、彼は自身の著書で それを繰り返し否定しています。 それどころか 「人間が可視的な世界の中で認識する事柄は、不可視な世界について 知ることのできる事柄によって、補充されなければならない。(中略) 可視的なものを認識するには、繰り返して不可視なものの中へ沈潜し、 認識能力を進化させなければならない。超感覚的なものについての 科学こそが、可視的な世界についての知識を可能にする」 とまで言っています。 彼の言う不可視な世界とは、スピリチュアルの世界のことです。 つまり彼は、不可視な世界を認識できなければ、可視的な世界の 事柄を「本当に」知ることはできない、と言っているワケです。   前回僕は「見えないものの結果が見えるものだ」と言いました。 そしてシュタイナーは、「思考と感情と意志は、外界を体験するとき、 その開示された現象(見えるもの)を開示されざる作用 (不可視な世界=見えないもの)の表現であることを認めないかぎり、 互いに理解し合えぬままにとどまるであろう」と言っています。 これらはどちらも「見えないもの」が「見えるもの」を支えている、 ないし定義づけていると言っている点で共通しています。 「見えないもの」を認識できたときに、「見えるもの」の本当の 意味が分かるということです。 例えばニュース。 巷のメディアではエボラ出血熱のような世界規模のニュースが 流れたかと思えば、次の瞬間には幼児虐待や強盗殺人のような ローカルなニュースが流れてくるワケですが、これらのニュースが 個々バラバラに見えているとすれば、まだ「見えないもの」を 認識できていないと思ってください。 別にメディアはそのニュースが大事だから伝えているワケでは ありません。 その他に山ほど伝えるべきことがあるにもかかわらず、 それらのニュースを「敢えて」選んで取り上げているのには、 それなりの理由があるのです。 その理由(メディアの意図)が分からなければ、そのニュースが 本当に意味することは分かりません。 これが僕の言う「見えないものの結果が見えるものだ」の一例です。 シュタイナーが言っていることはもっと深くて、例えば彼は 手造りの物と機械で作った物とでは、見た目や素材が同じでも 得られるものがまったく異なると言っています。 もう少し極端な例を挙げると、同じ野菜を育てるのでも、 それを育てている人の人格次第で野菜に含まれるものが異なる ということも言っている。 これ以上突っ込むといらぬ誤解を招きかねないので、これぐらいに しておきますが、われわれが普段接する物の意味、つまりその物が 「実際には」われわれに何を与えているのかは、「見えないもの」を 認識できなければ分からないということです。   以上のことから、「見えないもの」には大きく分けて2つの種類が あるということが分かります。 1つは僕の言う意味での「見えないもの」、つまり推論によって 見えるようになるもの、もう1つはシュタイナーの言う意味での 「見えないもの」、つまり超感覚、スピリチュアルな感覚を 磨くことによって見えるようになるものです。 後者については、僕はほとんど語る資格がありません。 シュタイナーの言わんとすることは理解できるし、それを噛み砕いて 説明することはできますが、彼と同じように、あっちの世界を 認識することは(少なくとも現時点では)できないからです。 魂も霊もエーテル体もアストラル体も僕には認識できません。 それを無理に語ることは、やはり無責任と言えるでしょう。 僕が語れるのは前者だけです。 じゃあなんでわざわざシュタイナーの話を出したんだ、と思うかも しれませんが、その理由は後で分かります。 「今の」われわれにとって重要なのは、理性を超えた能力ではなく、 理性的能力の方なのです。   どのような能力があれば推論によって「見えないもの」を見ることが できるのか。 この問いを考えたときに僕の頭には4つの能力が浮かびました。 その4つとは 1.問う力 2.根気 3.論理的思考力 4.関連づける力 です。 まず問う力がなければ、推論は「始まり」ません。 われわれは「なぜだろう?」と思うから考え始めるのであって、 そもそもその「なぜ」が浮かばなければ、思考力云々以前に 考え始めることすらできないということです。 残念なことに、ほとんどの人はこの時点でつまづいています。 何に対して何を問えばいいのか分からない。 いつ何を考えるべきなのか分からない。 そんな状態です。 これは言い換えると、それだけ世界に対して無関心だということです。 だって関心があれば自然と考えますよね? 例えばダイエットに関心がある人なら、自然と「どうやったら 痩せるのか」とか「なぜあの人は食べても太らないのか」とか 考えるでしょ。 ニュースを見ていても、そこに何の疑問も浮かないならば、 そのニュースには関心がないということです。 仮にそこで「なぜこんな事件が起こるのか」という疑問が湧いても、 多くの人は深く考える前に、考えるのをやめてしまいます。 もしくは「そういう時代だから」とか「政治家はバカだから」とか 「最近の若者は何を考えているのか分からない」と、安易に自分で 答えを決めてしまう。 これは、彼らに疑問を考え続けるだけの根気がないからです。 せっかく重い扉を自力で開いたのに、彼らはそこに足を踏み入れず、 簡易のガイドマップだけを見て満足して帰ってしまうのです。 彼らにとって重要なのは答えであって、問いではありません。 しかも彼らが求めているのは正しい(論理的に考えて妥当性の高い) 答えではなく、(感情的に)納得のいく答えです。 このことから、彼らがいかに理性的能力から遠い存在であるかが 分かります。 ただ、問う力と根気があったとしても、論理的思考力がなければ そこから考えを深めていくことはできません。 重い扉を自力で開いて、そこに足を踏み入れたのはいいものの、 そこから何を基準にして先へ進んだらいいのか分からない。 簡易のガイドマップはあくまで「簡易」のため、ほとんどあてに なりません。 未踏の大地で一歩一歩、歩を進めていくためには、 方位磁石のようなある種の絶対的な基準が必要になるワケです。 そして上記3つの力が揃っていても、関連づける力がなければ 途中で立ち往生してしまうかもしれません。 関連づける力は、論理的思考力の相棒のようなものだと思って ください。 論理的思考力があれば基本的に先へは進めるのですが、 この能力だけではどうしても行き詰ってしまうことがあります。 それはアイデアと呼ばれるものが、しばしば論理的飛躍 (帰納的飛躍)から生まれることを考えれば、なんとなく想像は つくのではないでしょうか。 問いの答えは純粋に論理的に導けることもあれば、 突飛なアイデアからしか導けないこともあります。 歴史的な発見なんかはむしろ、論理的に見つかったというよりも、 今まで全く関係ないと思っていたもの同士が結び付いた瞬間に 起こることがほとんどです。 つまり大抵の場合、ゴールへ辿り着くにはどこかで関連づける力が 必要になってくるのです。   ちょっと長くなりましたが、以上の4つ 1.問う力 2.根気 3.論理的思考力 4.関連づける力 が、僕の考える推論に必要な能力です。 この4つを身につければ、推論によって「見えないもの」が 見えるようになります。 もちろんこれには度合いがありますから、その度合いによって 見える範囲や種類は異なりますが、その度合いを高めれば 見える範囲や種類は増えていくということです。 そしてさらに重要なのは、この理性的能力を身につけることが、 理性を超えた能力を獲得するための前提条件だということです。 これは理性を「超えた」能力という言葉を正しく理解していれば 分かると思います。 理性を超えた能力とは、理性とは別の能力ではありません。 それは理性を「超えている」のですから、言葉の定義として、 理性的能力を「踏まえて」いなければおかしいワケです。 例えばオリンピック選手は常人の能力を超えた能力を持っています。 けれども、それは常人とは別の能力を持っていることを意味する ワケではなく、常人並の運動能力があるのは当然として、それ以上の 能力を彼らが持っていることを意味するワケです。 だとすれば、理性を超えた能力が、理性的能力を踏まえていなければ ならないのは当然でしょう。 シュタイナーを代表とする、あっち系の人たちは非常に勉強熱心です。 彼らは僕なんか比較にならないぐらい勉強しています。 その上で、霊的な修行(瞑想)も行っている。 だからこそ、彼らは理性を超えて物事を見ることができるのです。 極稀に「オーラが見えるようになっちゃいました」的な人がいますが、 彼らは例外です。 その証拠に、彼らはどうやればオーラが見えるようになるのかを 説明できません。 理性的能力を踏まえていないと、どうしてもあーゆーふわふわした 感じになります。 それがいいか悪いかはここでは議論しませんが、そういうことも 稀にあるということです。   あなたが「見えないもの」を見たいかどうかはともかく、 僕は見るべきだと思います。 それは初めの方でも言ったように、見えないものを見なければ、 見えているものの本当の意味が分からないからです。 極端な話、見えないものが見えなければ、今あなたが読んでいる このメルマガの意味も本当には分からないということです。 もちろん僕のメルマガは自分の読みたいように読んでもらえば それで構わないのですが、それだけではちょっともったいないと 思いませんか? どうせ同じ時間を使って読むなら、浅くしか理解できないよりも、 深く理解できる方がいいと思うんです。 だって、同じ時間で得られるものが何倍も違ってくるんだから。 それは言い換えると、同じ時間で凡人から脱せる度合いが何倍も 違ってくる、実力の度合いが何倍も違ってくるということです。 だったら、もうやるしかないですよね? 次回からは今挙げた4つの力を1つ1つ解説していく予定です。 (※多分ブログには転載しません) それを読むだけで「見えないもの」が見えるようになるとは 言いませんが、読まないことに比べればかなりの近道にはなると 思います。 本来であれば、次回の記事が送られてくるまでに今回の 「見えないもの」を自力で見つける、つまり問う力とは何か、 根気とは何かなどを自分で考えてみるというのが一番の訓練に なるのですが、いきなりそこまでやれとは言いません。 言いませんので、せめていろんなものに興味・関心を持つように してください。 それが推論の、「見えないもの」を見るための第一歩です。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
六波羅密 ~仏教が教える成功哲学~
  仏教には「六波羅密」というある種の成功哲学があります。 六波羅密が定める6つ(実際には5つ)の修行を実践していけば 般若へ至ることができる、というものです。 般若を分かりやすく言うと、現実をありのまま見ることができ、 それによって生活を改善したり世界に貢献することができる状態、 という感じになるでしょうか。 悟りとの違いは、実用的である点です。 悟りの目的は自分が悟ることにあるのですが、般若の目的は 生活をよくすること、世界をよくすることにあります。 われわれが目指している脱凡人とは、まさにこの般若の状態を 指すワケですが、仏教の教えによれば、たった5つの修行を 実践するだけで、その状態に至ることができるそうです。 その5つとは 1.布施 2.持戒 3.忍辱 4.精進 5.禅定 です。 本当は六波羅密の6つ目に「般若」が入るのですが、般若自体は 上の5つを実践することで到達できるので、ここでは修行には 含めていません。 通常この5つは非常にシンプルな説明がされるだけなのですが、 今回はそれを僕なりにもっと使いやすいカタチにアレンジして 話してみたいと思います。   1.布施 布施とは、与えることです。 物質的なものだけでなく、知識や知恵を与えること、思いやりなどの 気持ちを与えることもここに含まれます。 布施で大事なのは、与えることそのものではなく、どういう動機で、 どういう目的で与えるかです。 それが般若へ至るために与えているならば、実質的には何の意味も ありません。 なぜなら、その不純な動機を正すための修行が布施だからです。 一切の見返りを求めず、ただただ「与えたい」という気持ちから 与えること。 この純真さを獲得して、はじめて布施ができるワケです。 その意味でこの修行は自分の中にある邪念との闘いと言えます。 これだけ与えたのだから、何か見返りがあって当然だ。 これだけ金を払ったのだから、特別なサービスがあって当然だ。 これだけブログを書いたのだから、コメントが付いて当然だ。 そういった器の小さい発想のままでは、いつまで経っても般若には 到達できません。 「あれだけ色々してあげたのに、どうして自分には何もして くれないんだ」とか思っちゃいけない、ということです。 むしろ「自分がしたくてしただけだ」と思わないといけない。 はじめはそうやって自分を言い聞かせるところから始めて、 最終的には自然と「与えたい」という気持ちで与えられるように なるのが理想です。 それができれば、般若に至る日も、そう遠くはないでしょう。   2.持戒 持戒とは、戒律や規律を守ることです。 この場合の戒律や規律というのは道徳的・倫理的規律を指します。 例えばダラダラしないこと、規則正しい生活をすること、 奇をてらったバカな行動を慎むこと、他者に迷惑をかけないこと、 他者を喜ばせること、マナーを守ること、適度な体形を 維持することなどなど。 一言で言えば「人として恥じない生き方をすること」です。 ただ注意しておくべきは、それを他者にまで求めてはいけない ということです。 意識の高い人ほど同じレベルの意識を周りに求める傾向があります。 俺はこんなに頑張ってるのに、なんでアイツらは・・・。 そう思っているうちはまだまだ未熟なんだと思ってください。 同様に、マナーの悪い人を見てイライラしたり、体形のだらしない 人を見て蔑んだりするのも未熟な証拠です。 こう言うとすぐに「私は未熟だからダメなんだ・・・」と凹む人が いるのですが、僕はそういうことを言っているのではありません。 未熟なのは仕方のないことです。 誰だって最初は未熟なのですから、それがダメだと考えること自体が 間違いです。 そうではなく、イライラしたり蔑んだりする度に「自分はまだまだ 未熟なんだ」と自覚しておきましょう、と言っているのです。 未熟がダメなのではなく、未熟であることを自覚せず、自分のことを 棚に上げて他者にばかり不満をぶつけることがダメなのです。 まずは自分が徹底的に持戒を実践しましょう。 周りのことをとやかく言うのは、それからでも遅くはありません。   3.忍辱 忍辱とは、耐え忍ぶことです。 これだけを読むと「我慢」と同じような意味に捉えてしまうと 思いますが、忍辱はそれとは次元が違います。 厳密に言うと、忍辱とは、ありのままの現実を見ることで、 苦痛を苦痛と思わないようにすることです。 例えば「痛い」という感覚は普通われわれにとって苦痛ですが、 痛いことそれ自体は単なる感覚であって善でも悪でもありません。 痛みがあるお陰で症状を自覚でき、いち早く処置ができるワケ ですから、考え方によっては有り難くも思えてきます。 こういう見方をするための修行が忍辱です。 同様にして、自分の(善意の)行為が無視されても、 逆境に陥っても、それは悪いことではなく単にそういう現実が そこにあるだけだ、という見方をすることも忍辱になります。 つまり忍辱とは字ばかりで、実際にやっていることは坐禅や瞑想と 同じなのです。 僕の言葉で言えば、これは「解釈の幅を広げること」もしくは 「ピックアップ能力を高めること」などに当たります。 苦痛という側面だけを見たり、苦痛という価値だけを拾うのではなく、 もっと他の側面や価値にも目を向けましょう、ということです。 それが難しいというのは重々承知ですが・・・がんばって(笑)   4.精進 精進とは、精一杯努力すること、全力でやることです。 これについては特に説明することはないと言いたいところなのですが、 一点だけ注意しておきたいことがあります。 それは今から3年以上も前に、僕がメルマガ第1号(創刊号)で 言ったことです。 「われわれは全力を出そうと思っても、意識的に全力を出すことは できない」 これを理解しておいてもらいたいと思います。 「全力でがんばります」と言って、本当に全力を出せる人はいません。 なぜなら、全力とは「出すもの」ではなく「出さざるを得ないもの」、 「出てしまうもの」だからです。 寝る間も惜しんで何かに打ち込んだ経験があれば分かると思いますが、 あんなことはやろうと思ってできることではありません。 全力とはそういう性質のものを言います。 狂ったかのように1つのことに集中し、他のことが一切見えなくなる。 文字通り「全」力ですから、それ以外のことには意識を向ける力すら 残っていないワケです。 つまり精進とは、極限まで集中力を高めて1つのことに打ち込む ということなのです。 もちろんこの状態を「常に」維持しなければならないワケではなく、 「出来る限り」維持することが修行なんですけどね。 ご参考まで。   5.禅定 禅定とは、いかなる状況においても冷静であることです。 これは忍辱とも被ります。 いかなる状況でも、ありのままの現実を見ることによって、 心は平静に保たれる、ということです。 これだけで説明を終えるのもアレなので、もう1ついいことを お教えしましょう。 心を平静に保つには、ありのままの現実を見ることに加えて、 長期的に物事を考える、という方法があります。 長期的というと普通は10年や20年ぐらいを考えると思いますが、 僕の言っている「長期的」は100億年とか200億年とか、 そういう天文学的レベルの長さです。 その長さで考えれば、われわれの身に振りかかるどんなことも、 ちっぽけなことに思えてこないでしょうか。 そもそも人間が生まれたのは宇宙の歴史からすれば0.01秒前 ぐらいの出来事であり、そんな人間が今日明日どうなろうが 宇宙にとっては石ころが1つ転がった程度の影響しかないワケです。 この形而上学的な視点を持つことで、自分の置かれている状況や 自分のことがどうでもよく思えてきます。 どうでもいいことに対して心を乱されたりはしませんよね? そうやって心を平静に保つことができるということです。 何かパニックになったときには、宇宙的視点から自分を見るように してください。 それだけで随分と気が楽になると思います。   以上の5つ 1.布施 2.持戒 3.忍辱 4.精進 5.禅定 が般若へ、つまり脱凡人へ至るための道です。 改めて言いますが、脱凡人とは何か特別な人間を指すのではなく、 こういう当たり前のことを当たり前にやっている人間を指します。 われわれにとって毎日の生活は常に修行なのです。 その修行に気付かず、ときにはそれから目をそらし、 逃げてばかりいるのが凡人であって、脱凡人はそれを真正面から 受け入れているに過ぎません。 嫌なことがあっても、辛いことがあっても、その目の前の現実を ありのまま受け入れ、自分や世界と向き合っていく。 われわれのやるべきことは、それだけです。 それだけでわれわれは理想を手に入れることができるのです。 これは僕が言っているのではなく、僕なんか比べ物にならないぐらい 修行を重ねた昔の偉い人が言っているのですから間違いありません。 とにかく気を抜かずに生きることを意識してください。 それが般若への第一歩です。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
誰でも芸術の凄さが実感できるようになる感性の磨き方
  「芸術のことはよく分からない」 ブログに芸術に関する記事を書いていることもあってか、 僕はたまに読者の方からこういうことを言われます。 これは彼らなりの「分かってみたい」という希望なのだと 僕は捉えていますが、その希望に対して、僕はこれまで 「こうすれば分かるようになるよ」という具体的な道を 示すことができませんでした。 ある人には「哲学を学んでいれば分かるようになる」と 言った記憶がありますが、それも間違いではないとは言え、 納得のいく答えには程遠いと言わざるを得ません。 なぜ哲学を学ぶと芸術が分かるようになるのか。 その理屈が抜け落ちているからです。 ご存知のように、芸術の価値や素晴らしさは言葉では 説明できません。 無理やり言葉で説明しようとしている評論はたくさん ありますが、それらはどれも野暮ったく、言葉にすれば するほど胡散臭い言葉が並ぶことになります。 だからこれまで僕も芸術を(言葉で)理解してもらうことは 諦めていました。 しかし最近、僕はあることに気が付きました。 それは、直接僕があーだこーだ言って芸術を分かって もらうことはできなくても、芸術を捉える感性を磨いて もらうことによって、間接的に芸術を分かってもらうことは 可能なのではないかということです。 つまり、感性の磨き方を教えることで、「芸術が分かる人」に なってもらうことはできるということに気が付いたのです。   感性は主に2つのことを意識することで鍛えることができます。 その2つとは 1.比較 2.丁寧さ です。 比較は感性の幅、丁寧さは感性の深さだと思ってもらえば、 分かりやすいかもしれません。 比較が欠けても、丁寧さが欠けても、感性は粗雑なものに なります。 今から1つずつ説明していきますので、どちらもしっかりと 意識していくようにしましょう。   まずは比較についてです。 人は差異にしか反応できない、というのは有名な話ですが、 これは感性でも同じで、われわれはいいものと悪いものを 比較することではじめて、いいものがどれぐらいいいもの なのかが分かります。 僕がこれを強く実感したのは、米の味の違いを知ったときです。 それまで家で食べている米が美味しいなんて思ったことが なかったのに、某牛丼チェーン店で不味い米を食わされて 普段食べている米がどれだけ美味しいかを実感しました(笑) 米の味ってこんなに違うのか、と。 そのときにはじめて僕は家の米の有り難さを知ったワケです。 この話はそのまま芸術にも当てはまります。 われわれが美術館で見る作品というのは、おおよそどれもが 一級品です。 ピカソやムンク、モネ、ルノワール、ゴッホなどなど、 有名な作品はどれも比べようのないものばかりですから、 それしか見たことのない人は、家の美味しい米しか食べたことが なかった僕のように、それらの凄さが分からないのです。 しかし、画廊や県展(県が公募作品を集めて展示する展覧会)で 展示されている、素人に毛が生えた程度の作品群を見れば、 誰でもゴッホやピカソの凄さが実感できるようになります。 何がどう凄いのかということは分からなくても、あの作品より この作品の方が優れているという判断は誰にでもできる。 つまり、比較する対象を増やすこと、松竹梅ジャンルを問わず あらゆるレベルのものに触れることが感性を磨く第一歩なのです。   続いて丁寧さ。 丁寧さは、今言った「何がどう凄いのか」が分かるように なるために必要なものです。 AとBを比べて、Aの方が凄いということは分かった。 じゃあ一体AはBに比べて何がどう凄いのか。 これが分かるようになるには、何度も何度もAとBを細かく 比べてみるしかありません。 米の味であれば、何度も何度も食べ比べて、米の甘さや食感、 風味、水分量などを調べていくという感じになります。 絵ならば、絵具の質感や全体のバランス、使われている技法、 時代性などを見ていく。 丁寧さとは言い換えれば、より具体的な比較に必要なものです。 今までは「米」や「絵」というザックリした単位でしか比較して いなかったものも、「米の甘さ」や「絵の色使い」で比較して いくことによって、より深い次元の感性が磨かれます。 対象を丁寧に見るからこそ、より精密に「何がどう凄いか」まで 比較して知ることができるのです。   以上の2つ 1.比較 2.丁寧さ を普段から意識して生活してもらえれば、われわれの感性は 自然と磨かれていきます。 ただ誤解しないでほしいのは、ここで言う感性は別に芸術に 対する感性に限定しているワケではないということです。 今はたまたま芸術のことがメインになっているだけで、 ここで言っている感性とは、われわれが知っている 最も広い意味での感性を意味します。 だから例えばファッションセンスも、この方法で磨いて いくことが可能です。 ショボイ服からエレガントな服まで一通り着てみれば それらの違いは分かるし、それらの組み合わせの良し悪しを 丁寧に見ていけば、コーディネートのセンスも磨かれる。 すなわち、応用の幅は無限大なのです。   感性を磨けば、日常に対して感じることも変化します。 今まで凄いと思わなかったものも凄いと思えるようになり、 今まで美味しいと思わなかったものも美味しいと思える ようになる。 凄さを感じたければ、ショボイものや凄いものにたくさん 触れてください。 美味しさを感じたければ、美味しいものから不味いものまで いろんなものを食べてください。 それだけで僕らの感性は磨かれていきます。 好き嫌いをしないこと。 未体験ゾーンに足を踏み入れ続けること。 これこそが感性を磨く道です。 こういう当たり前のことを、当たり前にやっていって くださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
誰も思いつかない斬新なアイデアを日常から引き出す方法
  どこの神社にも、手や口を清めるための手水舎というものが 設置されています。 そこには決まって水をすくうための柄杓が置かれていますが、 柄杓のタイプは神社によって様々です。 よく見かけるのは金属製のものと竹製のものですね。 僕の言う竹製のものというのはコレみたいなヤツです。 うちの近くにある神社にもこれと同じような竹製の柄杓が 置いてあるのですが、最近それを見ていて気付いたことが あります。 それは、単なる作業として竹を切っている人には、 こんな柄杓は作れないだろう、ということです。 竹製の柄杓には他にも種類があって、コレの方がどちらかというと メジャーです。 見てお分かりのように、後者の柄杓はかなり人為的な加工が されています。 一方で前者は、もとの竹をただその形に切り抜いただけで、 見た目にも自然です。 どちらも竹という同じ素材を用いて作られた柄杓ではありますが、 発想としては竹の形をそのまま活かし、加工を最小限にしている という点で、やはり前者の方が優れていると言えるでしょう。   今の話からわれわれが学ぶべきは、竹と向き合う態度、つまり、 世界と向き合う態度によって、生まれてくるものが大きく異なる ということです。 先程の前者の柄杓を最初に思いついた人は、来る日も来る日も 「この美しい竹をただ切ってしまうのはあまりにもったいない」 「なんとかこの美しさをそのまま活かせないものか」 なんてことを考えていたのではないでしょうか。 その人の具体的な気持ちまでは分かりませんが、少なくとも それぐらいの情熱がなければ、ああいった自然な美しい形の 柄杓は思いつかないと思うのです。 この話をわれわれの生活に当てはめるならば、例えば電車の 吊り広告を見て、 「この広告の凡庸なメッセージでは、効果が弱すぎる」 「なんとかこの広告の効果を最大化するメッセージや方法は ないものだろうか」 という風に考えるということです。 そうやって考えながら生きている人は、いつかきっと 斬新な素晴らしいアイデアを思いつくと思いますし、 実際にデキる人たちは、みんなそんなことを考えながら 生きています。 彼らにとって日常はアイデアの宝庫であり、彼らには凡人に 見えないものがたくさん見えているのです。 今のはたまたま吊り広告を例にしましたが、他にも道路や電柱、 歩道、自転車、手すり、街並み、落ち葉などなど、何に対しても 「どうすればもっと活かせるのか」「どうすればもっと効果を 最大化できるのか」という視点で見ていけば、いくらでも 有益な情報は引き出せます。 だから実力のある人は(凡人には絶対に得られない有益な情報を 得られるという意味で)運がいいのです。   この話から分かるのは、情報は単に「得る」ものではなく、 自分から「引き出す」ものだということです。 その引き出しの取っ手にあたるのが「問い」です。 どれだけたくさんの引き出しも、取っ手がなければ 引っ張り出すことはできません。 日常というのは、情報の詰まった巨大なタンスだと思って ください。 多くの人はそのタンスを眺めるだけで、そこに触れようとも しません。 それでもたまにやる気を出して触れることもあるのですが、 そこには取っ手がないために、中身を見ずに終わってしまう ワケです。 しかし賢い人たちは、ちゃんと取っ手をつけて引き出しを 開けます。 もちろん、その引き出しには必ずしも有益な情報が入っている ワケではありませんが、少なくとも引き出しを開けさえすれば、 そこに何が入っていて、それが今の自分に使える情報か否か ということは分かります。 仮に今の自分には使えない情報が入っていたとしても、 それをストックしておけば、後からどこかで使えるかも しれません。 こうして人々の情報格差はひらいていくワケです。   日常に対して、どれだけ多くの問いを持つことができるか。 これが今後のわれわれの人生を左右すると言っても過言では ありません。 多くの取っ手を持っていて、多くの引き出しを開けられる人ほど、 これからの立場は有利になっていきます。 地味で遠回りに思えるかもしれませんが、王道というのは いつだってそういうものです。 何の派手さもなければ、強烈なインパクトもない。 効果が目に見えるのも、かなり時間が経ってからになります。 けれども、やっぱり最後に残るのは王道なんですよ。 急いては事を仕損じる。 急がば回れ。 そういう昔の言葉がたくさん残っているのは、単なる偶然では ないと思います。 先を急ぎたいならば、(常識的に考えて)遠回りに思えるような 道を選んでください。 凡人が選びそうな道の逆を選んでください。 それこそが、われわれの進むべき道であり、王道です。 よいお年を。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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