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Archives for 哲学

これから世界はどうなっていくのか
  今回は話題をガラッと変えて時代性なんてものを 考えてみようかと思います。 10ヶ月ぐらい前に【リクルート就活人気ランキングに見る時代性】 という記事がアップされたのを覚えているでしょうか? この記事では就活の流行を題材にして、時代は安定と 不安定を交互に反動し合いながら動いている、 ということを書きました。 【大企業】→【公務員】→【ベンチャー】→【インフラ】 の流れは、要素を抽象すれば 【不安定】→【安定】→【不安定】→【安定】 になる。 じゃあ次は恐らく【不安定】的な何か(記事中では起業)が 来るんじゃなかろうか、と。 そんな感じで予想したワケです。 この予想の結果が出始めるのは、現在の国の状況や 世界の状況からして、恐らく来年から再来年ぐらいに なると思います。 今はいろんな意味で低迷期・停滞期なんで。 もちろん結果が出たとしてもそれが外れるという可能性も 十分有り得ますけどね。 ただ何にせよ、まだ現状では判断できない、ってことです。 まあその話はどうでもいいや。 要は、時代は反動で動いてるんだよ、ってことが言いたかった だけなので、取り敢えずそこだけ思い出して下さい。 今回の本題はこの「時代は反動で動く」という考え方を 応用してもっと大きなものを捉えてみようではないか、 というものです。 大きなものとは何か。 それは「世界」です。 ここで言う「世界」は、みんながイメージしている「世界」の ことだと思って下さい。 厳密な意味で世界を定義してどうの、なんて難しいことは 今は考えないので、漠然とした「世界」で大丈夫です。 その「世界」が今後どうなっていくのかを、 大きくザックリと、時には細かく、考えます。 いや、一緒に考えましょう、か。 せっかく去年あれだけ相対主義のいろんな側面を 学んだんだから、共に考えようぜよ、同志よ。 で。 まずは今までにどういう反動で世界が動いてきたのかを 確認するために、過去をザックリ振り返ります。 相対主義の話は過去の記事を参照してもうらうとして、 相対主義の前は何だったのかというと、近代、です。 多少強引に言い換えれば近代は理性絶対主義の時代とも言えます。 (近代とは何か、といった説明はまた機会があれば・・・) この時代は理念や論理(科学)の進歩こそがより善い世界を 作るんだ、という考え方が世界を支配していました。 科学の果てには究極の楽園、ユートピアが待っているんだ、と。 劣った奴らを皆殺しにすれば、優れた奴だけが残って 素晴らしい世界になるんだ、と。 そーゆーある種、極端な(偏った)考え方を持った時代です。 これが良いのか悪いのかは今は考えません。 そーゆー時代があったという事実だけを頭に入れておいて下さい。 そしたらもう1つ遡って近代(理性絶対主義)の前は 何だったのかというと、神の時代、ですね。 この時代もさっきみたいに神様絶対主義という感じで 言い換えられそうですが、それは実は違います。 神は絶対ではありません。 いや、神の存在は絶対だったんですが、それに対する解釈は 理性とは違って一様ではありませんでした。 ルター派・カルヴァン派、カトリック・プロテスタントなどの 例を考えれば分かるように、これらは神に対する解釈が 全く異なります。 ルターは「懺悔さえすれば、神は何でも許してくれるさ」と 言っているのに対して、カルヴァンは「許すとか許さないとか それ以前に神は全員の運命を既に決めてしまっているんだ」と 言ってるワケですから、神の立場(?)みたいなものは 全然違いますよね? つまり「絶対」ではないんです。 むしろ「捉え方は人それぞれ」という観点から言って 個人的には相対主義に近い感じがします。 ただ、相対主義のように万人に立場を認めるような 物腰の柔らかい態度はこの時代にはないですけどね。 さて、そろそろ見えてきたでしょうか? さっきの 【神】→【理性】→【相対主義】 という時代の流れを抽象化すると 【相対的】→【絶対的】→【相対的】 となります。 ということは、次はなんとなく【絶対的】な何かに なるんじゃなかろうか、と。 そういう風に僕個人は考えています。 じゃあ【絶対的】な何かとは何なのか。 それが具体的に何かは僕にも分かりません。 ただ、恐らく【共】という字がキーワードになるような 時代がくるだろう、とは思っています。 しいて言うなら「共存(共有)主義」という感じでしょうか。 みんなで一緒にがんばろうよ、みたいな。 そういう時代が来る気がする。 いや、実はもう足は突っ込んでるんですけど。 その辺を今から詳しく解説していきます。 僕の考えでは、【共】というキーワードは大きく 2つか3つに分けることが出来ます。 【共感・共苦】【共存・共栄】(そして【共有】) 前者2つはセットです。 最後の【共有】は最後の1つというよりも、 全体を包み込むものという感じ。 この3つを通して未来の兆しを考えます。 まず様々なものを共有するものとして象徴的だったのが ミクシィの登場ですよね。 ミクシィのコミュニティは情報や趣味を共有するための 絶好の広場です。 コミュニティにおいては情報の共有はさることながら 相談や激励など共感・共苦に溢れています。 またTwitterの登場によって僕らは見知らぬ人と 時間をも共有できるようになりました。 今何をやっているか。 今何を考えているか。 その「今」さえも共有できるようになったのです。 情報や趣味、時間の共有と来たら最後は空間の共有も 当然出てくるワケですが、これは一義的なものではなく、 様々なシェアリングが挙げられます。 身近なところで言えばルームシェアリングやカーシェアリング なんかが流行してきてますよね。 他にも使わない服や調理道具などをお互いにシェアリングする サイトも立ち上がっていますし、アメリカには自分の部屋を 使わない時に貸し出すサービス、というのもあったりします。 あとオフ会も空間の共有として捉えれば その類かもしれません。 共存・共栄の根拠としては、やっぱり環境問題です。 世界はグローバル化し、誰か一人の問題が 世界全体の問題になり得る時代になりました。 あなたの捨てたたった1つのゴミが地球を崩壊させる。 これを極端な発想だと思う時代はもう終わったのです。 全員が生き残るためには、全員が全員のために 行動を起こさないといけない。 誰かだけが生き残って誰かだけが滅びる、なんてことは もはや起こりえません。 0か100か、どっちかです。 だとしたら、共存・共栄をスローガンに動かざるを得ないことは 誰が目にも明らかでしょう。 まとめると 共感・共苦が世界を形作り、共存・共栄が世界を支える、 そんな【共】を中心とした時代がすぐそこまできている ってことです。 僕の個人的な予測なんで、まったく違う方向に 進んでいる可能性も否定できませんけどね(苦笑) ま、何かの参考になれば。 ではでは。 ...more»
人生を楽しくする方法
  今回は「関心」について日常的な話を交えつつ人生に関する 深い話をしていければなぁ、なんて思ってます。 誰も疑問に思わないことにこそ疑問を持つ価値がある これは僕の信念の1つですが、今回の記事を読めば この意味がよく分かってもらえると思います。 僕らは普段、毎日毎瞬間、何かに関心を示しつつも その他の対象には無関心に生活をしています。 例えば、道端で猫を見つけて可愛いと思うこと。 これはその猫に関心があるから可愛いと思うワケです、 当たり前ですけど。 無関心なら猫を見つけても何も思いません。 思ったとしても、せいぜい「あ、猫だ」程度でしょう。 ダイヤモンドを見て心ときめくのも、関心があるから そうなるワケで、ダイヤモンドに無関心な人からすれば 天下のダイヤモンドもただの光る石。 何百カラットのダイヤモンドを見たところで 「キレイだねー(棒読み)・・・」 みたいなにしか思わない人もたくさんいるワケです。 このように、何に関心を示し何に無関心かは 人それぞれですが、僕らは常にこのどちらかの 意識で生活しています。 じゃあどういう時に人は関心を持つのか。 これはあっさり答えを言ってしまいますが、 「感情が動いたとき」 です。 感情さえ動けばそれが怒りだろうが悲しみだろうが 好意だろうが嫌悪だろうが全て関心に繋がります。 関心とは「関る」「心」と書きますが、要は心(感情)が 何かに関れば、それが関心だということです。 逆に無関心とは何も感情が動かないこと。 道に転がっている石に無関心なのは、 その石を見ても何も感情が動かないからです。 普通、道行く見知らぬ人には無関心だと思いますが、 いくら見知らぬ人だとは言え、無言であんパンを 投げつけられたら腹が立ちますよね? (どんなシチュエーションなんだ・笑) それはあんパンを投げられたときに自分の感情が 「怒り」となって相手に関心が湧いたからです。 その人に対して完全に無関心なら、相手が何をしようが 「何か当たったような気がするけど、ま、いっか」 みたいに文字通りスルーするはずですから。 ただ普通に考えて、あんパンを投げてきて謝らない相手に 無関心で有り続けるのは難しい。 (だってあんパンなんだもの) これは相手と自分が直接、物理的に「関わった」からです。 もしそのあんパンを投げつけられた相手が自分ではなく 見知らぬ他人だったら関心が湧かなかったかもしれません。 だって自分とは何の関係もない他人のことですから。 しかしながら「あ、あんパンだ!?」や「何があったんだろ?」 みたいな感情を抱けば、それは直接関わりがなくても関心を 持ったことになります。 つまり 関心の有無は感情が動くかどうかで決まり、 人は通常、自分と直接的に関わる事柄について 無関心ではいられない ということです。 僕らは関心のあるものと無関心なものとに囲まれて 生活しています。 ですが、僕らは通常、自分と直接関りのないものに対しては ほぼ無関心ですから、世界のほとんどに対しては無関心に 生活していることになります。 自分の昼ご飯には関心があっても、他の国の人々が どんなものを食べているのかはさほど気にもならないし、 彼らが何を食べていようが直接自分に影響することはない。 だから多くのことに無関心でいられるし、普通はそんなことを わざわざ考えようともしないワケです。 要は、僕らは世界の99%に対して無関心である、 ってことです。 でもこれは普通に考えれば当たり前の話なんですね。 街ですれ違う人に対して全員にいちいち何かしらの感情を 持ったりはしないし、目に入るもの全てに喜怒哀楽の感情を 抱いたりはしませんから。 だた、ちょっとだけ考えてみて下さい。 もしこの無関心の母数を減らして関心の母数を少しでも 増やせるとしたら、僕らの生活はどうなるかを。 今まで無関心だったことに対して関心を持つワケですから 当然、嫌な気持ちになることや悲しい気持ちになることも 増えるでしょう。 ですが。 それは逆に言えば、それだけ楽しい気持ちや嬉しい気持ちに なることも増えるということなのです。 ポイ捨てされたゴミに関心を持てば、街中のゴミが 目に付くようになって今まで以上に嫌な気持ちになる機会も 増えるかもしれません。 しかし、その分だけ綺麗な景色を見たときの感動は 巨大なものとなります。 ゴミに関心を持てば持つほど、普通の人が感じられないレベルで、 ポイ捨てに嫌悪し、自然に感動できるようになるのです。 人間に関心を持てば、醜い人間で溢れたこの世界を恨み、 破壊したくなるかもしれません。 ですが、その分だけ人間の優しさや尊さを敏感に 感じることが出来るようになるのです。 日常の何でもない親切に感動できるようになるのです。 世界に関心を持てば、世界の不条理に絶望するかもしれません。 しかし同時に、世界の持つ可能性に希望を感じることが できるようになるのです。 かつて哲学者キルケゴールは言いました。 誰もが絶望を抱えているにも関わらず、 それに気付いてさえいない人間がいる。 彼らこそが本当の意味で「絶望」しているのだ、と。 世界に関心を持つというのは、思っているほど 簡単なことではありません。 そもそも世界が何なのかさえ知らない人がほとんどですから これは当然と言えば当然。 ですが、僕の個人的な意見としては、世界を知らずして 自分が何なのかを知ろうなんていう辺りが僕は都合が 良過ぎると思うんですね。 だって『アナタがいるから私がいる』で書いたように、 自分は自分以外(世界)によって成り立っているんだから それを知らずして自分は見えてこないだろう、と。 つまり僕らから言わせれば、世界に無関心ということは 自分にも無関心だということなんです。 そりゃ「絶望」もしますよね。 だったら、ちゃんと自分の絶望や世界の絶望を見つめて、 それを受け入れていこうじゃないか、と。 それこそが人生を楽しくする方法なんじゃないか、と。 そう思うワケです。 もちろんこれが正しいとは限らないし、僕が勝手に そう思っているだけですから、好きなように捉えて くれればいいと思います。 ただ、僕は今のところこれ以上の方法は知りません。 ま、気が向いたらどうぞ。 ではでは。 ...more»
世界に、自分に、敏感になるために
  前回「敏感になれ」という話が出てきたので 今回はそれをもうちょい深く掘り下げて 「どうやったら敏感になれるのか」 みたいな多少具体的な話をしてみようかと思います。 本当はこの手の具体的な話は(思考の妨げになるから) あんまりしたくないんですが、今回は特別にちょっと遅い 僕からのクリスマスプレゼントとして(笑) 書くことにしました。 たまには甘やかしてもいいか、的な(笑) よかったら受け取って下さい(笑) んじゃ今日も張りきっていきましょう!! まずは復習から。 前回の話は大きくまとめれば「継続できるのは得たものを 失いたくない不安があるからであり、何よりもその不安を 敏感に感じ取って生きているからである」という話でした。 筋トレを続けられるのは、筋トレで得た筋肉を 失いたくないし、体の衰えを敏感に感じているから。 勉強を続けられるのは、勉強で得た「何か」を 失いたくないし、脳の衰えを敏感に感じているから。 そんな話でしたね。 じゃあそもそも【敏感】って何なんでしょ? 敏感というのは、平易な言葉で言い直せば 「感じやすいこと」ですよね。 はい、そこ、変なこと想像しない(笑) 「感じやすい」は「感じる度合いが強い」 とも言い換えられます。 なので、辞書的な意味はどうか分かりませんが、 ここでは取り敢えず 【敏感とは、感性が強いこと】 と定義しておきましょう。 じゃあ感性とは何なのか。 これは僕は 【いかにあらゆる対象に疑問を抱けるかの度合い】 だと考えています。 例えば。 ある日、セバスチャンは道端に咲いた花を見て 「この花、何ていう花なんだろ?」 という疑問が浮かびました。 しかしセバスチャンの隣にいた染五郎は同じ花を見て 「この花、何ていう花なんだろ?」 「花びらは5枚かぁ、何か品種に関係してるのかな?」 「こっちは赤だけどあっちは紫だ、なんで色が違うんだろ?」 「そういえば形も微妙に違う、ってことは別の品種なのかな?」 という疑問が浮かんでいました。 この場合、染五郎の方が感性が強いってことです。 これは単純に「染五郎の方が疑問がたくさん浮かんだから」 という理由もありますが、それ以前に染五郎は1つの花を いろんな角度から見てるし、いろんなことを感じています。 つまり、セバスチャンと染五郎では興味・関心の強さが 明らかに違うし、何より1つの対象から得ている情報量が 圧倒的に染五郎の方が多い。 ここで言う【敏感】とはそういう感性の強さ、 すなわち興味・関心が強く且つ疑問が次々に 湧いてくる状態のことなのです。 ここまで書けば僕が「敏感になれ」と言った意味も 分かってもらえたと思います。 そう、それは 「いろんな対象に興味・関心を持って疑問を抱きまくれ!」 ってことなんです。 だって、たったそれだけで継続は出来るようになるし、 他人の知りえない情報も得られるようになるし、 その他お得な特典がいっぱい付いてくるんだから。 ただ、いきなり 「宇宙に興味を持って下さい」 「はい、興味を持ちました」 みたいなことは絶対にできません。 人間だもの(笑) じゃあどうすればいいのか。 感性は訓練で【磨く】のです。 というワケで、ここからは 【より多くの対象に興味・関心を持つための訓練法】 を紹介します。 訓練法は2つ。 どっちも非常にシンプルです。 1つは【経験をとにかく増やす】です。 特に、今まで興味・関心が「無かったこと」を 重点的に経験するようにして下さい。 比較的分かり易いのは、異性にとって関心や興味の ありそうな分野を調べたり経験したりすること。 男性なら少女マンガを読むとか、美肌関連の書籍を読むとか、 化粧品売り場で店員さんと話してみるとか、女性しか いないような飲食店で食事をしてみるとか・・・。 女性ならガンダム専門誌みたいなのを読むとか、 男性ファッション誌を読んでみるとか、 吉野家に行って一人で牛丼を食べてみるとか・・・。 もちろん異性に関連しない分野でも今までの自分とは 関わりのない分野なら何でも大丈夫です。 これをやることで興味・関心の無い分野に対して 興味・関心が湧きやすくなります。 「知らない分野を見つけると嬉しくなる」という レベルになれば言うこと無しです(笑) もう1つは【無理やり疑問を絞り出す】です。 これは「とにかくやれ」としか言いようがないんですが、 どんな対象でもいいので【なぜ】【なに】【どうやって】と 問いかけて下さい。 出来る限りたくさん。 目の前のものを見て、 「なぜここにヘッドフォンがあるのか」 「なぜ携帯を充電しないといけないのか」 「なぜキーボードを打つと文字が出るのか」 「なぜ自分はブログを読んでるのか」 「カロリーって何だろう?」 「コレステロールって何だろう?」 「なぜコレステロールは少ない方がいいんだろ?」 「紙ってどうやって作られるんだろ?」 「ボールペンってどうやって作られるんだろ?」 こんな感じで考える。 この際、疑問に対する答えは後回しで構いません。 とにかく最初は深い疑問を出すよりも数を出すことを 意識して下さい。 (数が出るようになったら深く掘り下げる) これを繰り返していくと、無意識でいろんな対象に 疑問が湧くようになります。 「気が付いたら考えてた」みたいな状態になれば完璧です。 上記2つの訓練を積むことによって無関心の領域を減らし、 あらゆる対象に疑問を抱き易い感性が得られます。 今回のテーマに沿わせて言えば【敏感になれる】 ってことです。 もちろん信じる信じないはあなたの自由だし、 紹介した訓練をやるやらないもあなたの自由。 気が向いたらお正月休みにでもどうぞ。 あ、そうそう。 そういえば数ヶ月前に【やりたいことを見つける方法】 という記事を書いたのを覚えているでしょうか? 実は先日、この方法を実践してくれた方から、 メールが届きました。 内容は苦情ではなく(笑) 「現段階でも答えは出たんですが、今のままだと抽象的過ぎて 実感が湧かないので、もっと具体的にやりたいことを突き詰める 方法を教えてくれませんか?」 というもの。 いやー、世の中捨てたもんじゃないですねー(笑) 彼には追加のアドバイスをしたんですが、それもしっかり 実践してくれたらしく、前にメールをくれたときよりも 答えが明確になっていました。 彼ならきっと「本当に」自分のやりたいことを 見つけられると思います。 ちなみに。 その彼は高校生だそうですよ。 ではでは。 追伸 来年はセミナーをやろうかなー、なんてことを 考えています。 テーマは【やりたいことを見つける方法】的なもの。 初回(最初の何回か)は無料でやる予定です。 募集人数は5~10人程度の超少人数制。 場合によっては参加者3人とかでもやろうかと 思っています。 場所は大阪。 (もしかしたら京阪神のどこかになるかも) 日時は完全に未定(平日が有力)です。 時間は2~3時間ぐらいかなー。 まあその辺は参加者数と意識の高さで決めます(笑) なぜ今更【やりたいことを見つける方法】なのか。 ブログの記事にあれだけ詳しく書いておいて、 それ以上話すことがあるのか。 その辺は時期が来たら話します。 事前仮予約を受け付けますので、ご希望の方は その旨メールで送っといて下さい。 早い者勝ちではありませんが、僕の気分次第で(笑) 募集をいきなり打ち切るかもしれません。 詳細は追って連絡します。 そんな感じで、来年もよろしくぅー!! ...more»
なぜ継続は難しいのか
  最近僕は周りの人からよく 「なんでそんなに継続できるんですか?」 と聞かれます。 僕は何も意識せずにただ好きなことをやってるだけなんですが、 その長さ(?)が普通の人とはちょっと違うようです。 とは言っても、もちろん僕だって3日坊主的なことは 沢山あります。 ゲーデル関係の本は読んで3秒で諦めたし(笑) 言語学の勉強も2日ぐらいで挫折しました。 「んんー、意味分からん」って。 ただ、続くものは結構長く続いているものも多く、 それが他の人から見たときに「よく続くなぁ」 という風に見えるのかなー、と。 例えば哲学。 かれこれハマり出して3年ぐらい経ちますが 未だに飽きずにずーっと続けてます。 例えば勉強(哲学と勉強は区別しときます)。 これも好きになってから飽きることなく続けてて 最近では宇宙論とか細胞学にも手を出す始末。 飽きるどころか加速してます。 例えば筋トレ。 かれこれ筋トレも1年ぐらい続けてますが、 全然やめたくならないし、むしろやらないと 不安になる状態です。 例えば体型維持(ダイエット?)。 高校時代から全然体型は変わってないし、 変わらないようにするための努力(?)も サボったことはありません。 でも、ここで間違って欲しくないのは、 【僕は決して努力家ではない】 ってことです。 こうやって書くと謙遜だと思うかもしれませんが、 これは謙遜でも何でもありません。 マジです。 僕はいつでも気の向くままに動いてるだけなんで。 「じゃあどれも好きだから続けられるんでしょ?」 というのも少し違います。 だって体型維持は別に好きでやってるワケじゃないですから。 いくら食っても太らないなら僕は多分食い続けます(笑) だったらどうして僕はいろんなことを自然に継続できるのか。 それは 【やらないと不安だから】 です。 さて、ここで少し心理学の話にお付き合い下さい。 人間はどういうときに行動するのか。 この答えは既に出ていて、人間は【苦痛を減らすため】か 【快楽を増やすため】という理由でしか行動しません。 これは行動心理学の最も基本となる考えで、 実際僕らはそうやって毎日を過ごしてます。 歯を磨いたり学校に行ったりパンを食べたりするのも、 全部【苦痛を減らす】か【快楽を増やす】のいずれかの 目的のために行っていることなんですね。 歯を磨くのは虫歯という苦痛を避けるため。 学校に行くのは「友達に会える」という快楽を増やし、 「勉強が遅れる」という苦痛を減らすため。 パンを食べるのは空腹という苦痛を避けるため。 全部こうやって説明できるワケです。 またこれとは別に、ダニエル・カーネマンという ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者がいるんですが、 彼が発見したことに 【人間は得る利益よりも、失うリスクの方を重く捉える】 というものがあります。 これは例えば、 「100万円が50%の確率で手に入るクジ」 「50万円が100%手に入るクジ」 の2択があったとすると、どちらも期待値は同じなのに ほとんどの人は後者の確実に50万円得られる方を選ぶ というもの。 「成功者は成功を望み、凡人は失敗を怖れる」 っていうどっかの格言にも似てます。 つまり、ほとんどの人は「何かを得ること」よりも 「何かを失うこと」をより重大だと感じている、 ということを彼は発見したのです。 じゃあこれらの心理学的知識を踏まえて話を戻します。 僕はなぜいろんなことを継続できるのか。 それは 一度得たものを失いたくないから (失うことが不安だから) なのです。 哲学が継続できるのは、哲学によって得たものを 哲学をやめることによって失いたくないからです。 勉強が継続できるのは、勉強によって得たものを 勉強をやめることによって失いたくないからです。 筋トレが継続できるのは、筋トレによって得た筋肉を 筋トレをやめることによって失いたくないからです。 体型維持が継続できるのは、体型維持によって 着れるようになっている服が着れなくなるのが イヤだからです。 そして何より、失うことへの不安を常に【敏感】に 感じ取っているから途中でサボったりしない、いや、 サボったりできないのです。 まとめると、継続に必要な条件は2つしかありません。 1.何かを得るまで続ける 2.得たものを失う不安に対して敏感になる これだけです。 言葉にすれば非常にシンプル。 にも関わらず「継続は難しい」と世間でよく言われるのは、 みんな2の能力が圧倒的に乏しいからだと思います。 いくらダイエットが難しいって言ったって 1キロ痩せるぐらいなら誰でもできるワケですよ、 実際のところは。 でも、その1キロを失う苦痛よりも、 食べたいものを食べる快楽の方が大幅に 上回ってしまうために継続ができない。 これは1キロという数字が【失うことの不安】を 引き起こすには小さ過ぎることもありますが、 何より1キロ痩せるために使った自分の労力に対して 感覚が鈍過ぎるんです。 だから平気で自分の努力(結果)を裏切れる。 つまり 自分が衰え弱る姿をまるで他人事かのように眺めている ってことです。 せっかく痩せたのにそれを元に戻してしまうということは、 痩せる努力をした自分を裏切り、太っていく自分を自分のことでは ないかのように眺めていられる、ということですから。 シュライエルマッハーという哲学者が 唾棄すべきは、あたかも他人が他人を眺めているような風に、 自分自身を眺めている人である という言葉を残してますが、僕もこの言葉には同感です。 みんなもっと自分に敏感になろうよ、と。 自分の変化を、自分の衰弱を感じようよ、と。 ホントにそう思います。 「継続できない」「三日坊主だ」と嘆いているなら 自分で自分を裏切ることに慣れてしまっていないか、 確認してみてください。 案外、継続できない原因はそこかもしれませんよ。 ではでは。 追伸1 念のために書いておきますが、今回書いたことは 「継続」という事象の1つの側面であって、 僕の書いたことが全てというワケではありません。 前々から書いているように、物事には2つ以上の側面が 必ずありますから、安易に僕の言うことだけを 鵜呑みにしないように気をつけて下さい。 情報はよく噛んでから飲み込むこと。 これは鉄則です。 追伸2 今回は「好きこそものの上手なれ」的なことは 敢えて書きませんでした。 なぜなら、そんなことは今更僕が書くまでもなく 誰もが書いたり言ってたりしているから。 ただ、これは「好きこそものの上手なれ」的なことが 間違いだと言っているワケではなく、そういった 偏った見方しかできないのが危ないよ、と言いたかったんですね。 最初は難しいかもしれませんが、徐々にでいいので 物事を違う角度から見る癖をつけて下さいませ。 理解を深める、っていうのはそーゆーことなのです。 ...more»
恋愛におけるコミュニケーションの論理
  前回の記事でコミュニケーションの基本的な捉え方は 分かってもらえたと思うので、今回はもう少し理解を深めてもらうために この原理を踏まえて日常生活を分析するとどうなるのか、みたいなところを 一緒に考えていければと思っています。 しかも。 タイトルを見てもらえれば分かるように今回は恋愛を題材にして コミュニケーションを紐解いていくので、人によっては非常に タイムリーな話も出てくるかもしれません。 時期も時期ですしね(笑) そういった場合は是非ともこのネタを活かして、 恋愛にいそしんでもらえればと思います(笑) ではまず前回の話を軽く復習しておきましょう。 コミュニケーションは原理的に3つの論理から成り立っていて 相手の伝えたいことを正確に受け取り、自分の伝えたいことを 正確に伝えるためには、その3つの論理を正しく判断する必要が あります。 その論理とは、 1.形式論理 2.コンテクスト(文脈)の論理 3.関係性の論理 の3つのことで、これらの論理をその瞬間瞬間に的確に読み、 解釈(理解)していくことでコミュニケーションが成り立つ、 というのが前回の話でした。 じゃあこの3つを日常生活に当てはめるとどうなるのか。 早速考えていってみましょう。 よく男性誌の白黒ページには 【女の子は優しい男性が好き】 【女の子は気遣いの出来る男に弱い】 【女の子は料理の出来る男に惹かれる】 というようなことが書いてあります。 (女性誌の白黒ページも似たようなこと書いてます) そして多くの恋愛下手な男性(女性)はこういった文句を 鵜呑みにして「お、じゃあ優しくすればいいのか」と 好きな異性に対してとにかく優しく接しようとするワケですが、 それは本当に効果があるのか、と。 それをちょっと考えてみて欲しいんですね。 確かに誰だって人に優しくされるのは嬉しいもんです。 でも、優しくされただけでその人を好きになるかと言えば、 そんな簡単なもんじゃないですよね? 落とした手袋を拾ってもらったり、扉を開けてもらったり、 グチを聞いてもらったりしただけで相手のことを 好きになってしまうような女の子は世界広しと言えど そんなにいるもんじゃないと思います。 というか僕の個人的な意見を言わせてもらうとすれば 「優しくする」というのは人として当然のことであって、 相手によって態度を変えるのはいかがなものかと 思う部分があります。 好きな人だろうが、好きじゃない人だろうが、 基本的には誰にでも優しく接するべきだろ、と。 何を以って「優しい」とするかは人によると思いますけど。 まあそれはともかく。 人は基本的に「優しくされたその行為だけ」では 誰かを好きになったりはしないワケです。 じゃあ【女の子は優しい男性が好き】はウソなのか。 それも僕は違うと思います。 実際、街角インタビューなんかでも「優しい人が好き」と 答えてる女性が多いことから、優しい人を好きであることには 違いなさそうです。 だったらどうして世の中の多くの優しい男性(女性)は 異性にモテないのか。 もうそろそろ勘がよければ気付いたかと思いますが、 要するに本当に大事なのは 「優しくすること」 そのものではなく、 「【いつ】【誰】が優しくするか」 なのです。 これを3つの論理に当てはめると 1.【優しくすること】が形式論理 2.【いつ】がコンテクストの論理 3.【誰】が関係性の論理 となります。 ここで前回の話を思い出して下さい。 僕は、日本人は形式論理を軽視しコンテクストと関係性を 大事にする文化だ、と書きました。 それをここに当てはめるならば、「何をするか」よりも 「どのタイミングで」「誰がやってくれるか」を大事にしている、 ってことです。 優しくされるのは誰だって嬉しいと思います。 でも彼氏に振られたその日に優しくされるのと 普通の日に優しくされるのとでは、その時の印象が 春の桜と冬の桜ぐらい違うワケです。 さらに言えば、優しくしてくれた人が他人であるよりも 普段から仲良くしている友達の方がやっぱり嬉しいし、 前からちょっと気になってた相手であれば尚更嬉しい。 つまり、 「どう優しくするか(何をするか)」はあんまり関係ない、 ってことです。 もちろん何の面識がない他人同士であれば 最初の段階で「何をするか」は大事になります。 それは、初対面では関係性が全くなく、 コンテクストもお互いに探り探りの状態なので、 表に見えるものでしか判断できないからです。 ただ、恋愛はお互いに関係を深め合っていく営みなので 最終的には関係性やコンテクストが重視されるワケです。 さてさて。 これでコミュニケーションの論理がなんとなくでも イメージできたでしょうか? 今回は万人に分かるように恋愛を例にしましたが、 もし気が向いたら自分の日常生活にも当てはめて 色々思考訓練してみて下さいね。 理論は実践してこそ意味を持ちますから。 ではでは。 ...more»
コミュニケーションの3つの論理
  若干更新の頻度が落ちつつある今日この頃、 いかがお過ごしでしょうか? 予告した通り、今回は前回の記事と非常に関連の深い 内容になります。 コミュニケーション力が一番大事と言われて久しい昨今。 本屋には平積みで「雑談を続ける方法」みたいなものまで 売り出され、人はお金をかけてまでコミュニケーションを 習わないといけない時代になってしまったワケですが、 そんな時代にタダでコミュニケーションの本質を 垂れ流してしまおうという、この太っ腹さ(笑) 読まなきゃ損、どころの話じゃありません(笑) そんなにハードル上げちゃって大丈夫なの? と思うかもしれませんが、それぐらいやっても 十分に超えられちゃうレベルで今回の話は面白いと 個人的には思ってます。 無論、いつものように抽象度はそれなりに高い話なので 実践に活かせるかどうかはあなた次第ですけどね。 さあ、それでは本題へ入っていきましょう。   コミュニケーション。 えー、いきなりですが、まずは自分なりに コミュニケーションとは何か、みたいなのを 簡単でいいので思い浮かべて下さい。 以心伝心、相互理解、共感共苦、意思疎通・・・ 別に四文字熟語である必要はありませんよ(笑) 色々浮かんだでしょうか? じゃあ今度はコミュニケーションが取れている場面を 想像してみて下さい。 友達と楽しく会話、クライアントから褒められた、 職場が楽しく仕事がはかどる・・・ で。 多分なんですが、今コミュニケーションが取れている状況を 想像したときに、 「相手と円滑に何かを通じ合い伝え合えてる」 みたいなイメージが頭に浮かびませんでした? 浮かんでなかったらごめんなさい(苦笑) でもここは強引にまとめます(笑) 要はコミュニケーションというのは、自分の伝えたいことを 正確に伝え、相手の伝えたいことを正確に受け取る、 その繰り返しで成り立っている、ということなんです。 じゃあ「正確に伝わる」「正確に受け取る」って 何なんでしょう? これを解くには、3つの論理という視点が非常に 重要になってきます。 ここはあっさり書いてしまいますが、 1.形式論理 2.コンテクスト(文脈)の論理 3.関係性の論理 がコミュニケーションにおける3つの論理と 言われているものです。 「言われているもの」と言っても世間一般には こんな話は出回ってないと思いますが、 極一部のマニアックな集団内では、常識として 通じる話になっています。 それはともかく。 1つずつ説明していきます。 1.形式論理 これは言葉そのものの定義、もしくは辞書的な意味のことです。 前回の記事に絡めて言うなら 「お前が好き」 を形式論理で理解すると 「あなたに心惹かれています」 となります。 ここには【「お前」が誰なのか】【どこで好きと言ったのか】 【なぜ好きと言ったのか】【何かがあって好きと言ったのか】 などの情報は一切含まれません。 文脈や関係性を無視した論理、とも言えます。 2.コンテクスト(文脈)の論理 これはその「場」における論理のことです。 冗談っぽく「好き」と言ったのか、真剣に「好き」と言ったのか、 はたまた告白の練習で相手がいない状態で「好き」と言ったのか、 などなど。 「場」は「シチュエーション」とか「雰囲気」、「空気」と 言い換えてもいいかもしれません。 前回も書いたように、この論理が読めない人のことを KYと呼ぶワケです。 3.関係性の論理 これは名前の通り、相手と自分がどのような関係にあるのか、 ということです。 家族関係、師弟関係、恋愛関係、兄弟関係、友達関係・・・など。 自分の親に「好き」と言えば家族愛になりますが、 恋人に「好き」と言えば恋愛になります。 また同じ友達関係でも、知り合って何年経つのか、 異性か同姓か、どういった経験を共にしたのか、 といった情報も関係してくるので、一概に 「友達関係だから・・・」なんていう定義付けはできません。 以上の3つがコミュニケーションの論理と呼ばれているものに なります。 さて、これを踏まえて先ほどの「正確に伝える」「正確に受け取る」 という話を思い出してみましょう。 何がどうなれば「正確」なのか。 それは、上記3つの論理を正しく判断できれいれば 「正確」だということです。 日本においては形式論理はほぼ無視しても問題ありませんが、 コンテクストの論理と関係性の論理は重要な地位を占めています。 日本人は昔から「察する」「言わなくても分かる」 という技術(文化?)を大切にしてきました。 それは言うまでもなく、2と3の論理を読むことで 成り立っています。 上司のコップが空いたら、言われなくてもビールを注ぐ。 師匠が作業を始めたら、言われなくても自分はそれを見て学習する。 友達が泣いていたら、そっとしておいてあげる。 場合によっては優しくなぐさめてあげる。 電車でお年寄りが乗ってきたら、席を譲る。 これがコンテクストの論理と関係性の論理を正確に判断する、 ということです。 つまり、発せられた言葉そのものではなく、 その場がどういう状況で、その相手が誰なのか、 そこを正確に捉えて行動していくことが コミュニケーションの原点なのです。 「嫌よ嫌よも好きのうち」 なんて言葉がありますが、その場と相手によっては 「嫌」という言葉さえ「好き」という意味になります。 これは形式論理が最低限の役割、いや、何の役割も 果たしていない証拠ではないでしょうか。 もちろん形式論理が必要ないとまでは言いませんが、 今回紹介した3つの論理を意識して生活していると いかに形式論理が軽視され、コンテクストと関係性が 重要視されているかが分かると思います。 これを語弊を恐れずに言ってしまえば、表面に見えているものなんて 本当はちっぽけなものでしかない、ってことです。 コミュニケーションにおいて大切なのは「見えない部分」、 「見せない部分」なのです。 喉が渇いた、でも言わない。 腹が立った、でも言わない。 バカだと思った、でも言わない。 それらはお互いに感じ取らないといけないのです。 何かの参考になれば。 ではでは。 ...more»
勉強とは何か
  ここ数週間にアップされた記事は、こちらの諸事情により 削除させて頂きました。 勝手でごめんなさい。 あれらの記事は気が向いたらレポートにして配布しようと 思っているので(もちろん無料で)、必要な場合は、 それまで待っていてもらえればと思います。 さてさて。 今回はこのブログのある意味「肝」とも言える 【勉強】についての記事を書いておこうと思います。 勉強って言っても別に「もっと勉強しやがれ、この野郎!」 みたいなことが書きたいワケではなく、僕にとって 勉強とはこういうものですよ、というのを書くだけです。 このブログを読む以上は、一応知っておいて欲しいので。 読みながら徒然と考えてもらえればと思います。 みんなの大嫌いなお勉強。 周りを見ても僕ぐらい異常なテンションで(笑) 「勉強が好き」と言ってるヤツはまずいません。 というのは、多分「勉強」の意味がみんなと僕とでは 違うからだと思うんですね。 学生なら宿題やったり、学校の授業を受けたり、テストのために 復習したりすることが勉強だと思っているでしょうし、 社会人なら資格試験の問題集を解いたり、C言語を覚えたり、 ビジネス書を読んだり、セミナーに出たりすることが 勉強だと思っている。 だから勉強が嫌いになるんだと思うんです。 これだと「やること」にフォーカスしちゃってますから。 でも、僕が【勉強】と言うときはもっと広い意味で この言葉を捉えているんですね。 というか、僕の言う【勉強】は行動ではなくて、 態度とか姿勢とか意志とか、そっちの意味の方が近い。 つまり僕が「勉強好き」というとき、それは 「何かを学ぼうという姿勢が好き」ということ なんです。 もっと言えば「そんな自分(や人)が好き」なんです(笑) 例えば、僕にとって【勉強】とはセミナーに出ること ではなくて、どちらかと言えば、セミナーに出て何かを 学ぼうとするその姿勢そのもののことを指します。 学校で言えば、授業に出ることが勉強ではなく、 その授業からちゃんと何かを学ぼうとすることが 【勉強】だということです。 この違い、分かるでしょうか? 世間では「勉強しなさい」と子供を叱る親が多いようですが、 この違いが分かれば「勉強しなさい」と叱ることがいかに 矛盾した行為なのかが分かってもらえると思います。 (もちろん僕の言う意味での【勉強】において、ですが) そもそも【勉強】とは、誰かに「させられるもの」ではなく 自分で「するもの」なんですから。 人生は死ぬまで勉強である 結構こーゆーこと言ってる人って多いですよね。 ググッただけでもいろんなブログでこの手の言葉が 目につきます。 ただ、それって本気で思ってんの?って思うんです。 一時的に「そう思った」だけなんじゃないの?って。 まあ誹謗中傷以外であれば誰がどんな発言をしようが ほぼ自由だと思いますが、ここは敢えて書かせて下さい。 「安易にその手の発言はしない方がいい」 いや、別にいいんです。 別にいいんですけど、ブログで「人生死ぬまで勉強だ」とか 言ってる人に限って何も勉強せずに生きているような気が するんですよね。 生きていることそのものが勉強なんだ、みたいな発想で。 あくまでもこれは僕の考えですが、僕は 人生は生きてるだけなら無駄である と思ってます。 あ、もちろんこれは「勉強」という意味において無駄だ、 ってことね。 人間の尊厳を無視した発言ではないので勘違いなきよう。 話を戻します。 なぜ人生は生きているだけなら無駄なのか。 それは、授業に出て何もしないのと同じだからです。 人生が全て勉強だとするならば、生きている間は ずっと授業中だ、ってことですよね? ってことは、僕の定義で言えば、生きている間は常に 何かを学び取ろうとする姿勢でないといけないワケです。 そうじゃないと人生という名の授業が無駄になっちゃうから。 だから、生きていることそのものが勉強だ、 なんていうのは幻想だと僕は思っているのです。 自転車に乗ってるとき、昼ご飯を食べてるとき、 ギター弾いてるとき、ゲームやってるとき、 カラオケで歌ってるとき、飲み会やってるとき、 どんな時でもそのときを無駄にせずに学べていますか? これが「人生死ぬまで勉強」ということです。 いつどんなときでも何かを学んでいる。 こんなことを実際に実践できている人が この世に何人いる?って話ですよ。 僕だってまだまだこんな域には到達していません。 気が付けばボーっとしてるし、学ぶ姿勢を 忘れているときだって当然あります。 人間だもの(笑) でも、だからこそ、勉強を大事にしてるんですね。 本を読んだり、セミナーに出たりするのも大事ですが、 僕にとってそれ以上に大事なのは、 常に勉強できているかどうか なんです。 何をしていようが関係ありません。 何をしてても学べているかどうかが問題なのです。 歩いてるときでも、テレビを見ているときでも マンガを読んでるときでも、映画を見ているときでも、 トイレに行っているときでさえも、何かを考え、 何かを学び取れているか。 道端に落ちているゴミを見て 「なぜあんなところにゴミが落ちているのか」 「なぜ道端にゴミを捨てる人と捨てない人がいるのか」 「道端にゴミを捨ててしまう人を心理学的に説明できないか」 「大勢の人が見ている前でも人は道端にゴミを捨てられるのか」 「そもそもゴミとは何なのか」 「客観的なゴミというものは存在するのか」 と深く考えられているか。 人生は死ぬまで勉強である っていうのは、こういうことだと思うんです。 読書に励むのもいいですが、たまには何も無いところから 何かを学ぶ訓練、なんてのもやってみてはいかがでしょうか? そこに「勉強が好きになるキッカケ」が隠れているような 気がします。 ではでは。   ...more»
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