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Archives for 哲学

人生の目的と無駄の関係
前回の続編です。 前回は無駄を無駄じゃなくするためには意志と目的が 必要だという話でした。 なんとなくじゃなくて、「やるぞ!」と決めてやる。 そして、ただやるんじゃなくて、何のためのそれを やるのかを決めてやる。 これによっていかなる行為も無駄じゃなくなる、 つまり自分の身になるということです。 自分の身になるとは、自分を創造していくことであり、 自分を完成させていくことです。 僕ら人間はそのために生きていると言っても過言では ありません。 これは人類共通の普遍的な目的であるにもかかわらず、 ほとんどの人は「目的なく」生きています。 目的なくお金を稼ぎ、目的なく旅行をし、 目的なく家庭を築き、目的なく死んでいく。 ここで言う「目的なく」とは、目的を見失っている、 より厳密には、合理的で欲望的な目的ばかり見て、 存在論的な目的を見失っているということです。 存在論的な、なんて言葉を使うと難しく見えて しまいますが、要は以前話した「どう在りたいか」、 「どう在るために生きるのか」が見えていない、 という意味です。 僕らの普遍的な目的は、この「あり方」にあります。   あり方というのは、今この瞬間この場所において 自分はどうあるか、どうありたいかということです。 言ってしまえば、そのときその瞬間の目的が あり方です。 僕は今メルマガを書く自分でありたいと思っています。 そうあるためにメルマガを書いていると言っても いいでしょう。 しかし次の瞬間には朝食を食べたくなっているかも しれないし、そのときにはそれを我慢せずに食べる 自分でありたいと思っているかもしれません。 こうやってあり方は常に変化します。 より深い次元ではある程度固定されたあり方も あったりするんですが、その話はとりあえず 置いておきましょう。 この常に変化するあり方を捉えようと意識すること。 ありたい自分であるために感じ、考え、行動する という前提で生きること。 それが、「今」が身になるか否かを決めるのです。   あなたは僕のメルマガを読む自分でありたい でしょうか? 僕のメルマガを読んだあと、どういう感想を抱き、 どういう行動を起こす自分でありたいでしょうか? その答えを踏まえた上で読まなければ、 僕がどんなにいい話をしても 「今日もいい話だったなぁ」で終わりです。 何も身にならないし、何も覚えてないし、 その時間はまさしく無駄でしかありません。 逆に、あなたのあり方が素晴らしければ、 僕がしょーもないことをメルマガで語ったとしても それは学びになります。 僕のどうでもいい話がどうでもよくない話に、 とても重要な話になる。 もちろんそれは僕のメルマガに限ったことではなく、 日常のすべてに言えることです。 日常をどういうあり方で過ごすのか。 それが学びの質を、しいては人生の質を上げることに 繋がってくるのです。   人生の目的とは、今この瞬間この場所でのあり方です。 この目的を見失わなければ日常のすべてが無駄じゃない、 身になるものに変化します。 自分は今どうありたいのか。 それを問いかけましょう。 自己の実現はいつも「今ここ」から始まるのです。 ありがとうございました。 杉野 追伸1:読者からのメール。 ある読者の方から頂いた「何のためにカタカナは あるのか?」の答えと、前のメルマガへの意見を 紹介します。 勉強になると思うので、読んでみてください。 > Mです。少しずつ暖かくなってきましたね。 > > カタカナのお話しですが、カタカナは掘ったりするために生まれたのではと考えました。 > ひらがなは、曲線が多いですよね。タカカナは、直線がほとんどです。 > > 彫刻などを想像するに、真っ直ぐに力を入れる方が掘りやすいです。 > 金槌などを打ち付けて掘ったりすることもできます。 > > 刃物で木に文字を彫ったり、壁や石に文字を彫ったりするときも > カタカナの方が力が入れやすいです。 > 直線だけであれば、腕全体の力を使って振り下ろしたりできるからです。 > 昔、そういう風に文字を書くことがあって、カタカナが生まれたのでは無いかと思いました。 > > 恐らくこの回答はかなり普通で被ってるなんだろうなと思います 笑 > 他にどんな回答があったのか教えてくださると嬉しいです。 > > ? > > さて、幸せ=日常のお話しですが > 杉野さんの例で言うと、僕は今、後者の方に取り組んでいるようです。 > > ところで「幸せ=日常」を変化という視点からも考えてみました。 > 幸せが変われば日常も変わる、日常が変われば幸せも変わるとなりますが、 > あえて表現を二つに分けると > > 1.何を幸せと感じるかが変われば、日常も変わる > 2.日常が変われば、なにを幸せと感じるかが変わる > > という風にも読み取れます。 > > 1.は幸せと感じることをやり続けていたら、日常が自然と変わっていた感じがします。 > 2.は日常に影響を受けて、幸せと感じることが変わっていくという感じがします。 > > マイナスにとらえると2.は日常に流されて自分の幸せを見失っているように思えます。 > 簡単な例を挙げると、お金が手に入ると、それまで欲しくなんてなかったものが欲しくなる > というようなことが2.に該当すると思います。 > > 正に今僕は2.のような感じがしてるので > それを是正しようとして、やりたくないことを必死で探しているのかもしれません。 > > 僕は、自分にとっての「幸せの定義」をあいまいにしたまま > 幸せ(と思ってるもの)を増やしてきたのかもしれません。 > そうしている内に、生活が重苦しく感じ始めたのが昨年のことでした。 > > 自分のとっての幸せとは何か > 欲に流されない本当にやりたいことは何か > それを今明確にしておきたい。そんなことを考えました。 > > 自分の現在地と、目的地を明確にしてはじめて > そこへまっすぐ行くための道について考えることができる。 > > 脱凡人の基本ですが、僕は現在地を見つめ直しているように思います。 > 定期的に、こういった行動を取るものなのかもしれません。 > 綺麗にしたあとの、伸びに期待したいです。 > > それでは、またです! ...more»
無駄な無駄と無駄じゃない無駄の違い
突然ですが、質問です。 無駄な無駄と無駄じゃない無駄の違いとは 何でしょうか? 今回の前書きにかぎらず、 僕はよく無駄なことをしましょうと 言いますが、これは普通に考えれば 語義矛盾です。 無駄とは一般に、やる意味のないことを 意味するからですね。 やる意味のないことをやることに意味がある、 って言ってるワケですから、そりゃ意味が 分からないのも仕方ありません。 でも僕の言う「無駄」はその無駄とは 違います。 この「無駄」は、実は内容では決まりません。 つまりゲームをするとか、マンガを読むとか、 ダラダラするとか、そういう何をするのかは 「無駄」とは関係ないということです。   無駄が「無駄」になるためには2つの条件を 満たす必要があります。 目的があること 意志があること の2つです。 これらの条件が満たされたときに 無駄は無駄じゃなくなり、意味あるものに なります。 要は「無駄」とは、ちゃんと目的があって 敢えて自分の意志でやる無駄だということです。 一般的な無駄には、目的や意志はありません。 ゲームをするのは「なんとなく」だし、 マンガを読むのも「なんとなく」、 当然ダラダラするのも「なんとなく」です。 目的があって、かつ自分の意志で 「よし、●●のために今はゲームをするぞ!」 って意気込んでゲームをする人はそうそう いないでしょう。 「よし、ダラダラするぞ!」って思って ダラダラする人も稀だと思います。 つまり、普段の生活を無駄にしたくなければ、 可能な限りどんなことにも目的を設定して、 自分の意志で始める必要があるのです。   ここで重要なのは、目的や意志がない場合は、 どんな行為も無駄になりうるということです。 意志と目的なくゲームをするのが無駄なように、 意志と目的なく仕事をするのも無駄です。 意志と目的なく読書をするのも無駄だし、 意志と目的なく結婚するのも無駄。 そう、意志と目的がないだけで何もかもが 無駄になってしまうのです。 なぜこれが無駄(意味のないこと)と 言えるのかというと、まず目的がなければ 情報や経験の価値づけができません。 その行為の中で何が重要で 何が重要でないかが判断できない ということです。 だから何も印象に残らないし、 例えば映画なら「面白かった」みたいな 感想しか抱けない。 (自分にとって)何がどう面白かったのかを 説明するためには、自分が何のために映画を 見るのかをあらかじめ設定しておく必要が あります。 その設定によって「どこに注目するか」が 決まり、「何が印象に残るか」が決まる からです。 目的のない人は、何を見ても何をやっても、 何も自分の中に残らないから結局すべてを 無駄にしてしまうのです。 意志がなければ惰性(習慣)以外で 何かが始まることはありません。 ゲームをするのも、マンガを読むのも、 習慣づけられた「暇だったらゲームや マンガに頼る」という惰性の結果です。 当然こんなところに目的があるはずもなく (目的は意志で決めるものです)、 すべては流されるがまま、今までの自分を 引きずったまま月日が流れていく。 こうして無駄な人生が完成するワケです。   無駄な無駄と無駄じゃない無駄の違い。 それは意志と目的の有無です。 あなたが今やっていることは あなたの意志ですか? そこに目的はありますか? これをできるかぎり自分に問いかけましょう。 そうすれば自然と無駄はなくなり、 何をやっても満たされた人生になっていく はずです。 意志と目的のある無駄を楽しんでくださいね。 ありがとうございました。   ブログの記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
あり方を考える
「自分を見失う」という言葉をたまに耳します。 僕も最近ある人に「自分を見失わないように してください」ということを言ったし、 実はここ1か月ほど僕自身が自分を見失って いました。 自分を見失うとは、自分のあり方を見失うこと、 自分がどういう人間でありたいかが 分からなくなるということです。 もう少し分かりやすく言うと ・どういうこだわりを持った人間でありたいか ・何を欲する人間でありたいか ・何に価値を置く人間でありたいか ・どういうものを選ぶ人間でありたいか ・どういうものを持つ人間でありたいか ・何を見て感動する人間でありたいか ・誰を支持する人間でありたいか などが分からなくなった状態を 「自分を見失う」と言います。 この状態になると僕は体調を崩します。 僕の場合はかなり顕著で、よくも悪くも 身体が敏感に反応するんですね。 もちろん不眠になったのも例外ではありません。 その証拠(?)に、自分のあり方が分かった その日から、僕の不眠は回復し始めました。 面白いもので、僕の体調は僕のあり方と密接に 繋がっているのです。   僕らが自分を見失う原因は怒りです。 怒りは不安や嫉妬、疲れ、悲しみ、羨望、願望、 そういったものを含んでいます。 自分は不安なのに、自分は満足できないのに、 自分は願いが叶わないのに・・・。 その「自分は~なのに」が他者へのイライラとなり、 それが積もり積もって怒りになる。 すると、僕らはどうでもいいことに対抗意識を 燃やすことになり、自分がやるべきことを見失う、 という流れです。 僕がそうなんで、書いてて胸が痛いです(笑) 周りの人間のどうでもいい結果や実績に 振り回されて、その劣等感からどうでもいいことを がんばろうとしてしまう。 そうやって僕は何度も道を踏み外してきました。 でもだからこそ分かるのは、とにかく自分と 真正面から向き合う時間が自分を取り戻すには 必要だということです。   自分を取り戻すための一番のヒントになるのは、 自分がどういう人をカッコイイと思うか、です。 自分を見失っているときは、羨ましい人を カッコイイ人だと勘違いしています。 何度もそれに振り回されてきた僕が言うんだから 間違いありません(笑) こういう例の出し方はあまり適切じゃないの かもしれませんが、前から何度か話している 僕に本を送ってくれた方は、まさにこの状態に なっています。 その方は著者のあり方を真似しようとせずに、 著者から提案された「行動」を真似しようと しています。 つまり、本心では著者をカッコイイとは 思っていないのに、著者が得ているような 結果がほしいから、著者の言うとおりに 行動しているということです。 行動だけを真似する人は、その真似する相手を 本心では尊敬していないのです。 別にそれが悪いと言いたいワケじゃないし、 本人は凄く楽しそうだから敢えてメールでは 言わなかったんですが、実際は今言ったような 構造になっています。   あり方とは、態度です。 自分の意見を批判されて機嫌が悪くなるのも 1つの態度だし、それを冷静に受け止めて 笑顔で対応するのも態度です。 どっちの態度が人間として優れていると思うか。 それが僕らが意識すべき、選択すべきあり方です。 この自分のあり方をいつも自分で選択している 「実感」って多分ないと思うんです。 でもそれが一番ダメで、そうやって生きると つまらない人生で終わります。 だってそうでしょ? 機嫌が悪くなる人間を自分自身も優れた人とは 思ってないのに、そういう人間になることを 自分で選んじゃってるんだから。 自分で自分をつまらない人間にしておいて、 それで人生が楽しくなるはずがありません。 自分がやりたいことをサボるっていうのも、 僕を含め、みんなが犯しがちな選択です。 正直、僕も例の企画でみんなにメールを送るのを 一時期サボっていました。 ああやって自分から個別にオファーを投げるのは 苦手なんで。 でもそこから逃げるという態度は、 僕が理想とする、僕が尊敬できる態度じゃ なかったワケです。 それを自覚したから、思いつく限り全員に メールを送った、というのが裏事情として あります。 部屋の掃除も断捨離も、全部サボってる時点で その人は自分の望まない、それどころか自分が 見下すような自分になっています。 こういった小さなことを1つ1つ自覚しないと、 僕らはずっと「自分が見下すような自分」として 生き続けることになるのです。   言い訳はいくらでもできます。 悪態はいくらでもつけます。 何をサボるのも自由です。 でもそれは、そういう「しょーもない自分」として 生きる道を自分で選んでいるんだと思ってください。 僕は幸いにして(?)「しょーもない自分」を 貫こうとすると体調不良で倒れます(笑) だから嫌でも自分を正さざるを得ない。 便利なんだか不便なんだか、よく分からないですが、 とにかく今この瞬間から、いや、いつでもあなたの 望む自分として生きることが大事です。 自分がカッコイイと思う自分として生きる。 それが人生を(今この瞬間から)楽しいものにする 最大の秘訣なのです。 がんばりましょうね。 ありがとうございました。   ブログの記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
諦めというウソ
「杉野さんの商品を買ってない(買えない)のに、 アドバイスをもらって申し訳ない」 ここ最近、何人かの方からこういう内容のメールが 届きました。 彼らは僕に気を使ってそう言ってくれているのだと 思うのですが、そう言われても僕は「気にしなくて いいですよ」としか返事のしようがありません(苦笑) ただ、そのことについて台所で食器を洗いながら ぼんやり考えていたところ、あることに気付きました。 それは彼らが自分にウソをついているということです。 彼らは本当は商品を買うべきだと思っている (買った方がお互いに気持ち良くメールができると 知っている)のに、自分にはそれができないと 決めつけています。 本人に自覚はないと思いますが、そうやって彼らは 自分の理想から逃げているのです。   99%の諦めは自分へのウソです。 本当は続けた方がいい、本当は買った方がいい、 本当は行った方がいい、本当は決めた方がいい、 本当は勉強した方がいい、本当は運動した方がいい、 本当は・・・本当は・・・。 自分のことを思い返せば分かるように、われわれはいつも 本当はどうすればいいかを知っています。 にもかかわらず、われわれはそれを諦めることの方が 多いワケですが、これ、なんでか分かりますか? 考えるまでもないでしょうが、その方が楽だからです。 僕の商品を買うために何かをがんばるよりも 「買えないです、ごめんなさい」と言う方が圧倒的に 楽なんですよ。 でもそうやって謝って済ませることは自分の理想ではない ワケですから、望んでいないものを選択するという意味で 自分にウソをついていることになります。 ダイエットを諦めるのも、起業を諦めるのも、買いたいものを 諦めるのも、全部ウソなんです。   さて、ここで前回の話に戻りましょう。 自分にウソをつくことは、はたして自分に優しくしていると 言えるでしょうか? 表面的には諦める方が楽なので、それは優しくしているように 思えるかもしれませんが、自分の本心に逆らうという意味では 虐待に他なりません。 よく思い出してください。 本当に心から諦めて良かったと思えることって、 今までにありましたか? 何かを諦めたときというのは、大なり小なり心のどこかで 「嫌な感じ」がしてるはずなんですよ。 僕に「買えなくてごめんなさい」と謝ってきた人たちも、 謝ることで癒されているワケではなく、仕方なく、 心苦しいのを我慢して言ってるんだと思うんです。 これってまさに虐待ですよね? われわれはあまりにもこの虐待に慣れ過ぎているために、 「嫌な感じ」をそのままスルーしてしまっていますが、 この「スルー」こそが自分にウソをつくということなのです。   そもそも「諦める方が楽」という感覚が狂った感覚である ということに、われわれは気付かなければなりません。 なんで自分を虐待する方が楽なのか。 おかしいですよね、その感覚自体が。 下らない、自信がない、情けない自分のままでいる方が楽とか、 もはや意味が分からない。 そういう根本的な「人としての在り方」が狂っているから、 われわれは平気で自分にウソをつけるのです。   本当は自分はどうしたいのか。 どうするのが自分の理想なのか。 自分は望まない楽な生き方を選ぶ人間でありたいのか、 それとも苦しくても理想の生き方を選ぶ人間でありたいのか。 判断に迷ったときは、それを自分に問うてみてください。 そして、できる範囲でいいので、ウソじゃなくて「本当」を 選ぶようにしてください。 そこからしか、本当の人生は始まらないのです。 ありがとうございました。 追伸1:おすすめ商品。 『意志力セミナー』 やる気が出ない、集中できない、行動できないという悩みを わすか一週間で、自転車に乗るよりも簡単なことをするだけで 解決し、自分の思うがままにやる気や集中力をコントロール できるようになる方法を解説したセミナー。   ブログの記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
自分に優しく
僕は小さい頃からずっと、家族や親戚に対して「いい子」を 演じてきました。 田んぼの稲刈りや近所のお宮の掃除、庭の草抜きや剪定など、 親や親戚から頼まれたことに嫌だと言ったことは一度も ありません(予定があって断ったことはあるけども)。 心の中ではいつも「面倒臭いな」と思っていましたが、 子供心にそういう頼み事は断ってはいけないと思い続けて きました。 親戚や家族とは仲良くしないといけない。 和が乱れるようなことをしてはいけない。 そういう日本社会的な価値観が僕を縛っていたのでしょう。 気付いたときには無意識に(自分を犠牲にしてでも) 和を乱さない方を選択をするようになり、こんなメルマガを 書くようになった今でもその習慣は未だに抜けきっていません。 しかし、こんな僕だからこそ言えることがあります。 それが前回の最後に言った 「もっと自分に優しくしてあげましょう」 ということです。   嫌なことに対してはっきり嫌だと言うこと。 これは自分に優しくする、1つの代表的な例です。 僕にはこれができなかったし、多分このメルマガを 読んでいる人の中にもできない人は多いと思います。 こんな簡単なことがどうしてできないのかと思うんだけど、 長年の習慣というのは恐ろしいもので、嫌だと感じている その「感じ」をスルーして頭で判断するようなシステムが 自分の中に作られてしまってるんです。 振り返って考えてみれば嫌だと感じていたはずなのに、 その瞬間は自覚できない。 それによって「いい子」や「いい人」というのは、 自分で自分を虐待することになります。 彼ら(僕を含む)は自分で自分の価値観を捻じ曲げ、 自分の存在価値を貶めるようなことをしているのです。   家族や親戚を手放したくない。 恋人を手放したくない。 僕もこの2つ、特に今年は後者で苦悩しましたから、 その気持ちは痛いほど分かります。 でもそれはただの欲なんですよ。 嫌われたくない、愛されたい、体裁を保ちたい、 現状を維持したい、ごたごたしたくないという欲。 目を覚ましてください。 嫌なことを嫌だと言って、それでもついてきてくれるのが 本当の家族や恋人、仲間であり、人間関係とは本来 そうあるべきなのです。   以前、セミナー後の懇親会で「もうすぐ結婚するので、 夜勤のキツイ仕事だけど、あっさりやめるワケには いかないんですよね」と言っていた方がいました。 そのときの僕は「苦しいだろうけど頑張ってほしいなぁ」と 思っていたのですが、今の僕なら多分彼にこう言います。 「恋人よりもまずは自分を大事にしてください」 彼は仕事を辞めたら彼女や彼女の両親を心配させると言って その仕事はしばらく続けるつもりだと言っていましたが、 そうやって僕らは自分を虐待するんです。 でも違うんですよ、その考え方は。 彼女が本当に彼のことを好きなら、表面的には多少文句は 言うかもしれませんが、彼が頑張ろうとしてることは 何だって応援してくれるはずなんです。 それを彼女のためだと言って、嫌なことや苦しいことを 我慢するのはお互いのためになりません。 そんなことをしないと結婚できないような人なら、 遅かれ早かれ別れることになるだろうし、そうなるぐらいなら 結婚できなくなる方が長期的にはお互いのためなのです。   「いい子」や「いい人」をやめるには勇気がいります。 偽りの自分をやめるには勇気がいるんです。 しかしそれをやめない限り、本当のストレスフリー、 つまり善なる生は訪れません。 そこで僕から1つ提案があります。 今ある関係はそのままでいいので、 「いい子」や「いい人」をやめられる環境を 自分で見つけてください。 僕の場合、それはブログやメルマガやツイッターでした。 人によっては外国人パブとか、なんちゃら研究会とか、 料理教室とか、キリスト教会とか、起業家の団体とか、 女装カフェとか、ニコニコ動画とか、そういった既存の コミュニティかもしれません。 とにかくなんでもいいので「ここにいるときだけは、 何も周りの目を気にせずにいられる」という環境に 自分を置くようにしてください。 それがいつか「いい子」や「いい人」をやめる突破口に なるはずです。   嫌われたくないなら、嫌われるようなことをしても 嫌われない(と分かり切っている)相手とだけ付き合えば いいんです。 極端に思うかもしれませんが、それが理想でしょ? だったらそれを叶えましょうよ。 自分に優しくするとは、そういうことなのです。 ありがとうございました。   ブログの記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
問いと答えの論理学
  昨日、「神の殺し方」セミナーに参加してくれた方が 早速感想を送ってくれました。 その感想がかなり優秀というか、読者全員のためになる 内容だったので、許可を得て転載させてもらうことに しました。 以下がその内容です。 ブログを書くというのは、ワークをやる事と一緒なんだなと。 損得勘定では幸せは掴めないのはなぜなのかを説明せよとか、 いらない物を捨てる事がなぜ能力アップにつながるのかを 説明せよとか、質問自体も自分で自由に設定できる ワークをやって、結果として記事になっている。 というのがブログなんだなと、そういう今までの認識とは ちょっと違う視点が自分の中に産まれてきました。 つまり昨日の様に、何かしらのワークの中に常にいれば いいんだと。 今まではただ思いつきで書こうとしていたのですが、 ワークと捉える事で小さなゴールが設定された様な、 何が言いたくて書こうとしているのか、何について 考えているのかが明確になって取り組み易くなった様に 思います。 損得勘定の世界からどんどん抜けてゆく事、 いつも何かしらのワークの中にいる事、 (ワークをやるって損得を考えている時とは比べ物に ならない充実した世界なんだと思いました) この2つが今の自分が一段上に昇る為のキーワードだなと、 この2つが(ロールプレイングゲームに例えると)中ボスを 倒す為の特殊武器で、それを使いこなせるか否かが、 今の自分にはポイントになっているなと思いました。 ここまで。 なぜこの感想が凄いのか、何が凄いのか分かるでしょうか? 彼は実は、コリングウッドという哲学者が言っている 「問いと答えの論理学」と同じことを自分の体験を 通して気付き、そのことを感想で述べているのです。   われわれは何かを発言するとき、自分に対する問いに 答えています。 例えば「腹減ったー」という発言は「今どういう気持ち?」 という問いに答えているし、「哲学を学ぶべきだ」という 発言は「みんなにとって大事なことは?」という問いに 答えているということです。 コリングウッドは、相手の発言を聞いてこの問いを 「生起」することが、コミュニケーションにおいて重要だと 言っています。 なぜかというと、その発言の意味や価値はどのような問いに 答えているかによって決まるからです。 問いという言葉が分かり難いなら、問題意識と言い換えても いいでしょう。 僕が「どうすれば儲かるか?」という問いの解答として 『自分の価値を最大化する方法』を書くのか、それとも 「人間はどうあるべきか?」という問いの解答として 同じ記事を書くのかでは、まったく意味が違いますよね? 哲学書を読む際にも、彼らの問いを誤って捉えてしまうと、 それだけで哲学書に書かれた「発言」の意味も誤って 捉えることになるワケです。 ホッブズやルソーなんかがよく誤読されるのは、 読者の生起する問いが間違いやすいからだと言えるでしょう。   問いが正しければ答えも正しい。 質問が素晴らしければ答えも素晴らしい。 問いと答えはこういう関係にあります。 無邪気な子供のように、普通の大人が問えないようなことを 問えることは、その意味で非常に価値のあることです。 今回の場合で言えば、「この感想の何が素晴らしいのか?」 という問いが、この記事の価値を支えていると言えます。 「すげぇ!」と思ったことに対して「何がすげぇのか?」 「なぜすげぇのか?」と素朴に問うことが、本当の意味での 「すげぇ!」の価値なのです。 何年か前に「なぜわれわれには人権があるのか」という記事を 書いたことがありますが、これぐらい深く問えるようになると、 得られる答えの価値も凄いことになります。 先日の「神の殺し方」でも、「なぜ時間は過去・現在・未来に 流れるのか?」という問いに対する答えを話しました。 こんな感じで、人が問えないことを問うことは、人をワクワク ドキドキさせることにも繋がるのです。   そうと分かれば、もう何でも問うしかないですよね?(笑) 素晴らしい問い、もとい、素晴らしい質問が届くことを 心よりお待ちしております(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
哲学書を読む意味 ~ライフスタイルとしての教養~
  昨日お話ししたように、僕は今キルケゴールの『死にいたる病』に ハマっています。 少し前はアレントやブーバー、ハイデガー、ガダマーなんかに ハマっていた時期がありますが、これらの本の内容というのは はっきり言って何の役にも立ちません。 哲学書とは、当たり前のことをただ事細かに、ときに熱く(笑) 詳説してくれる、それだけのものだからです。 一方で、ビジネス書や自己啓発書、その他「実用書」と呼ばれる 種類の本たちは、何かの役に立つようなことが書かれています。 その内容はマーケティングやコピーライティング、営業、簿記、 ダイエット、整理整頓、料理の作り方などなど多岐にわたる ワケですが、どれも何か特定のことに役立つ(すぐに使える) という点で共通しています。 僕はここ1,2ヶ月ほどの間、この「役に立つ」という言葉に かなり苦しめられました。 なぜか分からないけど(いや、本当は分かってるんだけど)、 「自分も役に立つ何かをしなきゃいけない」という思いが ふつふつと湧いてきて、いくつかの「役に立つ」系の セミナーに参加してみたり、これまでほぼ無視してきた ビジネス書なんかも買ってみたりしました。 しかしその結果どうなったかというと、僕は僕ではなくなって しまいました(苦笑)。 そう、自分を見失ってしまったのです。 そこから散々な苦悩を経て、ようやく元に戻ることができた今、 改めて分かったことがあります。 「役に立つ」とは、損得勘定の視点で物事を見ることである、 ということです。   哲学書は何の役にも立たない。 この言葉は言い換えると、哲学書を読んで得することは何もない、 という意味になります。 自動配信されたバックナンバーでも話していると思いますが、 こういう損得勘定というのは、しょーもない人間の典型的な 考え方です。 「訴えられたら損 → だから法を犯すようなことはするな」 これと同じで哲学書も「読んでも得はない → だから読まない」 という判断になっています。 たしかに哲学書を読んで得することはないかもしれません。 その時間をビジネス書の読書に使えば、何かしら役に立つ知識が 得られることでしょう。 しかし僕にとって哲学書を読むことは、損か得かではなくて、 「哲学書を読んで1日を過ごすような素敵な自分であること」、 つまり哲学書を読むという無駄を許容できるぐらいの余裕があり、 損得勘定に縛られないという理想の自分を実現することなのです。   ほとんどの人が1ページすら読めない難しい本を、 時間を気にせず、損得も気にせず、楽しく読めること。 それが僕が理想とする自分であり、ライフスタイルです。 その内容が役に立つか立たないかは、どうでもいいんですよ。 苦悩を経た結果、やっとそのことに気付くことができました。 僕のメルマガやセミナーは、役に立つ何かを提供しているワケ ではありません。 そうではなくて、(直接的には)何の役にも立たないかも しれないけど、知的興奮を味わえたり、キッカケが得られたり、 心が晴れたりする、もっと言うと、そういったものに時間や お金を使えるぐらい余裕のある「ライフスタイル」を 提供しています。 教養も、教養それ自体が役に立つか立たないかはどうでもよくて、 「教養を身につけようとする自分であること」が大事なのであり、 それが素敵な自分であるということなのです。 哲学や芸術や宗教のことに詳しくなっても、多分直接的に何かの 役に立つことはありません。 でも、それらに魅力を感じる自分であることは、 何ものにも代えられない価値だと思います。 だって98%ぐらいの人は、損得勘定に縛られてそれに魅力を 感じることができないんだから。 教養は役に立つことが価値なんじゃなくて、 それに価値を感じられる自分であること、そして自分と 同じような人たちに共感できることが価値なのです。   哲学で飯は食えない。 それはそうかもしれません。 でも「哲学を愛する自分であること」を本気で発信できれば、 それで飯は食えます。 他でもない僕がそうだからです。 大事なのは哲学というコンテンツではなく、哲学を好きである自分、 哲学書を楽しく読める自分というコンテクストなのです。 これは哲学でなくても同じです。 どんなことであれ、それをコンテンツとして捉えているかぎりは、 直接的に役立つ何かでないと飯は食えません。 しかしそれを好きである自分、それを愛している自分がいるなら、 そのコンテクストに人は集まってきます。 コミュニティは勝手にできます。 僕の苦悩は、このコンテンツとコンテクストの間を行き来する、 まさに時代を跨ぐためのものだったのです。   僕がこれまで発信し、体現してきたことの1つは 「なんでも損得で考えるのはやめようぜ」ということです。 つまり「コンテンツで選ばずにコンテクストで選ぼうぜ」と。 僕はそんなことを語ってきたのだなぁ、と気付きました。 にもかかわらず、ここ数カ月の僕はそれとは真反対の、 コンテンツの側に重きを置こうとしてしまっていました。 愚かだったと思います。 でも、その苦い経験があったからこそ、こうして今までより 一層自分にとって大事なものが明確にくっきりと見えるように なりました。 もうこんな経験はこりごりですが、多分またどこかで 経験することになるんでしょうね(苦笑)   大事なことなのでもう一度言っておきます。 学んだ内容云々ではなく、何かを学んでいる姿勢そのものが われわれにとっての価値です。 政治でも哲学でも宗教でもなんでも、それが役に立つかどうか ではなく、それを学んでいる自分であること、そこに楽しさを 見出せる自分であることが価値なのです。 僕のメルマガを読んでいる時点で、あなたはその一歩を 踏み出しています。 自分にウソをつかず、嫌なもんは嫌だと、したくないことは 絶対にしたくないと、正直に言いましょう。 その強烈な価値観に、個性に、人は惹きつけられるのです。 大丈夫、僕がついてますから。 一緒に理想のライフスタイルを、理想の自分を実現しましょうね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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