UA-32556480-1
top-image

Archives for 単語帳

近代(単語帳)
近代とは、啓蒙思想と主権国家体制により神の絶対性が失われた時代のことです。 年代で言えば17世紀頃から19世紀頃を指すことが多いですが、人によって意見が 異なるため厳密に何年から何年ということは断言できません。 近代の特徴としては、デカルトの大陸合理論に代表される合理主義や(物心)二元論、 そして合理主義から派生的に生まれた科学主義、要素還元主義、自由主義、人権思想、 民主主義、決定論、単純進歩史観などが挙げられます。 例えるなら近代建築あたりが分かり易いでしょうか。 直線的で左右対称で無機的、合理的で無駄がなく、機械的で再現性が高い。 こういうのが近代と名のつくものの特徴です。 例外的に「モダン焼き」みたいなものもありますが(笑)、あれは多分言葉の響きだけで 付けた名前だと思うので、あんまり深い意味はないんじゃないかな、と。 だったらいっそのこと「デカルト焼き」にして欲しい、と思うのは恐らく僕だけ でしょう(笑)   それでは、ここからはザックリと近代化の流れを見てみることにしましょう。   中世の世界では神が絶対的な根拠であり、どんなことが起ってもすべて「神の意志」で 片づけられていました。 リンゴが落ちるのは、神の意志が働いているから。 植物が育つのは、神がそうなるようにしたから。 人間が存在するのは、神が人間を創ったから。 こういう今から考えれば根も葉もない根拠の上に世界が成立していたワケですが、 それでも世界はなんとか無事に回っていました。 ところがある時、ガリレオ、ニュートン、コペルニクス、ケプラーという世界の運命を 揺るがす4人が現れます。 彼らはあまりに敬虔なクリスチャンだったため、彼らの信念は 「神が世界を創ったのなら、それは美しいに違いない」 という一般的なクリスチャンの信念から飛躍して 「世界が美しいなら、それは数式で表せるに違いない」 という信念にまでいたったのです。 その信念から彼らは世界を数式化し始めます。 それによって地動説やニュートン力学が生まれてくるワケですが、それをわれわれは 科学革命(Scientific Revolution)と呼ぶワケです。 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示したように、 熱烈な信仰というのは、それとは一見何の関係もないものの発展に寄与することが 案外多いようですね。   このあと彼らは、努力が報われるどころか、教会から危険人物のレッテルを貼られて しまうことになります。 この時代、さっき挙げた4人以外にも偉大な功績を残した敬虔なクリスチャンはたくさん いたと思われますが、そういった人たちは教会に消されてしまったのです。 ではなぜ教会は彼らに危険人物のレッテルを貼ったのでしょうか。 それは彼らの発見した数式が、のちのちに教会の(神の)地位を危うくすることが 分かっていたからです。 この頃はまだまだ神は絶対であり、だからこそガリレオやニュートンらはその神を 追い求めて多くの数式を発見したワケですが、その理性的な行為こそが100年・ 200年の時を経て、神を殺す要因となるのです。 もちろん当時の彼らがそんなことを知っているはずもありません。 けれども、教会は分かっていた。 だからこそ教会はその芽をいち早く摘もうとしたのです。   ところで、科学革命がじわじわと起っていた頃、人々の心にも変化が起っていました。 ホッブズ、ロック、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールといった 啓蒙思想家と呼ばれる人たちが現れ、周りの人々に対して啓蒙を促し始めたのです。 啓蒙とは、自らの理性の力で世界を切り拓く、ということ。 「存在するかしないかも分からないような神に頼ってないで、自分の理性を信じて何事も 自分の力で解決していこうじゃないか」 と言ったかどうかは知りませんが、彼らはそんなことを人々に説いてまわりました。 今のわれわれの感覚からは信じられないかもしれませんが、当時の人々は自分に自分の 人生を変える力があるとは誰も思っていませんでした。 貴族はずっと死ぬまで貴族、農民はずっと死ぬまで農民、それが普通だったのです。 「このとき、社会に不平等と貧困はあったが、精神の頽廃はなかった」 とトクヴィル(トゥクヴィル?)が言っているように、これが普通だったからこそ、 彼らは自ら理性の力で自分の人生を動かす必要はなかったし、動かそうという発想すら なかったのです。 しかし、啓蒙思想家の説教を聞いたことで、彼らは気付いてしまいます。 「生まれた家は確かに違うけど、みんな同じ人間じゃないか」 ということに。 ・・・みんな同じ人間。 この今では当然すぎる発想が生まれたのはこの頃です。 みんな同じ人間だから分かり合えるはず。 みんな同じ人間だから平等じゃなきゃだめ。 みんな同じ人間だから理性的能力も同じ。 こうした発想から自由主義や個人主義が生まれ、それが人権思想になり、市民革命 (フランス革命など)が起るにいたったワケです。   上記2つの革命の行き先を考えると、科学革命は科学的知識を急速に発展させ、 市民革命は個人主義や自由主義から資本主義の精神を育んだ、と言えます。 科学的知識の発展は様々な機械を生み、生活を合理化し、資本主義の精神は人間を より貪欲にした。 そしてこの2つが合わさって人類は産業革命という爆発的進歩を達成したのです。   これで科学革命・市民革命・産業革命の3つが出そろったワケですが、話はここで 終わりません。 上の3つの革命だけでは神の絶対性は揺らいでいないのです。 市民革命は神に対してそこそこ大きなダメージを与えている気はしますが、それでも 神を殺すまでには至っていない。 神にとどめを刺すには主権国家体制が必要なのです。 主権国家体制とは、国家に主権を認める(国のことは国が決めていい)ということです。 1648年に決まった30年戦争の講和条約であるウエストファリア条約というのが この主権国家体制というのを定めています。 これによって、それまでは宗教的に内政干渉されまくっていた国も、その国ごとに 宗教的自由を保障され、カトリックだろうがプロテスタントだろうが、はたまた イスラム教だろうが仏教だろうが無宗教だろうがいろんな宗教が入り混じってようが、 国が決めたことに従うだけでよくなったのです。 こうなると神は国ごとに存在したり、存在しなかったり、たくさんいたり、1人しか いなかったりして、絶対的とは呼びがたい存在となります。 ここにきてようやく神の絶対性が失われるワケです。 このことをニーチェは 「神は死んだ」 と表現したワケですが、彼が言ったのは「神は既に死んでいる」ということであって、 彼が神の死に直面したということではありません。 その点は少し注意しておいて下さい。   以上、簡単ではありますが近代化の流れをまとめてみました。 学者が読んだら目玉が飛び出るほど乱暴なまとめですが、学者が読むことはないと 思いますので、そのままにしておきます(笑) 詳しいことが気になったらウィキペディアや関連書籍などを参照しながら、自分なりに 知識を深めていって下さいね。 ではではー。 ...more»
実存とは
  実存とは、「実際に在る」「現実に存在する」ということを広く表した概念です。 何をもって実存とするかは人それぞれの考え方があるので決定的なことはいえませんが、実存主義者と呼ばれるような人たちは僕が『メルマガ登録』の記事で言っているような“リアルな”現実を追い求めていたと言えます。 かつて、サルトルは「存在なんて気持ち悪い、吐き気がするぜ!」と言い、ハイデガーは「いやいや、存在というのは奇跡なんだよ!みんなもっと驚けよ!」と言い、ニーチェは「ありもしないお花畑ばかり見てないで、お前らもっと現実を直視しろ!」と言いました。 それぞれ現実に対する態度はかなり異なっていますが、彼らはみな実存を真摯に追い求め、実存的であることに人生を注いだワケです。   翻ってみると、このことは当時の人々が「現実をおろそかにしていた」、「非実存的だった」ということを意味します。 誰もが現実を見失い、ありもしない虚構ばかりを見て生きている。 そういう現実があったからこそ彼らは実存を追い求めたワケです。 ヨーロッパの産業革命が一通り終わりに近づき、近代化がいちじるしかったこの時代は、人々がモノ的になっていった時代でもありました。 資本主義の発展に伴うプロレタリアートとブルジョワジーの対立、帝国主義による世界の植民地化、2度にわたる世界戦争・・・これらの事実はすべてこの時代が人々をモノ的に扱っていたことを証明しています。 モノ的とは、その名の通り「モノのように」ということであり、資本主義や帝国主義や戦争は人々を「労働力」というモノに置き換え、まさに使い捨てるかのように命を消費していったワケです。 こういった経緯により彼らは徐々にお互いをモノ的にしか見られなくなり、何事に対しても使えるか使えないか、役に立つか立たないか、労働力ガあるかないか、お金を生むか生まないかでしか価値を見出せなくなっていきました。 また別の方面では資本主義が人々の個人主義を促進し、より自分本位で自己中心的な人間が量産されていたことも見逃せません。 彼らは自分のことだけしか考えない人間だったからこそ、他国の資源を奪ったり、相手を殺してまで自分の利益を優先したりということが出来たのです。 こうして「モノ的」で「自己中心的」な人間が世界を支配するようになったワケです。 しかしながら、現実は「モノ的」とか「自己中心的」といったものから遠く離れた概念であり、まったく性質の違うものです。 「モノ的」とは、もう少し具体的に言えば科学的価値観のことですが、そもそも科学は現実を部分的に切り取ったものにすぎず、数字になるものや言葉で言い表せるものは現実の一部分でしかありません。 その一部分でしかないものしか信じない、それがすべてであるという態度が「モノ的」な態度なワケです。 それはさすがに現実を見ているとは言えないですよね。 この世には科学で証明できないこと、数字や言葉にならないことがたくさんあるのに、そういったことを一切無視している。 ちょっと前にホメオパシーのレメディー(でしたっけ?)を用いた代替医療を猛烈に批判していたのは、科学を盲信した「モノ的」な人たちです。 彼らの言い分も間違いではないのですが、人間の理性では測り知れないことが実際には数多くあるワケですから、すべてを科学的価値観で測ろうとするあの態度はどうなのか、と。 それは果たして“リアルな”現実を見ていると言えるのか、と。 そう思うワケです。   「自己中心的」というのも、その考え方自体がそもそも現実的ではありません。 自己中心的に自社利益を最大化しようとした結果、自社が倒産する(ほされる)なんてことは往々にしてあるし、囚人のジレンマよろしく、ゲーム理論でも自己利益を追求することが自分にとって最も損な結果を生むと証明されている。 仮にこれらを知らなかったとしても、道徳的にそういうことをしたらマズイことが起こりそうだというのは感覚的に分かるのが普通だと思うのです。 にもかかわらず、それを平気をやってしまうあたりが、どれだけ現実が見えていないかを証明していると言えるでしょう。 われわれが非実存的になった要因は他にもあると思いますが、大雑把に言えばこういったプロセスを経て、いつしか「現実のようなもの」がわれわれにとっての現実になってしまったワケです。   この非実存的な状況は今も変わっていません。 いや、視点を変えてみれば、この当時よりも悲惨なことになっていると言えます。 今は他人に命を奪われるのではなく、自分で自分の命を絶つような生物学的に異常な人間が大量に現れ始めたのですから。 このような状況を少し難しい言葉で「実存の危機」と言います。 感覚的には「生きている実感がない」、「生きている意味を感じない」、「なんのために生きているのか分からない」、「今の私は本当の私ではないような気がする」、「なんとなく将来が不安」というような状態です。 この中身は症状の軽いものから重いものまでさまざまです。 今すぐ死んでしまいたくなってしまうようなものもあれば、居心地は悪いけど別に死のうとまでは思わないというものもあります。 ただ、誰もが何かしらモヤモヤした漠然とした不安を抱えている、というのが実存の危機たる状況なのです。 この居心地の悪さというのは先ほど上で話したようなものに加え、急速な時代の変化や常識の変化なども関係しています。 要するに「自分の思っている現実」と「実際の現実」が気付かないうちにどんどん乖離していっているから、なんとなく自分の日常に現実感がなくなり、気付いたときには茹でガエルのごとく手遅れになってしまうワケです。   この状況を打開するにはわれわれが実存を取り戻す必要があるワケですが、そのヒントとして、かつて歴史的な実存の危機を生きた哲学者の言葉が役に立ちます。 彼らはその時代において常に現実と向き合い、危機を乗り越えようともがいた稀有な人間です。 そして彼らは歴史に名を残すほどの鬼才でもある。 幸いにして、われわれはたった1000円程度のお金で彼らが一生をかけた臨んだ哲学に触れることができます。 それらは決して読みやすいものだとは言えませんが、人生をかけてでも読む価値のあるものばかりです。 別に今すぐに読めなくてもいいのです。 日々勉強をかさね、たまにペラペラとページをめくり、読む気にならなければまた本棚へしまっておく。 これを繰り返しているうちにどこかのタイミングで少しずつ読めるようになってきます。 なんとなく言わんとしていることが分かってきます。 そしてそうなったときには、あなたは既に実存の道を歩み始めているのです。   ...more»
アフォーダンスとは
  アフォーダンスとは、知覚心理学者ジェームズ・ギブソンの作った造語で「自分と環境の関係がそのモノの価値を決める」といった内容の概念です。 うちのブログではお馴染みの概念ですが、一般的にはまだそこまでメジャーになっていないのが実際のところ。 デザインの現場では、もはやアフォーダンス無しには成り立たないレベルになってきているのですが、他の業界ではあまり聞いたことがありません。 便利な言葉だと思うんですけどね。   モノには無限の価値(や意味)があらかじめ含まれており、われわれはそのモノとの関係に応じて価値の1つを選び取っているにすぎない。 これがアフォーダンスの前提です。 たとえばよく例としてあげられるのはドアノブ。 ドアノブそのものはドアについた突起物でしかないにもかかわらず、われわれはそれをドアノブとして認識し、それを捻ったり引いたりすればドアが開くことを知っています。 それはドアについた突起物がわれわれに「ここを引けばドアが開くよ」「私はドアノブですよ」と語りかけているからだ、という風に解釈するのがアフォーダンスの考え方です。 このことをギブソン的な言い方で「ドアの突起物がわれわれに引くことをアフォードしている」と言います。 要はこちら側が主観でモノに価値を付加しているのではなく、価値はモノそのものにあってわれわれはそのモノがアフォードした価値を選び取っているだけだ、ということです。 これを主観主義的に「こちらがモノに対して価値を付加している」と考えると、われわれがそのモノのあり方や使い方を個人的に決めている、という解釈になってしまうのですが、それだと郵便ポストを郵便ポストだと知らない人は、そこに手紙を入れても手紙が届かないことになってしまいます。 当たり前ですが、郵便ポストはそれを知っている知らないにかかわらず、手紙を入れれば手紙は届けられるワケですから、「手紙を届ける」という価値はこちらが付加しているのではなく、あらかじめ郵便ポストに備わっているのです。 このことから、アフォーダンスは近代的な主観主義を乗り越える大きな一歩を切り開いたと言えます。   ちなみにドナルド・ノーマン的にアフォーダンスを表現すると、(突起物ではなく)ドアノブがわれわれに「ここを引けばドアが開くよ」と語りかけている、という言い回しになります。 ただ、この場合はあらかじめ意味が固定された「ドアノブ」という言葉が使われていることによって、ドアノブがドアノブの役割をわれわれに伝えている、というトートロジーをあらわしており、ギブソンの使った純粋な意味でのアフォーダンスとは異なることを注意しておいて下さい。   このアフォーダンスの考え方を応用すると、われわれ人間の価値を再評価することができます。 先ほど「モノにはあらかじめ無限の価値が含まれており、そのモノとわれわれの関係がその価値を決定している」と書きましたが、もしこのモノが人間にも当てはまるとするならば、自分と周りの関係を変えることによって自分の価値は変わる、と考えることができるワケです。 つまり、自分には無限の価値があるけれども、周りの人間がその中の「使えない価値」ばかりを選んでしまっているために、自分は使えない奴というレッテルを貼られてしまっているのだ、と。 自分をちゃんと評価できる人にさえ出会えば、自分の価値はまったく別物になるのではないか、と。 これだけを読むと他力本願に見えてしまいますが、実社会で評価されない人間がネット上で人気者だったりする現実を考えるならば、あながちこれが他人にばかり依存しているとも言えない気がします。 もちろん「自分には無限の価値がある」という前提に甘えていては、誰に出会っても何も起こらないと思いますけどね。 大事なのは、いかに自分の価値を周りにアフォードできるか。 その工夫次第であなたの人生は変わってくるかもしれません。   ...more»
ホセ・オルテガ・イ・ガセットとは
  ホセ・オルテガ・イ・ガセット スペインの哲学者です。 日本では著書『大衆の反逆』がもっとも有名です。 『大衆の反逆』はこの手の本にしては非常に読みやすいので是非とも読んで欲しいんですが、読みやすいという理由を除いても野蛮人を相対主義者にたとえて言及している点は現代にも通ずる重要な視点です。 他の著作は主に全集におさめられているため普通の本屋ではまず見かけることはないと思います。 かくいう僕も全集はパラパラと目を通した程度なので、中身はほとんど知りません。 名のある哲学者にありがちな、常軌を逸した逸話もチラホラあります。 『大衆の反逆』の解説によると、幼いときに4時間程度でドン・キホーテ(世界で2番目に売れている本)の一章をすべて暗記したとかなんとか。 値段の100倍以上の価値はあると思いますので、ぜひ買って読んでみてください。 ちなみに、どーでもいい話なんですが、ガダマーの自伝に3行だけオルテガが出てきます(笑) よかったらそっちも併せてどうぞ。 ...more»
ハンス・ゲオルク・ガダマーとは
  ハンス・ゲオルク・ガダマー。 ドイツの哲学者です。 解釈学と言えばガダマーと呼ばれるぐらい解釈学の権威として有名。 解釈学というのは、その名の通り、人の解釈を研究する学問です。 最初(ディルタイの頃)は文章とか物体なんかを主な対象にしていましたが、ハイデガーやガダマーの頃になると人間個人の「先入見」や「理解」というものが主な研究対象になってきています。 彼の著書で有名なのは『真理と方法』。 哲学書の中では難しい方に入ると思います。 自伝は比較的よみやすい方ですが、個人的にはあまり面白いことは書かれてなかったような記憶があります。 「15歳のときはカントが難しすぎて読めなかった」という発言に親近感を覚えた、というぐらいでしょうか(笑) 『真理と方法』を読むときは、とりあえず『地平融合』という言葉だけでも覚えておくといいかもしれません。   ...more»
ヒーローとは
  ヒーローとは 自分の所属する共同体において絶大な信用と信頼があり、尚且つ、 自らの善なる信念を持ってその共同体を導いていける存在 のこと。 読んで分かるように、このブログにおける【ヒーロー】とは、 一般に言う「正義のヒーロー」とはちょっと、いや、かなり違います。 自分の所属する共同体、というのはミクシィのコミュニティ みたいなものを思い浮かべてもらえば分かり易いかもしれません。 例えば「猫好き」のコミュニティ。 僕が言うまでもなくそこには猫好きが集まっているワケですが、 そのコミュニティで信用や信頼を得ている人というのは多分、 猫にめちゃ詳しい人だったり、アップする猫画像がいつも 可愛くて人気のある人だったり、猫ブリーダーだったり そんな感じだと思います。 そして尚且つ、善なる信念を持ってコミュニティを導く、 つまり猫に関する誤解や間違いを正し、猫と一緒に暮らすとは どういうことなのかを正しい知識を持って発信していける存在が 猫好きコミュニティにおける【ヒーロー】です。 「本物のプロ」と表現しても間違いではないでしょう。 僕のブログではもっと大きな共同体(相対主義の世界)を 対象とした【ヒーロー】を想定して話を進めていますが、 本質的には猫好きコミュニティのヒーローと意味は同じです。 物凄く乱暴に言ってしまえば、あるコミュニティの中で 【スゴイ人】 はそれだけで大よそヒーローの要素を持っています。 もちろん何がスゴイかにもよりますけど(笑) その他、詳しいことは参考ページを読んでみて下さいませ。 なぜヒーローなんて概念が必要なのか。 なぜ今の世の中にヒーローが必要なのか。 読めば分かります。   ...more»
相対主義とは
  相対主義とは みんなの価値観や文化や特徴はバラバラなんだから、どれが一番とか決めるんじゃなくて、それぞれの価値を認めて、互いに尊重し合おうじゃないか という考え方のことです。 もっとシンプルに言えばナンバーワンよりオンリーワンがいいよねーという感じ。 典型的な例としては「駆けっこでみんな手を繋いでゴール」みたいな価値観を指します。 ただ、、一人一人の価値を尊重し過ぎて(?)お互いが無関心になってしまっているのも相対主義の特徴です。 これは相対主義の負の側面と言ってもいいかもしれません。 「アナタはアナタで自由にしてていいよ」、これだけを読めば相手を尊重しているように見えますが、「ただし、オレの邪魔だけはしないでね」という文章を足せば、「オレ」は「アナタ」に無干渉である代わりに無関心でもあるということが分かるワケです。 関心があるなら「オレが変なことしたら注意してね」とか「アナタが怪我しないようにちゃんと見てるから」とかなんとでも言えるはずですから。 つまり、上は「アナタの勝手にしなよ、オレも勝手にするから」と言ってるのと一緒なんですね。 まるで冷め切った夫婦みたいでしょ? でもそれと同じなんですよ、実際。 結局、お互いがお互いの関係に冷めている状態が相対主義の負の側面なのです。 善くも悪くも現代を生きるわれわれの価値観はこの相対主義で覆いつくされています。 核家族の増加。 近所付き合いの減少。 自分勝手な人間の増加。 自殺者や精神病や統合失調症患者の増加。 これらは全て相対主義の負の側面を克明に表している現象です。 具体的な説明は参考ページを読んでもらえば分かると思いますので、ここでは割愛。 ただ【相対主義】はこのブログの頻出(重要)単語なので、是非とも意味は覚えておいて下さいませ。   ...more»
bottom-img

Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1