UA-32556480-1
top-image

Archives for 世界史

STAP細胞と錬金術師 ~小保方晴子の真価~
  今、STAP細胞が世間を賑わしています。 生後一週間の若いマウスから採取した血液細胞にストレスをかける (弱酸性の液に30分ほど浸して刺激を与える)と、細胞が若返る (万能細胞になる)という、今までの常識では考えられないことが 実験で証明されたワケですが、それをやってのけたのが30歳の 若い女性だということが、賑わいに拍車をかけているようです。 30歳と言えば、僕とタメですからね。 悔しいやら情けないやら誇らしいやら、複雑な気持ちです(笑) まあ僕の個人的な感情はともかくとして、この話題からわれわれが 学べぶべきことはたくさんあります。 なぜ最近やたらと「女性」が話題にのぼるのか。 なぜ理系女子(リケジョ)は企業に人気なのか。 女性研究者が大きな結果を出したのは偶然なのか。 仮にこの結果が必然だったとしたら、それはどのような原理に よるものなのか。 パッと思いつくだけでも、これぐらいのことが学べるワケですが、 今回は敢えて「女性」の部分には触れずに、彼女が思いついた ユニークな実験方法について考察を深めていきたいと思います。   彼女がやった実験は、若いマウスから取り出した細胞に何らかの ストレスをかける、というものです。 彼女はこの実験方法を植物やイモリなどの特性から思いついたと 言っています。 「植物や爬虫類で起こるなら、哺乳類や人間でも同じことが 起こるんじゃないか」 そういう素朴な疑問から始まったそうです。 それが最終的に今回のような偉大な結果に至りました。 つまり彼女は、植物や爬虫類に起こることは、哺乳類でも (現段階ではネズミのみですが)起こる、ということを証明した ワケです。   世間ではまったく話題になっていないのですが、このことは われわれに重要な考え方を提供してくれています。 物凄く単純化して言えば、 「アイツにできるなら俺にもできるはずだ」 という考え方です。 この理屈が同種間のみならず、異種間でも成り立つということを 彼女は証明してくれました。 ただ勘違いしてはいけないのは、これは一般に認識されているような 「科学的」な考え方ではないということです。 科学というのは本来、目の前にあるものをただただ細かく精密に 分析するのが仕事で、彼女のように他の分野から類例を 引っ張ってきて、それを自分の分野で応用しようという発想は 皆無です。 間違っても、爬虫類と哺乳類を同等に扱うようなことはしません。 それは科学者の主要な考え方であるダーウィンの進化論を見れば 明らかなように、哺乳類よりも爬虫類の方が「劣っている」と見る 習慣が染み着いているからです。 そんな劣ったものを、優れたものに当てはめようとは思わない ですよね? われわれが「未開民族」から学ぼうとしないのは、どこかで彼らを 劣っていると思っているからに他なりません。 彼女の凄さというのは、この科学者的(近代的)なパラダイムを 抜け出して、アルケミスト、つまり錬金術師的なパラダイムを 採用したところにあるのです。   錬金術師とは、主に中世末期にマクロコスモス(宇宙)と ミクロコスモス(人間)の「相似」を研究していた人たちのことを 指します。 一般には彼らは鉛から金を作り出そうとしていた変人だと思われて いますが、それは彼らの建て前であって、本音の部分は違います。 彼らはキリスト教会の弾圧から逃れるために、鉛から金を 作り出そうとしているキチガイのふりをして、裏でこっそりと マクロコスモスとミクロコスモスの相似関係を研究していたのです。 相似という言葉は、数学の授業で習ったと思います。 僕も厳密な定義は覚えていませんが、簡単に言えば言葉通りで、 相対するものが似ているということです。 同種間であれば基本的にはほぼすべてが相似していますし、 異種間でも動物であれば目が2つあるとか、口が1つあるとか、 血が流れているなどの部分は相似しています。 つまり錬金術師的なパラダイムとは、何かを細かく分析するよりも、 何と何が似ているのかを調べるということであり、もっと言えば、 異種間にはいくつもの面で相似関係があって、そこから学べることが 山ほどあるということを前提とした営み全般を指すのです。   このパラダイムに立つならば、僕は以下の仮説にもかなりの 信憑性があるのではないかと思います。 もし哺乳類(人間を含む)から切り離された細胞がストレスによって 万能化するならば、人間そのものも、自身の属する社会から 切り離して何らかのストレスを与えれば万能化するのではないか、 という仮説です。 これは人間の細胞と人間社会の相似に焦点を当てています。 細胞にもある種の社会があって、それぞれの細胞はそれぞれの 場所でそれぞれの役割を果たしています。 もし肺が心臓と同じことをしようとすれば、その社会(人間)は すぐに死んでしまうでしょう。 同様にして、われわれにはわれわれの役割があって、例えば僕が 毎日コンビニのバイトをし始めたら、僕のコミュニティ(社会)は 一瞬で消えてしまうはずです。 このように細胞の役割と人間の役割が相似していることを考えれば、 細胞に起こることは人間そのものにも起こる(アイツに できるなら俺にもできるはずだ)と考えるのは自然なことだと 思います。 問題は、じゃあ現実はどうなのか、ということです。   結論から言うと、今僕が言ったことは現実に起こっています。 例えばあなたが日本を離れ、誰ひとりとして知り合いのいない 未知なる異国へ旅立ったとしましょう。 これが「社会から自分を切り離す(マウスから細胞を採取する)」 の部分です。 異国へ到着したあなたは、良かれ悪しかれ、精神的に大きな ストレスを感じるはずです。 それはワクワクする気持ちかもしれないし、頼れるものが 自分しかいない不安な気持ちかもしれません。 いずれのストレスであれ、このストレスはわれわれをある種の 万能な生き物へと変化させます。 いや、むしろ万能にならざるを得なくさせる、と言った方が 正しいでしょうか。 頼れるものが何もないワケですから、どんなことでも自分一人で 乗り越えられる万能人間になるしか生きていく道はありません。 万能になれなかった者には死あるのみです。 そのままその異国に居座れば、徐々に万能である必要は なくなっていき、その異国での役割が与えられます。 また万能のまま日本に戻ってくれば、それはそれでその人には 活躍の場が与えられ、やがて万能さはなくなるでしょう。 海外で活躍している日本人なんかは、みんなこんな感じだと 思うのですが、どうでしょうか。   マウスの実験でも、万能細胞になれなかった細胞はほぼすべてが 死にいたります。 誰でも彼でもストレスを与えれば万能になれるワケではない、 ということです。 それは人間も同じで、海外に行った日本人が全員凄いヤツに なれるワケではありません。 当たり前のことですね。 こういうことが見えてくれば、今度は人間社会で起こることを 細胞に応用することも視野に入ってくるでしょうし、細胞間で 起こることが自然界でも起こっている、なんて発見も徐々に 増えてくるでしょう。 錬金術師的な発想というのは、それぐらい大きな可能性を秘めた 次の時代のメインとなりうるパラダイムなのです。   小保方さんの本当の凄さは、科学と錬金術の融合にあると言って 間違いありません。 彼女はまさに現代によみがえった「魔女」です(笑) メディアでは表面的なことばかりが報道されていますが、 こういう側面にも気付けるようになってくださいね。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
京都市立美術館「大エルミタージュ美術館展」とその他諸々にて
ども、ペスです。 美術館視察(?)第4回目ということで、今回は10月10日(水)の 開催当日に京都市美術館へ大エルミタージュ美術館展を見に行ってきました。 京都市美術館というと歴史ある(僕の記憶が正しければ日本で2番目に古い) 美術館として有名ですが、その歴史もさることながら、入口を入ると中央に まるで王宮のような大きく立派な石造りの階段があり、その古い建築様式からも 威厳が感じられます。 今回の大エルミタージュ展は読売新聞や読売テレビが力を入れて 宣伝していただけあって、まずまずの走り出しといった様子でした。 開催当日だったとは言え、平日にあれだけ人が集まったということは、 恐らく今週や来週の週末はもう少し混雑すると思いますので、 人混みが嫌いな場合は来月に入ってから行くのがいいかもしれません。 まあ人混みという程でもないんですけどね、実際のところは。   それと完全に余談ですが、通常、京都市美術館に行く場合には 京都市営バスを使って行くと思います。 それ以外の方法というとタクシーか徒歩しかないのですが、 もし気が向いたら行きか帰りのどちらかだけでいいので、 京阪三条駅辺りから美術館までの道を歩いてみて下さい。 特に、メインの大通りではなく少し住宅街っぽいところを。 選んだ道次第では、外国人が喜ぶような京都らしい光景に 出合えるはずです。   ■大エルミタージュ美術館展 この展覧会も前回見たバーン=ジョーンズ展と同様に、 基本的にはミーハーな人間が集まるように作られています。 世界三大美術館の1つであるエルミタージュ美術館が揃えた 一流の作品が見られる。 マティスが、ピカソが、セザンヌが、モネが、コローが、ドラクロワが、 ルーベンスが見られる。 こういうのが一応この展覧会の売り文句ですから、やはりそういう言葉に つられてやってくる人をターゲットにしているワケです。 そもそも展覧会のCMがテレビで流れること自体が異例なことで、 その辺からしても明らかに一般人狙い(質より量)だということが 分かります。 もちろんこのことが悪いという意味ではありません。 ただ、もし行きたいと思っているのなら、鑑賞者側はそういう自覚を持って 見に行った方がいいだろう、ということです。 自分はそういう風に見られている、つまり「雑に扱われている」という 意識から見ることで別の世界が見えてきます。 少なくとも美術館はそんな風に見ていないと思いますが、 もっと大きなものがわれわれを見下しているのだということは 分かっておいた方がいいでしょう。   邪悪な話はこの辺で置いておいて、続いては展示についてです。 僕が展示を見ている中で感じたのは、各時代の解説が「易しい」ということ。 この展覧会もよくある時代ごとに分けた展示になっていたのですが、 その要所要所の解説が適度にザックリしていて、中でも色使いや 線描の特徴が紹介されていたのが印象的です。 こういう解説があると、何も知らない人が作品を見る場合でも、 その作品の何を見ればいいかがよく分かります。 ある時代では「パステル調のカラーが多く・・・」と書かれ、 また別のある時代では「曲線を駆使した複雑な・・・」と書かれ、 さらにまた別のある時代では「ギリシャ美術の威厳が取り戻され・・・」と 書かれていて、鑑賞者にちゃんと作品を見ようという意志さえあれば 解説がそれを手助けしてくれます。 それでいて作品も一通り一流のものが揃っている。 その意味で、この展覧会は美術入門としては非常に優秀です。 どれだけの人が「易しい」と感じているかは分かりませんが、 この展覧会を見ても美術が分からないと感じるのなら、 それは美術館ではなく鑑賞者の態度の問題だと思います。 美術館が伝えようとしていないのではなく、鑑賞者が理解しようと していないのです。 当たり前ですが、ミーハー心丸出しで「綺麗だなー」「カッコイイなー」 という風に作品を見ているだけでは美術館の思いは汲み取れません。 むしろ、その見方から脱する手伝いを解説がしてくれているのですから、 鑑賞者はそれに気付く努力をしなければならないのです。   これは勘違いしている人が多いと思うので言っておきますが、 芸術と呼ばれるものはすべて鑑賞者にも努力を要求します。 例えばマンガやアニメが芸術に含まれないのは、それらが見る者に 何の努力も要求しないからです。 仮に要求をしていたとしても、その要求を鑑賞者がのまずに 何も努力しなければ起こることは同じ。 つまり「楽しい」とか「カッコイイ」とか「綺麗」とか「心地良い」とか、 そういう感想が生まれてくるだけだということです。 その状態は絵画を芸術として見ているのではなく、「上手い絵」として 見ているに過ぎません。 上手い作品と芸術作品は何が違うのか。 どう見ても子どもが描いた絵にしか見えないキュビズムや フォーヴィズムの作品が芸術作品として評価されるのはなぜなのか。 それを理解にするには鑑賞者は今までの態度を改めなければなりません。 芸術は、それにのみ固有の形式で、物から魂に語りかける言葉であり、魂が、 こうした形式でしか手に入れることのできぬ、日々のパンである。 カンディンスキーは『抽象芸術論』の中でこう言っていますが、 その魂に口を開けさせるには相応の努力が必要なのです。   少し話が反れましたが、簡単にまとめておくと、この展覧会は誰もが見ておいて 損はないと思います。 CMが推していたマティス然り、ルーベンス然り、そこまで面白みのある 作品ではないにしても、やはり王道の作品群は一見の価値あり、という感じです。 個人的にも、この2人の作品からは大きなものを感じました。 ルーベンスからは生々しさを、マティスからは存在感を。 何をどう見ていいか分からなければ、先に言ったように解説をよく読んで、 各作品を解説の内容と照らし合わせながら見ていくのが良いと思います。 スマートフォンを持っているなら、分からない言葉はその場で調べましょう。 持ってなければメモでもしておいて、家に帰ってから調べる。 こういう何気ない努力が「上手い作品」から脱する一番の近道なのです。 芸術を、美術を、理解したいという気持ちがあるのなら頑張ってみて 下さいませ。   ところで、今回も観覧料について言いたいことがあります。 その中身は兵庫県立美術館の記事と同じで、 「特別展と常設展はセットにしてよ!」 ということです。 大エルミタージュ展の一般観覧料は1500円なのですが、常設展に入るには 別途400円が必要で、今回もそこに何とも言えない煩わしさを感じました。 あれだけ美術館に人が来る機会というのは、そこまで多くないのですから、 その機会を見逃すのはあまりにもったいないと思うのです。 1人が100円200円多く払うだけで、何十万・何百万と売上が変わる ということを美術館は理解していないのでしょうか。 とにかく、この辺の基本的なマーケティングはしっかりやって欲しいと 思います。   ■その他諸々 美術館に行ったあと、三条にある同時代ギャラリーという貸し画廊に足を 運んだのですが、そこで思わぬ展覧会との出合いがありました。 なんとなんと、そこでは「骨壷」の展示をしていたのです。 このギャラリーはよく京都の芸術系大学や芸術学部の学生が展覧会を 行っているのですが、このときも陶芸コースの学生が作った骨壷を 展示・販売しているということでした。 骨壷の制作を通して、自分や周りの人間の死と向き合う。 そういうテーマの下に作られたものだそうです。 その部屋の一角にはプロの陶芸家が作った作品も置いてあり、 なかなか見応えのある面白い展示でした。   同時代ギャラリーには2つの展示室があるのですが、 もう1つの展示室の方では寺本典子さんという方がフェルトで作った鳥の作品や オリジナル版画の展示をしていました。 見たことのない姿をした鳥の作品があったので「これって実際にいる 鳥なんですか?」と本人に聞いてみたところ、すべて実際の鳥をモデルに 作られているそうです。 カワセミの話をしたときに妙に専門的なことを言っていたので、 気になってネットでHPを調べてみると、何やら日本野鳥の会に 所属している方らしく、どうりで詳しいワケだ、と合点がいきました。 一連の作品については「とにかくカワイイ」の一言につきます(笑) 参考までにHPをリンクしておきますので、もし気になったらどうぞ。 ...more»
近代(単語帳)
近代とは、啓蒙思想と主権国家体制により神の絶対性が失われた時代のことです。 年代で言えば17世紀頃から19世紀頃を指すことが多いですが、人によって意見が 異なるため厳密に何年から何年ということは断言できません。 近代の特徴としては、デカルトの大陸合理論に代表される合理主義や(物心)二元論、 そして合理主義から派生的に生まれた科学主義、要素還元主義、自由主義、人権思想、 民主主義、決定論、単純進歩史観などが挙げられます。 例えるなら近代建築あたりが分かり易いでしょうか。 直線的で左右対称で無機的、合理的で無駄がなく、機械的で再現性が高い。 こういうのが近代と名のつくものの特徴です。 例外的に「モダン焼き」みたいなものもありますが(笑)、あれは多分言葉の響きだけで 付けた名前だと思うので、あんまり深い意味はないんじゃないかな、と。 だったらいっそのこと「デカルト焼き」にして欲しい、と思うのは恐らく僕だけ でしょう(笑)   それでは、ここからはザックリと近代化の流れを見てみることにしましょう。   中世の世界では神が絶対的な根拠であり、どんなことが起ってもすべて「神の意志」で 片づけられていました。 リンゴが落ちるのは、神の意志が働いているから。 植物が育つのは、神がそうなるようにしたから。 人間が存在するのは、神が人間を創ったから。 こういう今から考えれば根も葉もない根拠の上に世界が成立していたワケですが、 それでも世界はなんとか無事に回っていました。 ところがある時、ガリレオ、ニュートン、コペルニクス、ケプラーという世界の運命を 揺るがす4人が現れます。 彼らはあまりに敬虔なクリスチャンだったため、彼らの信念は 「神が世界を創ったのなら、それは美しいに違いない」 という一般的なクリスチャンの信念から飛躍して 「世界が美しいなら、それは数式で表せるに違いない」 という信念にまでいたったのです。 その信念から彼らは世界を数式化し始めます。 それによって地動説やニュートン力学が生まれてくるワケですが、それをわれわれは 科学革命(Scientific Revolution)と呼ぶワケです。 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示したように、 熱烈な信仰というのは、それとは一見何の関係もないものの発展に寄与することが 案外多いようですね。   このあと彼らは、努力が報われるどころか、教会から危険人物のレッテルを貼られて しまうことになります。 この時代、さっき挙げた4人以外にも偉大な功績を残した敬虔なクリスチャンはたくさん いたと思われますが、そういった人たちは教会に消されてしまったのです。 ではなぜ教会は彼らに危険人物のレッテルを貼ったのでしょうか。 それは彼らの発見した数式が、のちのちに教会の(神の)地位を危うくすることが 分かっていたからです。 この頃はまだまだ神は絶対であり、だからこそガリレオやニュートンらはその神を 追い求めて多くの数式を発見したワケですが、その理性的な行為こそが100年・ 200年の時を経て、神を殺す要因となるのです。 もちろん当時の彼らがそんなことを知っているはずもありません。 けれども、教会は分かっていた。 だからこそ教会はその芽をいち早く摘もうとしたのです。   ところで、科学革命がじわじわと起っていた頃、人々の心にも変化が起っていました。 ホッブズ、ロック、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールといった 啓蒙思想家と呼ばれる人たちが現れ、周りの人々に対して啓蒙を促し始めたのです。 啓蒙とは、自らの理性の力で世界を切り拓く、ということ。 「存在するかしないかも分からないような神に頼ってないで、自分の理性を信じて何事も 自分の力で解決していこうじゃないか」 と言ったかどうかは知りませんが、彼らはそんなことを人々に説いてまわりました。 今のわれわれの感覚からは信じられないかもしれませんが、当時の人々は自分に自分の 人生を変える力があるとは誰も思っていませんでした。 貴族はずっと死ぬまで貴族、農民はずっと死ぬまで農民、それが普通だったのです。 「このとき、社会に不平等と貧困はあったが、精神の頽廃はなかった」 とトクヴィル(トゥクヴィル?)が言っているように、これが普通だったからこそ、 彼らは自ら理性の力で自分の人生を動かす必要はなかったし、動かそうという発想すら なかったのです。 しかし、啓蒙思想家の説教を聞いたことで、彼らは気付いてしまいます。 「生まれた家は確かに違うけど、みんな同じ人間じゃないか」 ということに。 ・・・みんな同じ人間。 この今では当然すぎる発想が生まれたのはこの頃です。 みんな同じ人間だから分かり合えるはず。 みんな同じ人間だから平等じゃなきゃだめ。 みんな同じ人間だから理性的能力も同じ。 こうした発想から自由主義や個人主義が生まれ、それが人権思想になり、市民革命 (フランス革命など)が起るにいたったワケです。   上記2つの革命の行き先を考えると、科学革命は科学的知識を急速に発展させ、 市民革命は個人主義や自由主義から資本主義の精神を育んだ、と言えます。 科学的知識の発展は様々な機械を生み、生活を合理化し、資本主義の精神は人間を より貪欲にした。 そしてこの2つが合わさって人類は産業革命という爆発的進歩を達成したのです。   これで科学革命・市民革命・産業革命の3つが出そろったワケですが、話はここで 終わりません。 上の3つの革命だけでは神の絶対性は揺らいでいないのです。 市民革命は神に対してそこそこ大きなダメージを与えている気はしますが、それでも 神を殺すまでには至っていない。 神にとどめを刺すには主権国家体制が必要なのです。 主権国家体制とは、国家に主権を認める(国のことは国が決めていい)ということです。 1648年に決まった30年戦争の講和条約であるウエストファリア条約というのが この主権国家体制というのを定めています。 これによって、それまでは宗教的に内政干渉されまくっていた国も、その国ごとに 宗教的自由を保障され、カトリックだろうがプロテスタントだろうが、はたまた イスラム教だろうが仏教だろうが無宗教だろうがいろんな宗教が入り混じってようが、 国が決めたことに従うだけでよくなったのです。 こうなると神は国ごとに存在したり、存在しなかったり、たくさんいたり、1人しか いなかったりして、絶対的とは呼びがたい存在となります。 ここにきてようやく神の絶対性が失われるワケです。 このことをニーチェは 「神は死んだ」 と表現したワケですが、彼が言ったのは「神は既に死んでいる」ということであって、 彼が神の死に直面したということではありません。 その点は少し注意しておいて下さい。   以上、簡単ではありますが近代化の流れをまとめてみました。 学者が読んだら目玉が飛び出るほど乱暴なまとめですが、学者が読むことはないと 思いますので、そのままにしておきます(笑) 詳しいことが気になったらウィキペディアや関連書籍などを参照しながら、自分なりに 知識を深めていって下さいね。 ではではー。 ...more»
理解されたい欲求
  「理解されたい」 これは恐らく人間なら誰もが持っている比較的大きな 欲求だと思います。 それゆえに相手に理解されてないと感じるときは 「なんで分かってくれないの」という不満を抱くし、 分かってくれてると感じたときは言葉では表せない ような喜びを感じる。 だからこそ自分を理解してくれている人、例えば 友人や恋人なんかと一緒にいるだけで一定の幸せを 感じることが出来るワケですね。 たまに「別に誰にも理解されなくてもいい」 みたいなことを言っている人もいますが、それは 多くの場合単なる強がりです。 なぜそう言い切れるのかというと、自覚しているか 無自覚かの差はありますが、現代人は本質的に 人間的理解を求めている生き物だからです。 この背景を詳細に説明するのは実は相当骨が 折れます。 ポキポキと。 なので、とりあえず今回の記事では大筋だけを 残して、あとはザックリと説明していくことします。 それでは少しばかり歴史の授業にお付き合いください。   時代は中世以前に遡ります。 この時代の人間というのは文化というシステムの 部品として存在していました。 まず文化という枠があって、そこに人間がそれぞれ 役割ごとにはめこまれる。 そんなイメージです。 貴族の子は貴族、農民の子は農民、職人の子は職人 という風に生まれた時から自分の役割が決まっている 代わりに、それに従ってさえいれば文化という安定した “関係”の中に留まることが出来ました。 この“関係”は文化によって支えられていたため、 文化が崩壊しない限りは無条件で保障され、 お金のあるなしにかかわらず、自分の身分や役割を 維持することが出来たワケです。 しかし資本主義が登場したことによって、 この文化(価値観)は壊されます。 資本主義は「生まれた家柄」ではなく「いくらお金を 持っているか」によって身分や役割を決めました。 これはよく言えば自分で自分の身分をコントロール できるようになったと言えますが、悪く言えばお金が 無ければ身分すら安定しなくなったということです。 やがてそれは「資本を持つ者こそが自由であり 権力者である」という価値観を浸透させていきます。 産業革命の時代を勉強したことがあれば分かると 思いますが、この時代の労働者というのは奴隷と 変わりません。 特に産業革命が起こってすぐというのは、 まだまともな法律も出来てなかったので、 雇い主はやりたい放題。 小学生ぐらいの子供が埃だらけの工場で 18時間働きっぱなし、なんて状況もあったそうです。 当然そんなことを繰り返していれば平均寿命も 縮まるワケで、死亡率、それも10代の若者の 死亡率は跳ね上がります。 そこでやっと「このままじゃヤバイんじゃね?」 ということになり労働基準法みたいな法律が 出来てきたワケです。 まあ「搾取」なんて言葉があるぐらいですからね。 よっぽど酷い労働環境・労働条件だったんだと 思います。 マルクスは資本主義のこういう状況に憤って 社会主義を打ち立てるに至るワケですが、 それはともかく、こうやって人間をただの道具 (労働力)としてしか見ないような人間が トップに立ち、その価値観を先導していくように なったのです。 資本主義の価値観は一言で言うと「お金が一番大事」。 つまり、資本主義以前は「最初に文化ありき」 だったためまず身分があった上で収入が決まる という流れでしたが、資本主義の世界ではまず 最初にお金があって、その上で人間の身分や役割が 決まるようになったということです。 そうやってお金の無い人はまともな身分すら 与えられない状況に追いやられていきます。 今までは生まれた時から身分が決まっていたので、 それ以上に裕福になることはなくても、それ以上 苦しい生活を強いられることもありませんでした。 しかしそんな時代はもう終わったのです。 お金がなければ社会との関係を保つどころか、 生きることすらままならない。 地獄の沙汰も金次第。 それが資本主義です。   この価値観が推し進められ、日本に輸入され、 受け継がれ生まれてきたのが僕ら現代人です。 自覚はないと思いますが、僕らも資本主義の国に 暮らす人間ですから、当然さっき書いたような人間と 同じような性質を持っています。 それは相手や自分を道具(労働力)としてしか 見れないような性質。 もう少し言うと、僕らは自分や相手の“機能”や “役割”にばかり目がいっていて、相手そのものや 自分そのものを見ることができなくなっている ということです。 婚活なんてのはその典型です。 婚活では女性は職業や給料で男性を選び、 男性も職業や見た目だけで女性を選びます (そうじゃない人もいると信じてますが)。 そうやって相互利益があるようならカップル成立。 まさに道具同士のカップルです。 そこから仲が深まって人間同士のカップルに なることもあるのでしょうが、婚活という言葉自体が 既に 「自分たちのために結婚がある」 という本来の在り方ではなく 「結婚のために自分たちがある」 という本末転倒の在り方になってしまっていますから、 よっぽどのことがない限り、人間同士の仲になることは 難しいと思います。 僕は婚活パーティーに出たことはないですが、 ネット上に溢れている情報を読む限りでは、 男性は主に職業をアピールの道具として使うことが 多いようです。 これは自分を“機能”という面でしか評価出来て いないことの裏返しと捉えることはできないでしょうか? 本当に自分の人間性そのものを評価しているのであれば、 そんな肩書を表に出す必要もないと思うし、というか むしろ婚活パーティには出ないと思うんですね。 だってそんなところに行っても自分は道具としてしか 見てもらえないんだから。 わざわざ自分が惨めになるところには 行かないでしょ、普通。 逆に、そういうところに行きたがる人は自分を 最高の道具として評価してもらいたい、もしくは 最高の道具だという評価を得て自分の価値を 確信したいから行くのです。 「美人である」「お金持ちである」「弁護士である」 そのことでどれぐらいの評価が得られるのかを 知りたいのです。 そしてあわよくば自分の評価をより高めてくれる人と 出会いたいと思っている。 個人的には婚活はそういう人間の集まりだと 分析しています。 ただ、これはあくまでも「個人的に」なので、 この見方には僕の偏見が大いに含まれているということを 忘れないで下さい。 あと、最近の就活なんかも分かりやすいですね。 就活塾なんてものが業績を伸ばしていることからも 明らかなように、今の学生たちは 「自分のための仕事」 を見つけるのではなく 「仕事のための自分」 になろうとしている傾向が伺えます。 これもまさに自分を道具的にしか評価できていないと 言えそうです。 時代が時代なので仕方ないという見方もあるかも しれませんが、それだけ時代が道具的人間の傾向を 促進している、という風に僕は捉えています。 つまり僕らは相手だけでなく自分自身をも道具としてしか 捉えられなくなってきているのです。   そうなってくると、その反動として「人間的に 見てもらいたい」とか「私そのものを評価してほしい」 という欲求が生まれるのは自然の流れ。 なぜなら、そっちの欲求を満たすものが圧倒的に 足りないからです。 人間には自分の技術を評価されたいという欲求も ありますから「最優秀新人賞」みたいな道具的評価も 必要です。 でもそっちをいくら満たしても人間的欲求は 満たされません。 それで満たされるのは「作家としては優秀ですよ」 とか「技術者としては優秀ですよ」という肩書にだけ ですからね。 「もっと私という人間を見てよ!」という欲求には 応えてくれないワケです。 ここでやっと冒頭の話に戻ってきます。 冒頭で僕は「現代人は本質的に人間的理解を求めている 生き物」だと書きましたが、その根拠はココ 『現代には道具的な人間ばかりが氾濫しているから』 というところにあったのです。   「理解されたい」 そう強く思ってしまうのは僕ら現代人の性質ですから 仕方ありません。 しかしその欲を押しつける前に 「自分は相手を理解しようとしているか?」 「自分は相手を道具的に見てはいかないか?」 と問いかけるのを忘れないで下さい。 セミナー音声で話していたアフォーダンスって言葉、 覚えてますか? 机というのは、四角い四本足の物体に対して僕らが 机という道具的な見方をするから「机」になる、 という話でしたね。 これは人間も同じで、相手に対して「役に立つ道具」 という見方をしている限り、相手は自分にとって 相手そのものではなく「役に立つ道具」になって しまうのです。 ビジネスで言うならば、お客さんに対して 『商品を買ってくれる人』(お店の利益になる人) という(道具的な)見方をしていてはダメだ ということです。 だって相手はお客さんである前に人間なんだから。 それも「理解されたい」という欲求を強く持っている 人間であるということを踏まえれば、大体どういう 接客をすればいいか分かってきますよね? 相手を理解しようとする、人間的に接するというのは そういうことなのです。 ぜひ覚えておいて下さい。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
bottom-img

Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function ereg_replace() in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code:1 Stack trace: #0 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1): eval() #1 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(688): require_once('/home/philosoph...') #2 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template.php(647): load_template('/home/philosoph...', true) #3 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/general-template.php(76): locate_template(Array, true) #4 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/archive.php(151): get_footer() #5 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-includes/template-loader.php(74): include('/home/philosoph...') #6 /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/ph in /home/philosophia/philosophia-style.com/public_html/blog/wp-content/themes/keko/footer.php(1) : eval()'d code on line 1