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目標の形而上学 ~神が与えし目標~
  毎年この時期になると世間では「来年はどうするか」的な話題が 増えてきます。 今年はこうだったけど、来年はああしよう。 まだこうやって反省をしているならいい方だと思うのですが、 多くの人はこれすらせずに忘年会やら新年会やらで1年間の 大切な経験を水に流してしまっているような気がします。 もちろん来年も余裕で売り上げが右肩上がりで伸びていく 自信と根拠があるなら問題ないと思うのですが、一般に、 この時期にバカ騒ぎしている人というのは、僕の偏見かも しれないですが、どうもそういう余裕のある人には 見えません。 どちらかと言えば、そんな余裕のない状況だからこそ、 その現実から目を背けるために、飲んで騒いでいるように 見えます。 僕もこの時期だけは付き合いで1,2回程度、忘年会や新年会と 呼ばれるものに参加することがあるのですが、そういう場では (いや、そういう場でなくても)まず「まともな話」が出てきません。 これが個人的にはいつも虚しいです。 別にそれは哲学や芸術の小難しい話をしろと言っているワケではなく、 自分たちの生活に直結する話、つまり税金のこととか雇用のこととか 金融危機のことぐらいは出てきてもいいんじゃないか、ってことです。 酒を飲みながらでもいい。 バカな話を交えながらでもいい。 それでもいいから少しは現実を見つめようよ、と。 そう毎度毎度思ってしまうのです。   こうして見たくないものからとことん目を背けている割には、 みんな性懲りもなく毎年新年の抱負だけはちゃっかり(?) 立てたり立てさせられたりします。 今年こそは痩せる。 今年こそは脱サラする。 未来の自分に興味があるのは結構なことですが、いつの時代も その抱負を達成する人というのは少ないものです。 それは僕がぐちゃぐちゃ詳細に説明するまでもなく、 今言ったことや周りの人間の様子を見れば明らかでしょう。 けれども、世間の人は飽きもせずに毎年毎年同じような抱負を 同じように立てて「今年もダメだったなー」とか同じようなことを 言いながら一生を終えていくワケです。 そんな人生もそれはそれでアリなのかもしれませんが、一生に 1回ぐらいは「目標」というものに真摯に向き合ってみては どうだろうか、というのが僕の個人的な意見です。 こういう意見の人は僕だけではないようで、これまた世間には 目標達成法なるものをまとめた本がそれなりの数売られていたり します。 そういう本がベストセラーになってしまうのは仕方ないとして、 ベストセラーになるほど売れた割には、周りに目標を達成できて いる人が少ない気がするのは、僕の気のせいなのでしょうか。 それとも、もしかして僕が知らないだけで、みんな黙って成功 しちゃっているのでしょうか。 それならちょっぴり寂しいと同時に非常に喜ばしいことですが、 今はそうではないと仮定しておきます。 となると、目標を達成できる人は依然として少ないことになるワケで、 それはなぜなのかを考えたくなるのが子供心というヤツです。 どうして目標は達成できないのか。 どうすれば目標は達成できるのか。 前書きがやたら長くなりましたが、今回はそんなことを徒然と 考えていきます。   そもそも僕らはなぜ目標を立てるのでしょうか? 目標なんて立てなくても死にはしないし、そんなものなくても 普通に生きていけるのに、どうして目標が必要なのか。 ある人はこう言うかもしれません。 ゴール(目標)がなければスタートできないからだ。 しかし、僕らはゴールを決める以前からずっと走り続けています。 どこに向かっているかは明確ではないかもしれませんが、人生という レースは既にスタートしてしまっている。 となると「ゴールがなければスタートできない」という意見は僕らの 現実と噛み合いません。 この「スタート」が「ゴール(目標)に向かい始める」という意味で あれば、その意見は確かに正しいことになりますが、それなら スタートよりも「方向転換」と言った方がしっくりくる気もします。 僕らの人生は生まれた瞬間がスタートであり、それ以降は死ぬまで ずっと過程でしかないのです。 また別の人はこう言うかもしれません。 ゴール(目標)がなければどこに向かって走ればいいか分からない からだ。 本当にそうでしょうか? もしそうだとしたら、僕らは生まれた瞬間から何かしらの「目標」を 自分で決めておかなければならない、ということになります。 ですが、僕らは自覚的か無自覚的かは人それぞれだとしても、 常に何かに向かって走っているのですから、どこに向かっていいか 分からないというのは、僕らの行動と矛盾しています。 マラソンのゴールは走り出してから決まるのでしょうか? 僕はそんなスポーツを見たことがありません。 こうなると疑問になってくるのが「目標」そのものの存在です。 今は「なぜ目標を立てるのか?」を考えていたワケですが、 それは目標を立てることが前提にあります。 目標は立てるものだ、目標は立てなくてはいけない、でもなぜ 立てなきゃいけないんだ?というのが今考えていたことです。 しかしそれは本当に必要なのだろうか、と問うてみると新しい道が 見えてこないでしょうか?   もし僕らに「目標」が必要ないとしたら、世の中に出回っている本で 言われているようなことは、すべてウソとは言わないまでも、すべて 空虚なものになってしまいます。 先ほども言ったように、僕らは自分が自分だと認識する以前から既に スタートを切っています。 どこに向かっているかを自覚している人は非常に少ないですが、 それでも全員がどこかに向かって走っている。 つまり、世間で言われるところの「目標」を持たずに大よその (少なく見積もっても5~10年以上の)人生を走ってきたワケです。 なのにどうして世間では「目標を立てるのが当たり前」みたいな 空気があるのでしょう? これについての意見も色々あるでしょうが、代表的な意見は こういうもののように思います。 目標がないよりも、目標がある方が今やるべきことが明確になり、 人生をより有意義にできるからだ。 仮にこれが100%と正しいとしましょう。 だとしたら、哲学も数学も物理学も生物学も考古学も歴史学も プログラムの知識も料理の知識もすべて「ある方がより人生を 有意義に」できるはずですから、それは「目標」に限ったことでは ないことになります。 目標が無ければそれらを学ぶことができないというのであれば 納得もいきますが、別に目標がない人でも数学がひたすら好きで 勉強している人は山ほどいるし、僕だって別に哲学的に達成したい 目標があって勉強しているワケではありません。 その他の分野についても然りです。 百歩譲って哲学や数学は「目標」に対して優位性が劣るとしても、 料理や経理や自分が関わる専門分野の知識などは、実際のところ 「目標」よりも優先されることだと思います。 より現実的なことを言うならば、新年の抱負を考えている時間を 使って、もっと他の勉強をした方が給料は上がるかもしれない ワケです。 それを差し置いて、どうしてそれらの中で達成されもしない 「目標」だけが特別扱いされなければならないのでしょう? そう考えていくと「目標」それ自体の必然性や優位性はどこにも 無くなってしまうのです。 「今やるべきことが明確になる」という点は重要な視点なのですが、 ここで言っている「目標」から導かれる「今やるべきこと」には実は あまり意味がありません。 その理由は後半に譲るとして、少なくとも「ないよりあった方がいい」 というしょーもない理由は何の根拠にもなり得ないのです。 では最後に、こう問うてみることにしましょう。 目標を立てることは可能なのか?と。 上の方で言ったように、僕らの人生は死ぬまで過程でしかありません。 始まりも終わりもない経過地点。 いつもそれが僕らの人生です。 であるならば、僕らが立てられる「目標」、すなわちゴールも結局は 人生の経過地点であり、本来的な意味でゴールには成り得ないことに なります。 1億円稼ごうが、10キロ痩せようが、脱サラに成功しようが、 どれもこれも一時的な結果であり経過地点に過ぎません。 もちろん最初から「目標」を経過地点という意味で考えているなら それを立てることは可能ですが、その場合その「目標」はもはや 目標では無く、次の「目標」のための経過地点としか呼べなくなる ことになります。 その次の「目標」はまた次の次の「目標」のための経過地点となり、 さらに次の次の「目標」はまた次の次の次の・・・と、これを 繰り返していくとどこまでいっても「目標」は目標としての意味を なさなくなる。 つまり僕らは究極的な意味で目標を立てることが出来ないのです。   目標を立てる必要もなければ、立てることもできないというのは 一般的な感覚からしたら、なんと虚しいことでしょう(苦笑) あれほど世間では当たり前に大事とされていることが、これほど まで空虚なことだとは、恐らくほとんどの人は気付いてないと 思います。 これまたみんなが知ってて黙ってるだけなら嬉しいんですが、 それはないということにしておきます。 ただ、本題はここからです。 僕がここまで大多数の目標という言葉にカッコを付けていたことに お気付きでしょうか? 普通に読んでいたら何とも思わないかもしれませんが、それは 強調したいから付けていたのではなく、その「目標」を目標とは 違う意味で使っていたからなのです。 「目標」とは、ここまで説明したように、立てる必要もなければ、 立てることもできない空虚な目標(経過地点)のことです。 それに対して、ここからお話したいのは本当の目標、すなわち “死” に関するお話です。 正月前に縁起でもないことを、と思われたかもしれませんが、 縁起も何も僕らはいつだって死と隣り合わせに生きています。 それを口にしなかったり、まともに向き合わなかったり、一時的に 無自覚だったりしているだけで、誰もがその事実を抱えている。 世間一般には、それを口に出すことは暗黙のタブーのようになって いますが、それは倫理上マズイからではなく、なぜだか分からない けれども(いや、分かってるんだけども)、その言葉が一気に空気を 冷やしてしまうからです。 これは実際に言ってみればすぐに分かります。 飲み会の場で 「明日死ぬかもしれないのに、何下らないことやってんだよ!」 と言えば、間違いなくその場は冷めます。 こんなのはやる前から分かっているので、わざわざやる必要は ないですが、とにかく僕らは遥か遠くにいる未来や過去とは 必死で向き合おうとするのに、すぐ隣にいる死とは“なぜか” まともに向き合いたがらない性質を持っているワケです。 しかしながら、その死が僕らが唯一知りうる“確実な事実”で あることは間違いありません。 僕らはいつか絶対に死ぬ。 そのことを知らない振りをしているたくさん人はいても、本当に 知らない人はこの世にはいないと思います。 そして、死んだらそこで人生が終わる、ということもみんな 知っているはずです。 死は人生におけるゲームオーバーであり、ゲームクリアです。 ゲームであればクリアするまで何度でもリセットできますが、 人生は一度きり。 つまり人生においてはゲームクリアが同時にゲームオーバーで、 ゲームオーバーが同時にゲームクリアなのです。 通常、僕らがゲームをしているときに目標としているのは、 そのゲームをクリア(完遂)することです。 最初のボスを倒し、次のボスを倒し、ラスボスを倒す。 そもそもボスがいるかどうかはゲームの内容にもよりますが、 何にせよ基本的には「やり遂げること」がゲーム自体の目標と なっています。 だからこそ、それを完遂できずに途中でゲームオーバーになって しまったら、悔しいとは思わないまでも、なんとなく頂けない 気持ちになってしまうワケです。 ですが、それでも終わってしまうのが人生です。 それは思いもよらない瞬間に終わることもあれば、ある程度 想定通りに終わることもあります。 いつどこで誰がどうなるかは分かりません。 ただ今言ったように、人生において終わり(ゲームオーバー)とは 同時にゲームクリア(目標達成)なのですから、 「死」=「人生の終わり」=「ゲームオーバー」=「目標達成」 ということであり、それは 「死」=「目標達成」 ということなのです。   僕らの目標は死んだときに達成されます。 それは「死=目標達成」なのだから当然ですが、だとしたら 僕らは死そのものを目標にせざるを得ないことになります。 なぜなら、どう足掻こうとそれ以外には目標(最終地点=ゴール)に なることができないし、それ以前に、僕らがそれを目標として望む 望まないにかかわらず、最初からそれは揺るぎない定めとして僕らの すぐ隣に存在しているからです。 この絶対的な事実を、誰にも変えられない目標を無視しているから、 多くの人は「空虚な目標」しか立てられないし、そんな「目標」を “立ててしまう”のです。 では「死を目標にする」とは具体的にはどういうことなのか。 死にたくて死ぬ人が少数派であることを考えると、死を目標にする というのは何だか変な表現のような気がします。 また人間は死ぬ気さえあればいつでも死ねるワケで、その意味で 目標達成は容易だとも言えます。 そんなものを目指して何になるのか。 素朴に考えれば、そう感じるかもしれません。 それは確かにごもっともで、僕自身も何も知らなければ普通に そういう感情を抱いてしまうと思います。 しかし自分が死んだときのことをいくつか想像してみて下さい。 どれも「死んだ」という事実は同じかもしれませんが、「死にざま」や 「死に方」は違うのではないでしょうか? 何万人の人に凄く悔やまれながら死ぬ死に方と、誰にも悲しまれずに ただ淡々と作業として終わってしまう死に方。 どちらの死に方が僕らにとって理想的でしょうか? もしかしたら死んでしまえばみんな同じなんだから、そんなことを 考える意味はないと言い捨てる人もいるかもしれません。 ですが、それは違うと断言できます。 死を考えることに意味がないということは、目標そのものに 意味がないということであり、目標に意味がないのであれば、 それを達成するための過程である人生にも意味がないことになります。 要は、生きることに意味は無い、と言っているのと同じなのです。 ですから、死について考えることを否定した時点で、その人は自分の 生きる意味も同時に否定していることになり、結果として、自分で 自分自身の発言そのものすらをも否定していることになるのです。 この議論に首を突っ込むとなかなか抜け出せなくなるので今は 深くは語りませんが、簡単に言っておくと、人生には「意味が無い」 のではなく、人生の意味は生きている時点では、いや、ある意味では 永遠に「未確定」なのです。 何のために生きるのか。 その答えが人生の意味なワケですが、最終的にその人の人生が 何のためになったのかを判断“できる”のは本人ではなく、 残された人たちなのですから、そこに意味が生まれるのは、 本人の人生が終わってから、つまり死んでからになります。 すなわち、生きている本人が人生の意味を知ることは原理上 絶対にできないのです。 もっと言えば、残されている人たちも入れ替わり立ち替わり 死んで交代していくワケですから、ある人の人生の意味は 歴史的にどんどん変化していくことになります。 核が人類の希望であった時代もあれば、現代のように人類の 絶望になってしまうことがあるように、モノやコトの意味は 時代と共に変わる。 これ以上行くとさすがに脱線してしまうので、ここで強引に 話を戻しますが、人生の意味が死ぬまで未確定である以上、 生きている時点で僕らに出来るのは、可能な限りこういった 歴史的な解釈に耐えうる存在になること、平たく言えば 「死んでも忘れられない存在」 になろうと努力することなのではないか、ということです。 もちろん忘れられてもいいと思うのは人の勝手ですが、 僕らは存在を忘れられた時点で「存在しなかった」ことに なりますから、それは今自分が生きている意味そのものを 否定していることになります。 そんな人生、虚しくないですか? 「目標を見失う」とは、本当はこういうことを言うのです。   あなたにとって「最高の死」とは、どういったものでしょう? どこでどんな風に何をしている時に死ねれば本望でしょう? その答えはいつも、 今を全力で生きること にあります。 今を全力で生きてさえいれば、いつ死んでも後悔することは ありません。 それは結果が出ていなくても後悔しないという意味ではなく、 結果が出ないはずがない、という意味です。 この記事の中盤辺りで 「目標があれば今やるべきことが明確になる」 ということが重要な視点だと言ったと思いますが、その理由は 最高の死という目標を考えることで、今やるべきことが明確に なると同時に、言葉通りそれを“全力”で行えるようになるから なのです。 そして何より、その全力で生きることができているという事実は、 常に自分にとって最高の結果なのです。 ある人にとってはそれは絵を描いているときかもしれません。 また別のある人にとっては料理を作っているときかもしれません。 人それぞれ何が最高かは異なりますが、それをやっているとき、 自分が最も自分らしくあれるとき、それが最高の人生(過程)であり、 そうやって死ねることが最高の結果なのではないでしょうか。 目標とは達成するために立てるものです。 だとしたら、死という目標が必ず達成されるようにできているのは、 自然なことなのかもしれません。 その真意は神のみぞ知るところですが、せっかくそういう風に できてるんだから、いちいち難しいことを考えずに、そういう風に 生きればいいじゃない、ってことです。 そしたら“自然と”そういう風になりますよ、きっと(笑) ではでは、来年もよろしくお願いします。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
最低限の生活と最大限の生
ども、杉野です。 僕らが生きていくには最低限の水と食料、着るもの、住むところ及びそれらを手に入れるためのお金が必要です。 この最低限の条件が満たせれば、僕らは取り敢えず生活することができます。 今の日本でこの最低限の生活を維持するには、住んでいる地域にもよりますが、多分月6~7万円程度のお金は必要でしょう。 家賃が月3万円の四畳半の安アパートに住み、光熱費は月3000円に抑え、すべて自炊して食費は月2万円、年金は免除してもらい健康保険に1万円ぐらい使って、残りは雑費。 本当に最低限の生活です。 この家賃で住めるアパートがあることを考慮すると、地域の時給相場は700円ぐらいがいいところでしょう。 時給700円で月6万円稼ぐには約85時間働く必要があります。1日8時間働くとしたら、大体月に11日働けば余裕ですね。 仮に家にインターネットを引いていて、月々6千円多めに費用がかかったとしても、働く日数が1日増える程度。 この労働時間は日本人なら誰もが羨むヨーロッパ諸国の労働基準より少ないです。 これだけ労働が少なければ、休みの日に好きなだけ好きなことができます。 図書館に行って本を読んだり、自転車に乗ってサイクリングしたり、散歩して花や鳥を観察したり、一人でボーっと思索にふけったり、友人と一緒にご飯を食べたり、インターネットに熱中したり・・・。 ショッピングや外食やドライブや旅行などお金のかかる遊びはほぼ出来ませんが、大よそそれ以外の欲求は満たすことができます。 1ヶ月を30日とすると、そのうち18日、いや、働いているのも1日8時間ですから、働く時間帯によってはほぼ毎日をこうやって暮らすことができるワケですが、この最低限の暮らしは苦しい生活なのでしょうか? 確かに生活費と収入のバランスは普通の感覚からすればカツカツかもしれません。 この状況で病気になったりしたら、生活はかなりヤバイことになるでしょう。 ですが、もしこの生活が3ヶ月限定だったら、ということを考えてみて下さい。 3ヶ月だけこういった生活をして、その3ヶ月のあり余る時間を使って新たな収入源を得たとしたら、どうでしょう? この自由な生活で3ヶ月間健康を維持するのは、それほど苦しいことでしょうか? 3ヶ月が無茶なら1ヶ月でも構いません。 たった1ヶ月この生活を続けて、その間に月に1万円稼げる何かを見つけたとしたら、次の月にはその分だけ楽ができます。 その1万円を何かに投資すれば、次の月には倍以上になって返ってくる可能性もあるし、生活費に充てれば労働時間を更に省くこともできる。 ずっと家賃3万円のアパートでカツカツの生活をすると考えると苦しいかもしれませんが、こう考えるとそんなにキツイことじゃないような気がしてきませんか? もしかしたら「そうは言っても、1ヶ月間や3ヶ月間で新しい収入源が見つかる可能性は低いと思う」という意見もあるかもしれません。 しかし、それは話の本質からズレています。 確かに新たな収入源が見つかる可能性は低いのかもしれませんが、それは二の次というか、そう考えたら楽ですよね?と言っているだけであって、この話で重要なのは最低限これで生きることができる、ということです。 もっと言えば、生きるって何なのか、働くって何なのかってことです。   ■働くために働く 生きるためには働いてお金を稼がなくてはならない。 資本主義の仕組みには従うしかないですから、それは仕方ないと思います。 ただ、本当に生きるだけなら、普通の人が思っているほどの収入は必要ありません。 じゃあ普通の人はなぜ必要以上のお金を稼ぐために好きでもない仕事を愚痴を言いながら続けるのか。 それはほとんどの場合、日頃の憂さを晴らすためです。 (それは違う、という意見もあるかもしれませんが、取り敢えず読み進めて下さい) 日頃の仕事や人間関係で溜まったストレスを休日の趣味や飲み会で解消するために最低限の生活費以上のお金が必要なのです。 カフェで一杯400円のコーヒーを飲んだり、ファミレスで800円のハンバーグを食べたり、遊園地で1日5000円のフリーパスを買ったり、そんなの本当に必要ですか? そんなもののために嫌なことを我慢して、したくもない仕事をしているのでしょうか? 家族がいれば子供の養育費や食費云々の話もあるかもしれませんが、それだって必要なら親が勉強して自分で子供に教えればいいだけだし、食費も自炊すればたかが知れています。 勉強する時間がないのも、教える時間がないのも、自炊する時間がないのも、そもそも親が働き過ぎだからじゃないでしょうか? 子供のため、家族のためと言いながら、働く以外の努力をしている親はあまりいないような気がします。 子供を塾に通わせる親はいても、自分で勉強して子供を教育しようという親はまずいません。 遊園地には連れて行ってくれるのに、勉強は自分でしろ、と言う。 それで「家族のために金が必要なんだ」とか言われても、説得力がないと思いませんか? 子供を塾に通わせるためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために仕事が必要で、仕事をするために子供との時間を犠牲にして、その犠牲にした分を遊園地で補い、遊園地と塾で使ったお金をまた仕事で稼ぎ、そして子供との時間が失われていく。 他にも色々要因はあると思いますが、ザックリ言えばこんな感じのことを世の中のほとんどのサラリーマンがやっています。 要するに、多くのサラリーマンは生きるために働いていると思い込みながら、実際には “働くために働いている” のです。   ■浪費=人生 何度も言いますが、生きるだけなら、2日に8時間程度働けば十分やっていけます。 にもかかわらず、それだけでは物足りないような気がするのは、その人の「生」が委縮してしまっているからです。 厳密に言えば、資本主義的な生き方以外の生き方を忘れてしまっているからです。 自分が小さかった頃を思い出してみて下さい。1日中楽しく遊ぶのに、お金なんて必要でしたか? 木に登ったり、虫を捕まえたり、山を探検したり、川で泳いだり、公園や学校で鬼ごっこしたり、それだけで1日なんてあっという間じゃなかったでしょうか? 都会で育ったとしても、テレビゲームの無い頃は何かしらお金のかからない遊びをしていたはずです。 それが年を経るにつれてテレビゲームをするようになり、カラオケに行くようになり、カフェでお茶するようになり、居酒屋に飲みに行くようになって、お金が無い頃の生活を忘れてしまった。 今やわれわれはこの消費、いや、浪費活動を「生きること」と思い込んでいるのです。   ■本当に効率化したもの 生きるとは、究極的には息をして食べて排泄して寝て子供を産んで育てることです。 人間の場合はそれをするために最低限のお金が必要だというだけであって、その他は動物と何ら変わりません。 人間もかつては物々交換によって最低限の生を維持していましたが、それではあまりにも非効率というか、種の繁栄速度が遅れるので、それを解決するために物と物を仲介するお金(資本)が生まれたワケです。 このお金の登場によって、人間は分業が可能になりました。 Aは魚を釣り、Bは野菜を育て、Cは牛を飼い、Dは家を建てる。 ABCDそれぞれが1つの偏った仕事をしても、その労働をお金に換えることによって、各々が魚を食べたり野菜を食べたり牛乳を飲んだり家を建ててもらったりできます。 そうして人間は住んでいる地域や自分の技能に適した「自分ができること」だけをやって暮らしていけるようになりました。 海辺に住んでいながら、わざわざ山菜を採りに行く必要はないし、家の建て方しか知らないのに、無理して魚を釣る必要もない。 だから取り敢えずそこで自分のできることをやってお金を稼げばよかったワケです。 またお金は物と違って腐らないので、貯めることが可能です。 これによって、今までは余剰だった農作物や魚を漬物にしたり干物にしたりして無理に保存する必要がなくなり、お金に換えて貯蓄しておくことが出来るようになりました。 人間なら病気や怪我もするし、農作物が不作だったり、魚が思うように釣れなかったりすることもあります。 そんな時に貯蓄があれば、安心して仕事を休める。毎日働かなければ生きていけない時代においては、これが貯蓄の最初の目的だったと思います。 こうして資本主義は分業と貯蓄という2大発明を生み出したと同時に、人間の寿命を延ばしたワケです。 この時点では“まだ”みんな生きるために働いていたと言えます。 しかし時代が進むにつれて、分業はより細分化されて、あらゆる分野が専門化し、貯蓄は保険ではなく労働の目的となります。 キャベツだけを作る人、ニンジンだけを作る人、カキだけをとる人、ウニだけをとる人、窓だけを作る人、瓦だけを作る人などなど、生産はより効率化、つまり得意な人に得意なことをさせるために1人の人間が1つのことに特化するようになりました。 その結果、より高度な技術が生まれ、生活が効率化したのは確かです。洗濯機や掃除機などのお陰で、人々の余分な労働は減りました。 携帯電話やパソコンのお陰で場所や時間に捕らわれなくなったことも事実でしょう。 ですが、本当に効率化されたのは、われわれの生活ではなく、資本主義そのものなのです。 われわれは家事が楽になった分、余分に働くようになり、その余分に働いて得たお金で生活を効率化させるものを買い、そしてまた余った時間で余分に働き、余分なものを買う。 これを繰り返しているだけです。 貯蓄ができてしまったばかりに、労働効率が上がってしまったばかりに、人は “余分なことを余分のために” するようになってしまったのです。   ■生きるとは何かを見失ってはいけない ここで言いたいのは余分(余剰)が悪いということではありません。 そうではなく、生きることが余剰を生み出すことにすり替わっていることに気付いて欲しいのです。 さっきも言ったように、元々お金を貯めるのは最悪の事態を防ぐためだったはずです。 病気や怪我で働けなくなったらヤバイ。 だから余った分をお金にして貯めておこう、というのが最初の貯蓄の目的だったと思います。 ですが今は、お金を貯めることが働く目的になってないですか?お金を稼いで新しい携帯やゲームを買うことが目的になってないですか? それだけならまだしも、その本来とは違う目的のために自身の「生」を犠牲にしてないでしょうか? 仕事が原因で体を壊して、その体を治すためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために体を壊すような仕事をする。 仕事が原因で子供と遊べなくて、子供と遊ぶためにお金が必要で、そのお金を稼ぐために子供と遊べなくなる。 仕事が原因でストレスが溜まって、ストレス解消のためにお金を使って、そのお金を稼ぐためにストレスの溜まる仕事をする。 僕のメルマガを読んでいる人にはいないかもしれませんが、こんな人が日本には結構います。 僕はある時、毎度辛い顔をして仕事をしている既婚の女性に「仕事を辞めても(旦那の収入だけで)生活できるんでしょ?」と聞いたことがあるのですが、その時彼女は「贅沢しなければ暮らせるけど・・・」と言っていました。 僕にはこの答えはあまりに矛盾しているように聞こえたのですが、どうやら彼女はまったくそう考えていなかったようです。 むしろ彼女は「ある程度贅沢をしなければ死ぬ」と考えているようでした。 これが資本主義的な生き方の典型例です。   ■贅沢とは何か 生きるために働いているならば、生きるのに必要な分以上に働く必要はないはずです。 家族を養うために働いているならば、家族を養える分以上に働く必要はないはずです。 これがキレイ事なのは分かっています。 しかし、それをキレイ事と言う人に限って、最高に贅沢だと思っているのは 「仕事をしないこと」 なのではないでしょうか? 有給を使って海外旅行をするより、豪華なレストランで食事するより、生活は質素ながらも月の半分が休日で家族とのんびり暮らせることの方が贅沢に見えるんじゃないでしょうか? 僕はこれが唯一の贅沢だとは思いませんが、少なくとも生きるためや家族を養うために働いている人ならば、こう感じるのが自然だと思います。 実際、みんなが憧れているヨーロッパ人はそういう生活をしてますからね(苦笑) 彼らを羨ましいと思うならば、彼らと同じようにすれば済む話です。 それを日本の労働基準や労働時間に文句を言いつつも実行できないのは単に僕らの意志が弱過ぎて、資本主義的な生き方を脱却できないだけ。 もっと単純に言えば、貧乏をしたくないというか、貧乏を悪いことだと思っているワケです、みんな。 それこそまさに資本主義に毒されいると思いませんか? 日本には清貧という言葉もあるワケですから、貧乏が悪いなんてことは有り得ないし、慎ましくも逞しく生きているという意味では、むしろそれは誇るべきことですらありました。 また禅の「シンプルが一番」という考え方からも分かるように、どちらかと言えば、余計なものを持ったり、余計なことをしたりすることの方が、日本では悪いこととされていたのです。 つまり最低限の生活こそが、最善の生き方だったということです。 だとするならば、現代人の「生を犠牲にして余分なものを蓄える」という生き方は、日本人として文化的に最も卑しい生き方なのではないでしょうか。   ■まとめ 僕も一般人ですから、物やお金が欲しくなる気持ちは分かります。ですが、そういう時は一度立ち止まって考えてみて下さい。 「自分はこんなもののために人生を犠牲にしているのか?」と。 缶コーヒーを買うとき、服を買うとき、カラオケに入るとき、ドライブをするとき・・・。 その分だけ、あなたの生は削られているのだということを。 ありがとうございました。   追伸:メルマガ登録はこちらからどうぞ。     ...more»
雇用と科学と時代と
  終身雇用は終わった。 今更わざわざ言葉にするまでもなく、これは誰もが認識している ことだと思います。 たとえ大企業に就職したとしても、いつリストラの対象になるか 分からないし、それ以前にそもそもその企業自体が潰れて しまうかもしれない。 少し前には銀行が潰れるなんてことは有り得ない話だった ワケですが、今はそんなことが普通に(日常的に)起こる時代です。 そんな時代において、未だに安定なんてものを求めて大企業や 国に「就職する」というのは、やはり時代遅れな考え方だと 言わざるをえません。 さすがに終身雇用という言葉はもはや死語になりつつありますが、 それでも就活をして大学を卒業して「どこかに就職する」、 つまり「誰かに雇ってもらう」という一連の流れ(既存のレール)は まだまだ僕らの常識として考えられています。 別にそれが悪いと言いたいワケではないし、間違っていると 言いたいワケでもないのですが、それに違和感すら感じない というのは、少し危ないのではないかと個人的には思います。 何がどう危ないのか。 それについては、ここから先を読んで考えてみて下さい。   まず昔のことを思い出してみましょう。 僕が生まれるもっと前の話ですが、日本には高度経済成長期と 呼ばれる時代がありました。 この頃は冷蔵庫・テレビ・洗濯機が三種の神器などと呼ばれ、 これら家電機器などの最先端機器は一般家庭の憧れであり 「とにかく作れば売れる」 という、ある種の打ち出の小槌でした。 ご存じのように、打ち出の小槌というのは振れば振るほどお金が ザクザク出てきます。 そんなものを作らずに放っておく人間は普通いないワケで、 当時はそれを大量に作るために、これまた大量の人間が雇われた ワケです。 この頃、大企業はみんな終身雇用を当然のように謳っていました。 また雇われる側も同様に、あの企業に入れば打ち出の小槌が あるから将来は安心だと思って雇われていたワケですが、この時、 企業側と雇われ側はどちらも打ち出の小槌に頼っていた、 それ前提だった、ということに注目しておきましょう。 つまり「売れない」なんてことは有り得ないと思っていたからこそ、 いや、事実そんな時代があったからこそ終身雇用というものが 出来上がったのです。 雇えば雇うほど作れる、作れば作るほど売れる、売れれば 売れるほどまた雇える。 こういう好循環が現実に実現していたからこそ、終身雇用は 終身雇用たりえたワケです。 また就職というスタイルもこの頃にガッチリ固められてしまった 価値観の1つです。 自分で稼ぐのではなく、どこかに雇ってもらって給料をもらう。 これは僕らにとっても未だに当たり前のこととされていますが、 自分の成果に関係なく一定の給料をもらえてしまうシステム というのはよくよく考えるとおかしいと思いませんか? だって結果を出してないのに報酬だけ求めるなんて、完全に 社会主義の考え方じゃないですか。 僕はこれも高度経済成長期の名残だと思うんです。 さっきも言ったように、あの頃というのは作れば売れた時代です。 それは言い換えれば、働けば(作れば)金が入ってきた(売れた) 時代だったということです。 そういう時代においては確かに毎月働いた分だけ一定の給料を もらうというのは理に適っていたし、雇っている企業にとっても 十分メリットがあったワケです。 固定給にしておけば余ったお金は全部会社のものに なりますからね。 しかし今の時代はそのメリットが逆にデメリットと化しています。 成果に関係なく一定、というのは企業にとって成果が出ている 前提で進めなければならない話であって、今みたいな成果が 出ない時期に一定の給料を払うというのは、自分の体力(資金)を 食い減らして自滅を促進しているとしか言えません。 変な例ですが、もし企業がアンパンマンだったら、ということを 少し想像してみて下さい(笑) アンパンマンは自分の顔をあげても、またジャムおじさんが 新しい顔を作ってくれますが、ジャムおじさんがいなければ アンパンマンだって恐らくバイキンマンに負けてしまいます。 それでも心の優しいアンパンマンならお腹が減った子供たちに 自分の顔を差し出すでしょう。 ですが、その結果アンパンマンが負けることになれば、お腹を 満たした子供たちも一緒に被害に遭うことになります。 だったら、少しの間子供たちに我慢してもらってでも、 バイキンマンを先に倒して、そのあとで顔を食べさせてあげたら いいんじゃないの?というかそれが結果として一番良いんじゃ ないの?ということです。 アンパンマンはバイキンマンに勝てるという前提があってこそ、 子供たちに自分の顔を与えることができるのです。 その前提が崩れてしまったらアンパンマンには夢も希望も なくなります。 ただ自分の顔を与えるだけなら、それはボランティアです。 百歩譲って優しいお兄さんにはなれてもヒーローにはなれない。 ヒーローは自分のことは自分でなんとかできるからこそ、 余った力を他人のために活かすことができるのです。 会社だって同じです。 資金という名の体力を余らせることができるから、 その余った分を社員に分けることが許容されるのであって、 自分がピンチなのにもかかわらず、自分の腕や足を切り取って 誰かに与えるというのは結果として誰も救えないことになりは しないだろうか、と。 それは時代に合っていないだけでなく、自滅の道を自ら選んで しまっているのではないだろうか、と。 そう思うワケです。   前提はいつだって変化します。 であるならば、その上に乗せた土台も常にその変化に対応 できるよう調整を続けなければならないのは当然でしょう。 アンパンマンだってジャムおじさんという前提が無くなってしまえば 今まで通り無限に顔を分けてあげるワケにはいかないのです。 同様に、今の雇用制度とそれを当然だと思っている我々の 価値観全体が時代に乗り遅れてる(前提に対応できていない)から 「非正規雇用反対」とかいう反時代的で原点回帰的なムーブメントが 未だに起こったりするのです。 じゃあなんで僕らは時代に乗り遅れてしまうのか、という話に なるワケですが、それは新しい企画のレターでもお話したように、 「柔軟さ」と「敏感さ」が足りないからです。 「柔軟さ」というのは一般に言うところの「頭の柔らかさ」の ことだと思って下さい。 だから右脳を鍛えましょう、とかそんなアホな話ではなく、 「柔軟さ」というのには色々種類があるんですね。 例えば「抽象度を見抜く力」とか「ミクロ・マクロの視点」とか 「主観・客観の視点」とか「論理の切り替え」とかとか。 こういう能力は基本的には訓練しないと身につきません。 「敏感さ」についても同じです。 「敏感さ」は簡単に言えば「気付く力」のことですが、これも 論理的敏感さと感覚的敏感さという2つがあって、それぞれ 鍛え方はまったく異なりますが、鍛えないと身に付かない という点では共通しています。 「柔軟さ」が欠けると、自分の価値観や行動を時代に 合わせることができません。 また「敏感さ」が欠けると、そもそも時代が変わったことに 気付くことができません。 つまり、どちらの能力が欠けても新しい価値観(時代)を 正確に捉えることができないワケです。   レターの中ではお金の話を例にしましたが、雇用制度というのも 1つの科学です。 その意味で雇用制度も客観性・論理性・再現性を備えている 必要があります。 そうするためには雇用制度という想像の世界の中で僕やあなたを 「被雇用者」という抽象化された(個性を捨象した)存在にして 例外のない理想的な対象にしなければなりません。 僕個人の雇用制度なんてないし、あなた個人の雇用制度もない。 あるのは最大公約数的に導き出された万人が妥協できるであろう 中途半端かつ妥協的な「被雇用者」のための雇用制度なのです。 「被雇用者」なんてのは現実には存在しません。 それは科学が勝手に都合のいいように作り出した抽象的な存在、 言い換えれば想像の産物で、その想像の産物に対して適応されるのが 雇用制度であり法律であり教育なのです。 科学というのは良くも悪くも、この抽象化された人間に適応される 最善案であって、現実に存在する個人にとってはそれは常に 妥協案だと思っていて下さい。 市販の風邪薬が万人に「少しだけ」効くのは、万人に効く成分だけが 入っているからです。 本来はその人にはその人に合ったその人専用の風邪薬があって 然るべきなのですが、そんなものを1つずつ作るのは現実的ではないし、 それでは価格も手間も増え過ぎて万人に対応できなくなってしまう。 だから仕方なく科学は70%とか60%とか、それぐらいの効果で 妥協しているのです。 この妥協を真実だと思い込んではいけません。 それは市販の風邪薬を飲んで「効かねーじゃねーか!」と叫んで いるようなものです。 それはそもそもあなた向けに作られたものではないのですから、 効かないことだってあるのです。 教育だって法律だって、その人用に作られたものではありません。 だから同じことをやっても勉強のできる子・できない子の差が 出るし、有罪になる人・無罪になる人が出てくるワケです。   これらの制度を作っているのは、他でもない我々人間です。 しかもその大半は時代に乗り遅れた「柔軟さ」も「敏感さ」も 持ち合わせていない凝り固まった人間が作っています。 ただでさえ妥協案なのに、そんな人間が作っていたのでは、 そりゃ歪が大きくなって当然でしょう。 そう考えると、今の制度が肌に合わない、例えば登校拒否など というのは、ある意味正常な反応なのかもしれません。 ですが、我々はその時代遅れの社会制度の中でも時代と 足並みを揃えて生きていかないといけない。 このバランスが難しいワケです。   ここまで丁寧に読んでくれていれば、今頃は僕が 説明した以外の「歪」も少なからず見えてきていると 思います。 またその「歪」がどういう仕組みで出来上がったのかも なんとなく分かってきたのではないでしょうか。 それが世界が変わる、つまり “新しい目”を手に入れる ということです。 もしこういったことをもっと学んでみたいという場合は、 「Thinking to Survive」の受講を考えてみて下さい。   ありがとうございました。     ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
「分かりやすさ」の罠(メルマガ記事転載)
ども、ペスです。 毎回言ってる気がしますが、久々のメルマガ記事の転載です。 多分、十何回目ぐらいのメルマガだと思います。 よかったら、どうぞ。 メルマガ登録はこちらからどうぞ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「分かりやすさ」の罠 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。 自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係する ということなのである。 この文章はデンマークの哲学者キルケゴールの書いた 『死にいたる病』という本から引用しました。 この文章、パッと見は何も難しい言葉はないように見えます。 「自己」とか「人間」とか「精神」とか「関係」などなど、 これらが日常語とまでは言いませんが、どれもそれなりに 使う場面の多い言葉です。 特に「関係」なんていうのは、比較的誰でもよく使う言葉 ではないでしょうか。 しかしながら、ほとんどの人はこの文章の意味が分からないと 思います。 だから俺の方が賢いんだ、とかそういうことを言いたいワケでは ありません。 というか、僕も読めません。 この文章はそもそも(普通には)読めない文章なのです。 実際、このわずか数行の言葉に対する訳注は7ページ以上にも 及んでいます。 たったこれだけの文章を説明するのに専門家が7ページ以上も 費やさなくてはならないほどの意味が込められているワケですから、 僕らみたいな背景知識もデンマーク語の教養もないような凡人が スラスラと読めるはずがないのです。 またその訳注にも「ハイデガーの言う本来的自己が云々」という ようなことが書かれており、まさに説明書に説明書がいるような 状態になっています。 こんなもんは読める方がおかしい。 と、今は開き直っておきましょう(笑) 次はこの文章を読んでみて下さい。 私は昨日、上司の指示で自分のやっている仕事とはまったく 関係のない仕事をやらされました。本当は嫌だったけど、 人間関係を壊さないために気合いで乗り切りました。 これは僕が思いつきで書いた文章です。 特に深い意味はありませんし、難しいところもないと思います。 これなら恐らく小学生でも意味は分かるでしょう。 ではどうしてこの文章は小学生にも分かるのでしょうか? 前者も後者も使っている言葉の難しさという点では それほど差が無いように見えます。 にもかかわらず、前者はほとんど誰も読めず、後者は小学生でも 読むことができる。 この違いはどこから来るのか。 僕が考えるに、その理由は2つほどあります。 1つは前者に比べて後者が日常的な内容だから。 会社に行って、がんばって仕事して、時には少し我慢して、 無難に生活していくのがいいよねー、みたいな。 それがいいか悪いかはともかく、小学生でも大人とは そういうものだということぐらいは知っている子も 多いでしょう。 こういうのはドラマでもよくあるシーンだし、親とか先生とか 身近なところでそういうことが実際に起こっている可能性も 十分にあります。 もう1つは前者に比べて後者の内容が具体的だから。 後者にはいつ誰がどこで何をしてどうなったのかがすべて 具体的に書かれています。 「どこで」というのは厳密には示されていませんが、恐らく職場 であろうというぐらいは文脈から想像がつきます。 それに対して前者は非常に抽象的で「いつ」とか「誰」とか 「どこ」とか「何」とかがまったく示されていません。 いや、「誰」は人間なんだけれども、人間というのもまた 曖昧で分かり難いですよね。 誰なの?って聞いて「人間」って答えられても・・・ねぇ。 それは質問に答えてないのと一緒だろ、と(苦笑) つまり前者は非日常的かつ抽象的、後者は日常的かつ具体的、 という意味において分かり難かったり分かりやすかったり するのです。 ではもっと突っ込んで「日常的」「非日常的」「具体的」 「抽象的」とは何かを考えてみましょう。 「日常的」「非日常的」とは何か。 日常的というのは、僕らが日常だと感じていることですから、 それは経験(や疑似体験)とほぼイコールに考えていいと思います。 また経験とは個人に依存するものですから、それは主観的とも 言えそうです。 自分が経験したことはあくまでも自分の経験でしかないし、 客観的な経験というのは想像すらできません。 「宇宙人がやってきた」みたいな文章を宇宙人を見たことのない 僕らが何の違和感もなく読めるのは、宇宙人という言葉、というか 概念が日常でよく使われているからです。 ここでいう経験とは、実際にそれを直接見たり聞いたりする ことだけではなく「そういう話を聞いた」とか「映画で観た」 という間接的なものも含まれます。 さらに言えば「今までどんなことを考えたか」というのも 経験の一部です。 要は自分がそれを日常的だと思えば、それは日常的なのです。 ということは、同じように非日常的というのもその人が 日常的でないと思ったら、それは非日常的です。 ここの境界線は非常に個人的なものなので、はっきりした線を 引くことができません。 ただここで重要なのは、さっき言った「何を考えたのか」すら 経験の一部であり、それが日常的か非日常的かを決めている ということです。 つまり僕らは想像や妄想や思考によって経験値を増やすことが出来、 尚且つそれによって僕らが接する文章や言葉の難易度を変化させる ことが出来るのです。 もちろんこれには次に説明する具体的・抽象的というのも 大きく関係してくるんですが、こういう側面があるというのは 結構面白いと思いませんか? では「具体的」「抽象的」とは何なのか。 実はこれも日常的・非日常的と同じような部分があって、 その人がそれを具体的だと思えば具体的だし、抽象的だと思えば 抽象的だというのが1つの結論です。 具体的というのは抽象的に比べて意味の幅が小さいものを 言います。 例えば「関係」と「人間関係」の場合、「人間関係」という 言葉の方が意味の幅が狭いですから「関係」よりも具体的だ ということになります。 他にも「生物」と「動物」であれば、「動物」の方が意味の 幅が狭いですよね。 だから「生物」に比べて「動物」の方が具体的です。 要はそれが具体的か抽象的かは相対的な問題なのです。 そしてその対象を何と比べるかは個人の問題なので、 最終的に具体的か抽象的かは個人の判断になるのです。 ここで面白いことが分かります。 その対象を何と比べるかが自由だということは、 ある対象を常にそれより抽象的なものと比べることによって どれだけ抽象的だと思われるようなものも具体的だと 判断することができるということです。 例えば「動物」は「哺乳類」に比べれば抽象的ですが、 「生物」に比べれば具体的です。 ということは、「動物」という言葉が出てきた時は 「生物」という視点からそれを読めばいいワケです。 同様に「日本人」は「聡くん」に比べて抽象的ですが、 「人間」と比べれば具体的です。 だったらこれも「日本人」という言葉が出てきたときは 「人間」という視点からそれを読む。 つまり一段上の抽象的な視点を持つことによって、今まで 抽象的だと思っていたことが具体的なことになっていく、 すなわち「分かり難い」と思っていたことが「分かりやすく」 なっていくのです。 ちなみに、先ほども言ったように具体的な言葉や文章というのは より意味の幅が狭いものを言いますから、それが具体的になるほど 分かりやすい、つまり学びの少ないものになります。 また意味の幅が狭いということは、それだけ応用範囲も狭く 普遍性が低いということです。 僕らは「分かりやすい」ものにはすぐに飛びついてしまいがちですが、 「分かりやすさ」にもこういう負の側面があることを参考までに 知っておいて下さい。 ここまでをまとめると以下のようになります。 その文章が分かりやすいか分かり難いかは、 それが日常的か非日常的か、具体的か抽象的かによる。 日常的か非日常的かは自分の経験で決まり、自分が想像したり 考えたりしたことすらも経験に含まれる。 また、それが具体的か抽象的かという問題も主観的なものであり、 自分が経験した事柄の抽象度によって、その文章が具体的か 抽象的かが変わってくる。 すなわち、自分の経験がその文章の難易度を決めている。 こんな感じです。 ということは、ですよ? キルケゴールの文章を僕らが読めなかったのは単純な経験不足だ ということです。 逆に言えば、僕らが簡単に読めたり分かったりするようなこと というのは実は既に経験済み(思考済み)だと言えます。 つまりそれは基本的に「読む必要(分かる必要)の無いこと」 なのです。 逆説的ですが “読めるものは読まなくていい” “読めないものは読まなくてはいけない” というのが僕らに求められる厳しい態度です。 「何を以って読めているのか」というのは、ややこしい問題なので ここでは置いておきますが、とにかく、自分がギリギリ読めるような 難しめの文章を出来る範囲で読む。 そして疲れたらマンガや雑誌を読んで休憩する。 これぐらいの配分で日常を過ごしてみて下さい。 3カ月も続ければ驚くほど読む力や考える力がつきます。 それと同時に、日常に溢れる文章がいかに「簡単」か、 つまりいかに「乱暴」で「人をバカにした」文章であるかが よく分かるようになると思います。 極端に聞こえるかもしれませんが、テレビ番組や新聞、雑誌、 広告というのはそういう「簡単な」文章や言葉を使うことによって 気付かれないように僕らをバカにしているのです。 すべての人がそうだとは言いませんが、「簡単に説明すると」 という言葉の手前には 「(バカには理解できないだろうから)簡単に説明すると」 という言葉が隠れています。 特になんとか評論家やなんとかアナリストと呼ばれるような 人たちは大よそみんな視聴者をバカにしてると思って間違い ありません。 それは見る人が見ればすぐに分かります。 彼らは(それらしく聞こえる言葉で)テキトーなことばっかり 言ってますからね。 でもそれに気付かないってことは、聞く方もそれぐらい テキトーにしか人の話を聞いてないってことですから 僕らは僕らで同じぐらい悪いのです。 騙される奴が減れば、騙す奴も減る。 バカが減れば、バカにする奴も減る。 こういう単純な論理を今一度確認しておきましょう。 人はよく「読みやすいように文章を短くしました」と言います。 なるべく文章を区切り、なるべくページ数も少なく、 3時間程度で読み切れるぐらいにしました、と。 しかし、それは本当に親切なのでしょうか? 「文章を短くする」とは、本当に相手のためを思って 行っている作業なのでしょうか? だとしたら必死こいて汗水流して長い文章を書いている人は みんな不親切なのでしょうか? こういう素朴な感覚を忘れないで下さい。 「分かりやすさ」には罠がある・・・かもしれませんから。 ありがとうございました。   追伸: メルマガ登録はこちらからどうぞ     ...more»
理解されたい欲求
  「理解されたい」 これは恐らく人間なら誰もが持っている比較的大きな 欲求だと思います。 それゆえに相手に理解されてないと感じるときは 「なんで分かってくれないの」という不満を抱くし、 分かってくれてると感じたときは言葉では表せない ような喜びを感じる。 だからこそ自分を理解してくれている人、例えば 友人や恋人なんかと一緒にいるだけで一定の幸せを 感じることが出来るワケですね。 たまに「別に誰にも理解されなくてもいい」 みたいなことを言っている人もいますが、それは 多くの場合単なる強がりです。 なぜそう言い切れるのかというと、自覚しているか 無自覚かの差はありますが、現代人は本質的に 人間的理解を求めている生き物だからです。 この背景を詳細に説明するのは実は相当骨が 折れます。 ポキポキと。 なので、とりあえず今回の記事では大筋だけを 残して、あとはザックリと説明していくことします。 それでは少しばかり歴史の授業にお付き合いください。   時代は中世以前に遡ります。 この時代の人間というのは文化というシステムの 部品として存在していました。 まず文化という枠があって、そこに人間がそれぞれ 役割ごとにはめこまれる。 そんなイメージです。 貴族の子は貴族、農民の子は農民、職人の子は職人 という風に生まれた時から自分の役割が決まっている 代わりに、それに従ってさえいれば文化という安定した “関係”の中に留まることが出来ました。 この“関係”は文化によって支えられていたため、 文化が崩壊しない限りは無条件で保障され、 お金のあるなしにかかわらず、自分の身分や役割を 維持することが出来たワケです。 しかし資本主義が登場したことによって、 この文化(価値観)は壊されます。 資本主義は「生まれた家柄」ではなく「いくらお金を 持っているか」によって身分や役割を決めました。 これはよく言えば自分で自分の身分をコントロール できるようになったと言えますが、悪く言えばお金が 無ければ身分すら安定しなくなったということです。 やがてそれは「資本を持つ者こそが自由であり 権力者である」という価値観を浸透させていきます。 産業革命の時代を勉強したことがあれば分かると 思いますが、この時代の労働者というのは奴隷と 変わりません。 特に産業革命が起こってすぐというのは、 まだまともな法律も出来てなかったので、 雇い主はやりたい放題。 小学生ぐらいの子供が埃だらけの工場で 18時間働きっぱなし、なんて状況もあったそうです。 当然そんなことを繰り返していれば平均寿命も 縮まるワケで、死亡率、それも10代の若者の 死亡率は跳ね上がります。 そこでやっと「このままじゃヤバイんじゃね?」 ということになり労働基準法みたいな法律が 出来てきたワケです。 まあ「搾取」なんて言葉があるぐらいですからね。 よっぽど酷い労働環境・労働条件だったんだと 思います。 マルクスは資本主義のこういう状況に憤って 社会主義を打ち立てるに至るワケですが、 それはともかく、こうやって人間をただの道具 (労働力)としてしか見ないような人間が トップに立ち、その価値観を先導していくように なったのです。 資本主義の価値観は一言で言うと「お金が一番大事」。 つまり、資本主義以前は「最初に文化ありき」 だったためまず身分があった上で収入が決まる という流れでしたが、資本主義の世界ではまず 最初にお金があって、その上で人間の身分や役割が 決まるようになったということです。 そうやってお金の無い人はまともな身分すら 与えられない状況に追いやられていきます。 今までは生まれた時から身分が決まっていたので、 それ以上に裕福になることはなくても、それ以上 苦しい生活を強いられることもありませんでした。 しかしそんな時代はもう終わったのです。 お金がなければ社会との関係を保つどころか、 生きることすらままならない。 地獄の沙汰も金次第。 それが資本主義です。   この価値観が推し進められ、日本に輸入され、 受け継がれ生まれてきたのが僕ら現代人です。 自覚はないと思いますが、僕らも資本主義の国に 暮らす人間ですから、当然さっき書いたような人間と 同じような性質を持っています。 それは相手や自分を道具(労働力)としてしか 見れないような性質。 もう少し言うと、僕らは自分や相手の“機能”や “役割”にばかり目がいっていて、相手そのものや 自分そのものを見ることができなくなっている ということです。 婚活なんてのはその典型です。 婚活では女性は職業や給料で男性を選び、 男性も職業や見た目だけで女性を選びます (そうじゃない人もいると信じてますが)。 そうやって相互利益があるようならカップル成立。 まさに道具同士のカップルです。 そこから仲が深まって人間同士のカップルに なることもあるのでしょうが、婚活という言葉自体が 既に 「自分たちのために結婚がある」 という本来の在り方ではなく 「結婚のために自分たちがある」 という本末転倒の在り方になってしまっていますから、 よっぽどのことがない限り、人間同士の仲になることは 難しいと思います。 僕は婚活パーティーに出たことはないですが、 ネット上に溢れている情報を読む限りでは、 男性は主に職業をアピールの道具として使うことが 多いようです。 これは自分を“機能”という面でしか評価出来て いないことの裏返しと捉えることはできないでしょうか? 本当に自分の人間性そのものを評価しているのであれば、 そんな肩書を表に出す必要もないと思うし、というか むしろ婚活パーティには出ないと思うんですね。 だってそんなところに行っても自分は道具としてしか 見てもらえないんだから。 わざわざ自分が惨めになるところには 行かないでしょ、普通。 逆に、そういうところに行きたがる人は自分を 最高の道具として評価してもらいたい、もしくは 最高の道具だという評価を得て自分の価値を 確信したいから行くのです。 「美人である」「お金持ちである」「弁護士である」 そのことでどれぐらいの評価が得られるのかを 知りたいのです。 そしてあわよくば自分の評価をより高めてくれる人と 出会いたいと思っている。 個人的には婚活はそういう人間の集まりだと 分析しています。 ただ、これはあくまでも「個人的に」なので、 この見方には僕の偏見が大いに含まれているということを 忘れないで下さい。 あと、最近の就活なんかも分かりやすいですね。 就活塾なんてものが業績を伸ばしていることからも 明らかなように、今の学生たちは 「自分のための仕事」 を見つけるのではなく 「仕事のための自分」 になろうとしている傾向が伺えます。 これもまさに自分を道具的にしか評価できていないと 言えそうです。 時代が時代なので仕方ないという見方もあるかも しれませんが、それだけ時代が道具的人間の傾向を 促進している、という風に僕は捉えています。 つまり僕らは相手だけでなく自分自身をも道具としてしか 捉えられなくなってきているのです。   そうなってくると、その反動として「人間的に 見てもらいたい」とか「私そのものを評価してほしい」 という欲求が生まれるのは自然の流れ。 なぜなら、そっちの欲求を満たすものが圧倒的に 足りないからです。 人間には自分の技術を評価されたいという欲求も ありますから「最優秀新人賞」みたいな道具的評価も 必要です。 でもそっちをいくら満たしても人間的欲求は 満たされません。 それで満たされるのは「作家としては優秀ですよ」 とか「技術者としては優秀ですよ」という肩書にだけ ですからね。 「もっと私という人間を見てよ!」という欲求には 応えてくれないワケです。 ここでやっと冒頭の話に戻ってきます。 冒頭で僕は「現代人は本質的に人間的理解を求めている 生き物」だと書きましたが、その根拠はココ 『現代には道具的な人間ばかりが氾濫しているから』 というところにあったのです。   「理解されたい」 そう強く思ってしまうのは僕ら現代人の性質ですから 仕方ありません。 しかしその欲を押しつける前に 「自分は相手を理解しようとしているか?」 「自分は相手を道具的に見てはいかないか?」 と問いかけるのを忘れないで下さい。 セミナー音声で話していたアフォーダンスって言葉、 覚えてますか? 机というのは、四角い四本足の物体に対して僕らが 机という道具的な見方をするから「机」になる、 という話でしたね。 これは人間も同じで、相手に対して「役に立つ道具」 という見方をしている限り、相手は自分にとって 相手そのものではなく「役に立つ道具」になって しまうのです。 ビジネスで言うならば、お客さんに対して 『商品を買ってくれる人』(お店の利益になる人) という(道具的な)見方をしていてはダメだ ということです。 だって相手はお客さんである前に人間なんだから。 それも「理解されたい」という欲求を強く持っている 人間であるということを踏まえれば、大体どういう 接客をすればいいか分かってきますよね? 相手を理解しようとする、人間的に接するというのは そういうことなのです。 ぜひ覚えておいて下さい。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
学びのセンス
  「賢くなりたければ、本をたくさん読みなさい」 これは世間一般に学習の王道とされています。 僕がわざわざ念を押して言うまでもなく、読書を通して学者は過去の成果を学ぶし、ビジネスマンは過去の成功事例を学ぶし、哲学者は過去の哲学を学びます。 僕もたくさんとは言えませんが、本を読むことでそれなりに色々と学んでいるつもりです。 そういう意味で、この学習の王道を否定するつもりは全くないですし、むしろ王道と呼ばれるだけあって、誰もが一度は通るべき道だと思っています。 しかしながら、「経験に勝る知識なし」という言葉もあるように読書よりも重んじられる学習(?)があるのもまた事実。 個人的には読書も経験の一部じゃないの?と思う部分はあるのですが、それはともかくとして、ここでの経験は恐らく主に「体験」のことを指しているんだと思います。 「体験」とは何か。 それは僕らが生きていることすべてです。 物凄く当たり間の話をしますが、日常生活って全部が「体験」ですよね? ご飯を食べるのも、歯を磨くのも、電車に乗るのも、化粧をするのもすべて直接肌で感じる体験。 何かを体験しなさい、みたいなことが言われる場合、それは普通、非日常的な体験(例えば演劇を見たり、山に登ったりすること)を指します。 でも、わざわざそんなことしなくても、僕らは普段から常に何かを体験してるんですよ。 だったら、その日常体験から学ぶのが一番効率がいいと思うし、体験に根差している以上はそっちの方が本から得る知識よりも優れているんじゃないかと僕は思うワケです。 そしてもう1つ言っておきたいのは、よく「貴重な体験」という言葉で珍しい体験を表現することがありますが、それ以前に、そもそも僕らが生きている今この瞬間は常に「貴重な体験」である、ということです。 だって二度と同じ時は巡ってこないんだから。 毎日同じような生活をしているように見えても、1歳の1月1日は一生に一度しか巡ってこないし、2歳の1月1日も一生に一度しか巡ってこないのです。 「今」という時は一生に一回しか体験できないんですよ。 これを「貴重な体験」と言わずして、何と言えるでしょう? つまり毎日その瞬間瞬間が常に「貴重な体験」なのです。   だとしたら、少しでも無駄のないように、貴重な体験を取りこぼさないように全力で生きなきゃいけないのは当然の話。 今回はその「取りこぼし」をどうやったら最小限に抑えることができるのかを考えてみます。 まずさしあたって考えておきたいのは「学ぶとは何か?」です。 僕らが「学ぶ」という言葉を使うとき、頭の中のイメージはどのようになっているのか。 普段そんなことを考える機会はまずないと思いますが、いい機会なので今考えてみて下さい。 数学を学ぶ、ビジネスを学ぶ、哲学を学ぶ、芸術を学ぶ・・・。 さて、どうでしょう? 何か面白い答えは浮かんだでしょうか? 実は僕も今この記事を書きながら答えを考えています(笑) ・・・10分経過(苦笑) やっとなんとなく答えらしきものが見えてきました。 「学ぶ」とは、そこから自分に必要な情報を引き出し、自らの血肉に変えていく作業である。 一応僕なりの答えはこんな感じです。 もっとシンプルに言えば 『「学ぶ」とは、自分(の精神)を変えていく作業である』 となるでしょうか。 もちろんこれが唯一の答えではないですし、もっと他の角度からの答えもあるでしょうから、自分で考えた答えを捨てたりしないで下さいね。 ただ、便宜上いろんな定義が混ざると面倒なことになるのでここでは上記の定義で話を進めさせてもらいます。   「What?」を考えましたから次は「Why?」ですね。 なぜ僕らはわざわざ学ぶのか。 これは僕が勝手に決めちゃいます。 『楽しいから』 です。 逆に言えば、楽しくないなら学ぶのなんてやめちゃいな、ってこと。 というか、それはもはや「学び」とは言えないと思います。 さっき僕は自分を変えることが「学び」だと言いました。 じゃあ人が自分を変えようとするのはなぜなんでしょう? それは「なりたい自分があるから」ですよね。 今の自分じゃ満足できない。 本来あるべき自分になりたい。 そう思うからみんな学ぶワケです。 これは逆に言えば、今の自分が理想の自分に変わっていく過程が「学び」だということです。 学べば学ぶほど理想の自分に近づいて行く。 だったら、その過程は楽しいと思いませんか? 英語を学んで英語ができるようになってくれば、その「学び」は普通に考えて楽しいはずですよね。 だって理想の(英語ができる)自分に少しずつ近づいてるんだから。 数学でもビジネスでも何でもそうですが、理想の自分に近づく過程なら多少苦しかろうが辛かろうが楽しいと思うのです。 こういう話をすると「結果が出なければ楽しくない」という意見も出てくると思います。 でもよく考えてみて下さい。 「結果が出ない」のに、それは「学んでいる」と言えるだろうか?と。 それは「学んでいる“つもり”」なんじゃないの?ということです。 もしくは結果を気にし過ぎるが故に単純に「楽しめていない」。 どっちでもいいですが、多分どっちも「学び」は成り立ちません。 なぜなら、「学んでいるつもり」は結果が出ないから楽しくないし、楽しくなければ学びは続けられないし、続けられなければ結果なんて出るワケがないから。 あと「結果がでなければ楽しくない」というのは学ぶ者の態度としてそもそも少しズレているような気がします。 というか、それは学校教育に洗脳され過ぎている。 ここで言う結果とは主に「数字で測れるもの」「目に見えるもの」を意味するはずですが、そもそも結果というのは目に見えない形で出てくることの方が多いですから、その発想自体が誤りなのです。   自転車に乗る練習って小さい頃にしたと思います。 あれって本人の感覚としては「乗れない」が急に「乗れる」に変化したように感じるんですが、本当は何度も練習するうちに少しずつバランスを身につけてるんですね。 それが一定のレベルに達したから乗れるようになったワケで決して0から急に100になったワケではないのです。 同じように、英語だって数学だってビジネスだって何だっていきなり目に見える形で結果が出たりはしません。 少しずつ何かが変化していって、それがある程度のレベルになって初めて目に見える結果になるのです。 僕の尊敬する人が言っていました。 「勉強ってのは不思議なもんで、1学んでも0、10学んでも0、100学んでも0だったりするのに、1000学んだら急に(目に見える形で)1億の結果が出たりする」 って。 そういうもんなんですよ。 だから「結果が出なければ楽しくない」なんて言ってる暇があるならそれをもっと楽しむ方法を考えた方が意味があると思うんです。 どんなに目に見えなくても楽しく続けていれば勝手に結果はついてくるんだから。 と、余談が過ぎましたが、まあ要するにここで僕が言いたかったのは 「楽しくなきゃ学びじゃない」 ってことです。   さて、ここでやっと本題です。 上記を踏まえた上で、取りこぼしのないように日常を生きるにはどうすればいいのか。 答えはシンプルです。 『普段から楽しいことだけをする』 これだけ。 僕は常々「楽しいことが一番学びになる」みたいなことを言ってきましたが、その論理が今のあなたには分かるはずです。 そしてこれがただの“キレイ事”じゃない、ということも分かると思います。 どうして楽しいことが一番学びになるのか。 それは「楽しいこと」=「学び」だからです。 より正確には 「楽しい」は「継続」するし、「継続」すれば「学び」になるし、「学び」になれば「楽しい」 という循環が成り立つからです。 だからこそ普段の生活から何かを学びとるためには、普段の生活を楽しくするしか方法はないと僕は思っていますし、それが一番手っ取り早く誰にでも出来る方法だとも思っています。 毎日の一瞬一瞬が楽しければ、自然とその時間を無駄にしないようになるでしょ? 面白い映画を見ているときはトイレに行く時間ももったない。 面白いマンガを読んでいるときは寝る時間すらもどうでもいい。 恋人と一緒にいるときは1分1秒が惜しい。 そうやって楽しさはその時間や体験を尊いものに昇華してくれるのです。 今回のテーマである“学びのセンス”とは、この「楽しさ」を生みだす能力を指します。 なんでもない日常をいかに楽しめるか。 普段誰もが見ている風景から、いかに多くの学びを“見出す”ことができるか。 それが“学びのセンス”だと思うのです。 東山魁夷という画家が 『平凡なものを緻密に見ると、非凡なものが見えてくる』 という言葉を残していますが、この“緻密に見る”ことこそが日常に楽しさを見つけるコツのような気がします。 非凡なものとは、驚きであったり感動であったりそういうもの。 そんな驚きや感動を平凡な日常で見つけることができれば毎日が楽しくなるのではないでしょうか。 最近アリの行列見ました? アリの行列って、じっと見てると結構面白いんですよ。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
メルマガ発行とセミナー音声無料配布についてのお知らせ
  今回は【ペスのお勉強メルマガ】のご案内です。 別にこれといって言うことはないのですが(笑)一言で言えば、 ブログメインな現状からメルマガメインな状態に移行しますよー という連絡です。 理由は単純。 メルマガの方が管理が便利で僕の使用目的に合ってるから、 です。 読む側としてもわざわざ検索して見に来るまでもなく メールが勝手に届くので、ブログより手間が少ないかな、と。 あとメールだったら会社で読んでてもバレ難いだろうし(笑) メルマガの内容は今までのブログの内容を引き継ぐものと 思って下さい。 これまで通り、哲学、宗教、歴史、科学などなどの話を 織り交ぜつつ、僕なりの新しい知見を提供していければと 思っています。 ただ今回、「メルマガよりブログのままがいい」という読者の 意見もあるだろうことを知っていながら、運営側の理由から 一方的にメルマガ移行を決めたことはやはり申し訳ないと 思っています。 ほんの少しとは言え、登録の手間もかかっちゃいますしね。 そこで。 そのお詫びとして、今メルマガに登録して下さった方には 2010年7月に僕が行ったセミナー【現実の取扱説明書】の 音声とパワポ資料を無料で差し上げることにしました。 セミナー音声は約1時間半。 内容は例えば以下のような感じです。 ・多くの人が区別できていない2種類の現実とは? ・「変えられない現実」とは何か? ・現実を生きる人と幻想を生きる(彷徨う)人の違いとは? ・誰もが見落としてしまいがちな現実のある側面とは? ・「現実に気付く」とは、どういうことなのか? ・現実を生きるのに必要なたった2つの条件とは? ・みんな知っているはずなのに、ほとんどの人が気付いていない 「変えられない現実」で最も重要な要素とは? ・「人間は“いつか”“必ず”死ぬ」。この言葉を 当たり前と嘲笑う人は要注意です。この言葉が裏で 語っている、ある大事なこととは? ・スイーツバイキングと現実に共通する、ある重要な点とは? ・現存在とは、結局どういう人なのか? (小学生でも分かる言葉で説明しています) ・現代の日本に生きる人のほとんどが世人(大衆)である 明確な理由とは? ・どうして現実を生きるには勇気がいるのか? (このことを知らずに生きている人は驚くほど多いです) ・なぜ多くの人は世人として生きる道を選ぶのか? ・ペスのお勧めする現実の生き方 (別に僕の言うことに従う必要はありませんが、僕は個人的に こういう生き方をお勧めしています) ・「現実を受け入れる」とは、実際どういうことなのか? ・僕らが現存在として生きるための“具体的な”方法とは? ・人間の持つ2種類の悩みとは? ・人間の持つ悩みのうち80%を一瞬で消し去る、 シンプル且つ具体的な方法とは? ・一念発起で脱サラした人間が起業に失敗しやすい 単純な理由とは? ・ある塾講師が言っていた成績の高い子と低い子の 決定的な違いとは? ・可能性とは何か? ・非現実と不可能の違いとは? ・「凍ったお湯」「大きい小皿」は非現実?それとも不可能? ・可能性が見えると何が分かるのか? ・現実と可能性のあるシンプルな関係とは? ・アフォーダンスとは何か? ・なぜ思考は現実化するのか? (「思考は現実化する」は決してスピリチュアルな話ではなく、 科学的に説明できるものなのです) ・あるニュースに載っていた「成功者の人間関係は多様である」 という記事の根拠を科学的に解説してみました。 ・アフォーダンスの概念から導かれる成功者になる可能性を 高めるたった1つのシンプルな方法とは? ・結局ペスが考える現実とは何なのか? などなど。 この項目を読んで「面白そう」と思った場合は 相当センスがあると思ってもらっていいと思います。 逆に「こんなの何の役に立つの?」と思ってしまった場合、 残念ですがアナタにはまだセンスが足りないかもしれません。 厳しいようですが、そもそも役に立つ立たないという視点で 物事を見ている時点でアウトです。 物事それ自体は役に立つものでも立たないものでもありません。 役に立つか立たないかは、それを使う人間が決めること。 つまり、センスのある人間は「いかに役立つか」ではなく、 「いかに使うか」を考えるのです。 もう少し言えば、「いかに応用が利くか」を考える。 だから1つのものにしか使えない具体的な方法よりも 何にでも応用できる抽象的な概念や哲学を大事にするのです。 僕の言うセンスとは、そういうことを意味します。 さて。 メルマガの話からいきなり説教みたいになりましたが、 ぶっちゃけ、僕のメルマガはセンスのある人、もしくは センスが身につくように努力したい人にだけ読んで欲しいと 思っています。 だって、向上心のない読者に対して伝えたいことなんて 僕にはないですから。 僕はいつだって熱い人にだけ語りかけているし、 熱い人とだけ関わっていたいのです。 ただ、今この記事を読んでいる時点で恐らくアナタは 多かれ少なかれセンスのある人だと思います。 そうじゃなかったらここまで読みもしないだろうし、、 むしろ僕のブログを読もうという気にすらなってないはず。 だったら試しに登録してみませんか?という話です。 当たり前ですが強制ではありません。 ただし、1つだけ注意して頂きたいのはシステムの関係上、 メルマガの再発行はできない、ということ。 つまり一度配信されてしまったメールは恐らく2度と読めない、 ということです。 これはメルマガの大きな欠点です。 ブログであればいつでも過去記事に遡ることが出来ましたが メルマガではそれが出来ません。 そこは予め分かっておいて頂けると助かります。 しかし逆に言えば、メルマガは早くに登録してくれた人ほど、 早くに僕を信頼してくれた人ほど、得するようになっている ということです。 ブログは読者全員に対して平等なのに対して、 メルマガは善くも悪くも読者それぞれに差が出る。 これをどう捉えるかはアナタ次第ですが、少なくとも僕は 「昔から応援してくれる人」と「最近応援してくれるように なった人」とは差をつけるべきだと思い始めました。 インディーズのバンドではないですが、売れない時代 (目立たない時代)から応援してくれるファンというのは、 数は少なくても最も大事にすべき人だと思うんです。 そして、最も大事にすべき人には最も得をさせるべき だとも思う。 それを実行するには、やっぱりブログよりもメルマガの方が 媒体として向いている、と僕は判断しました。 アナタがこの意向に賛成できないのなら、それはそれで 仕方ないと思います。 別に無理に「メルマガに登録してくれ」と言うつもりも ありません。 しかし、もし登録して頂けるなら、絶対に後悔はさせません。 この一歩がアナタの人生の偉大なる一歩になることを お約束します。 それでは。 次回はメルマガで会いましょう♪ メルマガ登録はここをクリック ※SSL暗号化対応 追伸1 セミナーに関する質問や疑問などがあれば遠慮なく メールして下さい。 可能な限り対応します。 追伸2 ブログについては今後も続けていく予定にはしていますが、 どのような使い方をするかは未定です。 少なくともセミナー情報はブログにもアップしようと 思っています。 あと、メルマガの中で重要な記事はブログにも コピペするかもしれません。 ...more»
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