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白鵬へのブーイングに学ぶスタイル論
「大相撲春場所の千秋楽で白鵬にブーイング」 こんなニュースをテレビで見かけました。 優勝を決める結びの一番で白鵬は日馬富士に勝ったのですが、 その立ち合いが横綱らしからぬ相撲だったことに対して 一部のファンからブーイングが飛んできた、とのこと。 会場からは「勝てればなんでもええんか!」という声が 上がっていたようです。 このニュースを見て、僕は身が引き締まる思いでした。 自分は理想の自分らしからぬ記事を書いていないだろうか、 理想の自分らしからぬ判断や行動をしていないだろうか、と。 横綱とは、相撲界における理想像でありリーダーです。 その横綱である白鵬は、相撲の理想を体現するという大きな 役目を背負っており、だからこそ「勝てれば何でもいい」 ワケではなく、誰もが理想とするような勝ち方をしなければ ならないワケです。 白鵬自身が言っていたように、彼ほどの実績があっても 優勝を逃がす(失敗する)回数が増えると余裕がなくなり、 優勝という報酬に目がくらむようになります。 上手くいっているときは誰しも余裕があるものですが、 上手くいかなくなってくると途端に自分を見失い、 自分らしからぬことをしてまで結果を求めるようになる。 まさにこの間までの自分を見ているようでした(苦笑)   『アウトサイダーの幸福論』という本にはこういう言葉が 載っています。 人間、落ち目になったり弱気になったりしたとき、 自分を戒めたり、反省したり、後悔したり、 自分を変えようとするが、これは絶対にやめた方がいい。 こういうときこそ信念を持って自分を貫くのだ。 いつか、きっとまた立ち直れる。 その時、自分を裏切らなかったこと、自分のスタイルを 崩さなかったことは大きな力となり、自信となる この言葉をそのまま白鵬に捧げたいと思うのは僕だけでは ないでしょう。 そして当然、われわれ自身にも捧げるべき言葉です。 この言葉が言うように、スタイルを崩さずにいることは 凄く大事なことなのですが、そもそもその守るべき スタイルを持っている人がどれだけいるのかというのが 疑問でもあります。 凡人とは、自分のスタイルを持たない人間です。 彼らは「社会」のインサイダーであり、社会が作った スタイルに合わせて生きています。 彼らが落ち目になったり弱気になったりしたときは、 社会のスタイルを変えようとするのではなく、 むしろ一層そのスタイルに自分を合わせようとします。 なぜなら、彼らは自分が落ち目になっている原因を 「自分が社会のスタイルに最適化されていないからだ」と 考えるからです。 就活をしている学生のほとんどはこの状態だと言って いいでしょう。 彼らが「どうすれば希望の会社に就職できるか」という 誤った問いを考え続けてしまうのは、まさに彼らが 希望の会社に最適化された人間になろうとしていることを 表しています。 この例における正しい問い、つまり自分のスタイルが 確立されている人が考える問いは 「どうすれば希望の会社に今の自分の価値を伝えることが できるか」 です。 前者は自分を変えることに視点が向いていますが、 後者は自分をどう表現するかというところに視点が 向いています。 要するに、前者は今の自分には価値がないという前提で 物事を考えているのに対して、後者は既にある価値を 最大化するという前提で物事を考えているワケです。   スタイルを崩すことは、自己否定を意味します。 白鵬の場合であれば、スタイルを崩すことによって 「私はもう横綱白鵬ではない」ということを(メタ的に) 語ってしまっているということです。 優勝という欲に駆られて、自分のアイデンティティを 捨ててしまったと言ってもいいでしょう。 彼ほどの人間でもそうなってしまうワケですから、 言わんやわれわれにおいてをや、ですよ。 スタイルとは、自分で自分に課すルール、言い換えれば ある種のハンデです。 白鵬は「横綱らしい相撲をとる」というハンデを背負って、 それを守っているから横綱であれる。 そんな風に考えれば分かりやすいと思います。 幕下や序の口の力士は、どんな相撲でも勝てばいいんです。 でも位が上がるにつれて、その位に相応しい相撲が、 美しい勝ち方が求められるようになっていきます。 逆に言うと、自分のスタイル(自分らしい勝ち方)を 確立していかないかぎり、その人はずっと初心者であり、 幕下であり、普通の人なのです。   どれだけ自分に厳しいハンデを課すことができるか。 どれだけ簡単なこと、楽なこと、誰でもできることに 流されずにいられるか。 どれだけ「迷ったらキツイ方を選ぶ」というルールに 従い続けられるか。 それが自分のスタイルを守ること、しいては自分の土俵で 横綱であり続けることに繋がっていきます。 何の実感もない段階でこれを読んでしまうと重く思える かもしれませんが、実際にその立場になってしまえば これがいかに楽しいことか、そして誇らしいことかは すぐに分かるはずです。 まあこればっかりはやらないと何も分からないと思うので、 普段から既にそういう立場になったつもりで思考・行動 してみてください。 そうすれば、気付いたときにはそういう立場になって ますから。 実感のご報告をお待ちしております(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
参議院議員選挙に行く前に分かっておくべきこと
  一週間ほど前から参議院議員選挙の期日前投票がはじまりました。 僕は選挙カーの演説が大嫌いなので、あの耳障りな大声を聞くたびに 選挙を嫌いになります。 それは単純にうるさいからという理由もあるのですが、それ以上に 内容の薄さにウンザリしている、というのが正直なところです。 「みなさんが日本に生まれてよかったと思えるような政治を・・・」 「子供たちが希望を持って生きていけるような日本を・・・」 「消費者を苦しめる消費税の増税は・・・」 などなど、どれも一般論に終始していて、ほとんど聞くに値しない 意見ばかり。 それだけならまだしも、選挙カーで言っていることは大体どこか 矛盾していたり、許容できないほど論理的飛躍が大きかったりします。 前回の衆議院議員選挙のとき、うちの選挙区ではある現役の医者が 立候補していたのですが、彼は選挙カーでこう言っていました。 「私は現役の医者だから、現場の気持ちが分かる」 「現場の気持ちが分かるから、政治に民意を反映させられる」 「だから私を応援してください」 ザックリまとめると大体こんな感じです。 現役である以上、現場で活動したことのない人に比べれば、 現場に対する理解があるのは確かだと思いますが、彼が現場の声を 代表できるぐらい(誰よりも)現場の気持ちを理解しているとは かぎりません。 現役の医者の中では彼が一番現場を理解していない可能性だってある ワケです。 その意味で「現役の医者だから」の「だから」はウソではないですが、 論理的飛躍が大きく、厳密さに欠けています。 加えて、彼はやたらと医者であることをアピールして、その肩書きを 武器に票を集めようとしていました。 ぶっちゃけ、この時点で彼に政治家になる資格はありません。 論理的飛躍に関しては、伝えられる内容や時間にかぎりがあるので、 ある程度は仕方ないですが、肩書きを武器にするのは政治家以前に 人として間違っています。 肩書きを武器にするということは、それをかざすことによって 有権者に票を入れてもらえるだろうと見込んでいるということです。 これが何を意味するか分かるでしょうか? 彼は有権者のことを、肩書きにつられて票を入れてしまうぐらい バカだと思っているから、こういうことが平気でできるのです。 しかも、恐らく彼は自分が有権者をバカにしているということに 気付いていません。 肩書きを武器にすることが、有権者をバカにすることだと自覚できて いたなら、それをやめるぐらいの正義感は彼にだってあるはずです。 手間や時間のかかることだと分かっていながら、日本をよくするために 自分から政治家という職に就こうとしているワケですから、それぐらいの 気持ちはあって然るべきでしょう。 ただ、その気持ちが空回りしている、ということです。 有権者は自分が候補者にバカにされていることに気付いていない。 候補者は自分が有権者をバカにしていることに気付いていない。 つまり候補者も有権者も、どっちもどっち、なのです。 しかし、選挙の責任はいつも、選ばれる側ではなく選ぶ側にあります。   凡人は自分の利益のことしか考えません。 自分の生活はどうなるのか、自分の給料はどうなるのか。 彼が政治のことに対して関心を持つのは、そういうことだけです。 そんな人間の票を獲得するために候補者は演説をするワケですから、 当然その内容は 「私はあなたのために給料を増やします」 「私はあなたのために税金を減らします」 「私はあたなのために託児所を増やします」 「私はあなたのために養育費を補助します」 というようなことになります。 ただ、さすがにこれだけを言ったのでは説得力がありません。 だから彼らは「私はあなたのために給料を増やします」と言うための 理屈を無理やりこじつける。 これによって論理的な飛躍が生まれるワケです。 それが実現可能かどうかは、実際にやってみるまでは分かりません。 表面的にはこじつけに見えても、やってみたら案外上手くいった、 みたいなこともあるかもしれません。 しかし、われわれはそれ以前に「それは実現すべきことなのか?」 ということを考えなければならないと思うのです。 確かに給料が増えること自体は誰にとっても有り難いことでしょう。 そうなれば多少今の景気が上向くこともあり得ると思います。 けれども、もしそれが20年後や30年後の未来から前借しているだけ だったとしたらどうでしょうか? それでも心から喜べるでしょうか? 今のアベノミクスがやっているのは、そういうことです。 もちろん、それが必ずしも悪いワケではありません。 個人的にはいろんな意味で賛成しかねますが、アベノミクスは未来から 前借した分を今に投資することで、未来に利息をつけて全額返済しようと 考えています。 一時的に未来からお金を借りて、今の景気を回復させることができれば、 借りた以上の利益を未来に返すことができるかもしれない。 その可能性に賭けているということです。 しかし、その賭け金は未来から「無断で」借りてきているものです。 当たり前ですが、まだ生まれていない未来の子供たちは、今の政治家に 対して「貸したくない」と抵抗することができません。 そういう無抵抗な人からお金を借りることによって、善くも悪くも アベノミクスは成り立っているということです。 ギャンブル同様、これが上手くいけば何も問題はありません。 万馬券を当てられればサラ金から借りた借金も返せて、自分もある程度 普通の暮らしができる。 素晴らしいことだと思います。 けど、もし失敗したら? 一番の被害者はわれわれではなく、何も知らない、何の罪もない 未来の世代です。 勝手に自分たちのお金を持ち出されて、勝手に失敗されるワケですから、 たまったもんじゃないですよね。 それでいて、失敗したわれわれには、彼らに対して責任を負う方法が 何もないのです。 一体どれだけの人が、これを知って選挙に臨んでいるでしょうか? アベノミクスは本当に推進すべきものなのでしょうか? それを考えた上で選挙に臨めば、まったく意識が違ってくると 思います。   ここでアベノミクスのリスクを強調したのは、世間的にこのことが あまり知られていないからです。 この記事に自民党の印象を悪くしてやろうという意図はありません。 また以前の記事で僕は「アベノミクスは失敗する」と言いましたが、 だからと言って別の政党の政策が成功するとは限りません。 というか、もうアベノミクスは始動してしまっているワケですから、 むしろ途中で止めることは結果をより悪くする可能性があります。 僕が言いたいのは、そういういろんな可能性を考えて投票に行って 欲しいということです。 僕の意見はあくまでも参考意見として捉えてください。 真実は1つではありません。 同じ事実に対して、論理的に正反対の推論を行うことは可能であり、 それは実はそこまで難しいことではないのです。 僕の意見がもっともらしく見えたとすれば、それは僕が僕の都合に 合う事実を並べているからです。 アベノミクスの悪い側面ばかりを強調して論理を組み立てれば、 その政策を悪そうに見せることはできますし、逆も然りです。 1つの事実には必ず2つ以上の側面があります。 そのうちのどの面を選ぶかによって、真実は何個でも作り出すことが できるのです。 僕の意見を鵜呑みにしてはいけません。 あなたの頭で考え、判断し、選ぶのです。 それが民主主義のあるべき姿です。   また別の側面から選挙を考えてみましょう。 日本をはじめ、多くの国は国会で二院制(両院制)を採用しています。 ご存知の通り、日本には衆議院と参議院があり、この2つの院は本来、 安全を期して同じ議題について「2度」考えるためにあります。 衆議院ではあっさり通ったけれども、参議院で再度吟味してみたら やっぱりそれはやるべきではないという意見が多かった。 そうやって国会の暴走や浅はかな判断を回避するために、 二院制という制度はあるワケです。 しかし現在は、実質的には衆議院であれ参議院であれ、政党ごとに 賛否が統一されているため、ほとんど一院制と同じ状態になって います。 衆議院でも参議院でも、自民党として賛成なら、自民党の議員は みんな(2度考えるまでもなく)賛成するということです。 そのため仮に衆参両議院で与党が過半数以上の議席を占めた場合、 衆議院を通った案が参議院で否決されることは、まずありません。 それは体裁としては2度考えた結果として2度とも賛成が過半数を 占めたからということになるワケですが、本当に2度考えているか どうかはかなり怪しいと言えます。 むしろ政党内で賛否を統一している以上、党内で意見を統一する ための「1度」しか考えていないと考えるのが妥当でしょう。 そしてこれは、ねじれ国会になったとしても同じです。 ねじれ国会とは、与党が衆議院の過半数を獲得している一方で、 野党が参議院の過半数を獲得している状態を言います。 例えば、現在の与党は衆議院では過半数を占めていますが、 今回の参議院選挙で過半数の議席を獲得できなければ、 国会はねじれ国会になるということです。 たしかにねじれ国会になれば、野党が与党案に反対することによって、 法案成立までの期間を延ばしたり、廃案に追い込むことはできます。 場合によっては、与党の案を妥協案に変更させることも可能でしょう。 しかし、これは単に与野党の利害がせめぎ合っているだけであって、 提示された1つの案が吟味されている(2度考えられている) ワケではありません。 もう少し分かりやすくいうと、ねじれ国会は 衆議院(与党) VS 参議院(野党) という構図を作るだけで、衆議院と参議院が共に国のために吟味を 重ねることとは何も関係ないということです。 つまり、国会をねじれ国会にすべきか否かは、与党が提出した 決議案をより妥協的にすべきか否か、という判断でしかないのです。   今回の参議院選挙で野党が過半数を占めた場合、国会はねじれるので、 恐らく与党案はより妥協的になり、政策のスピードは落ちることに なります。 アベノミクスがやろうとしているような規制緩和を行うためには、 変更しなければならない法律がたくさんありますから、それが妥協的に なったり速度が落ちたりすれば当然、政策の効果が出るのも遅くなり、 場合によっては効果そのものが減っていくことにもなるでしょう。 しかしその一方で、アベノミクスが暴走して悪い方向に働く場合には、 ねじれ国会によってそれを抑制し、方向を改善する余地が残される ワケです。 このどちらを重視するかで、与野党のどちらに投票するかが 変わってきます。 どれだけ与党を応援していようとも、与党が暴走したときにまで 応援しようと思うかどうかは分かりません。 アベノミクスには賛成だけど、ブレーキが必要だと思う場合には、 今回の選挙では野党に投票することが正しい選択になるかもしれない ということです。 ただし、それが「良く効く」ブレーキなのかは分かりません。 ブレーキには違いありませんが、ブレーキがあると思って 安心していたら、坂道で急にブレーキが効かなくなることだって あり得るワケです。 この場合はむしろ、ブレーキがあるという安心感が逆の効果を 生んでしまっています。 さらに言えば、ブレーキが効きすぎて国の運営が停滞してしまう ということもあり得ます。 われわれはアクセルだけではなく、ブレーキすらも見極めなければ ならないということです。   こう考えていくと、与党か野党かという2つの選択肢であっても かなり悩むと思います。 現実には政党と候補者を合わせて何百通り、何千通りもの選択肢が あるワケですから、頭がパンクして「無難に自民党にしておこう」 という思考になってしまうのも分からないではありません。 「混乱した脳はつねにNOと言う」 これはもうお決まりですから。 実際、前の衆議院選挙は、有権者のそういう保守的な選択によって 自民党が勝利したワケです。 凡人は「最善の選択をすること」ではなく 「最悪の選択を避けること」 を考えます。 これは成功の原理と同じで、成功者が成功を求めて行動するのに対して、 凡人は失敗を避けることを優先して行動する傾向にあるということです。 こういう人が有権者の大多数を占めている限り、日本は最低の国には なりませんが、最高の国にもなりません。 何十年も「抜本的な改革を・・・」と言いつつ、ずっとぬる~い政治が 続いているのは、そのためです。 抜本的な選挙が行われずして、有権者が、候補者が、政党が抜本的に ならずして、抜本的な改革なんてできるはずがないのです。 もちろんだからといって、日の当らないような野党に投票することが 正しいと言いたいのではありません。 そういう「奇をてらった」投票は、むしろリスクを増すだけです。 ここで言いたいのは   「何事も態度が大事だ」   ということです。 自民党を選ぶにしても、保守的に選ぶのか、積極的に選ぶのかでは 政治家の働きは違ってきます。 よく考えてみてください。 あなたが運動会の100メートル走に出るとして、「お前しか出られる ヤツがいないから取りあえず出てね」と言われるのと、「ぜひとも あなたに走ってほしい」と言われるのとでは、同じ100メートル走に 出るのでも全然やる気が変わってくるでしょ? 政治家だって人間なんだから、保守的に仕方なく選ばれるよりも 積極的に期待されて「あなたしかいない!」と言って選ばれる方が、 やる気が出るに決まってるじゃないですか。 プレッシャーだって、期待されている方が大きくのしかかります。 そういう何気ないことで、政治は変わるのです。 だからこそ、われわれは保守的にではなく、どれだけ悩んででも 積極的に応援できる人や党を選ぶべきであり、そういう人や党が 探しても見つからないならば、積極的に白紙投票すべきなのです。 これが僕の言う「抜本的な選挙」です。   人間らしく選挙に向き合ってください。 人間らしく政治に向き合ってください。 すべては人間のやっていることです。 本気で思えば、本気で向き合えば、必ず気持ちは伝わります。 それがたった一枚の薄い紙切れだったとしても。 人間とは、そういう不思議な生き物のことを言うのです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
コミュニケーションの質を決める3つの媒体
  現在の日本社会で求められている能力を3つ挙げろと言われれば、 恐らく多くの人が英語力、主体性、コミュニケーション能力という 3つを挙げるのではないかと思います。 特にコミュニケーション能力については、ここ20年ほどで随分と その不足が指摘されるようになってきました。 これはよく考えてみると、携帯電話やインターネットが普及し始めた 時期と重なります。 そもそも携帯電話は、より円滑に個々がコミュニケーションを とることができるように開発されたものです。 いつでもどこでも話したい人と連絡が取れ、場所に縛られることなく、 周りを気にすることなくコミュニケーションをとることができる。 これが携帯電話が登場した本来の意義だったと思います。 しかし蓋をあけてみると、今や携帯電話はコミュニケーションを 疎外するものとして存在しています。 誰もが携帯の画面にばかり夢中になり、本来何よりも優先して コミュニケーションをとるべき相手である、目の前にいる他者の 存在を軽視するようになったのです。 友達同士で遊んでいるときでさえ、彼らはお互いの顔ではなく、 自分の携帯に意識を向けています。 相手がトイレで席を外そうものなら、すぐさま携帯を開いてメールや ラインやフェイスブックやツイッターを確認するワケです。 こうして相手から意識をそらす時間が増えるに従って、その場での コミュニケーションの質が低下していったことは明白でしょう。 この傾向を生み出した張本人は携帯ではなく、インターネットである ことは言うまでもありません。 携帯がただの電話だった頃は、誰も携帯の画面に夢中になったり しなかったワケです。 それが携帯でもインターネットに繋げられるようになったことで、 携帯は「電話」ではなく「環境」になりました。 あらゆる便利な環境を携帯できるもの。 それが今の携帯電話でありスマートフォンなのです。 そして最近はこれにタブレット端末が加わり、ますますこの傾向に 拍車がかかっています。 多くの人は便利になったと喜んでいますが、これによって今も 失われ続けているコミュニケーションの質と量は計りしれません。 これから生まれてくる子供たちは、こういった環境が当たり前の 時代に育てられます。 その結果、世界はどうなっていくのか。 時代に求められる能力とは、時代が失った能力でもあるのです。   こういう時代において、コミュニケーション能力があることは、 それだけで突出した価値になります。 みんなが持っていないもの、みんなが求めているものを自分だけが 持っていれば、そりゃ価値が高いのは当然ですよね。 ところで、コミュニケーション能力とは一体何なのでしょう? この定義には無限の答えを出すことができますが、ここでは 「伝える力」をコミュニケーション能力としておきます。 つまり今の時代は、伝える力を身につければ突出した価値になれる、 すなわち、周りから必要とされる人間になれるということです。 相手に何かを伝えるには、何かしらの媒体を通して伝える必要が あります。 その中で最も一般的なのが言葉です。 「ちょっとそれ取って」「危ない!」「おはようございます」など、 われわれが何かを伝えるときには、主に言葉を使います。 というよりも、われわれが「伝える」と言うときには 「(言葉によって)伝える」ということを意味していますから それ以外の媒体を思いつく方が難しいはずです。 しかし、実は言葉という媒体は僕の知っている媒体の中では最も 相手に伝わり難い媒体なのです。 心から嬉しいときには、誰しも「ありがとう」では伝えきれない 感覚があると思います。 それは「ありがとう」という言葉の媒体が、その気持ちよりも 小さいからです。 われわれが本気で伝えたいと思うとき、その思いは言葉には 収まりきりません。 言葉は感情や気持ちを荒削りに軽量化(概念化)したものなので、 誰にでも扱いやすく便利ですが、その分だけ相手には「軽く」しか 伝わらないのです。   われわれが何かを伝える際に用いることができる媒体は全部で 3つあります。 1.言葉 2.行動・態度 3.存在 の3つがそれです。 これは下に行くほど伝わりやすくなっています。 言葉が一番伝わり難く、次に行動・態度、最後の存在が一番相手に 伝わりやすいということです。 1の言葉については今説明した通りなので、ここからは残りの2つを 説明していくことにしましょう。   あなたは口で「今度手伝うよ」と言う人と、実際に手伝いに 来てくれる人のどちらを信用するでしょうか? よほど特別な理由がないかぎり、普通は後者を信用すると思います。 では、なぜわれわれは後者を信用するのでしょう? 後者の方が気持ちが大きく伝わるからです。 もしかしたら前者も手伝う気はあるのかもしれません。 しかし、実際に手伝いにこない以上、前者の気持ちはその程度のもの としてこちらに伝わります。 一方で後者は、「言うはやすし、行うはがたし」と言われるように、 敢えて難しいことをこちらのためにやってくれたワケです。 わざわざこちらのために時間と労力を割いてくれた。 これは理屈ぬきに、気持ちが伝わってきます。 言葉より行動や態度の方が伝わるというのは、こういう素朴なことを 言っているだけです。 逆に言えば、気持ちが大きければ、それは嫌でも行動や態度に如実に 表れます。 自分のことを尊敬しているか見下しているかは、相手の態度を見れば 誰でも分かるワケです。 伝える力で重要なのは、この「気持ち」です。 かなり訓練された役者でないかぎり、どれだけ隠そうとしても 気持ちは行動や態度に出てしまいます。 いや、役者は自分の気持ちがコントロールできるから役者なのです。 われわれには到底そんな真似はできませんから、むしろ自分の 気持ちに対してより正直になることを目指すべきでしょう。 それは要するに、気持ちの向かないこと、心に思っていないことは やらない、気持ちの向かない相手には何も伝えないということです。 だって、どうせ自分の気持ちの向いていない相手になんて何も 伝わらないんだから。 われわれが行動や態度で何かを伝えられるのは、行動や態度で 自分の気持ちを伝えたいと思うような相手に対してだけです。 つまりわれわれは、「原理的に」自分の好きな人や尊敬する人にしか 気持ちを伝えることができないのです。 だとすれば、行動と態度に関してわれわれにできることは、 2つしかありません。 1.好きな人(尊敬する人)とだけ接する 2.接すべき相手を好きになる(尊敬する) このどちらかです。 どちらかによってしか、われわれは相手に言葉以上の何かを 伝えることはできません。 なぜなら、この「好き」や「尊敬」の気持ちがわれわれの相手に対する 行動や態度を支配しているからです。 まとめてしまうと、話はおそろしくシンプルになります。 「相手に何かを伝えたければ、できるかぎり相手のことを好きに なればいい」 それだけです。 すなわち、伝える力とは、相手を好きになる力のことなのです。   胡散臭いと思ったでしょ? でも、これが真実です。 無関心な相手、嫌いな相手、見下している相手となんて、まともな コミュニケーションはとれません。 というか、そもそもそういう人とはコミュニケーションをとりたいと 思わないですよね? 仕事で強制されるのでないかぎり、普通そういう人たちとの関りは 避けると思います。 逆に好きな人や尊敬する人に対しては、なんとかして関われるように 積極的になります。 片思いの相手や憧れの芸能人に会うためならば、われわれは高い 交通費や旅費を払ってでも会いに行くワケです。 そして気持ちが強いほど、ただ会うだけでなく、できるだけ自分の 印象が強く残るような工夫を考えます。 何をすれば相手は喜ぶだろうか。 何をすれば覚えておいてもらえるだろうか。 その思考錯誤の結果、相手への気持ちは行動や態度に表れるのです。 だから、われわれは相手を好きになるだけでいいということです。 納得いったでしょうか?   最後は行動や態度を上回る媒体、存在についてです。 これについては実は説明できることがほとんどありません。 というのは、これこそまさに言葉にならない領域の話だからです。 言えることは、前回の記事の最後に言ったことと同じです。 とにかく周りに有無を言わせぬ人間になること。 それが存在という媒体を使う方法です。 言葉でもなく、行動や態度でもなく、存在そのものが語りかける。 これが何よりも強く伝わります。 「生きざま」と言えば、多少は分かりやすくなるでしょうか。 自分が伝えたいと思うことを、生きざまとして表現できたとき、 それは何よりも相手のコアに伝わるのです。 今も継続中のThe Hard Lifeという講座では「背中」という言葉を 使いました。 「子供は親の背中を見て大きくなる」の「背中」です。 この「背中」は行動や態度を通して作られます。 日々の積み重ねが「背中」となって表れるということです。 毎日何を見て、何を聞いて、何を食べて、何を感じて、何を考えて、 何に意識を向けて生きているかが、すべて「背中」に反映されます。 存在は最も伝わりやすい媒体ですから、隠すことができません。 それは嫌でも相手に伝わってしまいます。 引き寄せの法則があるとすれば、恐らくこのことでしょう。 存在が語ることは、存在のレベルによって変化します。 ショボイ存在はショボイことしか語りませんが、偉大な存在は世界に 偉大なことを語りかけるのです。 それによって、その存在のレベルに応じた人たちが、その語りに 共鳴ないし呼応して寄り集まってくる。 そういうなんとも不思議なことが、われわれの目に見えないところで 頻繁に起こっているということです。   これについては信じなくても構いません。 というか、実際に体験しないと分からない話なので、体験するまで 信じられないのが普通だと思います。 今の話はまったく理屈になってないですから。 説明されて理解できる話ではありません。 だったらなんで説明したんだ、っていうツッコミは入れないでね。 まあ、そういう話なので、分からなければ「ふーん」と読み流して、 行動と態度のところを実践していってくださいませ。   以上の3つ 1.言葉 2.行動・態度 3.存在 の順番で伝わりやすさは強くなります。 常識的にコミュニケーション能力が失われている今の時代において、 1を超えて2や3を使える人は、相当活躍できる人材です。 凡人から脱する以上は、それぐらいの人にはなってもらわらないと 困りますから、今回の記事はよくよく復習しておくように(笑) まだまだやることはいっぱいありますよ。 覚悟しておいてください(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
メルマガ『ここが変だよナポレオン・ヒル』創刊
ども、ペスです。 またしても新しいメルマガを創刊してしまいました。 その名も『ここが変だよナポレオン・ヒル』。 なんともふざけたタイトルですが、内容は至って真面目です。 巷で売られているビジネス書や自己啓発書の内容がいかに酷いかは、 このブログを読んでいるあなたなら、お分かりかと思います。 1冊千円以上するのに、僕のメルマガよりもスカスカの内容しか 載っていない。 論理の飛躍は激しく、独りよがりで、何より結果がでない。 まさにぼったくりです。 100億歩譲って、値段については見送るとしましょう。 千円程度であれば損をしたとしても知れていますから、本の値段は それほど問題ではないかもしれません。 しかし、そこに書かれている内容が読者の成功を邪魔しているとしたら 話はまったく変わってきます。 その手の本に書いてあるのは誰でも成功できる方法などではなく、 「誰でも成功できる“ような気になれる”こと」 なのです。 はっきり言って、これほど成功の邪魔になるものはありません。 なぜなら、その幻想が読者を現実から逃避させるからです。 「成功できるような気になれる」ということは、成功する前から なんとなく成功した気分が味わえるということです。 言い換えれば、成功できた気になって、成功するために行動しよう という意欲が失われるのです。 実際、僕がそうでしたから、その辺のことはよく分かります。 気分が落ち込んでいるときほど、この手の本は効果を発揮し、 それはもう簡単に“現実逃避”させてくれます。 現実は一切変わっていないのに、本を読むだけでなぜだか すがすがしい気分になれる。 けれども、現実は変わっていないワケですから、僕の落ち込む原因に なった何かが改善されることはありません。 この手の本は、読者の気分を変えることで、読者を現実から目を そむけさせるのです。 それによって読者を成功から遠ざける。 そういう仕掛けになっています。 しかし、読んでいる方は「成功できるような気になる」ので、 それを自分の実力として錯覚してしまう。 だからまったく効果がないにもかかわらず、それに洗脳されて 何百冊もそういう本を読み漁る人がいるワケです。 こんな本が 「この本を読めば誰でも必ず成功できます」 とか言っているんだから、ふざけてますよね。 それに気付かないバカな読者もどうかと思いますが、それをいいことに 「自分たちは良いことをしている」と読者に吹き込む人間は、何にも 増して最低です。 もちろん、こういう本を放っておいても僕には何の害もありません。 僕が関わらなければそれで済むことです。 けれども、先日久々にこの手の本を何冊か読んでみて思ったんです。 「こいつらキモすぎる」って。 魔法とか宇宙とかキモイ言葉で肝心なところを全部ごまかして読者を 分かった気にさせ、結果が出ないことを全部読者の責任にする。 利害云々ではなく“人として”許せないんですよね、こういうの。 ただ別にこの業界を潰すとか、そういうことは考えていません。 ってか僕にはそんなこと出来ませんし、やりたいとも思いません。 そうではなく、僕はこういう下らない本に引っかかる読者を少しでも 減らしたいのです。 バカな読者が減れば当然、バカが読むような本も売れなくなります。 そうすればこの業界ももっと質の高い本を出さざるを得なくなる。 これで読者と業界の質が上がって「日本の底上げバンザーイ」って 感じです(笑) 僕が目指すのはここ。 正直、どこまで出来るかは分かりません。 この業界から何かしらの圧力がかかれば、僕のような小さな個人は 活動をやめざるを得ないことにもなるでしょう。 けれども、もうメルマガを作っちゃったんだから、やるしかない(笑) 良くも悪くも、僕はもうそこに首を突っ込んでしまったのです。 そこでお願いがあります。 もし今僕が話したことに共感して頂けたなら、この活動にちょっとだけ 手を貸してもらえないでしょうか? この『ここが変だよナポレオン・ヒル』を、あなたの持っている媒体、 例えばツイッターやフェイスブックやブログで紹介してほしいのです。 もちろんあなた自身も登録して頂いて構いませんし、 ある程度読んでから紹介するかどうかを判断するということでも 構いません(既にサンプル記事は公開しています)。 これは有志のお願いなので、何もお礼やお返しはできないのですが、 もしそれでもよければ紹介して頂けると嬉しいです。   『ここが変だよナポレオン・ヒル』を読んで目を覚ます人が増えれば、 今より少しは日本もいい方向に向かうんじゃないかな、と。 そう思っています。 一人でも生き残れる人を増やすために、ご協力よろしくお願い致します。 ※紹介して頂ける場合は、以下のリンクをご使用ください。 http://www.mag2.com/m/0001593615.html   ありがとうございました。 ペス ...more»
マンガの正しい使い方
  世の中には、マンガをスラスラ読める人がたくさんいます。 マンガなら1日10冊でも20冊でも読める。 そういう人も少なくありません。 昨今ではマンガの読めない小学生が増えてきたというニュースも あったりしますが、それを踏まえたとしても、恐らく日本人の 90%以上はマンガを苦もなく読めるのではないでしょうか。 つまり 「マンガは簡単だ」 と言い切っても問題ないワケですが、このあまりにも 当たり前すぎて取るに足らないようなことを、今回は少し深く 考えていこうと思います。   なぜマンガは簡単なのか。 手始めにそんなことを考えてみたいのですが、この答えが分かる でしょうか? この問いを考える際のヒントは「簡単」という言葉にあります。 僕らが普段使う「簡単」とは「努力がいらない」という意味です。 何の努力もせず、すでに自分が持っている能力で解決できること。 それを僕らは「簡単なこと」と言います。 つまり、なぜマンガは努力せずに読めるのか、というのが 今問われていることだということです。 ここまで言えばもう分かったのではないでしょうか。 なぜマンガは簡単なのか。 それは、マンガが何の努力をしなくても読めるようなものとして 作られているからです。 マンガを読むのにいちいち著者の意図を探ったり、構成を見たり、 ウィキペディアで単語の意味を調べたり、過去のマンガを参照したり、 そんなことをすることは滅多にないですよね? 1ページ1ページ読み進めていけば誰にでも意味が分かる。 それがある意味マンガの前提であり、小学生でも読める理由です。   ただ、これを逆に考えてみて下さい。 僕らが何の努力もせずに読めるということは、どれだけ僕らが マンガを読んでも、まったく成長しないということにならない でしょうか? 数学で簡単な問題ばかり解いていても実力がつかないように、 読むのが簡単なマンガばかり読んでいても読む力はつかない。 こう考えられると思うのですが、どうでしょう? 百歩譲って、マンガから感動や勇気をもらえることはあるかも しれません。 このマンガを読んだおかけで、気持ちがスッキリした。 主人公のセリフに勇気をもらった。 それぐらいのことは誰にでもあると思います。 しかしほとんどの場合、それは読者の成長には繋がりません。 なぜなら、その感動や勇気は、その場限りのインスタントなもの だからです。 ワンピースを読んでいる日本人は何百万人もいるはずですが、 そのうちルフィの雄姿を見て、自分も失敗を恐れず脱サラして やりたいことを一から始めた、なんて人は100人もいないはずです。 いや、そこまで言わなくとも、ルフィを見習って理不尽な上司に 自分の正直な気持ちをぶつけた、選択に迷った時に敢えて危ない方を 選んだ、という人ですら1%もいないでしょう。 それが現実であり、マンガが僕らの人生に与える影響は所詮その程度 なのです。   マンガの内容が素晴らしい教訓に満ちていることは僕も知っています。 けれども、教訓は活かされてこそ教訓です。 「いいこと言うなー」と思っているだけでは意味がありません。 正しくマンガを“使う”には、ただマンガを読むだけではなく、 その主人公の生き方を、目指すべきもの、見習うべきものとして 捉える必要があります。 選択に迷ったときは難しい方を選ぶ。 どんな辛い試練も諦めずに耐え抜く。 理不尽なことは絶対に認めない。 こういう態度を自分にも当てはめて生きるのです。 「いやいや、あれはマンガだから上手くいくようになってるけど、 実際にやったら大変なことになるよ」 普通はそう思って何も行動しないのでしょうが、前にも言ったように、 そういう普通の考え方をしているから、みんな凡人のままなのです。 そんな一般的で、常識的で、普通な考えは早く捨てて下さい。 その考え方があなたを凡人の殻に閉じ込めているということに 気付かなければ、何も始まらないのです。   マンガの中の世界を「有り得ない世界」として捉えているうちは、 その人に成長はありません。 マンガの世界は「有り得ない世界」ではなく「あるべき世界」です。 あるべき理想を具体的に表現したもの。 それが今のマンガに描かれている世界なのです。 その証拠に、マンガの中では悪いことをしたヤツは必ず主人公に 負けるようになってますよね? それは、悪い奴が得をする、みたいな世界があってはならない (と僕らが思っている)からです。 設定として一度負けたりすることはありますが、最終的には絶対に 主人公が勝つようになっている。 それを見てスッキリするのは、僕らが 「正しいことをした人間は報われるべきだ」 「世界はそうあるべきだ」 と思っているからなのです。 だったら、僕らもそれを見習うのは当然ではないでしょうか。 その主人公を通して表現されたあるべき姿を真似することは、 それこそ僕らのあるべき姿なのではないでしょうか。   凡人は「有り得ない世界」と「あるべき世界」を勝手にすり替えて 生きています。 有り得るか有り得ないかは、やってみなければ分かりません。 やってもいないのに「有り得ない世界」があるなんて、それこそ 有り得ない考え方なのです。 けれども、「あるべき世界」はやってみなくても判断できます。 しかもそれはマンガの中で具体的に表現されているワケですから、 見本まで用意されている。 それを真似するだけで僕らは「あるべき世界」に近づけるのです。 「あるべき世界」は実現してこそ意味があります。 もちろんそれが険しい道なのは言うまでもありませんが、 険しいからこそドラマチックな展開が期待できるというのも マンガが示している通りです。 辛くて苦しくて逃げ出したくなる。 そういう絶体絶命の状況を乗り越えるからこそ、マンガは面白く なるし、人生も面白くなるのです。   「このマンガを読んで俺の人生は変わった」 こういうことを凡人が言っても何の説得力もありません。 本人にとって実際そうだったとしても、そこに何の客観性もなければ、 その発言はマンガの権威を強めてはくれないのです。 けれども、前回の話ではありませんが、もしジョブズがこんな発言を したならば、そのマンガはホンモノだと言っていいでしょう。 なぜなら、彼自身の人生が客観的にそれを証明しているからです。 同様に、宮崎駿が、坂本龍一が、黒沢彰が、熊川哲也が、高倉健が、 羽生善治が、イチローが、特定のマンガを指して 「このマンガがあったから、今の自分があります」 と言ったなら、それは信じるにあたいします。 その理由も、彼らの人生がそれを証明しているからです。 そしてそれこそが、正しいマンガの使い方なのです。   どんなものも人生の糧とすること。 それが脱凡人の道を進む1つの方法です。 マンガだろうがアニメだろうがゲームだろうがニコニコ動画だろうが、 そんなのは関係ありません。 そこから何かを学びとる、それを人生に活かす、そういう視点が 何よりも大事なのです。 それをただの快楽として楽しむのは凡人の仕事です。 僕らはそこから一歩も二歩も抜きに出なければならないのですから、 凡人と同じことをしていたのでは話になりません。 凡人と同じものを見て、凡人以上のものを“見出す”。 その能力の有無が、今この時代に問われているのです。 ありがとうございました。     ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 ブログで公開しているのは全メルマガ記事の3分の1程度です。 すべての記事を読みたい場合は下のボタンをクリックして メルマガ『脱凡人のすすめ中級』にご登録ください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが 届くようになっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
いじめの構造と民主主義の関係
ども、ペスです。 先日のいじめのニュースに伴い、メディアではいつも通りしょーもない意見が大量に 垂れ流されています。 学校や教師の保身が云々、教育委員会が取り合ってくれない云々、根本的にいじめを 無くすにはどうすれば云々・・・まあ出てくる話はいつも同じです。 そんな議論でこの問題が解決した試しはないですし、それどころか状況は年々酷く なっているというのが実際のところでしょう。 たまたま見た番組でピーコが 「昔はいじめられていても助けてくれる人が必ずいたが、今はいじめられていても 誰も助けてくれない」 と言っていましたが、いじめが問題である理由は本質的には“これだけ”です。 歴史を振り返ってみれば明らかなように、いじめの構造そのものはずっと昔から 一度も無くなったことがありません。 貴族が奴隷をいじめ、一般人が魔女をいじめ、大国が小国をいじめ、健常者が 障害者をいじめ、アーリア人がユダヤ人をいじめ、白人が黒人をいじめ、多数者が 少数者をいじめる。 何千年もの間こういったことが繰り返されてきているワケですから、この話は本来、 学校のいじめがどうのという問題ですらないのです。 ただ、どんな時代にも必ず「そんな酷いことやめろよ」と訴える強者がいて、 そこから歴史は少しずつ前に進み続けてきました。 それは政治家であったり、哲学者であったり、科学者であったり、貴族であったり、 時には国そのものであったりしましたが、必ずそういう人が強者の中にいたのです。 今では当たり前となった民主主義や人権という考え方も、彼らがいなければ 生まれてこなかったかもしれません。 つまり、彼らは強者であると同時に少数派の先駆者でもあったワケです。   しかし、現代においては強者でありつつ少数派であるということは矛盾します。 昔は主に特権階級や物理的なパワーを持つ者が強者でした。 貴族である、軍事力がある、そういったものが強者を強者たらしめていたワケですが、 現代における強者は「多数者」です。 多い方が偉い、多い方が正しい、多い方が正義である。 国政を見れば分かるように、それが現代の先進国を支えている民主主義思想なのです。 ですから、「弱者を守る」という少数派な意見を発した時点で、その本人は必然的に 弱者になります。 いくら特権階級であっても、力があっても、です。 学校での暴力的ないじめであれば、本人が肉体的に強くなることによって 解決できることもあるかもしれませんが、匿名で行われる陰湿なネット上での 誹謗中傷などは本人の努力でどうなるワケでもありません。   普通、多数者は少数者を疎外することによって多数者たらしめています。 子供でも知っている「多数決」という決め方がまさにその典型で、少数派に属した時点で その人の意見や存在は無視されるのです。 もちろん表面上は「少数派の意見も参考にしましょう」という話に落ち着くワケですが、 本当に心からそう思っている多数者はその中でも少数であり、多数者の過半数が 「他の意見は無視する」と暗黙の判断を下すことによって現実的には無視される結果に なるということです。   今の日本では多数者である高齢者が少数者の若者をいじめる構造になっていますよね? 高齢者は自分たちが損をしたくないから若者の味方なんてしないワケです。 社会保障や年金を引き下げられたりしたら、たまったもんじゃないですから。 中には若者側についてくれる人もいますが、そういった人は高齢者から白い目で見られ、 票を集められず、結果として力を持つことができません。 だから高齢者が若者をいじめる構造がなくならないのです。   いじめられている子を助けようとした子が次にいじめられた。 こういう例はたくさんあります。 なぜこんなことが起こるのかというのは、さっきの説明が理解できていれば すんなり答えを導くことができます。 つまり、助けに入った子は多数者側から少数者側に移ったことで弱者になり、 助ける力を失って自分もいじめられる立場になってしまっただけなのです。 これは民主主義の構造上、“必ず”起こってしまう悲劇です。 基本的人権を謳っている民主主義国家が、その人権を無視する構造を内包している というのは皮肉でしかありませんね。   では、なぜ昔はピーコが言うようにここまで酷いことにならなかったのでしょうか。 昭和と言えども、日本が民主主義であったことには違いありません。 であるならば、同じようないじめがあってもおかしくないと考えるのが自然です。 しかし実際に昔は今ほど酷くはなかった。 その理由は、その頃はまだ多数者であること以上の権威が残っていたからです。 例えば一昔前の学校の先生や父親というのは権威の塊のようなものでした。 悪いことをしたらビシバシ体罰も与えるし、先生に逆らおうものなら教室に入れて もらえないことだってあったワケです。 またガキ大将というシンボルからも分かるように、子供たちの中でもそれなりの 格付けがあって、その権威にそった社会ができていました。 彼らの中でガキ大将になるためには力以上に尊敬され慕われるような人間性を 持っていなければならず、だからこそ当時のガキ大将は周りから一目おかれていたと 言えます。 つまり、強者の条件として多数者であること以上の資質が問われていた時代だったから なんとか上手く回っていたのです。   さて。 今までの話から導かれるのは、「少数者を守る」という意見や態度を多数者に 持ってもらうことができればすべて解決する、ということです。 これは民主主義の構造と時代性を考慮すると非常に難しいのですが、理屈としては 不可能ではありません。 要は、多数者の中にリーダー的な人を生み出し、その人に他の人たちを引っ張って もらえばいいワケです。 ただし、このリーダーにはそれ相応のリスクが発生します。 「少数者を守る」と主張しても賛同が得られず、自分はリーダー的な地位から 単なる少数者になってしまうのではないか、というリスクです。 そうなれば元はリーダーであっても、その人は干され、下手をすればいじめを 受けることになるでしょう。 若者の味方をする高齢者のように・・・。 いじめっ子に立ち向かう(少数者を守る)、という意見は基本的に多数者にとって リスクでしかありません。 みんなで立ち向かえば勝てるのかもしれませんが、周りの人がもし裏切ったら 今度は自分がいじめられるかもしれないワケです。 そんなリスクをおかすなら、何もせずにじっとしていた方が安全だ。 そう考えるのが普通でしょう。 なぜなら、仮にいじめられている子を救えたとしても、そこから得られる表面的な利益は 何もないからです。 高齢者が若者の味方をすることで得られる直接的な利益は何もないからです。 そう、こういう損得勘定でしか物事を考えられない人間が多数者になってしまったが故に この問題は深刻さを極めているのです。   本来、いじめられている子を助けるか助けないかは道徳の問題です。 つまり「助けた方が得か」ではなく、 「人として、いじめを放っておくのはどうなのか」 という判断において行われるべきものなのです。 もちろんそれが出来るか否かという問題はあります。 助けるべきだと判断しても、自分にそれだけの能力がなければ助けられないかも しれません。 ただ、周りの人間の心を動かすのは、いつだって道徳的に正しい人間なのです。 自分の好きなドラマや映画、マンガ、アニメの主人公を思い出してみて下さい。 彼らがみんな輝いて見えるのは、われわれが「本来、人はこうあるべきだ」と思っている 道徳を貫いているからです。 モンスターに襲われている街を保身のために見捨てる勇者がいますか? いないですよね? 事件が難解すぎるからといって解決を諦める名探偵がいますか? いないですよね? いじめの問題を解決せずに放っておく伝説の教師がいますか? いないですよね? だから彼らはわれわれの心を惹きつけてやまないのです。 そして、われわれがそれに共感できるのは、われわれも心のどこかで 「本来、人はこうあるべきだ」 と思っているからです。 その心の奥深くに埋まってしまった現代人の道徳観を掘り起こすことでしか、 現代のいじめの構造は崩せないと思います。 それぐらい歴史的にも人間的にも根の深い問題なのです。   昨今のいじめ問題は、それを傍観することしかしない我々全員の問題です。 すなわち、テレビを見ながら「学校が悪いよなぁ」とか言っているその人自身も 実は間接的な加害者なのです。 そういった雰囲気、社会、環境が子供たちをいじめに向かわせ、それを止めようとする 人間の道徳観(日本人の武士道)を衰退させているのですから。   人間はどうあるべきなのか。 自分はどうありたいのか。 これを考えることが、すべてのスタートなのではないでしょうか。 ...more»
原子力発電と正義
  今回は珍しくメルマガの転載ではなく、ブログオリジナルの 記事を書くことにしました。 メルマガではこの件について既に何度か記事を出しているので 必要な人だけ読んでくれればいいかな、と思いまして。 あまり推敲できていないので、読みやすい文章ではないかも しれませんが、何かの参考にして頂ければ幸いです。 では早速まいりましょう。   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 原子力発電と正義 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 原子力発電を無くせ、日本に原発はいらない。 巷ではそういう意見が大半を占めているようですが、 実際にその人達がどこまでのことを調べてそんなことを 言っているのかというのが個人的には非常に気になります。 百歩ゆずって、事故が起こるまで何も知らなかった というのは大目に見るとしましょう。 しかし、「原発を無くせ」と言えるだけの根拠と論理を 今現在も持ち合わせていないなら、それは単なる理想論者と 言わざるを得ません。 原発は危ないからダメ、ではまったく話にならないワケです。 もしこの論理で話が済むのなら、車は危ないから廃止、 という論理にも従わないといけないし、農薬は危ないから廃止、 という論理にも従わなければならなくなります。 少し前にホリエモンが 「原発ではまだ人は死んでないんだから、車の方がよっぽど 危ないじゃないか」 ということを言っていました。 この意見に対してネット上では大きな非難の声が上がって いましたが、上の論理に従うならば、彼の言っていることは 正しいワケです。 車は何十万という人を殺しているのに対し、日本の原発に 関係する事故で死んだ人は多く見積もっても数百人程度。 だったら車の方が原発の100倍以上危ないでしょ、と。 つまり彼は「死者数の多さ」=「危険度」という論理で話を しているのです。 ただ、いくら彼の言うことが論理的に正しくても、 この意見に素直に賛成できる人は僕を含めそんなに 多くはないと思います。 なんとなく原発と車を比べるのは違う気がする。 そう思っている人は多いはずです。 その感覚は正しいと思うのですが、にもかかわらず 反論できなかったり他の論理を持ち出せなかったりする辺りが 問題だと僕は思うのです。 原発反対。 それは大いに結構だと思います。 だと思いますが、原発を無くしたら僕らの生活がどういう ことになるか、少しでも考えたでしょうか。 というか“今”原発を無くすと、どういうことになるか。 それぐらいは考えたでしょうか。 北アフリカや中東の情勢を少し気にかけただけでも、 今原発を無くすことが日本にとってどれだけ危険かが 分かると思うのですが、僕の見る限り、そんなことすら 考えずに暴言を吐いている人が多いように思います。 国際情勢に気を向けなくても、現在の日本の状況を踏まえて 考えれば、今すぐ原発を無くすことがどれだけハイリスクな ことか分かるはずです。 原子力発電の費用対効果は火力発電の約2倍。 ウラン価格も中国やインドの需要増加で上がってきてはいますが それでもまだ原子力発電の方が経済効率は高い。 それを一気に無くして火力発電に依存することになったとしたら 単純計算で電気代は約1.5倍になります。 これに加えて原子炉解体までの費用がすべて電気代に上乗せ されますから、それを考えると電気代が2~3倍ぐらいになっても おかしくはありません。 個人はそれで大丈夫だとしても、製鉄所などの電気代が 2~3倍になれば、当然他のものにも影響がでます。 それ以前に火力発電所自体が足りないかもしれない。 (参照:資源エネルギー庁「エネルギー白書」) また別の視点に立てば、原発を顧客としていたウラン濃縮の 工場などで働いている人たちはどうなるのか、ということも 新たな問題として考えられます。 電力会社がスポンサーになっている諸々の企業はどうなるのか。 その諸々の企業の下請けや孫請けの人たちはどうなるのか。 原発からの寄付金で成り立っている村や町はどうなるのか。 そこまで考えれば、今の時点で原発を停止させるということが どれだけ非現実的なことかが分かると思います。 「日本のために原発を止めろ」なんてのは耳当たりのいい 大義名分であって、そこから生まれる被害を考えていない 人間にしか言えない言葉です。 そんなもんは正義でも何でもありません。 もちろん原発を無くせば、人間の体には優しくなると 思いますが、個人的にはそれによって失われる命の方が 遥かに多いような気がします。 資本主義社会を生きる我々にとって、経済性を無視することは 有り得ないと同時に、そんなことは出来ないということを 今一度考えておく必要があると思います。 僕も個人的には原発には反対です。 ただ、それを意固地に叫んだところで現実はそう簡単に 変えられるものではありません。 それは僕の能力が足りなかったり、影響力が足りなかったり するからではなく、さっきから説明しているような事情が 現実には複雑に絡み合っているからです。 社会としての善を選べば、個人としての悪が選ばれる。 逆に個人としての善を選べば、社会としての悪が選ばれる。 現実とはそういうものなのです。 「悪いものは無くせばいい」 油断すると、僕らはこういう非常に危険なことを何の考えもなく 言ってしまったり、やってしまったりすることがあります。 しかし、どれだけ悪いものを消そうとも、そこから善が生まれる ことはないし、平和が生まれたりもしないのです。 今回の話とは関係ないですが、ヒーロー番組に出てくる なんちゃらレンジャーたちは、いつも悪者の怪獣を 「倒し」ます。 そうすると、悪者はまたやり返すために別の怪獣を 送り込んでくる。 その繰り返しで最終的に正義のヒーローは勝つワケですが、 人間的に考えれば、悪者には悪者なりの理屈があり、 怪獣にだって家族がいるかもしれないのです。 なのにどうして「和解しよう」「妥協案を探そう」という 発想がヒーローから生まれないのかが、今になって不思議に 思います。 正義とか悪とか言って戦ってないで、仲良くすりゃ 済む話じゃないか、と。 それが本当の善であり平和であり正義じゃないのか、と。 そう思うのです。 アホらしい話に見えるかもしれませんが、世の中こんなこと ばっかりなんですよ、実際。 人類最大の非合理と言える戦争なんてものがまさにそうで、 相手を全滅させて生まれるのは、新たな戦争の種なのです。 つまり原発も「無くす」という発想より、「上手く付き合う」 という発想に転換した方がより現実的かつ建設的なんじゃないか と僕は思うワケです。 50基は多過ぎだと思いますが、ゼロは多分無くし過ぎです。 だから間を取って25基という単純な話ではありませんが、 我々が上手く付き合える程度であれば、残しておいても いいと僕は思います。 何をもって上手くなのか、というのはまた話がややこしくなるので 今は割愛しますが、そういうバランス感覚が大事だということです。 極右でも極左でもなく、その間で悩み続ける。 そこから僕らの未来は開かれていく。 そんな気がします。 ペス 追伸: 個人的に、高速増殖炉は人類が手を出すには早過ぎると 思います。 ...more»
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