あれは今から5年ぐらい前のことだったでしょうか。

僕が仕事帰りの電車で座っていると、隣に座っていた酔っ払いの
中年男性が居眠りをはじめました。

最初はコクリコクリとしていた彼も、やがて熟睡モードに入り、
段々とこちらの肩に体重がかかってきます。

そして最終的に僕の肩に頭をもたれかけてくるという電車内で
よく見かける光景になったワケですが、普通であれば僕側の人は
誰もが嫌な気分になると思います。

僕も機嫌によっては

「んだよ、このオッサン・・・(イライラ)」

となっていたでしょう。

しかし、そのときの僕は違っていました。

まったく嫌な気分にならなかったと言えばウソになりますが、
「なんだよ、このオッサン」と思うほどには嫌悪しなかった。

それは僕がちょっぴりゲイに目覚めたとかではなく(笑)、
その男性の可能性を考えることができたからなのです。

 

以前にも話したように、われわれはある出来事に出くわすと、
そこに自分にとって最も一般的な文脈を自動的にあてはめます。

酔っ払って電車の席で眠っている男性を見れば、大抵の人は
「飲み会で自分が制御できなくなるほどお酒を飲んだダメな人」
というようなレッテルを貼りつけるはずです。

なぜなら、それが一番よくある例だから。

ドラマやマンガの中でもそういう場面はよくありますから、
われわれにとって酔っ払って眠っている男性はダメな人間の
代表のように映るワケです。

そんな男性にもたれかかられようものなら、誰だって嫌な気分に
なるでしょう。

しかし、今挙げたのはあくまで「一般的な文脈」です。

彼がお酒を飲んだことは事実だと思いますが、もしかしたら彼は
上司に嫌々飲まされたのかもしれません。

会社の仕事や家族関係が上手くいかず、酒に溺れるしかなかったの
かもしれません。

はたまた、何十年ぶりに親友と再会し、ついつい飲み過ぎてしまった
だけかもしれない。

こういう可能性を考えると、もたれかかられることによって生まれる
嫌な気分がどこかへ行ってしまうんですね。

決して嬉しいことになったりはしないけれども、感情的にならず、
あくまでフラットに状況を捉えられるようになります。

つまり、1つの出来事に対する解釈の幅が広がることによって
われわれは寛容になれる、ということです。

 

世の中には失敗を恐がる人がたくさんいます。

恐がる理由は色々あると思いますが、一言で言ってしまえば、
(広い意味で)損をする可能性があるからです。

株を買うにしても、起業するにしても、それによって今までの
安定した生活を失ったり、株や起業に費やしたお金や時間を損する
可能性があります。

そうやっていろんなものを失うことが、みんな恐いワケです。

しかし、これらもすべて一般的な文脈から考えられている
ということに、われわれは気付かなければなりません。

「株を買ったり起業したりするのは、お金のためである」とか
「株を買ったり起業したりするのは、生活のためである」とか
「安定した生活は素晴らしいものである」という文脈が勝手に
設定されているということです。

これが偏った捉え方であることは、今のあなたなら容易に分かる
でしょう。

例えば起業を「人間性を鍛える」という文脈で考えるならば、
思うようにお金が稼げない(上手くいかない)期間というのは
非常に重要です。

その苦しい期間をいかに過ごすか。

いかに取り乱さず、冷静に、事態に対処するか。

そういう態度が人間性の成長に大きく影響します。

「どうして上手くいかないんだよ!」と絶望するだけなのか、
それとも「この苦難の中でも平然としていられるだけの人間性を
身につけなければならない」と思うのかでは、同じ結果であっても
全然意味が違うワケです。

後者的な解釈ができれば、思うようにお金が稼げないことはむしろ
自分を成長させることに大きく貢献します。

有り難いとまではなかなか思わないでしょうが、それを自分に
課せられた試練として捉えることはできる。

「ちょっと思うように稼げなかったぐらいで取り乱すような人間に
お金を稼ぐ資格なんてない」という考え方ができるということです。

その意味で、失敗はわれわれの器を試していると言えます。

失敗して絶望しているような人間は、そもそも成功する器では
ありません。

いかにトラブルを上手く乗り越えるか。

いかに失敗を失敗で終わらせないか。

いかに失敗を失敗以外の文脈で解釈するか。

ここに本当の意味での実力が、人間の器が、問われるのです。

 

以上の話からも分かるように、一般的な文脈に囚われないこと、
つまり解釈の幅を広げておくことは、われわれが生きていく上で
最上級レベルで重要なことです。

なぜなら、われわれは自分の解釈の中でしか現実を生きることが
できないからです。

前回の話を思い出してください。

われわれはつねに世界からの刺激をインプットしています。

われわれはそのうちの必要なものだけを解釈して自分の中に
取り入れているワケですから、われわれが見たり聞いたり触れたり
するものは、すべてわれわれが解釈したものだということです。

われわれの周りにいるのは「好きな人」と「嫌いな人」と
その他大勢の「どうでもいい人」だけです。

これらにはすべて「好き」「嫌い」「どうでもいい」という
価値づけが行われています。

その価値づけは当然、自分の解釈によるものです。

ということは、あなたの周りにウザイ人がたくさんいたとしたら、
あなた自身が彼らに「ウザイ」というレッテルを貼りまくっている
ということです。

周りにウザイ人がいるのではなく、あなたが彼らをウザイ人として
解釈しているのです。

だとしたら、その解釈の幅の狭さからして、あなた自身も相当に
しょーもない人間だと言えるでしょう。

相手の良い面を見てあげられない、相手の良い面を見ようとしない。

あなたもそれぐらい器の小さな人間だということです。

誰だって生きていればイライラすることの100や200はあると
思います。

電車の中でデカイ声で電話をしている人に出くわしたなら、
大抵の人はイライラするはずです。

「うっせーな」とか「マナー守れよ」と思うのが普通でしょう。

でもね、そのイライラは全部自分の解釈が作ってるんですよ。

だって考えようによっては、その電話の内容から面白いアイデアを
思いついたり、時代性が読み取れたりする可能性もあるんだから。

「うっせーな」と思うのは、その人の電話を雑音や騒音として
解釈しているからであって、内容に耳を傾ければ案外面白い話を
しているかもしれません。

マナーが悪いことには違いありませんが、そんな風に解釈しても、
そこから得られるものは何もないですよね?

それにイライラしたところで、どんどん不快な気持ちになるだけで、
何もいいことはありません。

だったら。

自分に有益になるようにすべてを解釈すればいいんじゃない
でしょうか?

そういう解釈の幅を身につければいいんじゃないでしょうか?

 

解釈の幅は、人間としての器の大きさを表しています。

器の大きい人というのは、まず怒りません。

相手が失礼なことを言ったり、罵声を浴びせてきたりしても、
彼らの可能性に目を向けて

「正しい教育を受けられなかったのかもしれない」

「親や教師に恵まれなかったのかもしれない」

「嫌なことがあってイライラしていただけかもしれない」

という風に解釈できるからです。

また器の大きい人は(僕と違って・笑)いつも謙虚です。

決して自分の功績や実績を自慢したりしないし、自分から何かを
積極的にアピールしたりもしない。

間違っても「素晴らしい記事が書けた」とかは言いません(笑)

それは彼らが幅広い解釈をもっているからです。

自分としては素晴らしいものであっても、周りがどう思うかは
分からない。

そう考えられるから、彼らは何事にも控え目でいられるのです。

さらに、器の大きい人は寛容です。

どんな人に対しても対等に接し、優劣をつけません。

それも彼らの解釈の幅が広いからです。

彼らはその人自身をあらゆる角度からフラットに捉えることが
できます。

相手のウザイ面も、優れた面も、弱い面も、強い面も、同時に
捉えることができる。

それによって、相手と対等に向き合うことができるのです。

最後に、器の大きい人は知的です。

彼らは1つの知識に対して、あらゆる角度からアプローチを
とれるため、1つのことから10のことを学ぶことができます。

先程の例で言えば、マナーの悪い人間を見てそこから自分の
態度を見直したり、周りの反応を見たり、その内容に注目したり、
話し方や言葉遣いに注目したりすることによって、凡人には
まったく見えていない様々なことを学ぶことができるワケです。

他にも特徴を挙げていけばいくらでもありますが、ここで言いた
かったのは、

 

器の大きさと解釈の幅はぴったり一致する

 

ということです。

多様な解釈ができる人ほど物事を冷静に、謙虚に、寛容に、知的に
捉えることができる。

そういう人は最も成功に近い人、凡人から脱している人だと言えます。

つまり脱凡人として、ホンモノとして、リーダーとしてわれわれが
努力すべきは、解釈の幅を広げ、人間の器を大きくすることなのです。

 

人生には素晴らしい面もあれば、悲しい面も、醜い面もあります。

それらの面が明確に見えてさえいれば、われわれは自分の意志で
見るべき面を選ぶことができます。

「思うようにお金が稼げない」という事実を失敗という面からしか
見れない人にとっては、それは失敗にしかなりえません。

けれども、試練という面を見ることができれば、われわれはそちらを
選ぶことができるのです。

われわれには見えない面を選ぶことはできません。

だからこそわれわれは解釈の幅を広げ、できるかぎり多くの面を
見られるようにしておく必要があるのです。

デュシャンが男性用小便器を「泉」という芸術作品として
発表できたのは、便器という物体の芸術的側面が彼には
見えていたからです。

他の人では絶対に見ることができないような面を、彼は見ることが
できた。

それはまさに彼の異常なまでの解釈の広さによるものだと言える
でしょう。

ラーメンズも、安倍公房も、ハイデガーも、宮藤官九朗も、
ジョブズも、フルトヴェングラーも、ベートーヴェンも、
桂文枝(もと三枝)も、立川談志も、ジョイスも、ゴダールも、
黒沢明も、その人にしか生み出せないものを表現している人は
みんな共通して独自の解釈を持っています。

その奇特な解釈によって捉えた世界を表現すること。

それが芸術であり哲学でありビジネスなのです。

 

あなたにはあなたの解釈があり、僕には僕の解釈があります。

本来これらは一致することはありません。

なぜなら、僕とあなたはどちらも唯一無二の存在だからです。

しかし、われわれはメディアや学校教育などの操作によって、
万人が同じような解釈しかできないようにさせられています。

「このとき主人公は何を考えていたと思いますか?」という
現代文の問題に「答え」があるのは、そのためです。

それをどう思うかなんてのは人それぞれです。

主人公と直接会って話をしたのならまだしも、物語の中に出てくる
人の気持ちなんて、読み手の解釈次第で何とでも言えます。

にもかかわらず、テストでは予め想定された特定の「答え」を
書かなければ、その解釈は間違いになる。

こうした何気ない日常を通して、われわれの解釈の幅は無理やり
狭められているのです。

 

あなたにはあなたの解釈があります。

あなたにしかできない解釈が必ずあります。

その解釈こそが、この世に価値を生むのです。

誰ともかぶらない、あなた独自の解釈を見つけてください。

あなたの言葉を、あなたの世界を見つけてください。

素晴らしい人生は、そこにあります。

ありがとうございました。

 

※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。

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