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中途半端を極めろ
いつからか、僕は具体的な夢や目標を持たなくなりました。 少し前は「村を作りたい」みたいなことも言っていましたが、 今はそれすらなくなり、夢や目標と呼べるようなものは もはや何もありません。 ただ面白いのは、それと反比例するかのように僕の興味が 広がり続けているということです。 普通われわれは、具体的な夢や目標を持ち、それに向けて 仕事や勉強を頑張ることが素晴らしいことだと 思い込んでいますが、これは言い換えると、夢や目標に 関係無さそうなことは無価値・無駄だと見なしていることを 意味します。 例えばマンガ家になりたい人は、いろんなマンガを読んだり、 絵の技法や学んだり、先輩マンガ家のインタビューを真剣に 読んだりはすると思いますが、多分ヨガや錬金術や農業は 学ばないと思います。 なぜなら、それらは自分とは関係ない(ように見える)し、 そんなことを学んでも「無駄」だからです。 同じように、ダンサーになりたい人が電子工学やJAVA言語や 考古学を学ぶことは稀でしょうし、コピーライターに なりたい人が、物理学や生物学や禅を学ぶことも稀でしょう。 こうして具体的な夢や目標を持っている人たちは、 夢や目標を「一直線に」叶えようとするワケです。 しかし、ダンサーがダンスを練習するなんてのは誰でも 思いつくことであり、誰でもやっていることだということを 彼らは忘れています。 誰でもやっていることをやってトップに立てるのは、 才能のあるヤツだけです。 当たり前ですが、みんなが同じことをやれば、それを一番 効率よくやれる才能のあるヤツが勝つに決まっています。 自分の才能に自信があるとか、勝ち負けはどうでもいいと 思っているなら別ですが、他の人とは一線を画した評価される マンガ家やダンサーやコピーライターになりたいなら、 誰もがやるようなことを誰もがやるようにやっていては 話にならないのです。   さて、ここで少し考えてみましょう。 日本で15位の実力のあるダンサーと、日本で59位の 実力しかないけど、歌と面白いトークができて、 占いと脳科学にやたら詳しいダンサーだったら、 どっちが世間から評価されると思いますか? 日本で31位の実力のあるコピーライターと、 日本で101位の実力しかないけど、哲学とマンガと 昆虫と音楽にやたら詳しいコピーライターだったら、 どっちが面白がられるでしょう? 答えは言うまでもないと思います。 ダンスでトップに立ちたい人にとって、脳科学の知識は はっきり言って無駄でしょう。 しかしダンスでトップに立つことが、その人にとって 必ずしも幸せだとは限りません。 そういう人は自分で勝手にそう決めつけてしまっていて、 自分が幸せになれる可能性を自分で排除してしまって いるのです。 もしかしたら脳科学の知識によって新しい自分だけの カテゴリーが生まれたかもしれないし、そこでは一番に なれたかもしれないのに、その可能性をダンスに 固執することで、つまりダンス以外を無駄だと思うことで 無自覚に捨ててしまっているワケです。 夢や目標を持つことは悪いことではないですし、 それを目指すプロセス自体を楽しめているなら 何の文句もありませんが、「夢を叶えなきゃいけない」とか 「目標は達成しなきゃ意味がない」とか、そういう風に 固執してしまうぐらいなら、僕はない方がいいと思います。   僕が夢や目標を持たなくなったのは、自分で自分の可能性に 制限をかけるのをやめたからです。 僕が小説家になる可能性も、脳科学者になる可能性も、 ダンサーになる可能性も、プログラマーになる可能性も、 天文学者になる可能性も全部残しておきたい。 そう考えたら、夢や目標は邪魔になってしまったのです(笑) 別に目指すものを1つに絞る必要はないでしょ、って。 そんときの自分がなりたいと思ったものを目指して、 興味がなくなったらやめて他を目指して・・・みたいな 中途半端な生き方も、それはそれで可能性に溢れていて 魅力的だと思うんですよね。 僕は自分に才能があるなんて微塵も思わないし、 既存のカテゴリーで争って何かで一番になれる自信も ありません。 だからいろんなことを勉強して、それらを組み合わせて 「僕だけのカテゴリー」を作って、そこで一番になれば いいじゃないか、っていう発想で生きています。 多分99%の人は僕と同じで、既存のカテゴリーでは 一番になれない中途半端な人たちだと思います。 だったら。 中途半端を極めませんか? マラソンとかダンスとか将棋とか、そんなの一本じゃ 勝てないんだから、それら全部を中途半端に極めて、 「マラソン・ダンス・将棋」っていう新しいカテゴリーを、 「あなた」っていうカテゴリーを作りましょうよ。 そこがわれわれ中途半端な人間に唯一残された楽園だと 思います。   無駄を避けるとは、中途半端を避けるということです。 じゃあ中途半端なヤツが無駄を避けたらどうなるでしょう? この答えは自身でじっくり考えてみてください。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
既知なる可能性から未知なる可能性へ
2年ほど前にやった『Move on』というセミナーで 「情熱の火種は興味です」という話をしたことが あります。 興味のすべてが情熱になるワケではないけれども、 たくさんのことに興味を持てれば情熱が生まれる 可能性は高くなる。 たしかそんな話をしたような記憶があるのですが、 そのときの僕は興味についてそれ以上の話が できませんでした。 そもそも興味を持つとはどういうことなのか。 どうやったら興味を持てるのか。 そこの話ができず、今から思えば中途半端なことを してしまっなぁ、と反省しています。 その反省ついでと言ってはアレなんですが、 僕もそこから成長し、今ではその辺のことも 答えられるようになったので、今回はあらためて 興味についての話をしてみようと思います。   興味を持つとは、ある対象に対して自発的に問いを 発するということです。 自転車に興味を持つ、昆虫に興味を持つ、将棋に、 ファッションに、先生に、宇宙に、隣の席の人に 興味を持つなど、どんな対象であれ、われわれが 興味を持つときは「この対象はどんなものだろ?」 という問いが同時に、自発的に生まれています。 つまりたくさんのことに興味を持つには、 たくさんのことに自発的に問いを発するように すればいいワケですが、お分かりのように この「自発的」というのがまた難しい。 自発的とは、自分の衝動もしくは意志によって 何かを為すということです。 衝動は起こそうと思って起こせるものではない ですから、ここで考えるべきは意志の方になります。 以前話したように、意志は消耗品なので、 これを問うこと以外の面で消耗してしまうと 問いを発する方へ、つまり興味に使えたはずの 意志が残りません。 多くの人はどうでもいいこと、例えば会社の 理不尽な言いつけを守るとか、周りの空気に自分を 合わせるとか、妻の愚痴を聞くとか、夫の加齢臭を 我慢するとか、ダイエットで甘いものを我慢するとか、 楽しくもない資格試験の勉強をするとか、 そういうことに意志を使ってしまっているために 興味として使うべき自発性が残されていないのです。 だから興味が持てないし、情熱も持てない。 つまり興味のないこと、やりたくないこと、 嫌いなことをやればやるほど、興味のあること、 やりたいこと、好きなことが見つかり難くなって しまうのです。   以上のことから言えるのは、たくさんのことに 興味を持ち、情熱を持ちたければ、たくさんの 興味のないこと、やりたくないこと、嫌いなことを できるだけ避けて生きましょう、ということです。 これが今の僕から言える「たくさんのことに 興味を持つ方法」です。 その意味で無駄を嫌う人というのは、実際には 無駄なこと(興味のないこと、やりたくないこと、 嫌いなこと)ばかりしている人ではないかと思います。 無駄なこと(意志を消耗すること)をしているから、 彼らは無駄なこと(自分と直接関係のないこと)に 興味を持てないのです。 逆に言うと、たくさんの無駄なことに興味を持ち、 無駄を許容できる人ほど本質的には無駄なことを ほとんどやっていないことになります。 なぜなら、それだけ意志が余っているからです。 たくさん興味が持てればそれだけ情熱が生まれる 可能性も上がって、そのどれかが情熱になれば あとは意志を使うまでもなく「衝動」が自発的に 問いを発してくれます。 ステップ化すると 1.興味のないことをやめる 2.意志が余る 3.自発的に問う(興味を持つ) 4.興味から情熱が生まれる 5.情熱の対象を衝動的に問う 6.余った意志でまた自発的に問う(興味を持つ) 7.興味からまた別の情熱が生まれる 以下繰り返し、という感じになるワケです。 興味には広さと深さがありますから、人によっては 1つのことを深く掘り下げることもあるでしょうし、 たくさんのことに広く興味を持つこともあるでしょう。 僕はどちらかというと後者のタイプなので、 メルマガやセミナーは話が縦横無尽に飛びまくって いますよね?(笑) 何の話をしているのかとても一言では言い表せない、 そうやって幅広いジャンルを結びつけて話すことで、 僕はあなたにいろんなことに興味を持って もらおうとしています。 キルケゴールを読んでみようとか、 白鵬のインタビュー記事を読んでみようとか、 将棋の電王戦のことを調べてみようとか、 死刑制度や執行人のことを調べてみようとか、 要する僕は独学というものの、自分で気付き 発見することの楽しさを伝えたいのです。   僕のメルマガやセミナーは、いつも興味のキッカケを 意識して作っています。 だから正直、「痩せる方法教えます」とか「稼ぐ方法 教えます」とか、そういう具体的で直接的なことは 凄く言いにくい。 そもそもその手のメッセージで参加するということは、 痩せることや稼ぐことに「既に」興味があるってこと ですから、それはもはや僕の仕事ではないワケです。 そうではなく、僕は 「そんな世界もあるのかぁ」 「その分野、ちょっと面白そう」 「もっとそれについて知りたい」 「やべっ、ハマっちゃうかも」 そういう衝動を引き出し、意志を消耗した人でも 「新しい」興味を持ってもらえるようにすることを セミナーの目的にしています。 なぜなら、それが殻を破るということだからです。 シュールレアリズムに興味のない人がシュールレアリズムに 目覚めたり、哲学に興味のない人が哲学に目覚めたり、 運動に興味のない人が運動に目覚めたりすれば、 そりゃ今までとは別の自分になってますよね? 痩せたい人が痩せるとか、稼ぎたい人が稼ぐというのも それはそれで別人にはなりますが、それはその人の 「想定内」の自分になるに過ぎません。 僕はそのしょーもない自分が考えたしょーもない想定すら 超えていきたいし、あなたにも超えてほしいのです。   そのためには自分が何とも思わないこと、つまり「無駄」を 取り入れなければなりません。 既知なる可能性はこれまでの経験の中にありますが、 未知なる可能性は未知なるものの中にしかありません。 そして無駄とは、往々にして無駄だと決めつけているだけの 未知なるものです。 数学を学ぶことが無駄かどうかは、数学を徹底的に学んだ 人にしか分からないはずなのですが、世間の中学生や 高校生というのは自分の都合でそれを無駄だと決めつけます。 同様にして僕がよく話す政治や哲学、宗教、芸術などの 分野についても、それをかじった程度の人が無駄だと 決めつけている。 試しに自分が無駄だと思っていることについて、 どれだけのことを知っているか考えてみてください。 多分驚くほど何も知らないと思います。 知らないのに無駄だと決めつける。 知らないのに興味を持たない。 そういう偏狭な人間が前書きに書いた在特会のような人に、 普通の人に、凡人になるのです。 われわれが無駄だと思っていることの中に、 われわれの未知なる可能性は眠っています。 そのあなたの眠れる獅子を呼び覚ますこと。 それが僕の仕事です。 次にやろうと思っている講座も興味をかき立てるもの、 もっと学びたくなるもの、自然と自分の殻を破って しまうようなものを考えています。 いつもなら「興味があれば受講してね」と言うところですが、 今回はぜひとも自発的に興味を持って受講していただければ 嬉しいです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
俺の中の絶対
「代筆日本一のコピーライターが教えます」 昨日、僕の元にこんなメールが届きました。 これが誰からのメールなのかはともかく、 僕はこういう言葉を見るといつも違和感を 感じます。 まず日本一であることをわざわざ強調しているのが、 なんか気持ち悪い。 本当にそれだけの実力があるなら、 そんなことを言わなくても引く手あまただろうし、 言う必要を感じないと思うんですよね。 にもかかわらず、それをアピールして集客しようと しているところに、人としての小ささを感じてしまう ワケです。 と同時に、バカにされている感じもします。 「日本一って言っておけば寄ってくるでしょ」と 思われているのがムカツクというか、なんというか、 元医者とか元弁護士とか東大卒とかを売りにして 選挙活動をしている政治家と同じ臭いがするんです。 もう1つ感じるのは、その人の客観的な実績が 日本一かどうかよりも、その人が「自分にとって」 日本一かどうかの方が圧倒的に大事だろ、 ということ。 例えばあなたが尊敬している先生や師匠が いたとして、全然知らない人から突然「その先生 (師匠)よりも、私の方が実績あるんですよ」って 言われたらどう思いますか? 「はぁ?だからなに?」って思いません? 僕の違和感はそれです。 「私は日本一のコピーライターなんです」って 言われても、僕は「あ、そう」としか思わない。 だってその人は僕に何をしてくれたワケでもないし、 ましてやその人の実績は僕の人生には何の関係も ないんだから。 でも実績は日本で100位かもしれないけれども、 その人が僕の人生を大きく変えてくれた人ならば、 その人は「僕にとって」日本一なのです。   自分にとっての日本一、自分にとっての絶対。 あなたはそういうものを持っていますか? 「他の誰がなんと言おうと、これこそが自分の人生に 不可欠なもの(もしくは人)なんだ」 そう言えるものがいくつあるでしょうか? われわれは生きてくる過程で、その「絶対」が 本当に絶対なのかどうかを試されます。 周りからバカにされたり、反対されたり、 白い目で見られたり・・・そういったことを通して、 その「絶対」を貫く覚悟があるのかどうかを、 その「日本一」を信じ抜くことができるかどうかを 試されるワケです。 お分かりのように、その過程でほとんどの人は 「絶対」を手放し、自分にとってではなく、 何か客観的な、上記で話したような世間にとっての 絶対を信じてしまうようになります。 彼らはあまりにも安易に「日本一の人が言うことなら 間違いない」と信じ込み、妄信します。 成功者が言ってることだから正しい、すごい経営者が 言ってることだから正しい、日本一の人が言ってる ことだから正しい・・・。 それが「自分にとって」正しいかどうかではなく、 成功者や経営者や日本一が言っていることだから、 つまり客観的な実績や数字を「絶対」だと思い込んで しまうワケです。   「お前は先輩に死ねって言われたら死ぬんか!」 僕は高校生の頃、友達にこんなことを言われたことが あります。 当時の僕は典型的な言い訳野郎で、そのときも 「先輩に言われたからやっただけで俺は悪くない」 という言い訳で言い逃れしようとしていました。 それを聞いた友達が上記の言葉を僕に発したワケです。 さて、ここで問題です。 もし日本一の人が「家族と別れれば上手くいきます」 と言ったとして、客観的な実績や数字を絶対だと 思い込んでいる人たちは、それに従うでしょうか? まあ想像すれば分かると思いますが、 多分誰もそんなことはしないと思うんです。 じゃあなんで彼らは(それ以外の)「これをやれば 成功します」という言葉には安易に従うのでしょう? それって従いやすいから、自分に都合がいいから 従ってるだけなんじゃないんですかね? 都合の悪いことだけ断って、都合のいいことだけ 言うこと聞いて、そんなんで上手くいくはずが ありません。 本当にその人のことを絶対だと思っているなら、 その人が「死ね」って言ったら死ねるはずなんですよ。 でもそんなことはできないし、そこまでの覚悟で 彼のことを信じてもいない。 自分にとっての絶対を失い、客観的な絶対ですらも 本当のところでは絶対化できない、そういう中途半端な、 絶対が絶対になっていないということが、多くの人が 楽しい人生を生きられない原因なのです。   「絶対」がないということは、軸がない、基準がない ということです。 以前『Be Standard』のレターで話したように、 そんな人間が魅力的なワケがないし、 魅力のない人間に人が集まってくるはずもありません。 僕が好きで読んでいる『宇宙兄弟』というマンガに 素晴らしいセリフがあります。 弟「俺は絶対、宇宙飛行士になるから」 兄「お前はいつも絶対、絶対、って言うけど、 世の中に絶対なんて、そうそう あるもんじゃないんだぞ」 弟「そうだね、でもいいんだよ、絶対は俺の中にあるから」 いいセリフでしょ? 俺の中の絶対。 これを見つけましょう。 そこにしか「あなたにとっての」楽しい人生は ありません。 どうすればいいかって? そんなのはずーっと言い続けてるじゃないですか。 見えないものを見る力(問う力や関連付ける力)を鍛える、 視点を増やす、視野を広げる、成功のリミッターを外す、 実力をつける、健康になる、エネルギーを効率的に使う、 自分の殻を破る、瞑想する、アウトプットするなどを やるだけです。 それが自分で出来ないなら、僕のセミナーを 受けましょう(笑) まあセミナーを受ける受けないはともかくとして、 メルマガを復習するだけでもある程度の効果は あるはずですので、ぜひ自分なりにいろいろと 思考錯誤してみてください。 その試行錯誤そのものが、「絶対」を見つけるための 大事な条件なのです。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
白鵬へのブーイングに学ぶスタイル論
「大相撲春場所の千秋楽で白鵬にブーイング」 こんなニュースをテレビで見かけました。 優勝を決める結びの一番で白鵬は日馬富士に勝ったのですが、 その立ち合いが横綱らしからぬ相撲だったことに対して 一部のファンからブーイングが飛んできた、とのこと。 会場からは「勝てればなんでもええんか!」という声が 上がっていたようです。 このニュースを見て、僕は身が引き締まる思いでした。 自分は理想の自分らしからぬ記事を書いていないだろうか、 理想の自分らしからぬ判断や行動をしていないだろうか、と。 横綱とは、相撲界における理想像でありリーダーです。 その横綱である白鵬は、相撲の理想を体現するという大きな 役目を背負っており、だからこそ「勝てれば何でもいい」 ワケではなく、誰もが理想とするような勝ち方をしなければ ならないワケです。 白鵬自身が言っていたように、彼ほどの実績があっても 優勝を逃がす(失敗する)回数が増えると余裕がなくなり、 優勝という報酬に目がくらむようになります。 上手くいっているときは誰しも余裕があるものですが、 上手くいかなくなってくると途端に自分を見失い、 自分らしからぬことをしてまで結果を求めるようになる。 まさにこの間までの自分を見ているようでした(苦笑)   『アウトサイダーの幸福論』という本にはこういう言葉が 載っています。 人間、落ち目になったり弱気になったりしたとき、 自分を戒めたり、反省したり、後悔したり、 自分を変えようとするが、これは絶対にやめた方がいい。 こういうときこそ信念を持って自分を貫くのだ。 いつか、きっとまた立ち直れる。 その時、自分を裏切らなかったこと、自分のスタイルを 崩さなかったことは大きな力となり、自信となる この言葉をそのまま白鵬に捧げたいと思うのは僕だけでは ないでしょう。 そして当然、われわれ自身にも捧げるべき言葉です。 この言葉が言うように、スタイルを崩さずにいることは 凄く大事なことなのですが、そもそもその守るべき スタイルを持っている人がどれだけいるのかというのが 疑問でもあります。 凡人とは、自分のスタイルを持たない人間です。 彼らは「社会」のインサイダーであり、社会が作った スタイルに合わせて生きています。 彼らが落ち目になったり弱気になったりしたときは、 社会のスタイルを変えようとするのではなく、 むしろ一層そのスタイルに自分を合わせようとします。 なぜなら、彼らは自分が落ち目になっている原因を 「自分が社会のスタイルに最適化されていないからだ」と 考えるからです。 就活をしている学生のほとんどはこの状態だと言って いいでしょう。 彼らが「どうすれば希望の会社に就職できるか」という 誤った問いを考え続けてしまうのは、まさに彼らが 希望の会社に最適化された人間になろうとしていることを 表しています。 この例における正しい問い、つまり自分のスタイルが 確立されている人が考える問いは 「どうすれば希望の会社に今の自分の価値を伝えることが できるか」 です。 前者は自分を変えることに視点が向いていますが、 後者は自分をどう表現するかというところに視点が 向いています。 要するに、前者は今の自分には価値がないという前提で 物事を考えているのに対して、後者は既にある価値を 最大化するという前提で物事を考えているワケです。   スタイルを崩すことは、自己否定を意味します。 白鵬の場合であれば、スタイルを崩すことによって 「私はもう横綱白鵬ではない」ということを(メタ的に) 語ってしまっているということです。 優勝という欲に駆られて、自分のアイデンティティを 捨ててしまったと言ってもいいでしょう。 彼ほどの人間でもそうなってしまうワケですから、 言わんやわれわれにおいてをや、ですよ。 スタイルとは、自分で自分に課すルール、言い換えれば ある種のハンデです。 白鵬は「横綱らしい相撲をとる」というハンデを背負って、 それを守っているから横綱であれる。 そんな風に考えれば分かりやすいと思います。 幕下や序の口の力士は、どんな相撲でも勝てばいいんです。 でも位が上がるにつれて、その位に相応しい相撲が、 美しい勝ち方が求められるようになっていきます。 逆に言うと、自分のスタイル(自分らしい勝ち方)を 確立していかないかぎり、その人はずっと初心者であり、 幕下であり、普通の人なのです。   どれだけ自分に厳しいハンデを課すことができるか。 どれだけ簡単なこと、楽なこと、誰でもできることに 流されずにいられるか。 どれだけ「迷ったらキツイ方を選ぶ」というルールに 従い続けられるか。 それが自分のスタイルを守ること、しいては自分の土俵で 横綱であり続けることに繋がっていきます。 何の実感もない段階でこれを読んでしまうと重く思える かもしれませんが、実際にその立場になってしまえば これがいかに楽しいことか、そして誇らしいことかは すぐに分かるはずです。 まあこればっかりはやらないと何も分からないと思うので、 普段から既にそういう立場になったつもりで思考・行動 してみてください。 そうすれば、気付いたときにはそういう立場になって ますから。 実感のご報告をお待ちしております(笑) ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック ...more»
死刑執行人という被害者
神戸市の女児殺害事件の裁判で被告人に死刑が宣告されました。 一般家庭の食卓では、この手のニュースがテレビで報道されると 遺族の気持ちを考えれば死刑は妥当な判決だとか、 残虐なことをしたんだから死刑は仕方ないだとか、 そういう議論とも言えない感情的な話ばかりが交わされる ワケですが、そんなつまらない話にうんざりしているであろう あなたのために、今回は少し違った視点を提供したいと 思います。 死刑の判決自体はこの国では珍しいことではなく、日本では 毎年数人から十数人程度の被告人が死刑に処されています。 当然ながら、彼らは自ら命を絶つのではなく、「誰か」が 彼らを刑に処する、つまり殺しているワケですが、 その「誰か」について思いを巡らせてみたことがある でしょうか? 誰でも想像できるように、どれだけ正当な理由があろうと、 真っ当で正常な人間が直接人を殺すことには尋常ではない 精神的負担がのしかかります。 自分が死刑執行人だったとしましょう。 周りがいくら「仕事なんだから仕方ない」と言おうが、 自分が人を殺した事実は変わらないし、自分の意識も そう簡単に変えることはできません。 仮にそれが機械によって行われるものだったとしても、 そこには必ずスイッチを入れる操作、ないしはその機械に 死刑囚をセットする存在が必要であり、その当事者となった 自分が死刑囚を殺すワケです。 死刑囚が死刑に処されることは、彼らが犯した罪の償いだから 仕方ないとしても、死刑を執行する側が、つまり何の罪もない 人間が多大な精神的負担を負ってまで死刑囚を殺さなければ ならないというのは、あまりにも理不尽だと思いませんか? 要するに僕が言いたいのは 「死刑囚に殺す価値はあるのか?」 ということなのです。   遺族の気持ちからすれば、犯人の死刑を望むことは 仕方のないことだと思います。 本当なら自分の手で殺してやりたい気持ちをグッと抑えて、 彼らはそれを法に委ねるワケです。 しかし委ねられた側は、犯人に対して基本的には何の憎悪も 怒りもありません。 遺族に共感して多少感情移入することはあるかもしれませんが、 それでも殺したいほどの感情を共有することは難しいでしょう。 そんな人が、単に「死刑になったから」という理由だけで 死刑囚を殺すことがどれだけ苦しいことかを考えたら、 死刑制度にそれに見合うだけの価値があるとは僕にはとても 思えないのです。 かといって、死刑囚に自殺することを強要したり、 餓死するまで牢屋に放置したりすることは、 それこそ彼らの最低限の人権すら無視することになり、 倫理的に議論の余地があります。 死刑囚を虫のように扱うことは、われわれの倫理観が、 人間らしさが失われてしまった証拠だと言えるでしょう。   僕が考えるかぎり、死刑のメリットは「死刑がないよりも、 死刑があった方が遺族の報復感情が満たされる」ということ のみです。 ここで考えるべきは、その報復感情は満たすべきものなのか、 そんなことをして誰が得をするのか、ということです。 遺族の報復感情を満たす代わりに、死刑を執行する人間が 多大な負担を負っているならば、それは遺族のマイナスが 他の人に移っただけで、実際には何のメリットもないのでは ないでしょうか。 遺族の人たちは犯人を死刑にすると同時に、何の罪もない、 死刑を執行する人間の精神をも死刑に処しているのではない でしょうか。 そう考えると、遺族は憎むべき死刑囚と同等の行為を、 死刑を通して無自覚に犯していると言えます。 それが本当に彼らや亡くなった家族の望むことなのか。 良くも悪くも冷静な傍観者であるわれわれが考えるべきは、 こういうことではないかと思うのです。   裁判員制度が裁判官の精神的負担を軽くするために 作られたものならば、それ以上に精神的負担が 大きいはずの死刑執行人も国民の中からランダムで 選ぶべきです。 自分が「人殺し」になる可能性があったとして、 それでも死刑制度に賛成する人がどれだけいるでしょう? われわれが死刑に無関心でいられるのは「自分は当事者 (遺族や死刑執行人)にならない」という暗黙の前提が あるからなのです。 現行の制度では死刑執行人にはならないかもしれませんが、 遺族になる可能性は常にあります。 自分の子供や親、兄弟、大切な人がある日突然誰かに 殺されてしまう可能性は絶対になくなりません。 だとすれば、そうなってしまったときのための心の準備は、 最低限しておくに越したことはないと思うのです。 「明日この子が殺されても後悔せず、発狂せず、 人生を台無しにせずに生きていくには、今何を考え、 何をすべきなのか」 今のような時代、親であれば、いや、親に限らず誰であれ、 これぐらいは考えておいてしかるべきでしょう。 しかし、われわれが分かっておかなければならないのは、 こんな「ごく普通にありえること」すらも想定せずに 自分とは関係ないと思って生きている能天気な人間が、 被告人の死刑を望み、死刑執行人の精神を殺している ということなのです。   児童を誘拐したり殺害したりする事件はあとを断ちません。 あとを断たないということは、自分も被害者になり得る ということです。 それを分かっていれば、誰だって少しは死刑について 真剣に考える気になるのではないでしょうか。 自分の身に起こりうること。 そういう「負の可能性」にもちゃんと目を向けて 生きていくことが、われわれの責任なのだと思います。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
気分と責任の関係
僕は気分を優先していると言いつつも、実際にはセミナーの 予定を立て、その予定をこなしています。 もしセミナーを予定していた日に気分が乗らなかったとしても、 僕は予定(お客さん)を優先してセミナーをやるでしょう。 これは人として、大人として最低限果たすべき責任です。 この発言は一見すると矛盾しているように見えるかも しれませんが、その表皮をめくってみれば、 今まで見えていなかった真実が明らかになります。 セミナーの予定を自分の気分で決めておきながらその予定を 当日の気分でキャンセルするというのは、自分で自分を裏切る ということです。 その日その日、その瞬間瞬間に移りゆくものが気分だと言えば たしかにその通りですが、気分はかなりの部分を自分で コントロールすることができます。 睡眠をしっかりとる、ジャンクなものばかり食べない、 部屋を掃除する、周りとの人間関係を良好にする、 自分がリラックスできることを適度に生活に取り入れる などによって気分を良い状態にもっていくことは 可能なワケです。(『Be Standard』を受講している場合は 「エネルギー」のことを思い出してください) たとすれば、過去の気分で立てた予定を当日の気分で キャンセルするのは、僕の単なる怠慢だと言えます。   僕は気分屋ではありますが、気分屋であるからこそ、 その気分にどうやって予定を合わせるかをいつも 考えています。 僕のような人間は、自分が望んだワケでもない、 自分の気分に合わない予定を周りに決められるのが すごくストレスです。 だから出版業やSEのような、自分ではない誰かが 締め切りを決める仕事は僕にはまったく向いてないし、 僕がその手の仕事を引き受けることは自殺行為であり 無責任でしかありません。 これは僕には「コントロールできない」僕の性質です。 僕の気分にはどう頑張っても調整できない周期があり、 こればっかりは本当にどうにもなりません。 いくら体調を整えても、栄養ドリンクを飲んでも、 ロッキーのテーマを流しても、スタバに行っても、 何をやっても変わらない。 「社会」はこれをわがままだとか自己管理ができていないと 受け止めるのでしょうが、真実はそうではなく、本人だって こんな周期的な気分は望んでいないし、無くせるものなら 無くしたいのです。   前回のヒントで出したように、気分というのは1つでは ありません。 (僕の)気分には、自分でなんとかなる気分と 自分ではどうにもならない気分があります。 地球の上で自動車をコントロールすることはできるけど、 地球の自転や重力をコントロールすることはできない。 そんな感じです。 前者を感情的気分、後者を人格的気分と呼ぶことに しましょう。 仕事への責任は、前者に対しては努力、後者に対しては 自覚という面で問われます。 感情的気分については「自己管理をがんばれ」としか 言えません。 この自己管理には「気分が乗らないときは働かない」、 「気分が乗らない仕事はやらない」ということも含まれます。 この「気分が乗らない」の「気分」は人格的気分です。 すなわち、人格的気分は自分ではどうしようもないワケ ですから、それに逆らって働くことはストレスになり、 感情的気分を害する(自己管理できていない)ことになる ワケです。 そう考えると、結局は人格的気分を自覚できているか否か、 人格的気分に沿った生き方をしているか否かが仕事に対する 責任感を表すことになります。 人格的気分を自覚せず、自覚していてもそれに逆らって 感情的気分を害しながら働くことは自己管理できていない ということであり、自分で自分を裏切っている ということであり、自分に対しても仕事に対しても、 そして世界に対しても無責任であるということなのです。   僕は人格的気分を自覚し、その性質に沿って仕事を選んで 働くことは、われわれの責任だと思います。 ただ誰もが僕と同じ性質(人格的気分に周期がある)とは 限りません。 僕の場合はたまたま人格的気分に周期があって、 それに合わせないと感情的気分が害されてしまうだけで、 世の中には3日ぐらい徹夜しても平気でいられる人や、 人から言われた締め切りをしっかり守れる人(他人に 締め切りを決めてもらった方が助かる人)もいます。 これは人格的気分を形成するタイプの違いです。 参考までに紹介しておくと、僕のように気分に 浮き沈みがあって周期がある人は感性タイプ、睡眠時間を 削っても意志の力でバリバリ仕事ができる人は意志タイプ、 感性でも意志でもないけど理屈で納得できればコツコツと 仕事ができる人を理性タイプと言います。 僕の友人に3日連続で徹夜しても気合いと栄養ドリンクで 仕事を続けられる典型的な意志タイプの人間がいますが、 僕には絶対に彼の真似はできないし、真似すべきでも ありません。 出来もしない仕事をやろうとする(引き受ける)のは 無責任ですよね? つまり感性タイプの僕が自分の性質を無視して意志タイプの 彼のように働こうとすることは無責任な行為なのです。 でも彼は彼で、僕みたいにマイペースに仕事をしては いけないし、すべきでもないし、そもそもできないと 思います。 こういった自分の人格的気分の性質を知ろうとしないこと、 知っているのに「社会」に合わせて無理をすること。 それこそが究極的な意味で無責任だと言えるでしょう。   昔っから言い続けていることですが、要は「自分を知り」、 自分の性質に合った仕事を選び、その合った生き方で 生きることがわれわれの最大の責任であり最大の価値でも あるのです。 これまでも「自分の価値を発揮せずに人生を終えることは 罪である」みたいなことを何度か言ってきましたが、 それは結局のところ無責任極まりないことだからです。 自分を知ろうとしない、知っていてもそれに合わせて 生きようとしない生き方は、多数派の生き方であり、 「社会」の常識です。 その意味で僕は、今のような残念な常識、その人の強みや 弱みを無視して働かせるという常識を作っておきながら 何の責任も負おうとしない「社会」こそが無責任の根源だと 思います。 本人の性質に合っていない仕事をやらせる「社会」も、 その「社会」の言うことを鵜呑みにしている凡人も、 どっちも無責任です。   われわれは自分のタイプに合った、自分の価値が 最大化される仕事や働き方を見つけなければなりません。 いや、むしろ生涯にわたって今の仕事に安住することなく、 より自分の価値が最大化される仕事を探し続けなければ ならない、と言った方が正しいですね。 どれだけ今の仕事を天職だと感じていたとしても、 それ以上の仕事が見つかる可能性は絶対になくならない ワケですから。 僕も現時点では今の仕事が一番向いていると思っていますが、 さらなる可能性を求めて、今年からは別の仕事にも挑戦して いこうと考えています。 自分で自分を決めつけてしまわないこと。 自分の可能性を模索し続けること。 これも脱凡人を志すわれわれの責任と言えるのでは ないでしょうか。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
正常と異常のコペルニクス的転回
ご存知のように、僕のメルマガやセミナーというのは、 僕の「気まぐれ」で行われています。 メルマガは書きたいことを書きたいときに書いているだけだし、 セミナーもやりたいことをやりたい時にしかやりません。 これは仕事に限ったことではなく、僕は誰かと居酒屋に 行ったときでも、お腹が空いていたら最初からお茶漬けとかを 頼んでしまうような人間です。 「はじめの一杯は生中で」みたいなのがどうしてもイヤで、 自分を押し殺して周りに合わせるのが苦手をはるかに超えて 苦痛で仕方がないのです。 こういう僕のような人間は一般に社会不適合者と呼ばれ、 場合によっては統合失調症などという病名で呼ばれることも あります。 空気を読むことができなかったり、周り(のルール)に 合わせることができなかったりすることは、程度の差こそあれ、 現代においては病気で、異常で、狂っているということです。 例えば、会社の上司に対して「今日は気分が乗らないので 欠勤します」なんてことを真顔で言おうものなら、 社会人失格だと言われると思います。 そこまでは言われなくとも、真っ当な社会人としては 見てもらえないだろうし、そんなことが続けばいずれは クビになるでしょう。 つまり一般には、気分が乗らなくても働くのが社会の常識 (守るべきルール)であり、正常な人ということになっている ワケです。   ところで、社会不適合者や統合失調症というのは、 「社会」が正しいということを前提にした言葉です。 「正しい社会」に適合できないから異常(病気)だ、と。 そう言っているワケですが、もし仮にこの前提となっている 「社会」が誤ったもの、正しくないものだったとしたら、 そんなものに適合している人間こそ異常だということにならない でしょうか? というか、何を根拠に多くの人は「社会」を正しいと思い込んで いるのでしょう? さっきの例で考えると、なぜ気分が乗らないのに働かないと いけないのか、というのが考えるべき問いになります。 この問いに納得のいく答えが出せる人はまずいないでしょう。 なんでって言われても・・・会社がそう決めてるんだから 仕方ないでしょ。 普通はそんな感じになると思います。 じゃあ、なぜ会社はそう決めているのか。 それは多分、 1.それが常識だから(そうしないと仕事が回らないから) 2.今までそうしてきたから 3.周りの会社もみんなそうやっているから の3つのうちどれかです。 仮にこれが正しかったとして、じゃあ自分の人間性(気分)を 否定してでもやらなきゃいけない仕事なんてこの世にあるの でしょうか? まあ「ある」って答えるんでしょうね、彼らは。 つまりわれわれの「社会」は人間性の否定を是としていて、 人間らしく生きることよりも仕事を優先する社会である、 ということなのです。   こういう人間性を否定する「社会」に適合することが正常で、 適合できないのが異常だとしたら、僕はずっと異常でいいし、 そんな「狂った正常」にはなりたくありません。 自分の気分や感性、閃き、衝動、そして実存を否定してまで、 僕は正常であろうとは思わない。 疲れてるのに休んじゃダメとか、気分が乗らないのに働けとか、 楽しくもないのに飲み会に強制参加とか、そんなんで生産性が 上がるワケないですよね。 価値を生み出すために人は働いているはずなのに、 「社会」が押しつけてくるのは価値を下げることばかり なのです。 そりゃ死にたくもなりますよ。 結果を出せなくさせている構造の中で「結果を出せ!」って 言われ続けてるんだから。 僕から言わせれば、そんな「社会」に適合して普通に生きて いられる人の方が頭がオカシイんじゃないかと思います。 こんなことを言ったら怒られそうだけど、真実なんだから 仕方がない。   今異常だと言われているもの、病気だと言われるものを改めて 考えてみてください。 その異常や病気は、そうでないものが正常や健康である前提で 定義されています。 認知症は本当に病気なのか、異常気象は本当に異常なのか、 より抽象化して 「その問題は本当に問題なのか」 を問う価値はおおいにあると思います。 われわれが問題だと思っていることは、それを問題として 認識していること自体が問題である可能性があるのです。 提起された問題そのものすらも疑ってかかること。 これが「異常な人」に求められる知的態度です。 ありがとうございました。   ※この記事はメルマガ『脱凡人のすすめ中級』からの転載です。 メルマガは僕の気まぐれで転載したりしなかったり、まちまちです。 セミナーやワークショップの情報はメルマガでお知らせしています。 今後配信される記事を確実に読みたい場合は、 下のボタンをクリックしてメルマガに登録しておいてください。 登録後は、ブログ未公開記事を含むバックナンバーが届くように なっています。 メルマガ登録はこちらをクリック   ...more»
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