ども、ペスです。

実は行動展を見に行く前に、こっちの企画展を見に行っていました。

タイトルを見て頂ければ分かるように、この企画展は画廊でも美術館でもない、
物静かな住宅街の一角にある大きな倉庫を借りて行われています。

雰囲気も薄気味悪ければ入口も薄暗く「これで人を集める気があるのか」と
思うほどアウェイな空気が漂った不思議な空間です。

アングラという言葉が死語でないなら、まさしくそんな感じ。

中に入ると、顔も見えないぐらい暗いところに受付の人が座っており、
そこでチケットを購入して中に入ります。

当然、中には作品が並んでいるワケですが、各作品については特に僕から
言えることはありません。

どれも面白いと言えば面白いし、ガラクタだと言えばガラクタ。

現代美術とはそういうものです。

それよりも僕がここで触れたいのは、この場所についてです。

 

通常われわれは、美術作品を画廊もしくは美術館という整った環境の中で見ます。

空調や照明が快適に設定されており、鑑賞を邪魔するものは何もない。

そういう見せ方がベストというか、作品への影響が最も少ないという意味で、
そうした環境に設定されていることがほとんどなワケですが、そこにはやや疑問を
感じます。

例えばジャクソン・ポロックやアンディー・ウォーホルの絵は、
美術館や画廊というよりも、どちらかと言えばコンクリート打ちっぱなしの場所や
街中の看板があるようなところに展示するのが一番しっくりきます。

それはそれらの作品に落書きや広告のようなイメージがあるからですが、
そういう意味では現代美術はむしろ美術館や画廊に似つかわしくない作品の方が
多いのではないでしょうか。

以前国立国際美術館で見たLEGOで出来た作品や奈良美智の作品も、
美術館に展示されていることに対して、かなり違和感があります。

あれらの作品は物静かな場所で見るよりも、もっと雑然とした街の景色の中に
置かれている方が自然なのではないか。

そう思えるのです。

 

資本主義的価値や文化的価値によって美術作品が管理されている以上、
その点を無視して作品が汚れたり傷ついたりする可能性のある場所に
置けないのは分かります。

それが間違っていると言うつもりはないし、その事情を無視すべきだと
言うつもりもありません。

ただ、場所を変えることによって作品の価値が花開くこともある、ということは
言わせて下さい。

場所によって価値が左右されない作品を生み出すことが第一だとしても、
その作品が「似合う場所」というのは必ずあります。

それは人間も同じで、学力や偏差値のような客観的な能力とは別に、
特定の場所でしか発揮されない能力というのがあるのです。

その可能性を無視して作品それだけを、人間それだけを評価することは、
大きな問題を孕んでいるように思えます。

然るべき場所に、然るべき作品・然るべき人を置くこと。

あらゆる意味で、今はこういった能力が求められているのではないでしょうか。

 

そういえば今回の展覧会でも倉庫に「似合う」作品がいくつかありました。

それは「お前には倉庫がお似合いだよ」という見下した意味では無く、
純粋に倉庫という雰囲気にぴったり合う作品があったのです。

その作品は美術館の明るい照明に照らされても、恐らく本来の良さを
発揮できません。

美術館に作品が収蔵されることは作家として名誉だとしても、
美術館に展示されることが作品にとって喜ばしいことかどうかは、また別の話です。

結婚式にジャージで出席するのがオカシイように、美術館に空き缶や軍手や
角材や石が転がっているのはどこかオカシイ。

この素朴な感覚を大事にしたいですね。