ども、ペスです。

いよいよ(?)名前論も最後の回となりました。

ダラダラと無駄に長い前置きを書いてやろうかと
思ったのですが、まったく面白い文章が思い浮かばないので、
さっさと本編に入っちゃいます。

えー、予告通り、今回は前回書いた素朴な疑問の前者を
考えていきます。

その疑問というのは

世の中には「ジョン」という名前の人間が複数いるにも関わらず、
僕らはどうやってそれらを使い分けているのでしょうか?


僕のハンドルネームは【ペス】ですが、リップスライムにも
ペスという人がいるし、ネット上には僕以外にもハンドルネーム
としてペスを名乗っている人はたくさんいます。

にも拘らず、このブログを読んでいるあなたは意識するまでもなく
【ペス】が僕を指すことを知っている。

これは一体なぜなんでしょう?

というもの。

もはや当たり前過ぎて考える気にすらならないかもしれませんが、
こんな高度なことを当たり前に出来る凄さというのを今一度
確認してみて欲しいんです。

だってよく考えてみて下さい。

コンピュータにこれと同じことをさせようと思ったら、
どれだけプログラムが複雑になることか。

顔写真とか声とか指紋とか特定の情報があればコンピュータも
一瞬で個人を判別できますが、ある文章に書かれている「ペス」が
どこの「ペス」なのかを判別するのは、僕らが思っている以上に
複雑な処理を必要とします。

例えば、「ジェフ」と呼ばれたら動く、ある賢いロボットが
複数台いたとします。

少し前に流行った(?)アイボとかがそーゆーやつですが、
この手のロボットは「ジェフ」という名前には反応できても
その「ジェフ」が自分に言われているのか自分以外に
言われているのかが判断できません。

もしかしたら顔の向きで判断できる更に賢いロボットも
いるのかもしれませんが、それでも後ろ向きで「ジェフ」と
呼ばれれば、自分のことかどうかは分からない。

つまり、そのロボット達は前後の会話の流れ等から
「ジェフ」という名前に対する文脈を読むことが
出来ないのです。

これが人間であれば、さっき発した「ジェフ」と
今発した「ジェフ」が違うということを当たり前のように
区別することが出来ます。

(もちろん人間も時には間違います)

要するに、そんな複雑な処理を僕らはどうやって当たり前に
行っているのか、ということをここでは考えていきたいワケです。

ではまず、一休さんの話を例に考えてみましょう。

「このはし、わたるべからず」

一休さんはこの張り紙を見て橋の真ん中を堂々と渡った、
という話は有名だと思いますが、ここに今回の疑問を
考える大切なヒントが隠されています。

ご存知のように、日本語で【はし】と言えば、
【橋】と【箸】と【端】の3つが代表的です。

しかしながら、この3つは発音では区別されません。

つまり、漢字で表されていなければ、文脈からしか
意味を捉えることが出来ない、ということです。

「【はし】でご飯を食べる」

と書かれていれば、文脈上この【はし】は【箸】
だということが分かりそうに思いますが、
果たしてそれは本当に【箸】なんでしょうか?

例えば教室の端でご飯を食べるのが好きな人がいて
その人が【端】でご飯を食べている、なんてことも
ありえない話ではないですよね?

はたまた【橋】(の上)でご飯を食べている人も
いないとは言い切れない。

むしろ「【箸】でご飯を食べる」なんていう
自明なことをわざわざ言葉に出す人が現実にいるのか、
という逆説的なことも考えられます。

ということは「【はし】でご飯を食べる」という文章だけでは
その【はし】が何を示すのか文脈が十分に読み取れない、
ということです。

じゃあ、そもそも文脈とは何なのか。

それは、発言者(発信者)の【イマ・ココ】である、
と僕は考えています。

【イマ・ココ】とは、この言葉の通り「その時その場所」
という意味です。

これは別に難しいことを言っているワケではありません。

僕が言っているのはめちゃくちゃ当たり前のことで
「【はし】でご飯を食べる」という文脈は
「【はし】でご飯を食べる」と言った本人が
置かれた状況、その時その場所によってしか判断出来ない、
ってことを言っているだけです。

本人は「いつ」「どこで」「何を考えて」それを言ったのか。

それによって【はし】は【端】にも【箸】にも【箸】にも
成り得るし、【ペス】は僕にも僕以外にも成り得ます。

ってことはですよ?

【はし】1つ判断するのにも、その発言者の【イマ・ココ】、
つまり心理や歴史(背景)、環境、時間、そういった目に見えない
数多くの情報を処理しないといけないワケです。

そこには時系列的な前後の関係性も関わってくるし、
その場にいる人との関係性、その人の自己内における関係性、
という複雑な情報も関わってきます。

これを俗に【察する】というワケですが、これがどれだけ
凄いことなのかは、最初に出した例を参考に考えてみて
下さいませ。

さて。

今頃は、なんだか分かったような分からないような
変な気持ちでいることと思います。

急に【イマ・ココ】なんていう変な言葉を持ち出されも
ワケが分からないだろうし、そもそもこの記事自体が
何を言いたいのか分からない、という非常事態も
起こっていることでしょう(笑)

まあそれも無理はありません。

存在論と関係性、正確にはハイデガーとソシュールと
ベイトソンとギブソンの議論を絡めて話しているんだから
そうなるのも当然のことです。

ご心配なさらずに(笑)

ただ、1つだけちゃんと分かっておいて欲しいのは
僕らが当たり前に使っている名前1つ取っても、
背景はこれだけ複雑に入り組んでいるんだということです。

単純で自明に見えるものほど、実際は酷く疑わしく、
複雑で難解に見えるものほど、実際は一義的で
なんでもないことだったりするのです。

「【当たり前】とは何か」

もし時間があれば、そんなことを考えてみるのも
面白いかもしれません。

長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。

また次も読んでね。

ではでは。

追伸

書いてから気付きましたが、今回はほとんど
「名前」について触れてませんでしたね(苦笑)

ま、たまにはそーゆーこともあります。

気にしない気にしない、一休み一休み。(おい・笑)