今回は物理的にちょっと時間が取れないので
いつもより若干短めの記事になります。

・・・の予定だったのですが、書いてみたら
案外長くなりました。

やっぱりなんだかんだでこれぐらいの量が
一番自分の中でシックリくるみたいです。

ただいつものように前振りを考えている暇はないので(笑)
いきなり本題に入ります。

僕の記事によく登場するエマーソン。

その彼が自身の著書にこんなことを書いています。


人は、その人自身でしかありえない。


その人を語るのは、意志よりも人格だ。

ところが人々は、目に見える行為だけが自分の美徳や不徳を
伝えるものと考え、一瞬の息づかいにも、自分の美徳や不徳が
現れていることに気付かない。

ばらばらに見える行為も、自然に正直に行われたものなら、
なんらかの共通点を持っているものだ。

同じ意志から出た行動なら、ぱっと見にはそう見えなくても、
そこには必ず調和がある。

少し距離をおいて、やや高い視点から眺めれば、
細かな違いは見えなくなる。

ひとつの共通点によって、すべてが統合されるのだ。

どんな立派な船も、無数の方向転換を繰り返しながら進んでいく。

蛇行しているように見えても、ある程度の距離から眺めれば、
実はひとつの方向に向かってまっすぐに進んでいることがわかる。

それと同じように、もし誠実に行動するなら、
それがその行為はもちろん、あなたが行う
すべての誠実な行為を説明してくれるだろう。

世間に迎合していては、どんな行動も説明できない。

自分の道を行くのだ。

そうすれば過去の行為が、いまの自分を正当化してくれる。

偉大な行為は未来にはたらきかける。

私がいま、世間の目を気にすることなく、自分が正しいと
思ったことを実行できるとすれば、それはいまの自分を
正当化してくれるような正しい行為を、過去に行っていたからに
違いない。

こうなりたいと思う自分にいま、なるのだ。

いま行動せよ。

どんな時も人目を気にしないように努めれば、
常にそうできるようになる。

(ラルフ・ウォルドー・エマソン「自己信頼」より)

彼は要するに「自分を信頼して我が道を突き進め」ということを
ひたすら語っているワケですが、これを単純に「好き勝手やれ」とか
「自己中でいいんだ」などと同じ意味で捉えてはいけません。

「自分を信頼する」とは、そんな短絡的なものではないのです。

まず信頼という言葉を考えるとき、そこには少なくとも
「知る」「理解する」「好意的である」などの要素が
絡んできます。

知らない人を信頼することは出来ないし、理解出来ない人を
信頼することも出来ない。

そして上記2つを満たしたとしても、その人のことが
好きじゃなければ信頼というものは生まれません。

つまり、自分を知り、自分を理解し、自分を好きであることが
【自己信頼】だということです。

その状態になれて初めて、人間は自分を信頼することができ、
自らの進むべき道が見えてくる。

だから「一度信頼したら、断固としてその道を進め」と
エマーソンは言っているワケです。

じゃあどうやったらエマーソンの言う【自己信頼】の状態に
達することが出来るのか。

僕はそのヒントが【自己懐疑】にあると思っています。

【自己懐疑】とは言葉通り「自分を疑うこと」です。

自分の行動は本当に正しいか。

自分は今のままでいいのか。

自分は自分を裏切ってはいないか。

自分が真実だと思っていることは本当に真実なのか。

この繰り返しが【自己信頼】を生み出すのではないか、と。

やったことがある人は分かると思いますが、【自己懐疑】というのは
一度やり始めるとキリがないんですね。

考えれば考えるほど自分の行動は正しくない気がしてくるし、
一歩を踏み出そうとする度に毎回戸惑いが生じる。

これをやり続けると最終的には、自分は何もしない方が
いいんじゃないか、みたいな気分になってきます。

でも、その捉えようのない不安を常に抱えておくことが
僕は大事だと思うのです。

僕らは普段「自分の行動は本当に正しいか?」なんてことを
考えることはほとんどありません。

仕事では当然の義務としてよくあることかもしれませんが、
パソコンを開く前に「今オレは本当にパソコンを開くべきなのか?」、
youtubeを見る前に「今オレは本当にyoutubeを見るべきなのか?」
なんて普通は考えないですよね?

それはその行動が習慣に支配されているからです。

習慣というのは

「なんとなく考えることなくやってしまうこと」

を指しますから、考えずにやってしまう行動はすべて
習慣に支配されていると言ってもいいでしょう。

そしてその習慣は主に「環境」から作り出されます。

「環境」というのは、家族や会社や友人など
自分の周りにいる人間のことだと思って下さい。

家族内でいつもやっていること、友人同士でいつもやっていること、
会社で毎日やっていること、それが環境であり、そこから習慣が
生まれてくるのです。

更に更に、その環境である人たちも、その人たちの周りの
環境から影響を受けています。

彼らも彼らの友人や家族や会社から影響を受け、
習慣に支配された毎日をすごしているのです。

更に更に更に・・・エンドレス。

さあ、これがどういうことか分かるでしょうか?

要は、普通に生活している人のほとんどは何も考えずに
周りと同じ行動を(無意識に)習慣的に行っている、
つまり「大衆に迎合している」ってことです。

先程書いたエマーソンの言葉を読み返してみて下さい。

世間に迎合していては、どんな行動も説明できない

って書いてありますよね?

行動が説明できないのは、自らの意志で選んだ行動では
ないから(習慣的に行ったことだから)です。

果たしてこれが【自己信頼】と言えるのでしょうか?

自己信頼とは、自分を知り、自分を理解し、自分を好きであること
だと書きました。

ってことは

「自分の行動が説明できない」 = 「自己信頼ではない」

ってことです。

だってこの定義で言うなら、自分を説明できてこそ
(自分を理解してこそ)【自己信頼】だということに
なりますから。

すなわち。

【自己懐疑】ではなく、環境によって作られた習慣は
「なんとなく」という説明できない無意識的な行動を生み出し、
その結果われわれは知らず知らずのうちに大衆に迎合して
【自己信頼】を減退させてしまっている、ということです。

デカルトは【自己懐疑】の繰り返しによって

「我思う、ゆえに我あり」

(自己信頼)の境地に到達できた人間の代表だと
僕は思っていますが、彼が生きた時代も現代のように
不安だらけの時代でした。

もちろん不安の種類は今とは違いますが、それでも
答えを求めて彷徨っていた、という点では
現代人となんら変わらないような気がします。

彼の考えた「我思う、ゆえに我あり」が正しいのかどうかは
僕には分かりません。

でも、デカルトの中ではそれが唯一信頼できる答え、
つまり【自己信頼】だったと思うのです。

だとしたら、少なくとも今の僕らにできるのは
デカルトの真似をしてみることではないでしょうか?

自分を疑って疑って疑い抜いて、そこから少しずつ見つかる
【自己信頼】の断片を拾い集めることではないでしょうか?

そんなことを思った、今日この頃です。

ではでは。