今回は「関心」について日常的な話を交えつつ人生に関する
深い話をしていければなぁ、なんて思ってます。

誰も疑問に思わないことにこそ疑問を持つ価値がある

これは僕の信念の1つですが、今回の記事を読めば
この意味がよく分かってもらえると思います。

僕らは普段、毎日毎瞬間、何かに関心を示しつつも
その他の対象には無関心に生活をしています。

例えば、道端で猫を見つけて可愛いと思うこと。

これはその猫に関心があるから可愛いと思うワケです、
当たり前ですけど。

無関心なら猫を見つけても何も思いません。

思ったとしても、せいぜい「あ、猫だ」程度でしょう。

ダイヤモンドを見て心ときめくのも、関心があるから
そうなるワケで、ダイヤモンドに無関心な人からすれば
天下のダイヤモンドもただの光る石。

何百カラットのダイヤモンドを見たところで

「キレイだねー(棒読み)・・・」

みたいなにしか思わない人もたくさんいるワケです。

このように、何に関心を示し何に無関心かは
人それぞれですが、僕らは常にこのどちらかの
意識で生活しています。

じゃあどういう時に人は関心を持つのか。

これはあっさり答えを言ってしまいますが、

「感情が動いたとき」

です。

感情さえ動けばそれが怒りだろうが悲しみだろうが
好意だろうが嫌悪だろうが全て関心に繋がります。

関心とは「関る」「心」と書きますが、要は心(感情)が
何かに関れば、それが関心だということです。

逆に無関心とは何も感情が動かないこと。

道に転がっている石に無関心なのは、
その石を見ても何も感情が動かないからです。

普通、道行く見知らぬ人には無関心だと思いますが、
いくら見知らぬ人だとは言え、無言であんパンを
投げつけられたら腹が立ちますよね?
(どんなシチュエーションなんだ・笑)

それはあんパンを投げられたときに自分の感情が
「怒り」となって相手に関心が湧いたからです。

その人に対して完全に無関心なら、相手が何をしようが
「何か当たったような気がするけど、ま、いっか」
みたいに文字通りスルーするはずですから。

ただ普通に考えて、あんパンを投げてきて謝らない相手に
無関心で有り続けるのは難しい。
(だってあんパンなんだもの)

これは相手と自分が直接、物理的に「関わった」からです。

もしそのあんパンを投げつけられた相手が自分ではなく
見知らぬ他人だったら関心が湧かなかったかもしれません。

だって自分とは何の関係もない他人のことですから。

しかしながら「あ、あんパンだ!?」や「何があったんだろ?」
みたいな感情を抱けば、それは直接関わりがなくても関心を
持ったことになります。

つまり

関心の有無は感情が動くかどうかで決まり、
人は通常、自分と直接的に関わる事柄について
無関心ではいられない

ということです。

僕らは関心のあるものと無関心なものとに囲まれて
生活しています。

ですが、僕らは通常、自分と直接関りのないものに対しては
ほぼ無関心ですから、世界のほとんどに対しては無関心に
生活していることになります。

自分の昼ご飯には関心があっても、他の国の人々が
どんなものを食べているのかはさほど気にもならないし、
彼らが何を食べていようが直接自分に影響することはない。

だから多くのことに無関心でいられるし、普通はそんなことを
わざわざ考えようともしないワケです。

要は、僕らは世界の99%に対して無関心である、
ってことです。

でもこれは普通に考えれば当たり前の話なんですね。

街ですれ違う人に対して全員にいちいち何かしらの感情を
持ったりはしないし、目に入るもの全てに喜怒哀楽の感情を
抱いたりはしませんから。

だた、ちょっとだけ考えてみて下さい。

もしこの無関心の母数を減らして関心の母数を少しでも
増やせるとしたら、僕らの生活はどうなるかを。

今まで無関心だったことに対して関心を持つワケですから
当然、嫌な気持ちになることや悲しい気持ちになることも
増えるでしょう。

ですが。

それは逆に言えば、それだけ楽しい気持ちや嬉しい気持ちに
なることも増えるということなのです。

ポイ捨てされたゴミに関心を持てば、街中のゴミが
目に付くようになって今まで以上に嫌な気持ちになる機会も
増えるかもしれません。

しかし、その分だけ綺麗な景色を見たときの感動は
巨大なものとなります。

ゴミに関心を持てば持つほど、普通の人が感じられないレベルで、
ポイ捨てに嫌悪し、自然に感動できるようになるのです。

人間に関心を持てば、醜い人間で溢れたこの世界を恨み、
破壊したくなるかもしれません。

ですが、その分だけ人間の優しさや尊さを敏感に
感じることが出来るようになるのです。

日常の何でもない親切に感動できるようになるのです。

世界に関心を持てば、世界の不条理に絶望するかもしれません。

しかし同時に、世界の持つ可能性に希望を感じることが
できるようになるのです。

かつて哲学者キルケゴールは言いました。

誰もが絶望を抱えているにも関わらず、
それに気付いてさえいない人間がいる。

彼らこそが本当の意味で「絶望」しているのだ、と。

世界に関心を持つというのは、思っているほど
簡単なことではありません。

そもそも世界が何なのかさえ知らない人がほとんどですから
これは当然と言えば当然。

ですが、僕の個人的な意見としては、世界を知らずして
自分が何なのかを知ろうなんていう辺りが僕は都合が
良過ぎると思うんですね。

だって『アナタがいるから私がいる』で書いたように、
自分は自分以外(世界)によって成り立っているんだから
それを知らずして自分は見えてこないだろう、と。

つまり僕らから言わせれば、世界に無関心ということは
自分にも無関心だということなんです。

そりゃ「絶望」もしますよね。

だったら、ちゃんと自分の絶望や世界の絶望を見つめて、
それを受け入れていこうじゃないか、と。

それこそが人生を楽しくする方法なんじゃないか、と。

そう思うワケです。

もちろんこれが正しいとは限らないし、僕が勝手に
そう思っているだけですから、好きなように捉えて
くれればいいと思います。

ただ、僕は今のところこれ以上の方法は知りません。

ま、気が向いたらどうぞ。

ではでは。