今回はちょっと変な方向に話を進めてみます。

タイトルを読んでもらえればお分かりのように
今までと雰囲気が違いますよね?

スピリチュアルっぽいというか、なんというか・・・。

一般に女性に好かれそうなタイトル(笑)

一見するとそんな感じなんですが、僕の書く文章が
そんなものになるはずもなく(笑)メインの内容は
社会心理学的な話になります。

残念(笑)

僕も決してあっち系が嫌いなワケじゃないんですけどねー。

スピリチュアルとかオカルトとか錬金術とかって
深く勉強すると実は結構面白いんで。

ただ、現段階ではまだ触れられない、というのが
僕の立場です。

なので、そのうちそーゆー話も出てくるかもしれません。

さてさて。

今回の話はジョージ・ハーバード・ミードって人の
【I】と【Me】という概念がメインになります。

ってかそれしか書きません(笑)

【I】と【Me】については後で詳しく説明しますが、
要は「自分って何なの?」みたいな話です。

現在、【やりたいことが分からない】という悩みと
ほぼ同じぐらい多くの人が悩んでいることに

【自分が何なのかが分からない】

というのがあります。

「自分探しの旅」や「自分探し病」などの言葉に
代表されるように、みんな何かしら自分というモノを
見つけようとしている。

これにも相対主義が影響しているのはもはや言うまでも
ありませんが、そんなことを知っている人は
迷わないワケで、知らないからみんな右往左往して
しまっているワケです。

今から紹介するミードが相対主義に対する問題意識を
持っていたかどうかは僕が不勉強なせいで分かりません。

でも、彼の思想は僕に相対主義「解明」の大きなヒントを
与えてくれました。

(あくまでも「解明」であって「解決」ではない)

彼が提唱した概念で有名なのは、上に書きましたが
【I】と【Me】という概念です。

【I】とは個人的自己のことを指します。

これは何ていうか「これが自分だ!」みたいな
自分像みたいなものです。

アイデンティティと言えば伝わるかな。

【Me】とは社会的自己、つまり自我のこと。

これは周りから見た自分、もしくは、周りに
見せている自分がそれです。

客観的自己と言い換えてもいいかもしれません。

通常、この個人的自己と社会的自己は個別に存在すると
考えられています。

特に日本人は「本音と建て前」という言葉があるように、
個人的自己は内に秘め、社会的自己を外に出す、
というのが通例、というか文化です。

つまり【I】と【Me】は完全な別物として捉えられている。

しかしミードが言ったのは、これとは発想が違うんですね。

彼が【I】と【Me】の概念の中で言っているのは

【Me】から【I】が形成され、その【I】がまた【Me】に
反映される、という循環の繰り返しで【私】は作られて
いるんだ

と。

より簡単に言えば、

【見られる自分】がいなければ【見る自分】は存在しないし、
【見る自分】と【見られる自分】は相互に影響を与えながら
【私】を作り出している

ということです。

全然簡単になってなかったらごめんなさい(苦笑)

ところで。

「人間は一人じゃ生きていけない」

なんてことが巷ではよくささやかれたりしていますが、
これの意味って分かります?

あ、いや、これは別にバカにしてるんじゃなくって
純粋に聞いてます。

これって、よく言われるのは
「必ず誰かの作った道具を使ってるから」とか
「完全な自給自足は不可能だから」みたいな
物理的な問題だけですよね。

確かにその答えも間違いじゃないと思うんですが、
今回のミードの考え方を踏まえれば、それが本質的な
答えではないことがよく分かると思います。

人間が一人で生きていけないのは

「何かしらの物理的な問題が生じるから」

ではありません。

【アナタ】がいなければ、そもそも【私】が
存在し得ないからなのです。

つまり

【私(個人的自己)】には【アナタ】が必要

なのです。

【人間】って本当によく出来た言葉だなー、と
僕は最近になってようやく気が付いたんですけど、
なんで【人間】は「人」の「間」って書くんだと
思います?

【人の間】ってことは、最低でも2人以上の「人」が
必要だってことなんですよ。

つまり、「アナタ」と「私」が必要なんです、
【人間】であるためには。

しかも【間】ってことは、そこには関係性がないといけない。

それは親子かもしれないし親戚かもしれないし
師弟かもしれないし友人関係かもしれない。

とにかく何でもいいから2人以上の人が存在し、
そこに何かしらの関係性が存在しないと
人は【人間】でいられない、ってことなんです。

仮にその場に2人の人がいたとしても、その2人の関係が
完全な他人であれば【間】に何も存在しません。

だって「他人」っていうのは関係じゃないですからね。

自分とは何の関係もない人を「他人」って呼ぶワケですから
そこに何か関係があればこの言葉自体が矛盾してしまいます。

要は、【アナタ】は他人ではダメだ、ってことです。

少なくとも「道を聞いてきた人」とか「ハンカチを
拾ってくれた人」とかそーゆー関係がないと
【アナタ】にはなり得ないのです。

ここまで話せば、なんとなく

【アナタ】がいるから【私】がいる

っていうのは分かってもらえました?

そこで。

この話を発展させるために、また相対主義の話を
思い出してみましょう。

もう聞き飽きたと思いますが、相対主義は他者に無関心な人を
生み出し、「アナタはアナタ、私は私」という価値観を
われわれに植え付けました。

そこから導き出されるのは、他者との関係を失った孤独な【私】。

誰からも邪魔されず自由である反面、誰からも関心(関係)を
持ってもらえない孤独な存在が現代の【私】です。

ってことは、現代の【私】は段々と【見られる自分】を
作る機会が減ってきているワケですよ。

だって関心(関係)のない相手に対して「見られること」を
意識する必要はないですからね。

職場ではテキトーな服装だけど恋人に会うときは
特別な服を着る、なんていうのはその典型。

同様に、電車の中で化粧ができちゃうのも「周りから見られる」
という周りへの関心(関係)を失ってしまっているからです。

そこには【見られる自分(Me)】が存在しない。

つまり、電車の中で化粧をしている【私】は
誰でもない【私】なのです。

(それは【人間】ではなく【人】なのです)

伝わったかなー・・・(苦笑)

これが分かれば、なぜ自分を探す人が増えているのか、
という疑問も簡単に理解することが出来ます。

一言で言えば、それは

みんながみんなに関心(関係)を持たなくなったから

です。

より大きく言うと、相対主義という悪魔によって
われわれの関係性が希薄になってしまったから。

【人間】が【人】になろうとしているからなのです。


【アナタ】がいるから【私】がいる


何度も書いてますが、今回の話はホントにこれだけです。

自分という存在は他者との関係によって保証されている。

これは今の時代の重要なキーワードなので
忘れないで欲しいと思います。

ではでは。