今日はいよいよ理性的権威についての話に入っていきます。

いよいよとか言いながら楽しみにされたなかったら
ちょっと悲しいけど(苦笑)

まあそれはともかく。

ここから話は急展開するので振り落とされないように
ご注意を(笑)

僕は前回の【民主主義国家の末路】で理性的権威が
相対主義の世界を救う(?)ためのキーワードだと言いました。

「救う」なんて言っちゃうとやや大袈裟な感がありますが、
それでも日本における人間関係や文化が徐々に
崩壊しつつあるのは恐らく誰もが感じているでしょうし、
自殺者や殺人鬼が増加の一途を辿っているのは
否定できない事実です。

それをなんとか出来ないか、と考えたら
やっぱり理性的権威溢れる世界を
作っていくことしかないよなー、と僕は思ったんですね。

もちろんこれはただの理想論ではありません。

以前のベーシックインカム関連の記事を読んで頂ければ
分かると思いますが、僕は基本的に理想論は嫌いです。

嫌いというか、避けている、と言った方が正しいかもしれません。

理想を語るのは楽しいですし、理想を目指すのは
大切なことだとは思うのですが、多くの場合は
理想を理想論のまま終わらしてしまう、という過ちを
犯しがちです。

これは言い換えれば、理想は机上の空論で終わっちゃうことが
往々にしてあるということを指します。

机上の空論で終わっちゃ意味ないんですよ、
少なくとも僕にとっては。

そして多くの哲学が勘違いされているのも
実はこの点なのです。

この点とは

「哲学の議論は現実と乖離していて実際には何の役にも立たない」

という偏見のこと。

つまり

「哲学って理想論をひたすら議論してるだけじゃないの?」

と。

これは大きな間違いです。

理想論と哲学は全然違います。

なぜなら理想論は理想を拡大させるだけの論なのに対して、
哲学は理想を現実に近付ける試みだからです。

だから「幸せとは何か」とか「自由とは何か」とか
一見無駄としか思えないことを一生懸命考えたりするワケです。

ただその一生懸命さゆえに、使っている用語や
話している内容が厳密になり過ぎ、現実世界と
乖離しているように見えてしまうのが哲学なのです。

そこを勘違いしている人があまりに多いような気がして
なりません。

哲学者が「人生とは?」と問うのは、
人生をより有意義に生きたいと思っているからです。

そして何より「全ての人の人生を有意義にしたい!」
そう思って彼らは無駄に見えるようなことを
毎日考えて続けているのです。

これだけは是非、覚えておいて欲しいと思います。

さあ、ここからがやっと本題です。

まずは話を戻しましょう。

僕が理性的権威をキーワードに置いたのは
それを駆使すれば相対主義の世界でも「ある意味で」
絶対的な【善】を定義できると思っているからです。

相対主義の世界では、みんながバラバラの価値観を持ち、
1つの絶対的な「善」や「悪」なるものは存在しません。

もちろんそれ以前の世界でも事実上絶対的な「善」というのは
存在しなかったのですが、理念の上では存在していました。

それが「神」であり「理性」であったワケです。

中世ルネッサンス期までは「神」は絶対に善であり、
神が意図することは全て善なのだ、という前提がありました。

また近代においては「理性」こそが絶対の善であり、
「理」つまり論理や科学を追及していくことが
人々の幸せに繋がる、すなわち「善」だと思われて
いたのです。

しかし文明が進歩するにつれて、神も理性も絶対ではない、
ということを人は知ってしまった。

存在するかどうかも分からない神。

自分さえも欺く理性。

どっちも信用できねーよ、と。

そして「結局信じれられるのは自分しかいないんじゃないの?」
という思いから相対主義が生まれたのです。

通常、相対主義における善は各々の道徳・倫理に依存します。

これは「自分が善だと思ったらそれが善」ということです。

極端な話、その人が善だと思っているなら、
人を殺しまくったとしても
それが善だということになります。

実際そーゆー事件がたくさん起こってますよね。

「ムカついたから殺した」みたいな。

普通の感覚を持つ人からしたら

「いやいや、ムカついたって何よ」

という話になるワケですが、そーゆー常識からも
ある意味解放されてしまったのが現代人なワケです。

これが相対主義の世界。

ここであなたが

「さすがにこのままはじゃマズいんじゃないの?」

という感覚を持ってくれたら僕の思惑通りです(笑)

じゃあどうやったらバラバラになっている危険な【善】を
まともな【善】に統一していけるでしょうか?

そこで登場するのが、理性的権威です。

やっと出ました。

前置きが長い!というツッコミはスルーしつつ話を進めます。

理性的権威の根源は尊敬や感謝だというのは
再三説明している通りです。

前回の記事ではイチローのボール拾いなら誰もが
喜んで引き受ける、という例を出しましたが、
もしイチロー的な人が身近に溢れていたとしたらどうでしょう?

例えがイチローだとちょっと分かり難いかな。

もうちょい抽象的に、自分の尊敬する人が身の周りに
溢れていたとしたら・・・というのを考えてみて下さい。

人によって尊敬出来る人はそれぞれだと思いますが、
尊敬している人に囲まれてイヤな人はまずいないと
思います。

むしろ自分の尊敬する人に囲まれるなんて、
なんかウキウキしません?

もちろん自分は周りの人を尊敬しているワケですから
周りの人は何かしら自分に対して嬉しいことを
してくれる人であったり、自分のために注意や指導を
してくれる人だということです。

ちょっと恐いけど、何が壊れても
いつも余裕で修理しちゃう父。

自分の知らないことをたくさん教えてくれる祖父。

何を作っても美味しい祖母。

誰よりも深い愛を与えてくれる母。

誰もが尊敬でき、感謝の気持ちが絶えない状態。

これが理性的権威が溢れている状態です。

「誰もが尊敬でき、誰に何を言われても喜んで引き受ける状態」
と言ってもいいかもしれません。

ただ、

「そんなの理想の世界だよ」

と思いませんでした?

確かにこれだけならただの理想です。

「こうなればいいなー」で終わっちゃえば、の話ですが。

つまり終わらないってことなんですけどね。

そこでまず手始めに、理性的権威をどう使って
統一した【善】を作り出していくのかを説明していきます。

ホントは「統一」というとやや語弊があるんですが
まあそれは追々わかってくるかと。

僕の考えには、理性的権威を持つ者が行うことは
全てが【善】である、という前提があります。

厳密には、ある人が定義している【ヒーロー】という
概念があって、その【ヒーロー】の行うことが【善】
だという意味です。

ヒーローとは、一般に知られている正義のヒーロー
みたいなテキトーなものではなく、もっとリアルに

自分の所属するコミュニティ(共同体)の理解を得つつも、
自分自身の信じる善なるものを発信していける存在

という概念です。

コミュニティというのは、一昔前なら地域とか家族とか
そういった物理的なものだけを指したのですが、
昨今においては同じ趣味とか同じ職種とか同じ目標とか
そういったカテゴリー的なものの意味合いの方が強いです。

ミクシィのコミュニティなんかがいい例ですね。

言ってしまえば、ヒーローがいれば
そのコミュニティ内における【善】が確立できる、
と僕は思っているワケです。

なんでそう思うのかというと、一言で言えば

【周りがヒーローの言うことを素直に
(自らの望むこととして)聞き入れるから】

ちょっと考えてみましょう。

自分の尊敬する師匠が

「空き缶のポイ捨てなんてしてたら腕が鈍るぞ」

と言ったとしたら、弟子はどういう行動を取ると思います?

自分の尊敬する先生が

「勉強なんてしなくていい!」

って言ったら「あ、勉強なんてしなくてもいいだ」って
素直に思いません?

あの先生が言ってたんだから間違いない!って。

ってことは、ヒーロー的な人が

「生きる意味を考え続けることが【善】なんだ」

って言ったら、どうなるのかな?という話です。

ヒーローの概念で大事なのは
【コミュニティの理解を得つつ】という部分。

コミュニティの理解を得るとは、家族内や会社内
(つまりコミュニティ)での常識やマナーを守りつつ、
信頼や信用が積み上げられた状態を指します。

要するに、コミュニティの人から絶対的に尊敬されている状態が
ヒーローの大前提だということです。

そして尚且つ、自分の中に明確な【善】なるものを持っている。

これが一番分かり難いと思いますが、考え過ぎずに
「人を殺しちゃいけない」とか「人助けをしましょう」とか
そういった善なる心を備えている、ってことです。

まとめると

あるコミュニティに対して強力な理性的権威を持ち、
尚且つ自分自身の善なるものを明確に打ち出していける
存在がいれば、そのコミュニティにおける統一された【善】を
確立することは可能ではないか

と。

僕はそう考えています。

(「統一」という言葉に語弊があると言ったのはこーゆー意味です)

ということは、次はその善を指し示す存在であるヒーローを
どうやって作る(?)のか、という話になります。

なりますが。

これ以上長くなると記事をアップする時期が大幅に
遅れてしまいそうなので、一旦ここで区切って
投稿することにします。

続きはまた次回以降。

ではではー♪