この頃の政局は荒れまくってますねー。

しかし、あの【麻生おろし】ってネーミングは
どうなんでしょ??

仮にも「自分たちが選んだ」日本の代表である総理大臣を
あんな風に言っちゃうってのは、ちょっと、ねぇ・・・。

僕はどっちかというとイケてない総理を選んだ方に
責任があるんじゃないかと思う一派なんですが、
どうやら政府の方々やメディアの自覚は薄いみたいです。

そういえば、政局は自民か民主か、みたいになってますけど、
この二元論的な【アレかコレか】という考え方自体が
誤りだということにそろそろわれわれは気付かないと
いけません。

もうそんな近代的な時代はとっくに終わったのですから。

今はむしろ【アレはアレ、コレはコレ】という時代。

つまり、決められた選択肢から選ぶのではなく、
自分で正しいと思う選択肢を作り出さなければ
ならない時代だということです。

今の日本の政治システムでは決められた選択肢(政党)から
選ぶしか方法はありませんが、それがそもそも既に時代遅れなのです。

また国が地方すべてを一元的に管理しようっていうのも
近代的な考え方ですから、これも時代遅れ。
(今は近代の次、ポストモダンの時代です)

橋本知事や東国原知事なんかはこの辺のことを
危惧しているっぽいですが(だから地方分権を
推し進めようとしているのでしょうが)
まだまだ日本の行く末は不安定ですねー。

さてさて、冒頭から珍しく政治ネタに触れたところで
今回は政治の本体である【国家】に関わる話を
していきたいと思います。

国家と言えばプラトンです。

プラトンの著作【国家】はあまりにも有名ですね。

読んだことはなくても、名前ぐらいは聞いたことが
あるんじゃないでしょうか??

内容はザックリ言えば

「正義って何なんだろう?」

「個人の正義を考えてたら長くなりそうだから
個人の集まりである国家の正義を最初に考えて
それを最終的に個人に当てはめよう」

という感じ。

そんな話が延々会話形式で進んでいきます。

その中でプラトンは民主制(民主主義)について
言及しているんですが、これがねー、なんというか
面白いことに今の日本の状況そのまんまなんですよ。

思わず

「すげーよ、プラトン」

と呟いてしまうほどに、そのまんま(笑)

プラトンは民主制について


民主制は、〈自由〉を善と規定する。


他方で民主制は、支配者に従順な者たちを、
自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと
辱しめるだろう。

個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、
支配される人々に似たような支配者たち、
支配者に似たような被支配者たちだということになる。

このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで
行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね?

たとえば父親は子供に似た人間となるように、また息子たちを
恐れるように習慣づけられ、他方、息子は父親に似た人間となり、
両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちもなくなる。

自由であるためにね。

そして居留民は市民と、市民は居留民と、平等化されて
同じような人間となり、外人もまた同様だということになる。

このような状況のなかでは、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、
生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の
態度をとる。

一般に、若者たちは年長者と対等に振る舞って、言葉においても
年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、
面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、
若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる

(プラトン著【国家】下巻より引用)

って言ってます。

つまり

「民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す」

ということです。

まさに前回僕が解説した相対主義の世の中そのものですよね?

そしてもう分かったと思いますが、民主主義こそが
相対主義を生み出した原因だったということです。

われわれは通常、民主主義国家における自由や平等が
「良いもの」かのような教育を受けます。

社会主義のソ連は崩壊したし、更に社会主義が行き過ぎた
共産主義は中国みたいになってしまう。

だからアメリカやヨーロッパ諸国や日本のような自由と平等が
尊重される民主主義が最も優れた政策なんだ、と。

「最も優れた」とは言わないまでも、それに近いニュアンスで
教育を受けることには違いありません。

しかし、その「良いもの」を突き詰めた結果がコレです。

われわれは自由と平等を手に入れた代償として、
民主主義が堕落した個性のない傲慢で凶暴な野蛮人を生み出す
ということを身をもって証明してしまったのです。

かつて、ハイデガーの弟子であるハンナ・アレントは没個性こそが
悪を生むと言い、トクヴィルは多数者の専制(民主主義)と平等が
思いやりのないバカを生むと言いました。

そして、プラトンも何千年も前に現在の状況を予見していた。

民主主義の末路は、それほど自明だったワケです。

さてさて。

民主主義の真実を知ってしまった今、われわれは
何を信じて生きていけばいいのでしょう?

今のままでは日本はバカと自己中と野蛮人の温床と
化してしまう。

いや、もう既に温床だと言ってもいいでしょう。

われわれはこんな人間であふれた世界を
望んではいないはずです。

出来ることなら、賢くて思いやりのある人間で溢れた世界を
つくっていきたい。

少なくとも僕はそう思っていますし、ほとんどの人も
そう望んでいると僕は信じています。

じゃあ、そんな世界を作るにはどうすればいいのか。

あくまでも僕個人の考えですが、この問題を解決する
キーワードとなるのが、エーリッヒ・フロムが
「自由からの逃走」という著書の中で定義している

理性的権威

だと思っています。

理性的権威というのは、尊敬とか感謝とか
人々のそういった感情から生まれてくる権威のことです。

例えば、会社に尊敬出来る上司がいたとしましょう。

仕事は早いし、気遣いも細かい。

気前は良いし、部下にも大人気。

昼ご飯もいつもおごってくれる。

そんな神様のような上司が「この仕事、手伝ってくれない?」
と頼んできて断る人はまずいないでしょう。

これは上司だから断れないという感情もあるかもしれませんが、
それ以上に【この人の頼みなら喜んで!】という感情も
あると思うんですね。

そういう感情を起こさせる権威が理性的権威です。

イチローがボール拾いを頼んで断る一般人がいるか、
って話ですよ、要するに(笑)

みんな喜んでボール拾いするだろう、と。

この場合、一般人はイチローの理性的権威に服従した、
ということになります。

服従って言うとイメージ悪いですけど、現実には
「喜んで引き受けた」ってことです。

通常、権威とは圧力的でイヤなイメージがありますが、
理性的権威はむしろ喜んで受け入れたくなるような
そーゆー感情を引き起こすものです。

さて、この理性的権威が今の時代にどう役に立つのか。

その辺の話は乞うご期待(笑)

ではではー。